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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊31『殆どの歴史学者が知らない松下清景の墓→松下一定子孫』後編

<<   作成日時 : 2017/02/05 07:44   >>

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・天正18年(1590)、松下清景は箕輪城(群馬)に入った。
慶長2年(1597) 箕輪で亡くなった。松下一定が跡を継いだ。
松下清景の子孫は箕輪城→高崎城(群馬)→佐和山城(滋賀)
→彦根城→安中城(群馬)→西尾城(愛知)→掛川城(静岡)
→与板陣屋(新潟)と移り住んだ。




箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政29【頭陀寺城】と松下之綱と徳川家康と豊臣秀吉
http://53922401.at.webry.info/201702/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政30【松下清景】前編
http://53922401.at.webry.info/201702/article_5.html



・永禄7年(1564))9月15日 ▲曳馬城攻め 
 今川氏真の命により、新野兄の親道・重臣:新野左馬助親矩と
 井伊一族で井伊谷城城代:中野越後守直由が出陣した。
井伊家では直系で戦を率いる男がいなくなり、中野直由と新野左
 馬助が井伊家の軍を率いて出陣したのだった。
 中野直由と新野左馬助は兵の数が少なかった。
 今川に援軍を求めると2000の兵が派遣されてきた。
 飯尾氏の守る引馬城を攻めた。
 最初は敵兵数百を討ち取ったという。
 しかし、引間城の東の天馬橋で中野直由と新野左馬助は 
 討ち死にしてしまった。
 ★中野直由・井伊家の血筋で本家を支える者が討ち死にした。
中野直由の子:直之が後を継いで、井伊家家老になった。

 
*「井伊家伝記」では家老飯尾豊前守夫妻から毒茶を盛られた
 とするが、飯尾氏は引馬城主で井伊直平の家老ではないので、
 信頼性に欠ける。

「新野左馬助、中野信濃守討死之後、次郎法師、地頭職御勤、
 祐椿尼公(直盛公内室也)、実母、御揃、直政公御養育申
 候得共、皆々女中斗故、但馬諸事取斗我儘斗致、何卒井伊谷
 押領可仕旨相巧申候」
(★『井伊家伝記』)
★意味・・・「新野左親矩と中野信濃守直由の討死の後、次郎
法師が地頭をお勤めになられ、祐椿尼(井伊直盛の妻)、井伊
直政の実母の3人が揃って直政公を養育したが、皆んな女性
であったので、小野但馬守道好が取り仕切って我が儘のし放
題であり、何とかして井伊谷領を巧みに横領しようと企んでいた
と言われています。」
@井伊宗家:次郎法師(井伊直虎)
A井伊家縁戚:新野親矩(今川重臣)の妹(娘説)で次郎法師の母
B井伊家庶流:奥山朝利の妹:虎松の実母

井伊宗家・新野家・奥山家の3人の女性が井伊虎松(直政)を守った。
つまり、3者の強力な連携があったので井伊虎松は生き延びた。
★南渓禅師(龍潭寺2世)がこの年に次郎法師を名乗らせたたのかも
しれない。

・永禄8年(1565) 龍潭寺2世:南渓禅師は次郎法師は還俗させ
 て、「女地頭」に立て、虎松の後見人とした。
  (★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著)
 ★この時、「井伊直虎」と名を変えた説もある。
  小野政次は井伊直親が落とし入れて殺されていなければ、井伊
  直虎という女城主は誕生しなかった。

 井伊家や井伊一族には井伊家を率いる有力な男がいなくなってしま
 った。その結果、井伊直虎が井伊家を率いることになっていくので
 あった。


・永禄9年(1566) 松平家康は東三河・奥三河(三河国北部)を平定し、
 三河国を統一した。
 松平家康は、
 @西三河衆:旗頭石川家成(石川数正))
 C東三河衆:旗頭酒井忠次
 D旗本衆&旗本先手役
 の軍制改革を行った。

・永禄9年(1566) 松平家康は朝廷から従五位下三河守の叙任を
 受け、「徳川家康」に改姓した。
  ★源氏の新田系得川→徳川系図査証を公認させた。

・永禄11年(1568) 甲斐の武田信玄が今川氏真の駿河に侵攻した。
  今川氏真が小野正次(道好)は井伊虎松を殺害して井伊谷を掌
  握し、軍勢を率いて加勢するように命じられた。


・永禄11年(1568)11月9日 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
 ★今川氏真の介入
 今川氏真は小野正次を使って井伊直虎を地頭職から解任させた。
 小野正次(道好)は井伊谷を井伊氏より横領した。
 井伊虎松や次郎法師、祐椿尼は井伊氏菩提寺の龍潭寺に避難した。
  南渓瑞聞和尚は奥山朝忠に命じ、井伊虎松(直政)を三河鳳来寺に
  預けた。

 12月 徳川家康は井伊谷に侵攻した。
  小野正次(道好)の横領に対し、近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の
  井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷を奪還させた。
  小野正次(道好)は敗北して井伊谷から「龍ヶ淵」逃亡したが
   近藤康用に捕えられた。

・永禄12年(1569) 堀川城の攻撃
4月7日 小野正次(道好)は仕置きで、井伊谷「蟹淵」で
      処刑された。
 5月7日 小野正次(道好)の2人の男子も斬罪となった。
小野正次(道好)の弟:小野玄蕃の子:朝之が家督を継いだ。  

永禄12年(1568)龍潭寺に匿われた井伊直政
 の生母=実母:奥山朝利の娘は今川家臣:松下源太郎清景
 (浜松頭陀寺城)と再婚した。

★@松下清景の姉は松平元康(徳川家康)家老:松下之綱であった。
  井伊家が今川氏から独立した松平元康との関係を模索した。
と考えられる。松下清景の弟:松下常慶のコネもあった。
★A松下清景は虎松(井伊直政)井伊直政の養父となった。

●松下虎松の住んだ場所諸説
@松下虎松(井伊直政)は、実母:奥山朝利の娘・養父:松下清景と
共に頭陀寺の松下屋敷に住んでいたという説がある。
A松下虎松(井伊直政)は手習いを浄土寺で行っているので、浄土寺
 のある浜松城下の松下清景宅に住んでいた説もある。
おそらくは松下之綱の屋敷に近かったであろう。
松下清景は、徳川家康に仕えていたので、浜松城の近くであること
は確かであるが、住んだ場所は分かっていない。

・元亀3年(1572)
10月 武田信玄が遠江へ侵攻した。
  信濃国から南下する別働隊の山県昌景によって、井伊谷3人衆
  三河国八名郡→井伊谷に侵攻した。の小屋山城へ退く。
  井伊一族や井伊谷3人衆は浜松城に退いた。
 (★この時のメンバーの中に後に井伊家家老となる川出・孕石・
  庵原・広瀬・三科などがいた。)


12月 ▲三方原の戦い
  小幡重貞・熊井戸(後井伊家家老:岡本半助の父)も赤備えで
  徳川家康を翻弄した。
    
  徳川家康は大敗。
  

・天正2年(1574) 第一次 高天神城の戦い
 武田信玄 VS 徳川家康
 ※松下一族は 高天神城籠城した。後に降伏した。
織田氏家臣で長浜城主になっていた豊臣秀吉は松下之綱は家臣と
 して召し出された可能性がある。
(★『松下加兵衛と豊臣秀吉―戦国・松下氏の系譜』冨永公文著)
 ★冨永先生のサイン付
(★通説天正11年(1583)10月6日*出典『松下文書』)
・天正2年12月、松下清景は松下虎松(井伊直政)を養子に迎えた。
★一連の徳川の家臣にさせる作戦の一つであろう。

・天正3年(1575) 2月15日 井伊直虎に付き添われて松下虎松
 (井伊直政15歳)は浜松の徳川家康に小姓として出仕した。
実際は井伊直政の実母→養父:松下清景→従兄弟で義兄:松下之綱
 (清景の姉の夫)→松平元康(徳川家康)のラインであったであろう。
松下虎松(井伊直政)と 小野玄蕃の息子:亥之助(小野朝之)が
 徳川家康に会った。
徳川家康から
 @松下虎松は復姓を許されて「井伊万千代」の名前を貰った。
 A小野朝之は「万福」の名前を貰った。
井伊直政と小野朝之は従兄弟であった。
 2人の母は奥山朝利の娘で、姉妹であった。

●松下清景は井伊家筆頭家老となった。
 松下清景は養子:松下虎松が井伊万千代(→井伊直政)と名乗って
 井伊家当主となったので、松下清景家に子がいなくなった。
 中野直之の次男:中野一定を養子に迎え、松下一定を名乗らせた。
 
●井伊直政と小野朝之・松下一定はともに数々の戦に出た。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
 松下加兵衛は豊臣秀吉の前備として兵100を預けられた。
 (★山内一豊公紀:冨永公文氏の天正2年松下之綱の秀吉臣従説が
   有力視されたことになる。)

・天正8年(1580) 奥山朝忠(奥山朝利の孫)は井伊直政に
  出仕した。


・天正10年(1582)
 3月11日 武田氏滅亡。
 6月12日 本能寺の変  織田信長・織田信忠が死亡。


天正10年(1582) 8月26日(9月12日)養母:井伊直虎が死んだ。
(★『遠江井伊氏物語』:龍潭寺前住職:武藤全裕著)
墓は井伊谷龍潭寺である。

・天正10年(1582) 9月井伊直政は山県昌景家臣75名(高崎市史)
 ・土屋昌恒家臣70名・武田一条信竜の家臣などを配下とした。
★井伊直政軍特攻隊=馬を使った騎馬軍団・武田流軍法家隊・
築城名人隊を傘下にした。

・天正10年(1582)10月29日 徳川家康と北条氏政が和議を結んだ。
 ★徳川家康の交渉役は井伊直政と木俣守勝であった。
  木俣守勝は井伊直政の付家老になった。
  井伊直政が旧領を回復すると近藤秀用、菅沼忠久・鈴木重好が
  井伊直政の付家老になった。


・天正12年(1585) ▲小牧・長久手の戦い 徳川 VS 豊臣
  井伊直政は池田輝政らを撃退した。
  鈴木重好は井伊伊直政の眼前で一番槍を入れた。
  槍下の高名を挙げた。
  4万石から6万石になった。


・天正13年(1587) 8月 第1次上田合戦 真田 VS 徳川
 井伊直政は小諸城で待機した。

11月 石川数正の豊臣秀吉の寝返りで攻撃が中止となった。
 ※徳川家康や井伊直政は軍制改革を迫られた。
  井伊直政は武田の軍法に従って、再編しなおした。
 ★旧武田の家臣:川出良則・孕石・三科・広瀬・早川などが
  担当した。

・天正18年(1590)
・3月17日 山中城攻めでは、徳川勢は西の丸から2の丸・本丸攻めになった。
・3月18日 井伊直政は単独で足柄山城を攻略した。
・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲輪へ攻め入った。
  井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。小田原城落城のきっかけを作った。
(★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて攻め込んだ。)
・7月5日 小田原城開城
・7月11日 北条氏直は父:氏政・叔父:氏照を介錯した。
・7月13日 篠(笹)郭を攻略した立役者は、井伊直政の家臣:長
   野業実(なりざね)  であった。
  長野業実は@井伊直政から、名刀「備前三郎国光」、A豊臣秀吉から最上
  栗毛馬「木下半助」を頂戴した。(★出典不明・真偽不明)
  長野業輝=長野伝蔵→長野業実。
  天正十八年属井伊直政、在小田原(★「系図纂要」)
豊臣秀吉から井伊直政は箕輪城支配を任された。
   (★箕輪城シンポジウム:中井均先生)

●徳川家康からは大量の与力(寄騎)が井伊直政に附属された。
   木俣守勝・西郷重員・など

●井伊直政が旧北条氏の有力家臣を井伊家の家臣にした。
@宇津木治部右衛門泰繁:(玉村出身)
  北条家臣→井伊家物頭:鉄砲奉行・井伊家家老
A岡本半助宣就
  (小幡信貞の第一家老:熊井戸半右衛門の子ども:小幡城代)
  上泉伊勢守の孫上泉泰綱に小笠原系上泉流兵法:軍敗を伝授
   →井伊家軍監・家老 
B石原主膳(山県昌景鉄砲奉行→北条氏政鉄砲奉行→井伊直政旗奉行)

1)旧後北条氏の一揆対策
「井伊直政の箕輪城入封に際して、旧後北条軍の一揆・反抗が起こった。
  石原主膳・宇津木蔵人の2人を派遣した。
  領民のほとんどが宇津木蔵人の呼びかけに帰順し、呼応した。
 (★『井伊軍志』・『井伊家家譜』:井伊達夫著)

・天正18年(1590)旧暦の8月3日〜7日の間に箕輪城に入封した。
   (★『井伊軍志』:井伊達夫著)

・8月7日付 豊臣秀吉朱印状 (★『彦根市史近世1−6』)
「今日七日於奥州長沼到来、可被見候、箕輪罷移之由尤候、
 知行方相改、普請等可申付  候、此方へ可見廻之由無用候・・・(後略)」
 井伊直政が豊臣秀吉の命令で箕輪城主になった。
  (★『齋藤慎一先生講演会2006』)

・9月 井伊直政次男:井伊直孝が駿河中里で生まれた。

2)井伊軍法の制定
 (武田軍法の旧山県昌景・旧土屋昌恒の家臣・上泉流岡本半助宣就)

・天正18年(1590)の箕輪城入城時〜慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い
 までの期間は、士(侍)大将&準(准)将クラスを17名、足軽大将&
 準衆クラスを18名+3名〜4名と している。
 騎馬1に対して8〜9人などの戦術方法など。
 (★『井伊軍志』井伊達夫著)

3)徳川家康の指示で上野国名門家の探索と家臣採用
@長野十郎左衛門業実 井伊家3席家老:長野一族・・の系図
A、3席家老の長野民部は長野一族である。業正(業政)の
  子:業親の子が伝蔵(業実、業真)である。
  ※長野業実(向坂伝蔵)は、武田氏の滅亡後、生母が井伊直政と
  知りあいだったことから、井伊直政の近習として仕えた。
  後、4000石を賜った。
  (★「侍中由緒帳」)
B、長野業実→業輝→業利→業則→増業→業庸→業房→好業
  →業義→業壽→業賢
(★『彦根藩井伊家文書』(彦根城博物館所蔵)「侍中由緒帳」)
C,長野出羽守業親=業政の庶子か養子または近親者説。
  長野氏の系図16種に出てこないため、業正(業政)の庶子か
  養子、または近親者とする。
 (★『新編高崎市史 通史編2』)
D、信業→業正→業盛→業輝→業真 
 「長野業輝」長野伝蔵。天正十八年属井伊直政、在小田原
(★久保田順一先生初披露「系図纂要」)
 ※久保田「井伊家に仕えた家系伝承と一致する。」
★長野伝蔵・業実は小田原城に在城していた。
    2000石→井伊直孝の槍奉行→4000石
A長野無楽斎 長野業政叔父:長野業通の子は井伊家侍大将
B内藤昌明の3男:内藤信矩が井伊直政家老、
   長男系は帰農後、会津藩保科正之の家老
C里見内蔵允  里見河内守の子孫か石井信房(里見義樹)の
   子?は井伊家家老 
D和田主殿   和田城:和田信業の3男が井伊家家老
E萩原図書 旧安中景繁の重臣。
  文禄4年、井伊直孝を養育。井伊家家老→安中藩第3家老。
F内山七郎右衛門  長野家家老・・・井伊家家老
G安藤重勝 (長野家重臣:安藤勝道の子説)
H八木原太郎右衛門 
  長野業政の親戚→井伊家侍大将350石
I飯島半右衛門 
  信濃飯島城主→武田家臣・和田城味噌係
  →箕輪城味噌係→井伊家侍大将
 ★武田・織田・徳川・伊達・上杉等は味噌作りを奨励した。
  戦場のタンパク源であった。
J「徳川家康から上杉景勝家臣:河田康親を探せ」という命令
  が出た。子が侍大将など。
  (★彦根城博物館の本・彦根城初期の家老配置図等から)

★井伊直政の家臣は推定であるが、6000〜7000に膨れあがった
 と考えられる。

4)附属与力衆(徳川家康からの付家老)の問題解決
※井伊直政は、抗戦野戦、行政管理に長けていたが、与力衆を自分の
 配下のように酷使し た。反発するとすぐに刀を抜いた。
 与力衆は、木俣守勝・近藤秀用(ひでもち)などは 「帰りたい。」
 といった。徳川家康に江戸帰還の許可をしないようにお願いした。
(★『井伊軍志』井伊達夫著・『井伊家年譜』井伊達夫編)

5)井伊直政の「新旧附属与力衆の階級的安定と親和」 
@親戚衆と井伊谷の家臣(奥山・中野・今村)
 A徳川家康からの付家老(木俣・西郷・井伊谷3人衆・椋原)
B旧武田家臣山県昌景家臣衆と土屋昌恒家臣衆の家老
  川出良則(妻は井伊直政の姉:高瀬姫)・三科・広瀬・早川
 C今川家→武田家家臣
   庵原・孕石・横地など
 D旧武田家臣→旧北条氏家老
   石原主膳(叔父は三枝守友)・宇津木泰繁・岡本半助宣就  
 E新規召し抱え上州の家老衆
   長野業実・和田知矩など

★B・D・Eは武田信玄・武田勝頼・山県昌景・土屋
   昌恒・和田昌明(跡部勝資長男)からみで、みな、
   かつての武田家臣でお仲間であった。

松下清景(妻は井伊直政の実母)が筆頭家老であったが、
  内政面・外交面から、
  木俣守勝(妻は新野矩親の娘)・川出良則(妻が直政の姉)
  西郷重員(西郷の局の一族)・鈴木重好(母は奥山朝
  利の娘)なとが発言権が強かった。
 

徳川家康に随行して、井伊直政・木俣守勝が大坂、伏見に
 滞在している間は、木俣守勝のライバル:井伊直政の姉の夫
 :川出良則が内政面と箕輪城・城下町の整備を取り仕切った。

6)箕輪城の修築工事&城下町の整備
@箕輪城の曲輪に有力家臣を配置した。
  付家老:木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住。  
  井伊直政養父:松下源太郎は松下=稲荷曲輪に居住。
  (→墓は井伊家鬼門「龍門寺」)
 川出良則(武田家臣山県隊→井伊直政の姉春光院が妻)
 ・奥山朝忠(井伊直政従兄弟) 
 ・中野三孝(井伊親族)
 ・井伊谷3人衆:近藤秀用の子:康用・菅沼忠久・鈴木重時
  の子:重好など
A内宿を武家屋敷
B城の整備★「特に真田・上杉対策?」 
「井伊氏の時代に城の拡張工事
 (堀の深さ10m・3の丸と本丸への橋・二の丸と大堀切
 ・郭馬出西門整備・木俣・水の手曲輪・法峰口・新曲輪・水堀など・・・
・東側を空堀→水堀。
 新曲輪
 ・大手門の丸戸張に鉄砲狭間付きの塀と構築した
・大手道・大手門(後高崎城槻木門)設置。
 『上州高崎城大意』
・大手ことう門・三の丸

●後世の箕輪城の縄張り図
江戸:富原道晴氏所蔵縄張り図 
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江戸:浅野家古城の図の加筆バージョン  
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昭和:山崎一氏作成縄張図の加筆バージョン
 (★秋本太郎先生作)
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C城下町の建築。 ・南南・・・4つ通に商人・工人の民家
 ・白銀町・紺屋町・本町・鍛冶町・連雀町・田宿・四ッ谷
 ・寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸である。
※龍門寺を建立・・・白庵和尚 井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
   浜松龍譚寺→箕輪龍門寺
  (→竜門寺末寺高崎龍広寺→彦根龍譚寺・清涼寺)
※日向峯恵徳院(井伊直政の叔母の寺)の建立。
  (日向峯は箕輪松之沢→北条氏邦の鬼門の寺:松山寺か?)

※徳川家康は極楽院を2回保護した。
 ★井伊直政は長野本流は長野鎮良家と考えている。


・天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に向かった。   


●松下清景 (?〜1597)
・天正18年(1590)8月 井伊直政が箕輪城主となった。
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  松下清景が家老として、箕輪城稲荷曲輪に住んだ。
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・????年 箕輪城の改修工事をした。

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・慶長2年(1597)松下清景が箕輪城で亡くなった。
墓は井伊家菩提寺:箕輪の竜門寺。
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中野家からの養子:松下一定が跡を継いだ。
子孫が箕輪に残っている。家紋も同じである。

・慶長3年(1598) 高崎城を築城した。
川出良則(妻は井伊直政の異母姉:高瀬姫→春光院)が仕切った。
★井伊直政は木俣守勝らと伏見なとにいたため、2年6ヶ月
中、実質1年弱しか高崎城にいなかった。

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 (★箕輪城から材料を移築して造った槻木門)

・慶長5年(1600)関ヶ原の戦い
 徳川秀忠20000が烏川の増水で、3日間高崎城・城下町に
 逗留した。


●松下一定 (1574〜1641 )
・慶長5年(1600) 佐和山城に移封となった。
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・慶長10年(1605) 徳川家康からの付家老:椋原正直・西郷重員
 を中心とした家臣団が鈴木重好・重辰父子の不正を徳川家康に
 直接告発した。
 鈴木重好が追放され、水戸藩の家老になった。
 子:鈴木重辰は椋原・西郷ら和解した。

・慶長11年(1606) 井伊直勝は彦根城が完成すると佐和山城から
  彦根城へ居城を移した。
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 木俣守勝は土佐曲輪→正門右奥(開国記念館となり)となった。

・慶長15年(1610) 木俣守勝がなくなった。
  井伊直継は徳川家康の承認を得て鈴木重辰と椋原正直を家老に
  任じた。
  木俣守勝の養子・守安(父:狩野主膳、母:新野親矩娘)を
  第1家老としなかった。徳川家康は
  @井伊谷以来の家臣:松下・小野などは直継に配属した。
  A武田氏の遺臣:広瀬・三科・孕石などは異母弟・直孝に配属した。

・元和元年(1615) 井伊直勝(直継)が安中藩を嗣いだ。
第1家老は中野直之の次男:松下一定(中野三孝の弟)であった。
第2家老は小野政次の甥:小野朝之であった。
第3家老は、安中出身の萩原図書であった。 

」1)元和年間後、中野直由の妻は安中藩菩提寺として井徳山龍潭寺の
 建立を直系の孫:松下一定に願い出た(伝)。

場所は安中市城下・・信号南50m。現存しない。

寛永8年( 1632)、松下一定が安中の龍潭寺に鐘楼を寄進した。
(★安中市城下の信号:多胡電機西30m〜付近)

2)元和年間後、井伊直勝(→直継)は大泉寺を建立した。
   井伊直継の母親の墓碑と井伊直継の妻の墓碑
   ※唐梅院大泉寺・・・昭和46年(1971)安中市指定史跡に指定。
@実母:松平康親の「娘」→徳川家康養女→井伊直政の正妻:お花の
 方→唐梅院の五輪塔
戒名:唐梅院殿台誉崇玉大姉

A井伊直継の側室:中島新左衛門娘お岩の方の五輪塔
   戒名:隆崇院殿念誉寿専大姉 

★2回行っているが、写真が見つからず。

  ★正室:鳥居忠政娘ではない。
 継室:中島新左衛門娘である。

・寛永18年(1642) 6月23日松下一定が没した。享年68。
 法名「正覚院傑堂天英居士」。
 子は松下高冬である。

●松下高冬 (?〜1641年)
・寛永17年(1641)4月7日松下高冬が没した。
 
●正保2年(1646) 6月23日、上野安中藩から井伊直継の子:井伊
  直好が3万5000石で入封した。
  井伊直好は西尾城の改築を完成させた。
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箕輪初心●愛知【西尾城】&《吉良温泉》
http://53922401.at.webry.info/201212/article_8.html

●万治2年(1659) 1月28日 井伊直好は遠江掛川藩に移封された。
箕輪初心:生方▲遠江『掛川城』:復元木造天守閣が凄すぎる城
http://53922401.at.webry.info/201610/article_3.html

・寛文2年(1662)7月11日、井伊直継は掛川城で病死した。
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●宝永2年(1705) 井伊直矩が与板藩主になった。
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第1家老は松下一定の子孫であった。
第2家老は小野七郎左衛門であった。
第3家老は萩原図書の子孫であった。 

箕輪初心◆三国街道C:26堀の内〜30長岡〜31与板〜35寺泊
http://53922401.at.webry.info/201311/article_19.html

●現在
・与板藩現当主:井伊達夫氏・・・真ん中。
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与板藩現当主:井伊達夫氏の松下家所蔵の井伊直虎の鎧(伝)から
想像した井伊直虎のキャラ

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 (★雑誌より引用)
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 ★井伊達夫先生、ありがとうございました。

●▲■井伊直政シリーズのブログ一覧

★明日は井伊谷7人衆:松井家かな?

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