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zoom RSS 箕輪初心:生方▲井伊直虎・直政36【近藤康用→近藤秀用→5近藤】

<<   作成日時 : 2017/02/12 07:27   >>

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近藤康用は井伊直虎・直政の井伊谷7人衆の1人として、井伊家を
助けた。近藤秀用は、井伊直政に従って、天正18年(1590)箕輪城
に入城した。しかし、井伊直政の短気な性格について行けず、出奔
した。失踪しつつも10年後に17000石の井伊谷藩主として返り咲く。
近藤秀用とは徳川秀忠も優れた武将と認めていたのであろう。波乱
万丈な人生であったようだ。
画像

 (★近藤康用の墓・・・



【0】近藤氏系図
≪井伊谷近藤氏系図≫

藤原秀郷→○→○→○→近藤脩行→近藤行景
→島田景親→島田景頼→島田能成→
近藤直景→景満→秀満→秀行→秀兼→
近藤直満→満用→忠用→康用→秀用→貞用

藤原秀郷流が関東には、秀郷流足利氏・佐野氏・桐生氏・貫名氏
青柳氏・山上氏・白井後藤氏・吉岡武藤氏

1)近江近藤
藤原秀郷の子孫が近藤氏である。
藤原秀郷の4代後裔である藤原脩行は、近江国司となり、近江国の「近」
と藤原の「藤」で「近藤」→近藤脩行と名乗った。
★「近江国の藤原氏」が近藤、「伊勢国の藤原氏」が「伊藤」
と称したようなものである。

2)
初代近藤脩行の孫:近藤景親は、駿河国司になり、島田に住んで、
島田景親と名乗った。
島田景親の長男の島田景重は、伊豆韮山近藤に移った。
・平治?年 平治の乱
 島田景重は源義朝に従って討死した。
 島田景重の子が近藤国澄である。
 『尊卑分脈』に「近藤八」
 『源平盛衰記』には「伊豆国住人近藤四郎国澄」とある。
 近藤国平は『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に「近藤七国平」
 と記されている。
・治承4年(1180) 8月17日 頼朝挙兵
  韮山の山木攻めや石橋山の合戦に参加した。
  源頼朝が鎌倉へ落ち着くと、側近の一人となった。
  韮山近藤に在住した。
*************************
箕輪初心★源頼朝29【側近:近藤七国平】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_15.html
**************************

島田景親の次男:島田景頼の子孫の近藤直満が、
三河国八名郡宇利に住した。
子に季用、用可、用宗、用義、米倉某の妻、
小笠原権之丞室(のちに九鬼長兵衛の妻)、由良貞繁室。

●近藤満用(こんどうみつもち) ?〜1544年
近藤満用は、松平清康(徳川家康の祖父)に仕えた。

・享禄3年(1530) 松平清康の宇利城攻め
近藤満用は従軍して戦功を上げた。
 戦功により宇利城を賜った。
1544年 死んだ。


●近藤乗直(こんどうのりなお) ?〜?
松平清康に仕えて活躍した。
満用の長男・乗直は、松平清康と鹿狩りをした時に、鹿を捕えると、
その角を引き裂いたので、その腕力に驚いた清康から鹿角紋を与えら
れたという。
近藤氏の家紋は、「藤原下がり藤」紋と「鹿角」紋である。

しかし、戦いで歩行の自由を失い、家督は2男:忠用が継いだ。
宇利城に閑居した。


●近藤忠用(こんどうただもち) ?〜1578年
満用の2男。松平清康に仕えていた。
 守山崩れで清康が死去した。
 後は今川義元に仕えた。



【2】近藤康用(やすもち)永正16年(1517)〜 天正16年(1588)3月12日
・享禄3年(1530) 宇利の戦い
  岡崎城の松平清康(徳川家康の祖父)は宇利城の熊谷備中守実長
  (熊谷次郎直実の子孫)を攻めるために兵3000余で攻撃した。
  松平勢は野田城主:菅沼定則 を案内として東上(一宮町)で
  豊川を渡り、宇利城 への攻撃を開始した。苦戦の挙句、城内
  の松平方に内応した武将が城に火を放ち宇利城は落城した。 
  城主の熊谷実長は裏山伝いに落ち延びた。
  松平清康の三河の統一が成し遂げられた。
 熊谷方の武将・近藤満用、近藤平左衛門、近藤力之丞がいた
  というので、裏切った武将は近藤氏ということになる?
  近藤氏は松平清康方として奮戦し、熊谷備中守を討ち取り、
  宇利城を賜るとなっている。 (★『近藤氏系譜』
宇利城主(現新城市中宇利)

・天文5年(1536) 今川義元が家督を継いだ。
井伊氏と今川氏で和議が結ばれた。
今川義元の西進が始まった。

・天文11年(1542)▲三河田原城攻撃 姫の祖父:井伊直平の子:
  14代(19代)井伊直宗が野伏により討死した。

 近藤忠用・近藤康用父子は共に今川氏親に従った。
  知行221貫文を安堵されていた。

・永禄3年(1560)▲桶狭間の戦い
今川氏の領国支配力に不安が見え始めた
同僚の鈴木重勝に同調し今川氏の傘下でいることを継続した。
・永禄3年(1560) ▲桶狭間の戦い
   織田信長 VS 今川義元
  3月19日 (次郎法師父:)井伊直盛ら16人が今川側で戦死した。
  井伊直盛が桶狭間で討死のとき、「遺領は中野越後守に預ける」
  と遺言した。
 従って、井伊谷は中野中野越後守直由・(次郎法師)が預かった。
   (★『井伊家伝記』・『井伊直虎物語』浜松歴女隊編)

 ★徳川家康・関口氏経は大高城にいた。
箕輪初心★【織田信長@尾張の大うつけ→尾張統一】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_1.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201206/article_1.html

箕輪初心★『織田信長A桶狭間前哨戦=家康の信長攻撃』
http://53922401.at.webry.info/201206/article_2.html

箕輪初心★【織田信長B桶狭間〜清洲同盟】
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html

・永禄4年(1561)2月19日 井伊直親の長男:井伊虎松
  (直政)が祝田生まれた。

・永禄5年(1562)12月14日 井伊直政の父:井伊直親は
 小野の讒言「井伊直親が松平元康(徳川家康)に内通している。」
  の申し開きのため、駿府に向かった。
  井伊直政の父:井伊直親ら19名は今川家臣:朝比奈泰朝に
  懸川(掛川)で殺された。
   井伊家分家:家老:新野左馬助親矩が虎松に命乞いをした。
  井伊家分家:新野左馬助親矩に保護され、養母:次郎法師に
  育てられた。
  ※井伊直政は2歳のため、次郎法師と名乗り井伊家を継いだ
  説もある。

・永禄6年(1563)▲ 天野左衛門尉:八城(社)山攻め
井伊直平が途中の有玉旗屋で急死した。享年75。
★唯一生き残っていた井伊家の男だった。長老が無理した。

・永禄7年(1564))▲曳馬城攻め 
 重臣:新野左馬助親矩と井伊一族で井伊谷城城代:中野越後守
 直由が討死した。
 
「新野左馬助、中野信濃守討死之後、次郎法師、地頭職御勤、
 祐椿尼公(直盛公内室也)、実母、御揃、直政公御養育申
 候得共、皆々女中斗故、但馬諸事取斗我儘斗致、何卒井伊谷
 押領可仕旨相巧申候」
(★『井伊家伝記』)
★意味・・・「新野左親矩と中野信濃守直由の討死の後、次郎
法師が地頭をお勤めになられ、祐椿尼(井伊直盛の妻)、井伊
直政の実母の3人が揃って直政公を養育したが、皆んな女性
であったので、小野但馬守道好が取り仕切って我が儘のし放
題であり、何とかして井伊谷領を巧みに横領しようと企んでいた
と言われています。」
@井伊宗家:次郎法師(井伊直虎)
A井伊家縁戚:新野親矩(今川重臣)の妹(娘説)で次郎法師の母
B井伊家庶流:奥山朝利の妹:虎松の実母

井伊宗家・新野家・奥山家の3人の女性が井伊虎松(直政)を守った。
つまり、3者の強力な連携があったので井伊虎松は生き延びた。
★南渓禅師(龍潭寺2世)がこの年に次郎法師を名乗らせたたのかも
しれない。

・永禄8年(1565) 龍潭寺2世:南渓禅師は次郎法師は還俗させ
 て、「女地頭」に立て、虎松の後見人とした。
  (★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著)
 ★この時、「井伊直虎」と名を変えた説もある。
 
  井伊直虎は南渓和尚に徳政免除の黒印状を与えた。

・永禄11年(1568)
?月 井伊家筆頭家老:小野但馬が井伊領を横領した。
龍潭寺2世:南渓瑞聞は 井伊虎松(井伊直政)を
 鳳来寺に移住させた。

 11月 井伊直虎は関口氏経と連署で徳政令を出した。
  ★今川氏真が介入してきたことを意味する。
「井伊直虎は今川氏家臣関口親永一族:関口氏経の息子
 (次郎法師の母方の従兄弟)を井伊次郎と名乗らせて
 当主とした説もある。
 『鉾前神社古文書』に唯一「井伊直虎の名がある。」
 井伊直盛嫡子「井伊直親養子」、妹に「女子」とあるだけである。
 (★『おんな城主井伊直虎と井伊家の歴史』井伊達夫著)
★関口親永の妻は今川義元の妹婿説・井伊直親の叔母説がある。
 
 関口親永の娘は徳川  家康の正室:築山殿の父である。
 関口氏一族は後、木俣守勝側近となった。

・永禄11年(1568)11月 徳川家康が遠江の平定に着手

  徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
  から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
  菅沼忠久が鈴木重時や近藤康用も誘った。


 野田菅沼3代目当主の定盈の計らいによって菅沼忠久や鈴木重時と
 共に家康に属し、所領を安堵された。
 遠州切り取りの第一歩、刑部城の攻略の先鋒は旧今川義元配下だっ
 た野田城の菅沼新八郎定盈(さだみつ)に井伊谷3人衆であった。

 近藤康用は子:近藤秀用を従軍させていた。
 老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた
 からである。
 
刑部城攻め
 今川氏真から離反させて徳川方に流れた「井伊谷三人衆」:菅沼忠久
 ・鈴木重時・近藤康用に野田菅沼定盈と大将として、攻撃させた。

戦国時代に相手方武将を調略して自軍に引き入れた場合、まずはじめに
 次の戦いの先鋒に投入される。
真田幸綱・昌幸もいつも調略すると、
 @人質を取る。A戦いに元の味方と戦わせる・・方法を使っていた。
 調略した側としては臣従の誓約がされたからと言って俄かに信
 ずるわけにはいかないのである。
  まず、先鋒をやらせて様子を窺う。自分の配下ではない新参者
  なので、負けても自分の軍には影響がない。
 今までの味方を敵として戦わせることになる。
「昨日の友は、明日には敵なのだ。」
  昨日まで味方だった武将が戦いを挑んでくので戦意も喪失しがち
 になる。調略された者は裏切りの汚名を被ったからには開き直って
 味方になった証しを証明しなければならないし。戦功を挙げなくて
 はならない。

 

・永禄12年(1569)
▲武田信玄の第一次駿河侵攻
 武田信玄は駿河侵攻にあたって、徳川家康と今川領分割の密約を
 結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏がそれぞ
 れ攻め取ることにしたのである。

12月6日、武田信玄は1万2000の軍勢を率いて駿河侵攻を開始
 した。
 今川氏真は重臣の庵原忠胤に1万5000の軍勢を預けて迎撃させた。
 武田軍が進軍を開始すると、今川軍は退却し始めた。
 北条氏康は武田信玄との同盟破棄した。

今川氏真は井伊家に対して出兵の命令が出した。

 12月? 井伊家筆頭家老:小野但馬が井伊領を横領した。
龍潭寺2世:南渓瑞聞は 井伊虎松(井伊直政)を
 鳳来寺(松井家)に移住させた。

12月11日 小野但馬守政次(道好)は今川軍の一員として武田信玄
 として出陣した。

12月12日 ▲薩埵峠の戦い
 今川氏真は武田軍を迎撃するため、興津の清見寺に出陣した。
 武田信玄は今川氏の有力家臣である瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、
 葛山氏元らを調略した。
 結果として21人の武将が武田信玄に内通して裏切ったのである。
 北条氏政は駿河に援軍に向かった。伊豆三島に対陣するに留まった。

12月13日 武田軍は駿府に入った。
 今川氏真は駿府城を捨てて遠江掛川城の朝比奈泰朝を頼って落ち延びた。
小野但馬守政次(道好)は井伊谷城に戻ってきた。

12月13日、徳川家康も三河から遠江に侵攻した。
菅沼忠久は徳川家康に加担する菅沼一族の野田菅沼定盈
 から今川家の離反の誘いを受けると、承諾した。
 菅沼忠久は鈴木重時や近藤康用(&秀用)も誘った。

12月15日  徳川家康の井伊谷侵攻。
 徳川家康に内通した井伊谷三人衆(菅沼忠久・鈴木重時・近藤康用)
の道案内で徳川軍が井伊谷に攻めた。
井伊谷3人衆(近藤・鈴木・菅沼)は井伊谷城を先導した。
 井伊谷城は井伊谷3人衆の攻撃にさらされた

ところが、代官:小野但馬守政次(道好)は攻撃が始まる前に
井伊谷城を捨てて逃げた。

徳川家康は小野政次(道好)の専横に対し、
  近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久の井伊谷三人衆を派遣し、井伊谷
  を奪還させた。
徳川家康は井伊谷城を攻略した。
井伊谷は3人衆の支配下に置かれた。
  井伊谷3人衆は小野但馬守の探索を徳川家康に願い出た。
  @小野但馬守は菅沼忠久の兵に見つかって捕えられた。 
  A近隣の淵の「龍ヶ淵」洞窟に潜伏していたが近藤秀用に
   捕えられた説もある。
 井伊谷から曳間(引間)城攻めに案内した。

井伊谷3人衆(近藤・鈴木・菅沼)は井伊谷から曳間(引間)城攻めに
案内した。

井伊谷城や白須賀城→曳間城(浜松城の前身)を落とした。

12月27日 徳川家康は掛川城を包囲した。

・永禄12年(1569)
 4月7日 小野政次(道好)は偽りの密告をした罪で処刑された。
 5月 堀川城攻撃
  小野政次(道好)は獄門を言い渡され井伊谷で処刑された説もある。
 5月17日 今川氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。
 6月 小野政次(道好)の息子2人も斬罪となった。
 ※元亀元年(1570)説もある。
 井伊谷蟹渕・・・小野但馬守が処刑された。
小野政次の野望はこうして潰えたのである。


・永禄12年(1568)井伊直政実母は今川家臣:松下源太郎清景
 (浜松頭陀寺城)と再婚した。

 ★松下清景の姉は松平元康(徳川家康)家老:松下之綱であった。
  井伊家が今川氏から独立した松平元康との関係を模索した。
と考えられる。
 井伊直虎が徳川家康の将来性を見抜き、養子の虎松(井伊直政)を
 徳川家康に出仕させるために仕組んだ結婚であったかもしれない。


・天正3年(1575) 2月井伊直虎に付き添われて井伊直政(15歳)は浜松
  の徳川家康に出仕した。
 

近藤康用は度々の合戦で活躍して戦功を上げたが、戦傷が原因
 で歩行することが出来なくなったため、最後は井伊谷に閑居した。


 ・元亀元年(1569) 徳川家康は本拠を岡崎城から引間城に移した。
岡崎城には長男:徳川信康を置いた。

・元亀3年(1572)▲三方ヶ原の戦い 
  武田家臣:山県昌景が井伊谷を攻撃した。
  井伊谷3人衆は開城した。
  徳川家康は大敗を喫した。
12月22日〜正月始めまで 武田軍25000が井伊谷に滞在した。


・元亀4年(1573) 4月12日 武田信玄が駒場で死んだ。 
井伊谷は再び徳川家康の支配下になった。

・天正元年(1573)
8月21日 山県昌景は三河長篠城(愛知県新城市)への後詰の指揮を
 命じられている
 武田軍が宇利城に攻め寄せて来た。
 近藤康用はと籠城して撃退した。

  近藤庸用は戦功によって徳川家康から康の諱を賜り、名を康用と
 改めた。

・天正元年(1573 ) 武田軍が井伊谷に侵攻し、神社・仏閣・民家
  を焼き払った。

・天正2年(1574)▲高天神城の戦い 
  小笠原長忠が降伏。高天神城は武田軍の支配下。

井伊虎松(直政)は鳳来寺から井伊谷に戻った。
井伊虎松(直政)は:松下源太郎清景の養子となり、
「松下虎松」を名乗った。
★松下源太郎清景の従兄弟で、姉の夫:松下加兵衛之綱は徳川家康の
 家臣として引間城の東に屋敷を構えていた。徳川家康の重臣であった。


・天正3年(1575) 松下源太郎清景・(井伊直虎)に付き添われて
  井伊直政(15歳)は浜松に徳川家康に出仕した。
 井伊万千代の名で旧知行地の井伊谷を賜った。
 井伊直虎は井伊直政の出世を見守った。
(★『遠江井伊氏物語』武藤全裕著には井伊直虎は出ていない。)
 (★遠江井伊氏考察録●その7:武藤全裕著には井伊直虎が出ている。)


・天正10年(1582) 井伊直政は山県昌景家臣75名・土屋昌恒家臣70
  名などを配下とした。
 ★井伊直政軍の特攻隊・武田流軍法家隊・築城名人隊を傘下にした。

 ★山県昌景の家臣:75名(兵総数は×4〜6)中、広瀬・三科
  ・孕石・石原・・・後、井伊直政の家老で、早川が侍大将となる。
★井伊谷7人衆家:鈴木・菅沼・鈴木&奥山家も井伊直政の家老と
  なる。

※天正10年(1582) 8月26日(9月12日)
養母:井伊直虎が死んだ。

・天正16年(1588年)、閉居先の井伊谷で死去。72歳(伝)。
  静岡県浜松市北区引佐町の龍潭寺の墓所
画像

子に
秀用
用豊
用成
用忠
用政
中野三信の妻、
用勝(徳川頼宣家臣)
中川忠重の妻。


***********
やがて、徳川家康が遠江国を窺うようになると、その懐柔工作によって今川氏を離反。永禄11年(1568年)末からの家康による遠州攻め入りでは、子の秀用を従軍させていた。老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた理由も重なっていたのである。



【2】近藤秀用(ひでもち)、天文16年(1547)〜寛永8年(1631)2月6日

・天文16年(1547) 近藤康用の子として誕生した。
父:近藤康用とともに徳川家康に仕えた。


・永禄11年(1568年)末からの家康による遠州攻め入りでは、
 近藤秀用は父に従って従軍していた。
老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた。

・元亀3年(1572)▲三方ヶ原の戦い 
  武田家臣:山県昌景が井伊谷を攻撃した。
  井伊谷3人衆は開城した。
  徳川家康は大敗を喫した。
12月22日〜正月始めまで 武田軍25000が井伊谷に滞在した。

箕輪初心:生方▲遠江:『三方ヶ原の戦い』徳川家康VS武田信玄
http://53922401.at.webry.info/201610/article_8.html

・天正3年(1575) 長篠の戦い

 
・天正10年(1582)
3月11日 武田勝頼はが自刃した。武田氏滅亡
6月2日  織田信長・信忠が死んだ。

※天正10年(1582) 8月26日(9月12日)養母:井伊直虎が死んだ。
(★『遠江井伊氏物語』:龍潭寺前住職:武藤全裕著)

8月 天正壬午の乱
 井伊直政は徳川家康から滅亡した武田旧臣の招聘を命じられた。
井伊直政は成瀬正一らの案内で甲斐国に入った。
一条信龍・山県昌景・土屋昌恒・原昌胤に属していた旧臣を招聘
することに成功した。
徳川家康は武田旧臣を井伊直政の傘下に組み入れて「甲州同心衆」と
して再編し、木俣守勝にはその統率を命じた。
木俣守勝はこれがきっかけで井伊直政の寄騎になったと考えられる。
木俣守勝は功績によって2000石を与えられた。
『寛政譜』では、「井伊直政条には木俣守勝・西郷正友(正員)・椋
原正直(政直)が井伊直政に付けられた。」

(★『譜代大名の創出と幕藩体制』の「井伊直政家臣団の形成と
  徳川家中での地位」小宮山敏和著 吉川弘文館+加筆)

やがて、徳川四天王の一人である井伊直政が台頭してくると、
徳川家康の命で井伊谷3人衆:近藤秀用・鈴木重好・菅沼忠久が
寄騎として井伊直政の片腕となった。


10月29日 徳川家康と北条氏政が和議を結んだ。
 ★徳川家康の交渉役は正使:井伊直政と副使:木俣守勝であった。

徳川家康は勲功として、家臣:木俣清三郎守勝ら三人に若年の直政を
補佐させると同時に山県昌景・一条信龍ら四人が率いていた家臣七四人、
それに関東の浪人四三人、合わせて一一四を附属させた。彼らの軍装は、
家康の命令で「旗幟より物の具まで、色は赤を用いけり」
(★『藩翰譜』/新編高崎市史近世編P7)


井伊直政は山県昌景家臣74名・土屋昌恒家臣70名などを配下とした。
井伊直政軍特攻隊=馬を使った騎馬軍団・武田流軍法家隊・築城名人
隊を傘下にしたのだ。昨日の敵は今日の味方だった。


・天正18年(1590)
・3月17日 山中城攻めでは、徳川勢は西の丸から2の丸
  ・本丸攻めになった。
・3月18日 井伊直政は単独で足柄山城を攻略した。
・6月22日 井伊直政と松平康親の部隊は小田原城の笹曲
  輪へ攻め入った。
  井伊直政は笹郭攻めでの功績を評価された。小田原城落城
 のきっかけを作った。
(★上杉謙信・武田信玄が入れなかった小田原城内に初めて
 攻め込んだ。)
・7月5日 小田原城開城
・7月11日 北条氏直は父:氏政・叔父:氏照を介錯した。
近藤秀用は小田原攻撃では豊臣秀吉からも賞賛された。


●徳川家康からは大量の与力(寄騎)が井伊直政に附属され、
  付家老となった。木俣守勝・西郷正員・椋原など
井伊谷3人衆(近藤秀用・鈴木重好・菅沼忠久)
●井伊直政が旧北条氏の有力家臣を井伊家の家臣にした。
@宇津木治部右衛門泰繁:(玉村出身)北条家臣
  →井伊家物頭:鉄砲奉行・井伊家家老
A岡本半助宣就(小幡信貞の第一家老:熊井戸半右衛門
  の子ども:小幡城代)
上泉伊勢守の孫上泉泰綱に小笠原系上泉流兵法:軍敗を伝授
 →井伊家軍監・家老 
B石原主膳(山県昌景鉄砲奉行→北条氏政鉄砲奉行
 →井伊直政旗奉行)

1)旧後北条氏の一揆対策
「井伊直政の箕輪城入封に際して、旧後北条軍の一揆・反抗が起
こった。石原主膳・宇津木蔵人の2人を派遣した。領民のほとんど
が宇津木蔵人の呼びかけに帰順し、呼応した。
 (★『井伊軍志』・『井伊家家譜』:井伊達夫著)

・天正18年(1590) 7月中に入城した。(新編高崎市史)

・天正18年(1590)旧暦の8月3日〜7日の間に箕輪城に入封した。
   (★『井伊軍志』:井伊達夫著)

・8月7日付 豊臣秀吉朱印状 (★『彦根市史近世1−6』)
「今日七日於奥州長沼到来、可被見候、箕輪罷移之由尤候、
  知行方相改、普請等可申付  候、此方へ可見廻之由無用候
 ・・・(後略)」
 井伊直政が豊臣秀吉の命令で箕輪城主になった。
(★『齋藤慎一先生講演会2006』)

・9月 井伊直政次男:井伊直孝が駿河中里で生まれた。

2)附属与力衆(徳川家康からの付家老)の問題解決
※井伊直政は、抗戦野戦、行政管理に長けていたが、与力衆を自分の
配下のように酷使した。反発するとすぐに刀を抜いた。与力衆は、木俣
守勝・近藤秀用(ひでもち)などは 「帰りたい。」といった。
徳川家康に江戸帰還の許可をしないようにお願いした。
(★『井伊軍志』井伊達夫著・『井伊家年譜』井伊達夫編)

近藤秀用は井伊直政の冷酷な性格に嫌気がさしていた。
近藤秀用は徳川家康に直臣として取り立ててくれるように嘆願した。
井伊直政は妨害した。
井伊直政は暗殺まで謀ったという。
近藤秀用は命の危険を感じ、箕輪から出奔して伊勢国に逃亡した。
初期の井伊家の重臣の人事は徳川家康が直接関与していた。
井伊直政は徳川家康の許可なく勝手な人事はできなかった。
徳川家康は基盤の弱い井伊家を強化するために、井伊直政寄騎の家臣
を井伊家の家臣に編入する方針があったと考えらる。
近藤秀用は徳川家康の許可を得ずに井伊家を離れてしまったため、徳川
家康に対する反抗であるとみなされた。
(★『譜代大名の創出と幕藩体制』の「井伊直政家臣団の形成と
  徳川家中での地位」小宮山敏和著 吉川弘文館)


●井伊直政の「新旧附属与力衆の階級的安定と親和」 
@親戚衆:中野・奥山・新野・小野と井伊谷の家臣:今村
 A徳川家康からの付家老(木俣・西郷・椋原・井伊谷3人衆)
B旧武田家臣山県昌景家臣衆と土屋昌恒家臣衆の家老
孕石泰時・広瀬・三科・
 C武田旧臣→北条旧臣:石原主膳・宇津木泰繁・岡本宣就
  北条旧臣→武田旧臣:庵原・(孕石泰時)(椋原)  
 D新規召し抱え上州の家老衆:長野業実・内藤知矩・里見・和田
 
★井伊直政が徳川家康に随行して、大坂、伏見に滞在している間
 は、木俣守勝のライバル:井伊直政の姉の夫:川手良則が内政面
 と箕輪城・城下町の整備を取り仕切った。

近藤秀用は箕郷町富岡に所領を持ったようだ。
  (現車郷小学校付近・高橋家に石垣が残存する。)

慶長元年(1598) 近藤秀用は井伊直政と対立して出奔した。

****************************
・慶長3年(1598)10月高崎城が完成した。
 井伊直政38歳であった。

・慶長5年(1600)
8月下旬 徳川秀忠軍3万が3日間、高崎に滞在。
 ★長野堰の水も寺もあった。
9月15日 関が原の戦い
・井伊直政の兵力3600で徳川家康の4男:忍城主・松平忠吉
 (直政の娘婿)と同行した。井伊直政は本戦で松平忠吉を補佐した。
 井伊直政は島津を追いかけ鉄砲で撃たれ、負傷した。
10月まで 関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに
 奔走した。
※井伊直政は真田信之の依頼で、真田昌幸・真田幸繁の助命を
 徳川家康に進言した。
 (★彦根城博物館:野田浩子学芸員著)

・慶長5年(1600)10月、佐和山城に移るまで高崎の町の発展の基礎
 と造った。

*****************************

・慶長7年(1602) 井伊直政が死去した。、
  徳川秀忠に上野国青柳(前橋市)に5,000石の所領を与えられた。

・慶長8年(1603) 近藤秀用は池田輝政の仲介によって、徳川家康の勘気
  から解かれた。

・慶長19年(1614) 相模国に1万石を加増され、15000石になった。
 小田原城の城番となった。
  大坂の冬の陣にも参陣して武功を挙げた。

・元和元年(1565)大坂夏の陣

・元和5年(1619)
 8月 徳川頼宜が紀州和歌山へ移封となり、近藤貞用は紀州へ移った。
   井伊谷は中泉代官:中野七蔵の支配下になった。
 9月27日 近藤秀用は江戸幕府に願って引佐・敷地・豊田・麁玉
  ・長上の5郡内で15000石を拝領した。
  井伊谷藩が立藩した。

   井伊谷の井伊氏館三の丸跡1万坪を近藤陣屋と定めた。
    
・元和6年(1620) 陣屋の普請を開始した。 

・元和6年(1620) 近藤秀用は次男の用可に5000石、孫の貞用に3400
石を分知した。井伊谷藩は1年で消滅した。 
※藩は1万石以上の大名、1万石未満は旗本。

・元和7年(1621) 2000石の加増を受け17000石の大名になった。

・元和8年(1622) 近藤陣屋が完成した。

・元和9年(1623) 7月 秋元泰朝、曽根吉次、阿部正之と共に
  福井藩:松平忠直改易後の相続に関する伝達および国務の任を
  受け、越前福井に派遣された。
(★ウィキペディア)
★近藤秀用は秋元泰朝や父:秋元長朝と約2年間井伊直政家臣
として仕えた時の同僚であった。
(秋元長朝は北条家臣で深谷城代→井伊直政家臣松井田に900石)
★近藤秀用は曽根吉次の宗家:曽根昌世(武田旧臣〜の庶家と
  箕輪・高崎で 一緒であった。
 ★阿部正之の娘は近藤用行の妻である。

・寛永2年(1625) 石見守に叙任された。
慶長19年(1614)大久保長安事件の連座で、大久保忠隣
  が改易になり井伊直孝預けになった。小田原城が空位になった
  近藤秀用は2度目の小田原城代を務めていた。
  
・寛永8年(1631)2月6日 近藤秀用が死去した。享年85。
  法名「常光院殿法誉清閑居士」
墓所・・東京都文京区本郷の大安寺
東京都文京区湯島の称仰院
     浜松市北区引佐町奥山の方広寺



旗本「五近藤」家
通字は「用」(もち)である。
1)宗家:金指近藤家5400石 (金指陣屋)
  始祖:近藤秀用長男:季用(すえもち)の子:貞用
  宗家金指近藤家の通称は「登之助」である。
  金指近藤領は現井伊谷の三岳・白岩地区である。
 ・天正18年(1590) 小田原攻撃 
  近藤季用(すえもち)は井伊直政隊に属して、笹曲輪攻で戦功
  を挙げた。豊臣秀吉から紅梅の胴服や黒馬を賜った。
 ・文禄元年(1592) 金指1000石を賜った。
(★浜松→井伊谷の途中、井伊谷ガイド:石原正美先生・浜松
   歴女探検隊:武藤さんが場所を教えてくださった。)
   徳川家康の直属の旗本になった。
従って、近藤季用(すえもち)は箕輪城には来なかった。
 ・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
遠江国井伊谷3050石が与えられた。
長男:近藤貞用が継いだ。
・慶長17年(1562)5月6日 近藤季用(すえもち)が死んだ。
  
 @宗家の近藤登之助貞用は、歌舞伎『幡随院長兵衛』に出てくる
 近藤登之助である。
 A宗家の近藤登之助貞用は、小説『旗本退屈男』佐々木味津三著
 (愛知県北設楽郡設楽町津具出身)
  主人公:早乙女主水之助のモデルである。
  TV「天下御免の向こう傷」・・・役:市川右太衛門であった。
  ★懐かしい。
 
2)気賀近藤家3400石 気賀陣屋
  始祖:近藤秀用次男:用可(もちよし)→用治3600石  
   気賀近藤家12代が明治まで続いた。気賀の関を管理していた。
気賀関所・・・浜松市北区細江町気賀4577 TEL. 053-523-2855

3)井伊谷近藤家5450石 井伊谷陣屋
  始祖:近藤秀用4男:用義の子:彦九郎用将(もちまさ)
  3男:近藤用宗は早死に
  4男:近藤用義は父と一緒にいた小田原城で死去。
井伊谷・東牧・横尾・神宮寺・正楽寺

4)大谷近藤家 2400石 大谷(おおや)陣屋
   始祖:近藤用可の庶子:用行

5)花平近藤家300石 花平陣屋
   始祖:秀用弟:用忠の子:用伊(もちただ)

近藤氏は旗本として徳川氏に仕えた。



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