城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲法神流A【幕末の女剣士:中澤琴の兄:中澤貞祗の生涯】

<<   作成日時 : 2017/01/16 11:04   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

【3】中澤良之助貞祗(さだまさ)の生涯
・天保8年(1838)  法神流の達人中沢孫右衛門貞清の長男として
 利根郡穴原村に生まれた。
 父について法神流剣法を修業した。
・嘉永6年(1853) 15歳頃には父の門弟の中で一番強くなっていた。
画像



箕輪初心:生方▲法神流@「浪士組6番隊→新徴組2番隊『女剣士:中沢琴』上野国片品穴原出身
http://53922401.at.webry.info/201701/article_20.html

箕輪初心:生方▲法神流A【幕末の女剣士:中澤琴の兄:中澤貞祗の生涯】
http://53922401.at.webry.info/201701/article_21.html

箕輪初心:生方▲法神流B「法神流の歴史」 角田源造・持田誠二等
http://53922401.at.webry.info/201701/article_22.html


・嘉永7年(1854) 武者修行の旅に出た。
  江戸に出て千葉周作及び斉藤、桃井に学んだとある。
  (★良之助の墓石の裏)
 中澤良之助は身長六尺(180cm)、体重二十余貫(85kg)で
 あった。

・文久2年(1862年)2月 江戸幕府による警備組織が作られた。
  
   尊皇攘夷論者・清河八郎の発案で、山岡鉄舟らを通して松平
  春嶽(幕府政事総裁職)に急務三策(@攘夷の断行、A大赦
  の発令、B天下の英材の教育)を上書する。
  尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平忠敏の
 もとに浪士組結成が許可された。
・浪士組参加者は文武に秀でた者を重用する。犯罪者であっても
 大赦することを条件に結成された。老若男女、腕に覚えがある
 者であれば、犯罪者であろうとも農民であろうとも、身分を問
 わず、年齢を問わず参加できることとなった。
幕府は 浪士隊を編制して京都に派遣することに決した。

・文久3年(1863)
1月、江戸の法神流登場から浪士隊募集の知らせが中沢道場にも届い
 た。兄:中澤良之助が応募して江戸に出ようとした。
 中澤琴も兄について行った。
 

2月 江戸幕府将軍・徳川家茂上洛にあわせて、将軍警護のために浪
  士隊が作られた。徳川幕府は京都で暗躍する勤王の浪士を制圧す
  るためでもあった。
  
   1000人とも1500人ともいわれた応募者
の中から234名採用された。合格者の中には中澤良之助と中
 澤琴も近藤勇等もいた。
※現群馬県片品村穴原出身の「中澤琴」は兄が浪士隊に応募するので、
兄について江戸に上ったとされる。浪士組の名簿の
中には兄「中澤良之助」の名前はあるが、「中澤琴」の名前はない。
女性なので浪士隊に正式には入隊されかった可能性がある。

浪士取締役・・・ 鵜殿鳩翁・清河八郎・山岡鉄太郎・石坂宗順ほか
一番隊 ・・・・・ 根岸友山・家里次郎・殿内義雄・清水吾一ほか
二番隊・・・・・
三番隊@・・・・芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八
       ・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司
       ・平間重助ほか
三番隊A・・・・新見錦・阿比類鋭三郎・井上源三郎・沖田林太郎ほか
五番隊 ・・・・山本仙之助(祐天仙之助の変名)・玉城織衛 その他
六番隊 ・・・・村上俊五郎・大村達尾・柏尾馬之助(柏尾右馬之助)
中澤良之助
 ★琴が浪士隊のどの組に加わっていたかは正確にはわからない。
 兄の良之助が六番隊に所属していたので、中澤琴も兄と共に
 この組にいたのかもしれない。
 途中から土方歳三や沖田総司などの試衛館グループが六番組と
 なった。
 もしかしたら、土方歳三や沖田総司などは中澤琴を間近で見て
    いたのかもしれない。

七番隊・・・・・合計234名。



・文久3年(1863)
2月8日、浪士組は小石川伝通院に集まり、江戸を
  出立した。
  中山道を上洛する。
2月9日、本庄宿に到着。
   先番宿割を任されていた近藤勇が芹沢鴨の宿を取り忘れてしまい、
   芹沢が怒って路上で大篝火を焚くという騒動が起きた。
   近藤勇と池田徳太郎が芹沢鴨に謝罪した。
2月10日 ??宿
2月11日 松井田宿
2月12日 ??宿
2月13日 長久保宿
2月14日 下諏訪宿
2月15日 奈良井宿
2月15日 馬籠宿
2月17日 中津川宿
2月19日 加納宿
2月21日  武佐宿
2月22日 大津宿
2月23日  京都壬生村に到着。
      浪士組は各隊ごとに壬生村会所や寺(新徳寺など)、
    郷士宅(八木家、前川家、南部家など)に分宿する。
    近藤勇は6番隊小頭となっている。
 (★ウィキペディア)
★浪士隊が京都までに費やした日数は15日間であるが、疑問が
たくさんあるが、琴のコースも不明である。
@浪士隊6番隊にくっついて京まで上ったのかなあ?
A浪士隊6番隊の後からついていったのかなあ。
@別コース:姫街道だろうか。
 浪士隊の一員としてではなく、単なる旅人に扮して一行について
 いったのかもしれない。
★姫街道(下仁田街道)のルート
本庄−藤岡宿−吉井宿−福島宿−富岡宿−七日市城下−一ノ宮宿−宮崎宿
−下仁田宿−南牧関所・・▲内山峠・・・野沢宿
中山道の追分宿に合流する。
「姫街道」は中山道の脇往還で大名行列などは利用していない。
関所管理が緩く、女性が比較的通り易いので姫街道などと呼ばれた。
物資の往来は盛んで佐久米を中心に生糸や麻、楮、煙草、漆などが
運ばれた。

2月24日 清河八郎は浪士組全員の署名を集めた。
清河八郎は浪士組を幕府から切り離した組織にして急進的な
 尊皇活動に利用してしまおうというものだった。
 清河八郎は200名の手勢を率い朝廷に建白書の上申を願い出た。
  幸運にも受理された。

  江戸幕府は浪士組の動静に不安を抱いた。
  幕府は、浪士組を江戸へ呼び戻すこととなった。

2月28日〜30日にかけて各隊の御所拝観が行われる予定だった。
2月29日 清河八郎が新徳寺で「即刻江戸へ帰還した上で攘夷する。」
 と提案した。芹沢鴨・近藤勇らが猛反対するという騒動になった。

3月3日 浪士組に帰還命令が出された。
 中澤良之助と中澤琴も浪士組は2週間で江戸に呼び戻されることに
 なった。 

3月 屯江戸の本所(東京都墨田区)に屯書が設置された。
 取締責任者は高橋泥舟と山岡鉄太郎が就いた。

3月13日 清河八郎らが率いる浪士組は江戸へ向かった。
  中沢良之助と中澤琴は京都に残り新撰組を起こした近藤勇等と分かれ
  江戸に戻った。24名が残った。
  芹沢鴨・近藤勇・土方歳三ら13名は京都守護職を務めていた会津藩
 預かりとなった。京都で「壬生浪士組」(後新選組)と名乗った。
江戸帰還後の浪士隊は、庄内藩支配下となり「新徴組」と名
 を替え、新しい編制を作りをした。
中沢良之助は2番隊小頭・剣術世話心得となった。
 猛者連の中から剣術大会を経て任命されたのである。

 江戸市中の警戒に当たった。 
 幕府は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全
 に幕府と対立していたため狙われていた。

4月13日 庄内藩出身の清河八郎は幕臣の刺客:佐々木只三郎
 ・窪田泉太郎ら6名が待ち伏せていた。
寄宿していた山岡鉄舟の家を出発した。清川が麻布一の橋に
 さしかかったころ「清川先生ではありませんか・・・?」と
 言って、頭にかぶっていた笠をはずし、丁寧にお辞儀をする。 
 清川が笠をはずそうとした時、後ろからやってきた刺客に一刀
 のもと、切りふせられてしまった。享年34。
画像
 
 (★清川八郎記念館隣、清川の関所〜 

 清河八郎の同志達も次々と捕縛された。
 浪士組は組織の目的を失った。

4月15日 幕府は浪士組を「新徴組」(しんちょうぐみ)と改称
 し、江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。
 庄内藩酒井家は、徳川四天王の一人として数えられた酒井忠次
 (高崎藩→高田藩→庄内藩)を祖にする名家であった。
 幕府の信任が非常に厚かったため、扱いに困った浪士組を庄内藩
 に預けたのである。「新徴浪士組」という説もある。

 新徴組の組士は総勢で169名であった。
 新徴組はこれと言った仕事もなく、給金なども少なかったため、
 組から脱走者や、江戸の商家への強奪者も生じた。
 新徴組の存在自体が危ういものになっていた。

琴も男装して兄:貞祗とともに、江戸市中を見廻り、治安の維持に
当たった。
★琴も新徴組に入り活躍したという。


4月中旬以降〜
 新徴隊は幕府の邪魔になる商家などを襲ったり、ゆすり騙りを働き、
 金品を奪っては酒色に溺れていた。
 高橋精一(高橋泥舟)と山岡鉄太郎(山岡鉄舟)は江戸城に呼び出
 され、不祥事の責任をとらされ、御役御免になり謹慎閉居になった。
8月18日「八月十八日の政変」
 京都守護職会津藩預かりとなっていた「壬生浪士組」は
「新選組」の名を賜った。
 ※浪士組は消滅することとなった。

10月26日 幕府は江戸の治安悪化を憂慮し、庄内藩ら13藩に
 「江戸市中警護の命令を下す。」と状況が一変した。
 庄内藩は江戸市中警護の主力として、新徴組に任務にあてること
 にした。
 東北育ちの庄内藩士よりも、関東近辺で募集された浪士組を前身
 にもつ新徴組の方が、江戸の地理などにも詳しく最適だと考えた
 からである。

・元治元年(1864) 庄内藩御預かりとなる。

★ 新徴組は再び歴史の表舞台に登場することになった。
庄内藩新徴組の江戸市中警護が非常によく行き届いた。
「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」
「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」

 新選組が京で名を上げている頃、新徴組もまた江戸でその名を
上げていたのである。

★江戸市中警護に活躍し、江戸市民に感謝された。
 新徴組も幕末という時代を裏から支えた存在であった
 大政奉還、王政復古により江戸幕府が消滅すると解散した。
 新選組幹部の沖田総司の義兄、沖田林太郎が組頭を務めている
など、新選組との交流もあった。

しかし、新徴組もまた、時代の渦に巻き込まれていくことになる。

・慶応3年(1867) 
  幕府と薩長との対立が日増しに激しくなった。
 相楽総三は三田の薩摩藩邸を根拠地として倒幕、尊皇攘夷論者の
 浪士を全国から多数招き入れた。浪士は薩摩藩士:伊牟田尚平や
 益満休之助に指示され、放火、掠奪、暴行などを繰り返して幕府
 を挑発した。攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士
 の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。金蔵をも
 つ富商」であった。
 旧江戸幕府も前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に
 「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し捕り申す
 べし。賊が逆らいて、その手に余れば討ち果たすも苦しからず」
 と厳重に江戸市中の取締りを命じたが、十分な取締りとならなか
 った。庄内藩は新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせた。

10月14日 大政奉還
 第15代将軍:徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上した。
10月15日  明治天皇が奏上を勅許した。

11月15日 近江屋事件で坂本龍馬が暗殺された。

12月20日 夜、薩摩藩邸の浪士50名がが鉄砲や槍で武装をし
 御用盗のため薩摩藩邸の裏門から外に出た。新徴組は追撃され、
 賊徒は散り散りとなって薩摩藩邸へと逃れた。
12月22日の深夜、新徴組が屯所としていた赤羽根橋の美濃屋に
 30余人薩摩浪士が鉄砲を撃ち込んで逃走し、薩摩藩邸に逃げ込
 んだ。
12月23日 庄内藩の春日神社前の屯所へ鉄砲が撃ち込まれ、
 使用人が死亡した。
12月24日 庄内藩は新徴組に薩摩藩邸の襲撃を命じた。
 庄内藩・上山藩・鯖江藩・岩槻藩・出羽松山藩
 が出陣することになった。
 薩摩屋敷の戦力は浪士200名・馬16頭との情報があった。
 
12月25日未明、
 新徴組所属の庄内藩500人・上山藩300人・鯖江藩100人・岩槻藩
 50人・松山藩50人等1000人に加え、大砲・鉄砲・槍などで
 薩摩藩邸を包囲した。
 庄内藩は西門付近は意図的に包囲を緩め、逃がす算段をした。
 5藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちした。
 新徴組は薩摩藩の支藩であった日向佐土原藩邸を襲撃した。
 その後、薩摩藩士と戦った。
 ※戊辰戦争の火蓋が切って落とされた。
 
・慶応4年(1868) 「鳥羽・伏見の戦い」
幕府軍は薩長連合軍に惨敗を喫した。
 前将軍・徳川慶喜は恭順・謹慎の態度を示した。
 幕府軍敗北官軍の急激な進出による時勢の急変での結果
・・・・新徴組は庄内藩士と共に庄内へ行くことになった。
新徴組は出羽国(山形)庄内に移動し、西軍と奮戦した。
屯所は大宝寺村(鶴岡市大宝寺)にあった。
画像

 (★酒田の鶴ヶ岡城の土塁)
画像

 (★庄内松山城)
画像

 (★上山城)


▲羽後矢島城攻略戦
 中澤良之助は「少々負傷」の記録がある。
佐幕派の会津、二本松、庄内各藩は激しく抗戦した。
★男装していた琴は庄内でもまた、娘たちに、惚れられて困っ
たという。中澤琴は庄内でも男性:女性に騒がれていたという。

庄内藩は新政府軍相手に奮戦したが、時代の大きな波のうねりの前
にはどうすることも出来ず、最終的に庄内藩もまた降伏することに
なったのである

● 明治維新後〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
明治維新が成立して新徴組の時代は去った。

●山形
その後の新徴組は悲運の一途を辿った。
月山の麓・東田川郡広瀬、黒川の二村に渡る丘陵地帯に入って
開墾事業に従事した。
画像

 (★6月の月山)

中沢良之助も開墾地に入った。
琴も兄とともに開墾事業に従事した。
新徴組は関東周辺の出身者が多数を占めていたため、慣れない
冬場の東北地方での開墾生活は苦痛以外の何物でもなかった。
そのため、新徴組の組士達は庄内から脱走を試み、切腹させられた者
や討ち取られた者などが多数出た。

●群馬県・・・南郷穴原
・明治7年(1874)兄と琴は故郷の利根村穴原に戻った。
★兄が38歳なので、琴は37か36であった。


中澤貞祇は帰郷後、中沢は利根村穴原に立派な道場を構え、
法神流の剣術を教授した。
門人は350人 、関東一円に及んでいる。
(墓碑裏には一千人と書かれている)

「中澤良之助貞祗(さだまさ)の墓」
画像


・昭和2年10月12日・・享年87?88。
(★「群馬人国記」)


★明日は法神流かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲法神流A【幕末の女剣士:中澤琴の兄:中澤貞祗の生涯】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる