城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政39【新野左馬助親矩と娘婿】

<<   作成日時 : 2017/02/17 12:16   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

TV「おんな城主 直虎」で、「井伊谷七人衆」以外の重要人物は、
@井伊直親を救った今村(勝間田)藤七郎正実、A井伊直政を
救った新野左馬助親矩と、B井伊直虎の曾祖父の弟:南渓和尚で
あろう。新野左馬助親矩は、今川氏一族であるが井伊直虎の叔父
(母:祐椿尼の兄)である。小野但馬守政次の讒言(井伊家から
すると)により井伊直親が今川氏真に殺された後に虎松(井伊直
政)を保護した。新野氏の本貫地は「新野」(静岡県御前崎市新
野)である。大学生2年の時(42年前)横浜菊名の同下宿にい
た榛原「コナンの準彼女姓」町:御前崎市)加藤宅に泊まった。
御前崎の灯台・bQの砂丘・歴史的な以降を2泊3日で見学した。
新野の城の記憶はない。ロボット工学の津村先生の弟子であった
加藤が今、何をしているのだろうか?吹奏楽部の浜松の祐太郎ち
ゃんは今どうしているのだろうか?
画像



【0】新野氏の出自
鎌倉時代・・・遠州の御家人として、井伊・横地・勝間田氏がセッ
トで登場することが多いが、新野氏も登場する。ところが、この新
野氏は清和天皇の子孫で源姓(清和源氏)新田義重支流が上野国新
田郡新野村が起源である可能性が高い。「新野太郎系新野氏」の居
城は新野古城(八幡平城:御前崎市新野)である。足利氏流今川氏
支流新野氏もある。 一般的には「新野太郎系新野氏」と「今川系
新野氏」は無関係とされているが、平安末期には源義国の兄弟関係
で、「新野太郎系新野氏」子孫に「今川系新野氏」が入り込んだ可
能性がないわけではない。あくまで私見であるが。

・保元元年(1156) 保元の乱
「源頼朝に従う遠江の武士に、井の八郎あり。」
源義朝に味方する武士
 横地(菊川市)・勝間田(榛原町)・井の八郎(井伊谷)
 (★『保元物語』)

源八幡太郎義家の子:横地太郎家長
子ども 横地頼長・勝間田頼兼・井ノ八郎・戸塚七郎
(★『藤原為憲流横地氏系図』:遠江井伊氏物語:武藤全裕著)
 井伊氏は武功をあげ、井伊谷を中心に勢力を拡大していった。

●建久元年(1190)「新野太郎」が登場する。
(★『吾妻鏡』)

・建久2年(1191) 4月晦日条 佐々木荘と延暦寺の騒動
  「井伊六郎直綱」の名が見える。
  井伊氏一族とみられる直綱は、近江国佐々木荘(滋賀県近江八幡市)
源氏佐々木氏と比叡山延暦寺との騒動に関わり、禁獄されたよう
である。※井伊氏系図には出てきていない。

・建久6年(1195)3月10日条 源頼朝の東大寺供養
22番目:伊井介・横地太郎・勝田玄蕃助とある。(★『吾妻鏡』)
  「伊井介」の名が見える。
 井伊氏は伊井氏と書かれることもあり、井伊氏とみられている。

・建暦3年(1213)「新野左近将監景直」が登場する。
(★『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 承久の乱
   「新野右馬允」が登場する。
  (★『吾妻鏡』の「承久記」)

・寛文3年(1245)1月9日条 鎌倉八幡宮の御弓始めの儀式
「三番 井伊介 小河左衛門尉」と名が見える。
弓手3番:井伊介の名がある。(★『吾妻鏡』)

・建治元年(1275) 京都六条八幡宮造営注文 
井伊介が御家人役として3貫文を負担している。
 (★「田中穣氏旧蔵典籍古文書所収六条八幡宮文書」
    :『静岡県史資料編補遺』)  


・南北朝時代
   「新野」の名は今のところ見つかっていないようである。


・戦国時代、再び「新野氏」が登場する。

@『尊卑分脈』・・・
源義家…(8代略)…今川国氏→
    長男:今川基氏
次男:関口経氏(常氏)
    3男:入野俊氏→●新野俊国→
4男:大木政氏
5男:関口経国
6男:石川親氏


A『新野村誌』・・・・今川国氏の孫の新野義時が始祖だとする。
源義家…(8代略)…今川国氏→今川義為→●新野義時

B『今川氏系図』・・・今川範国の孫の満範が始祖だとする。
源義家…(8代略)…今川国氏→基氏→範国(駿河今川氏の始祖)

  →貞世→長男○→○→○→瀬名一秀
堀越貞基
      ●次男:新野満範(★一般的に小鹿満範か?)

史実は不明であるが、3系図とも今川氏流である。
 「今川系新野氏」と呼ばれている。
今川一族が新野に住んで、「新野」(現御前崎市新野)と名乗り、
新野新城を築いて土着した。


・永享10年(1438)~ 「永享の乱」(~1439)
今川範忠は戦功により、将軍・足利義教から「天下一苗字」の恩賞
を賜った。今川家の宗主(範忠の子孫)のみが「今川」という苗字
の使用を許されるというものであった。
 (★ウィキペディア)

庶子家は、堀越(遠江今川氏)、小鹿、瀬名などに苗字を改めた。
 新野氏は、本貫地の「新野」を使って「新野氏」と名乗った。

・????年 新野俊国?、あるいは、新野義時、あるいは
  新野満範は新野新城(舟ヶ谷城)を築城した。

・応仁元年(1467) 応仁の乱が起こった。
  駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。今川義忠はしば
  しば伊勢貞親を訪れていた、将軍への申次を北条早雲の父:
 伊勢盛定が務めている。その縁で早雲の姉(妹?)の北川殿が
 今川義忠と結婚したと考えられている。

・文明5年(1473) 北川殿は嫡男:龍王丸(今川氏親)を生んだ。

・文明8年(1476) ▲遠江の塩買坂の戦い
今川義忠:西軍 VS 遠江の守護:斯波義廉?
  今川義忠は斯波義廉家臣:横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて
  討ち死にした。

・長享元年(1487) 今川家臣:三浦氏、朝比奈氏らが父:今川義忠
  の従兄弟:小鹿範満を擁立した。
  北条早雲は龍王丸(早雲甥)を補佐するため再び駿河へ下った。

 11月、北条早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して小鹿範満と弟
  :小鹿孫五郎を殺した。
★『今川氏系図』の新野範満はなんか変である。
・長享3年(1489) 龍王丸は元服して今川氏親を名乗り今川家
  当主となった。

・大永6年(1526) 今川氏親が病死した。
  今川氏輝14歳が家督を継いだ。
  寿桂尼は2年間、公的文書を発給し今川氏の国務を取り仕切った。

・天文5年(1536) 今川彦五郎、今川当主:氏輝が死去した。
   寿桂尼は、実子:栴岳承芳を還俗させた。
花倉の乱
    栴岳承芳 VS 玄広恵探
今川義元が家督を継いだ。



【2】新野親矩
・天文元年(1532) 井伊直平は黙宗瑞淵和尚を開山として請侍して
  龍泰寺を造営した。師:文叔瑞郁(★初代龍潭寺和尚→信濃松
  源寺)を勧請開山の第一座とした。
後に龍泰寺を龍潭寺に改めた。

・天文5年(1536) 今川義元が家督を継いだ。
井伊氏と今川氏で和議が結ばれた。
今川義元の西進が始まった。

●????年 新野親矩は井伊系の奥山10代:親朝の娘
   (奥山11代親秀=朝利の妹)を妻に娶った。

●????年 井伊家23代:井伊直盛は新野親矩の妹を妻に
 娶った。


●????年 井伊直平の娘は今川義元の人質となった。
  今川義元の妻説
今川一族:関口親水妻説
今川義元からの下げ渡し説

何れも今川義元の指示による政略結婚=人質交換であろう。


・天文4年(1535) 井伊直親(井伊直政の父)が生まれた。
・天文5年(1536) 井伊直虎(井伊直政の養母)が生まれた。
母:新野親矩の妹
井伊宗家21代井伊直平→22代井伊直宗→23代井伊直盛→
姫が生まれた。
姫の許嫁は姫の父:井伊直盛の従兄弟:井伊直親と決まった。

・天文11年(1542)▲三河田原城攻撃 姫の祖父:井伊直平の子:
  14代(19代)井伊直宗が野伏により討死した。

・天文13年(1544) 12月 井伊直宗の弟直満・直義が小野和泉守
 の讒言により、今川義元のため生害(自害)された。
井伊直平の子:直満(井伊直政祖父)・直義が今川氏に殺害された。
 亀之丞(井伊直親:井伊直政父)にも追ってがかかり、井伊直満の
 家老:今村藤七郎正実は亀之丞を叺(かます)に隠した。
 追っての逃れ、渋川の東光院に逃れた。

・天文14年(1545) 亀之丞は東光院住持能仲の案内で信濃伊那郡
  市田村(現高森町)の松源寺へ逃れた。
 信濃伊那の松源寺は井伊直親の叔父:南渓禅師の師:文叔禅師のいる寺
 であった。
今村藤七郎が10年間、養育した。
 松岡城主:松岡貞利が亀之丞(井伊直親)を10年間、庇護した。

 ・?年 姫は許嫁:井伊直親が殺害されたと思っていた。
 姫は祖父の弟:南渓禅師から「次郎(井伊家跡継ぎ長男名)法師」を名乗
 ることが許された。  
 (★享保15年(1730)『井伊家伝記』龍潭寺所蔵:2次史料)

◆天文23年(1554)井伊家筆頭家老:小野和泉守政直が没した。
   龍泰寺(現龍潭寺)に埋葬した。
龍谷山正泉寺が開創された。開山は慧湛和尚である。
 跡は子の小野但馬守政次(道好)が継いだ。
※TV鶴丸:小野但馬守政次も井伊家筆頭家老になっている。
※江戸時代の資料「寛政重修諸家譜」では小野道好となっている。
 当時の資料では但馬守とだけ書かれている。

 小野政直の死によって井伊直盛は信濃国に逃れていた直親を呼び
 戻すこととした。

・弘治元年(1555) 今川義元の許しを得て井伊直親を改めて嗣子
 として迎え入れた。

・永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
   織田信長 VS 今川義元
  今川義元が亡くなった。
  3月19日 (次郎法師父:)井伊直盛ら16人が今川側で戦死した。
  井伊直盛が桶狭間で討死のとき、「遺領は中野越後守に預ける」
  と遺言した。
 従って、井伊谷は中野中野越後守直由・(次郎法師)が預かった。
   (★『井伊家伝記』・『井伊直虎物語』浜松歴女隊編)
小野家でも小野政次(道好)の弟:朝直と小野源吾が討死している。
※@『この一冊でよくわかる! 女城主・井伊直虎』楠戸義昭
 では、小野但馬守政次の兄:小野朝直の妻が奥山朝利の
 娘としている。
 ATVでは、小野朝直の弟としている。

 ★徳川家康・関口氏経は大高城にいた。
箕輪初心★【織田信長@尾張の大うつけ→尾張統一】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_1.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201206/article_1.html

箕輪初心★『織田信長A桶狭間前哨戦=家康の信長攻撃』
http://53922401.at.webry.info/201206/article_2.html

箕輪初心★【織田信長B桶狭間〜清洲同盟】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html


*永禄3年(1560) 奥山朝利殺害説 
小野政次は井伊氏で勢力をもっていた奥山朝利を討ち、さらには
 今川氏真に「井伊家が謀反を起こそうとしている」と密告するなど、
 井伊家をじわりじわりと乗っ取ろうとしていた。

●桶狭間の戦いの後、今川氏真が跡を継いだが急速に衰えていった。
 三河国の松平元康などの今川家からの離反が相次ぐ中、新野親矩
 は今川氏に忠節を尽くした。

・永禄4年(1561)2月19日 井伊直親の長男:井伊虎松
  (直政)が祝田生まれた。
小和田哲男説では永禄5年頃説である。

・永禄4年(1561)
 今川氏真は三河の徳川家康の領地に攻め込んで争うようになった。
 徳川家康や武田信玄は力の弱くなった今川氏の調略を行っていた。
 今川氏真は今川領各地で起きる反乱を鎮めたり、武田や徳川に抵抗
 していた。

・永禄5年(1562)
 亀之丞(井伊直親)は「鹿狩」と称して徳川家康の三河領に出かけるこ
 とがあった。小野政次から見れば、井伊直親が徳川家康に内通して
 いると思っても不思議ではないが、・・・・。
 小野政次は駿府城に出かけて
 「直親は徳川・織田に通じている。今川に対して挙兵するつもり
  です。」
 と今川氏真に訴えたといわれている。
今川家は今川氏真が当主となってからは弱体化しており、家臣の謀反が
相次いでいたので密告を信じ、井伊直親を討とうとした。
今川氏真は、井伊直親の子:虎松(井伊直政)を討つように
 命じた。
 今川氏真は井伊谷を攻める準備を始めた。
新野左馬助が今川氏真に対して弁明した。 

新野親矩が「養子にする?」「出家させる?」とか言って、
今川氏真を諫め、虎松を引き取って保護した可能性もある。

●新野親矩は、この時は今川館近くに住んでいた可能性が高い。

今川家の家臣:新野親矩が小野但馬守の内部告発を今川館で聞き、
 今川氏真を諫めた。
 今川氏真は出撃を思いとどまり、挙兵を取りやめた。
 しかし、井伊直親が寝返るのではないかという噂は消えなかった。
今川氏真がこの時に井伊家の目付として送り込んだ可能性がある。
 ※TVでは、ずっと井伊谷にいることになっているが、・・・

新野親矩は今川氏の重臣であったので、今川館に詰めていたが、
 老後は井伊谷の新野屋敷に隠居したという。
 新野親矩は隠居場所に妹:祐椿尼(井伊直虎の母)がいる。
 妻(奥山朝利の妹)の実家:奥山も近い井伊谷とした。
 井伊谷小学校の西:引佐保育園の北に「新野」という小字が
 あるが、ここに屋敷を建てて老後に住んだ可能性が高い。
 新野左馬助の妻の姪は井伊直親に嫁いでいる。
 新野左馬助の4娘は庵原朝昌・三浦元貞・狩野主膳・出戻って
 木俣守勝に嫁いでいる。狩野主膳の子は木俣守勝の養子:木俣
 守安である。
 (★この3人も後、井伊家家老で箕輪城・高崎城に来ている。)

 ●新野左馬助は今川氏真は井伊家に同情的な新野左馬助より
  も、今川家に忠実な小野但馬守政次の言葉を信じた。
小野但馬守政次の密告の真偽を問うために井伊直親を駿府へ呼び
 つけた。

・永禄5年(1562)12月14日 井伊直政の父:井伊直親は
 小野の讒言「井伊直親が松平元康(徳川家康)に内通している。」
  の申し開きのため、駿府に向かった。
  井伊直政の父:井伊直親ら19名は今川家臣:朝比奈泰朝に
  懸川(掛川)で殺された。
 
井伊直親が今川家を見限って徳川家康と接触していた可能性が
 あるが、・・・・。
井伊直親の殺害は今川氏真は家臣:朝比奈泰朝に駿府へむかって
いる道中の井伊直親を討たせた可能性が高い。
しかし、今川氏真が井伊直親の弁明を待たずに討った理由は明らか
になっていない。
多数説では小野政次は井伊直親を裏切った訳はないかもしれないが、
結果的には、父:小野政直が井伊直満・直義におこなったのと同じこ
とをしたことになったとしているようであるが、・・・。
想像の域を出ない話であるが、もしかしたら小野政次が勢力を伸ば
そうとしていた。さらに進言したのかもしれないと疑えば疑える。
今川氏真は父:今川義元に比べ、自分が家臣からの信頼が薄れている
のは感じている。それ故、疑心暗鬼になっていることでことであろう。
小野政直・政次も真田幸綱・昌幸のように知略家ならば、あり得る。
今川氏真が小野政次に踊らされたのかもしれない。


井伊家分家:家老:新野左馬助親矩が虎松の命乞いをした。
  井伊家分家:新野左馬助親矩に保護され、養母:次郎法師に
  育てられた。
  ※井伊直政は2歳のため、次郎法師と名乗り井伊家を継いだ
  説もある。
 新野親矩は妹の娘(姪)で井伊家の家督を継いだ井伊直虎や、
 井伊直親の遺児:井伊虎松(直政)を保護した。
 井伊氏の菩提寺:龍潭寺の武藤全裕住職様は「井伊氏1000年の
 歴史で、最大のピンチを救った」と評価している。

 小野政次が井伊虎松の命を執拗につけ狙ったため、虎松は龍潭寺
 から一時的に鳳来寺(井伊家家老:松井家?松下家分家?)に身
 を移した。
 ★井伊家乗っ取りを狙う「小野政次の野望」って感じである。

12月下旬 小野但馬守政次の奥山朝利殺害説
 奥山朝利は井伊直親の母方の父でもあり、小野政次の弟小野玄蕃
 朝直の父でもある。
 奥山朝利は死亡した。(永禄3年説もある。) 


・永禄6年(1563)▲ 天野左衛門尉:八城(社)山攻め
井伊直平が途中の有玉旗屋で急死した。享年75。
★唯一生き残っていた井伊家の男だった。長老が無理した。
 ★小野玄蕃の妻は奥山朝利の娘。つまり、井伊直親の妻の妹であった。
  妻同士が姉妹だったのである。
★小野の子孫は浜松市尾野に残った。

  筆頭家老の兄:小野政次は井伊谷に残っていて無事であった。

・永禄5年(1562) 清洲同盟
松平元康(徳川家康)は今川氏真を見限り織田氏と同盟を結んだ
 伯父:水野信元の仲介もあって、織田信長と同盟を結んだ。

・永禄6年(1562) 松平元康は今川義元からの偏諱である「元」の
  字を返上して元康から家康と名を改めた。

・永禄7年(1564) 三河一向一揆
松平家康は一揆を鎮圧した。
 東三河の戸田氏や西郷氏といった土豪を抱き込みながら、軍勢を
 東進していった。

●永禄7年(1564))遠州錯乱▲曳馬城(引間城:浜松城の前身)攻め 
 遠江国衆の曳馬城主:飯尾連竜が犬居城主:天野景泰&元景父子、
 二俣城主:松井宗恒らとともに今川氏真に謀叛を起こした。
9月15日(★1564年10月29日)
 重臣:新野左馬助親矩&井伊一族で井伊谷城城代:中野越後守
 直由&三浦正俊(★もしかしたら、新野の娘の婿の父)らとと
 もに討死にした。新野親矩は天間橋で飯尾氏に討たれた。

※異説・・・永禄8年(1565)12月 新野左馬助親矩大将として
  飯尾連竜の立て篭もる屋敷を攻め、戦死したとされている。
  12月20日、飯尾連竜が駿府で誅殺された。
(★ 『武家事紀』)

墓@・・・東光院(芝村)
  新野親矩の遺命で、新野家の出身の「能仲和尚」(★新野親矩
  の弟説)が住職である東光院に建てられた。

墓A・・・静岡県浜松市北区引佐町の龍潭寺
井伊家の恩人であるので、龍潭寺にも墓が建てられた。

新野左馬助親矩は死後、左馬武神社に祀られた。



新野左馬助、中野信濃守討死之後、次郎法師、地頭職御勤、
 祐椿尼公(直盛公内室也)、実母、御揃、直政公御養育申
 候得共、皆々女中斗故、但馬諸事取斗我儘斗致、何卒井伊谷
 押領可仕旨相巧申候」
(★『井伊家伝記』)
★意味・・・「新野左親矩と中野信濃守直由の討死の後、次郎
法師が地頭をお勤めになられ、祐椿尼(井伊直盛の妻)、井伊
直政の実母の3人が揃って直政公を養育したが、皆んな女性
であったので、小野但馬守道好が取り仕切って我が儘のし放
題であり、何とかして井伊谷領を巧みに横領しようと企んでいた
と言われています。」
@井伊宗家:次郎法師(井伊直虎)
A井伊家縁戚:新野親矩(今川重臣)の妹(娘説)で次郎法師の母
B井伊家庶流:奥山朝利の妹:虎松の実母

井伊宗家・新野家・奥山家の3人の女性が井伊虎松(直政)を守った。
つまり、3者の強力な連携があったので井伊虎松は生き延びた。
★南渓禅師(龍潭寺2世)がこの年に次郎法師を名乗らせたたのかも
しれない。

・永禄8年(1565) 龍潭寺2世:南渓禅師は次郎法師は還俗させ
 て、「女地頭」に立て、虎松の後見人とした。
  (★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著)
 ★この時、「井伊直虎」と名を変えた説もある。
  小野政次は井伊直親が落とし入れて殺されていなければ、井伊
  直虎という女城主は誕生しなかった。



【3】新野左馬助親矩の子ども
今川家臣:新野左馬助親矩と関口氏経は西遠江の重鎮だった。
 奥山朝利の妹→新野左馬助親矩の妻となった。

1)『井伊家伝記』
  男子はおらず、娘が3人いたとある。
  井伊直政は新野家の断絶を悲しみ、新野の娘たちを木俣、庵原、
  三浦に嫁がせたという。
画像

(★龍たん寺:武藤全裕禅師・武藤佑吉氏など?で
   作成した系図)


2)『新野村誌』の「新野左馬介系図」
男子は1人・・・天正18年(1590)小田原城攻めで討死した。
   新野家は絶えた。
  娘が7人・・・


3)新野左馬助親矩の子ども
いずれにしても、早くて天文14年(1545) 〜遅くて
 天文23年(1554) 井伊家筆頭家老:小野和泉守政直が
 没して、井伊直親が戻ってきたころまでかな。
 木俣以外は今川家重臣に嫁がせていることから、
  今川義元が新野親矩に命じた人質作戦であったので
  あろう。井伊直政が命令したという説は時代に合って
  いない。

娘@→出戻って?、木俣土佐守守勝の妻
2000石。箕輪城に来た。3000石。
 井伊直政の第1家老5000石。養子:木俣守安は10000石
★『井伊家伝記』を採用すると、
新野親矩の娘の1人が狩野主膳入道一庵の妻となり、井伊直政
の命により、狩野主膳入道が討ち死にしたため、木俣守勝の妻
になり、連れ子として木俣守吉が養子になったことが考えられ
る。

 
娘A→庵原助右衛門朝昌の妻
 庵原家は今川義元に仕えた名軍師の太原雪斎もいた。
・永禄12年(1569)5月、今川氏滅亡に前後して庵原一族は
 離散した。庵原朝昌は武田勝頼に仕えた。後、庵原朝昌は、
 井伊直政に仕えた。箕輪城にも来た。
 彦根藩家老bQの4500石→5000石。   

 娘B→三浦与衛門の妻
三浦家の祖父は北条早雲の娘が妻であった。
・永禄7年(1564))遠州錯乱▲曳馬城(引間城:浜松城の前身)攻め 
 遠江国衆の曳馬城主:飯尾連竜が犬居城主:天野景泰&元景父子、
 二俣城主:松井宗恒らとともに今川氏真に謀叛を起こした。
 重臣:新野左馬助親矩&井伊一族で井伊谷城城代:中野越後守
 直由&三浦正俊(★もしかしたら、新野の娘の婿の父)らとと
 もに討死にした。新野親矩は天間橋で飯尾氏に討たれた。
三浦与衛門正俊の子が三浦与三郎元貞であると思われる。
・天正18年(1590)北条氏滅亡。
  三浦与三郎元貞は井伊直政付家老となった。
箕輪城に来た。

 娘C→北条家臣:狩野主膳入道一庵の妻=木俣守安の母
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の北条討伐
 北条氏照は小田原城に籠城した。
 八王子城には城代:横地監物吉信、留守居役:伊豆衆の
 狩野主膳入道一庵、中山勘解由左衛門家範、近藤出羽守
 綱秀ら・・・4000が籠城した。
 6月23日早朝、前田利家、上杉景勝を総大将とする北
 国軍に攻められ半日で落城した。城兵、女子供、千数百人
 が惨殺された。狩野主膳も討ち死にした。
 7月5日 小田原城が開城となった。
 狩野一庵の嫡男:??(幼名不明)は母の姉の嫁ぎ先:叔母の
 夫:木俣守勝を頼って養子となり、木俣守安を名乗った。
 木俣守勝と木俣守安が箕輪城に来た。
 慶長15年(1610)井伊直政の第一家老の養父:木俣守勝の死去
 した。木俣守安が家督と知行4000石を相続した。井伊直継、
 直孝に仕えた。彦根15万石から35万石になると、木俣守安
 1万石の第一家老となった。
・天正18年(1590)旧後北条家家臣:横地宗家(現菊川市)横地
   監物吉信の子:横地修理亮吉晴も井伊直政の家老となった。
(★横地氏の本貫地は新野親矩の新野の北隣にあった。
     おそらくは新野先祖と横地先祖が血縁関係があったと
    見るのが妥当であろう。)

★『井伊家伝記』を採用すると、
新野親矩の娘の1人が狩野主膳入道一庵の妻となり、井伊直政
の命により、狩野主膳入道が討ち死にしたため、木俣守勝の妻
になり、連れ子として木俣守吉が養子になったことが考えられ
る。



【4】幕末の「新野家」
※幕末・・・井伊直弼の異母兄彦根藩11代藩主:井伊直中の10男
 が新野親矩の外孫:木俣守安の子孫:筆頭家老木俣守易の養子と
 なった。
・文政13年(1830)10月15日 井伊直政の恩人の新野親矩の新野家
を再興して2000石で別家した。
 新野氏の名跡を再興し、新野親良を名乗った。
新野親良の彦根屋敷は長野業実の子孫の屋敷(彦根東高校)の運
 動場の北に住み、 彦根藩15代藩主:井伊直弼の時には筆頭家老
 として井伊直弼を支えた。
・安政7年(1860) 3月3日 桜田門外の変
 午前9時、井伊直弼は駕籠に乗って、桜田藩邸を出て、雪の中を
 江戸城に向かった。供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名
 の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた。
  関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村次
 左衛門の計18名が井伊直弼を襲撃した。
 井伊直弼は短銃で撃たれて重傷を負った。
 ★この短銃は中居屋重兵衞が送ったものであった。

箕輪初心★★群馬の偉人:中居屋重兵衞=横浜開港功労者★★
 http://53922401.at.webry.info/201106/article_14.html

井伊直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は狼狽して多くが
 遁走した。駕籠を守ろうとした藩士は刺客に切り伏せられた。
 刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の井伊直弼を駕籠から
 引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳)。
彦根藩士の宇津木久純が援軍を送ったが、間に合わなかった。
江戸幕府は井伊直弼の暗殺は秘密裡とされ、表向きは休養とした。
 3月28日を命日とした。閏3月晦日に井伊直弼の死が公表された。
 跡を井伊直弼:次男:井伊直憲が継いだ。
 4月28日、家督相続が幕府から許された。
彦根藩士の宇津木久純の4男で、岡本氏の養子:岡本黄石が家督を
 継いでいたが、尊皇攘夷派であったため、開国派の井伊直弼と対立
 して罷免されていたが、復帰した。
 井伊直弼の国家老:長野主膳(伊勢安濃津出身)を蟄居、殺害した。
・文久2年(1862)11月20日、一橋派の幕命により彦根藩は10万石を
 減封され、25万石となった。
岡本黄石が井伊直憲の筆頭家老的な立場として、財政立て直しを行
 った。政情の変化に対応して藩政をリードした。
 新野親良は筆頭家老でであったが、譲歩した形となっていた。
しかし、徳川慶喜に過度に依存した結果、第二次征長戦争に出兵して
 大損害を蒙った。赤備えは目立ちすぎて、攻撃対象にされたからであ
 る。岡本黄石は彦根藩の評判を失墜させた。
 王政復古段階で、薩長との提携を重視した谷鉄臣や大東義徹など下級
 藩士出身者に主導権を奪われた。
*******************************
箕輪初心★箕輪城96【井伊直政家臣:岡本半介宣就】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html

・平成28年(2016) 4月16日、左馬武神社で「新野左馬助公献茶祭」
が開かれた。


●▲■井伊直政シリーズのブログ一覧

●井伊直政シリーズ平成21年〜***************

◆◆ 箕輪初心●箕輪城「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_40.html
http://53922401.at.webry.info/201011/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●井の国千年物語前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_3.html

◆◆ 箕輪初心●井の国後編:「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_4.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の箕輪城時代の家臣団 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●静岡:井伊直政の井伊谷城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_5.html

箕輪初心■静岡【龍潭寺】=井伊家の菩提寺
http://53922401.at.webry.info/201212/article_6.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の造った町:高崎&彦根 ◆◆
高崎高校 VS 近江高校
http://53922401.at.webry.info/201203/article_28.html

◆◆ 箕輪初心●中村達夫氏の「井伊軍志」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_14.html

◆◆ 箕輪初心●小和田哲夫氏の「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_13.html



●井伊直虎・直政シリーズ平成29年(2017)〜*************
箕輪初心・生方▲2016井伊直虎・井伊直政bP
『高崎学ソシアス講演会原稿』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_1.html

箕輪初心:生方▲箕輪城238『長純寺・石上寺・東向八幡・字輪寺
&信玄家臣:塚越伴七調査』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_2.html

箕輪初心:生方▲箕輪城239『長野業政・井伊直政』&長野堰3碑&
世界かんがい施設遺産『長野堰』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_3.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bR【井伊家初代:井伊共保】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_9.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bS【井伊氏系図8】&
『鎌倉時代の井伊氏 』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_10.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bT【南北朝時代の井伊氏と宗長親王】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_11.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bU『戦国時代の井伊氏』修正版
http://53922401.at.webry.info/201701/article_12.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bV【第1話『井伊谷の少女』
&「井伊谷・彦根城」
http://53922401.at.webry.info/201701/article_13.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bW【井伊谷の散策2回】と
『NHKのTV「井伊谷」』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_14.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政bX【井伊谷城2回目】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_15.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政10【井伊氏館跡・井伊直満の墓】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_16.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政11【龍潭寺の『直虎の墓・
直政公の墓・位牌』】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_17.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政12【浜松の宿下吉庵で「梅酒:直虎」を飲んだ】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_18.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政13【許嫁:井伊直親&松源寺:文叔&松岡城:松岡貞利】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_19.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政14【第2話:崖っぷちの姫】
&「井殿の塚」
http://53922401.at.webry.info/201701/article_23.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政15【井伊直親の逃走〜2人の子ども
〜井伊谷帰国】資料編
http://53922401.at.webry.info/201701/article_26.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政17『次郎法師&直政の書籍の所持数36』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_27.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政18「柴咲コウ・菅田将暉」と「群馬の新聞」
http://53922401.at.webry.info/201701/article_28.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政19『広報はままつ2016年4月号特集
「井伊直虎」
http://53922401.at.webry.info/201701/article_29.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎:直政20【第3話『おとわ危機一髪』】
&「臨済寺」
http://53922401.at.webry.info/201701/article_31.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政21【歴史秘話ヒストリア「おんな城主
:井伊直虎」】http://53922401.at.webry.info/201701/article_32.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政22【井伊直虎って誰?&
「井伊家傳記」の信憑性諸説】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_33.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政23【井伊谷・歴史本・
小説・ゲームの中の井伊直虎】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_34.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政24『井伊直虎の家臣:井伊谷七人衆』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_35.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政25『小野妹子→小野和泉守政直(道高)』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_36.html

箕輪初心:生方▲2017井伊直虎・直政26『小野政次・小野朝之』
http://53922401.at.webry.info/201701/article_37.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政:27第4話『女にこそあれ次郎法師』
&「龍潭寺」
http://53922401.at.webry.info/201702/article_1.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政28『井伊一族:中野家』
http://53922401.at.webry.info/201702/article_3.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政29【頭陀寺城】と松下之綱と徳川家康と豊臣秀吉
http://53922401.at.webry.info/201702/article_4.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政30【松下清景】前編
http://53922401.at.webry.info/201702/article_5.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政31『松下清景→松下一定子孫』後編
http://53922401.at.webry.info/201702/article_6.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政32『高崎文化協会:箕輪城
・井伊直虎ブース』
http://53922401.at.webry.info/201702/article_8.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政33【第5話『亀之丞帰る』】
&「高森町松源寺」
http://53922401.at.webry.info/201702/article_9.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政34【村の写真展:My井伊家シリーズ】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_10.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政35【鈴木重勝→鈴木重時→鈴木重好】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_13.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【近藤康用→近藤秀用→5近藤】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_14.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【菅沼忠久→菅沼忠道】
&【菅沼定盈&菅沼定利】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_15.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政37【奥山朝利の娘と井伊家家臣団】
http://53922401.at.webry.info/201702/article_16.html

箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政38【6話「初恋の別れ道」】詳細編
http://53922401.at.webry.info/201702/article_18.html


★明日は奥山家?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政39【新野左馬助親矩と娘婿】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる