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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『長尾景虎(上杉謙信)&近衛前嗣&彦部信勝』

<<   作成日時 : 2016/12/02 10:10   >>

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彦部晴直は上杉謙信を将軍::足利義輝に謁見する取次をした。彦部信勝
は近衛前嗣の護衛として長尾景虎(上杉謙信)が山内上杉氏の後継者
になるのを見届けた。彦部信勝は上杉憲寛の子:榎下上杉憲当の名跡
を継いだという。
画像



箕輪初心:生方▲群馬『彦部家の歴史:飛鳥時代〜戦国時代』
http://53922401.at.webry.info/201612/article_1.html

箕輪初心:生方▲城873「彦部家住宅」国重要文化財
http://53922401.at.webry.info/201611/article_24.html








●29代:彦部家第10代:彦部国直
  近衛関白政家&足利義政の娘・・・ 
 彦部国直の妻は近衛関白政家の娘であった。
  近衛政家の室は足利家第8代義政の姫であって
  ※彦部家は近衛関白家並びに足利将軍家と結びつくことになる。
  (★彦部家系図) 
  彦部国直の後妻は近衛政家の女である。
  彦部晴直・彦部輝信の兄弟をもうけた。
   長享・明応番帳など彦部国直が三河との関係を持っていた。
しかし、幕府権力の衰退とともに三河との関係は次第に断絶
  していったようである。
 (★岡崎市史・・・武家家伝Hpより)


    
●29代:彦部家第11代:彦部晴直(1507〜65)
 彦部晴直の母は近衛関白政家の娘である。足利義政の外孫である。
足利家第10代義稙・第11代義澄・第12代義晴・第13代義輝
 の4代の将軍に仕えた。
 ・彦部稙直から彦部晴直になった。
 
・天文5年(1536)彦部晴直は武田信虎の第12代:足利義晴の
取次をした。武田勝千代は15歳の時、「武田晴信」となった。
武田信虎は黒馬一頭・兼本銘の刀一腰を彦部晴直に送った。

・天文6年(1537)4月27日、上杉朝興は河越城で病死した。享年50。
  跡を上杉朝定が継いだ。


・天文15年(1546)足利義輝が元服した。
  彦部晴直は、朝廷の使い番をした。
  従五位下となった。
やがて従四位下、雅樂守になった。

・天文17年(1546)?「仁田山紬文書」(彦部家文書)
「仁田山紬を10疋調達してほしい。」
足利義輝のお妾から彦部晴直宛の文書
*彦部篤夫氏説・・・彦部家傍系の彦部加賀守師光は
 桐生広沢郷竹ヶ岡の加賀屋敷にいたからであろう。

・天文19年(1550)足利義晴が死去。
  第13代:足利義輝となった。
彦部晴直は、将軍義輝の申次衆として晴直朝廷・寺社の
  使い番をした。
彦部晴直は関東に下向し、北条氏康・里見義尭から
馬・太刀・小袖などを送られた。

  番衆に彦部輝信がみえる。
   彦部氏が将軍側近として行動していた。

  足利義輝は細川氏、三好氏らの下剋上により近江国朽木に流浪
  することが長かった。

●30代:彦部家第12代:彦部輝信
彦部晴直の長男:彦部輝信
彦部晴直の2男:彦部信勝

・永禄2年(1559) 長尾景虎(上杉謙信)は近衛前嗣に謁見した。
4月3日 長尾景虎は関東管領職就任の許しを得るため、
  長尾実景・長尾藤景・本庄実乃(さねより)・直江実綱・
  柿崎景家ら500の兵を率いて、2度目の上洛をした。

4月27日 長尾景虎は将軍:足利義輝に拝謁した

5月1日 正親町天皇に異例の拝謁をした。
    莫大な献上物を送った。

5月2日 長尾景虎は酒宴を催し、足利義輝・近衛前久を
    招待した。
    
    足利義輝から関東管領就任を下賜されるための
    下工作である。

6月26日 足利義輝から御内書・大館晴光の奉書を
    賜った。
@「裏書御免」の特権・・・名・官途名を省略できる権利
A塗輿・・・・将軍・3管領・相伴衆のみ許された漆塗りの輿
B管領:上杉憲政の補佐・・・ 管領並(管領同等)の待遇を
  与えられた。
  ※関東管領就任を正式に許された。
  =北条氏康を攻撃する大義名分の獲得。
C桐紋の使用・・・
D屋形号の使用許可・・・守護大名のみが使える号
 =国人領主→幕府から大名を許可された。
E信濃侵攻の許可・・・武田信玄を幕府名で討伐する許し
 =信濃侵攻の大義名分の獲得

長尾景虎は関白:近衛前久を奉じ、北条氏討伐を計画した。

10月下旬 長尾景虎は越後に帰国した。

10月28日〜11月1日 家臣が祝儀に参集した。
 「侍衆御太刀之次第」・・・長尾一族・有力家臣61名
 に太刀を送った。
 長尾景虎は天皇・幕府との関係・権威をバックに
 権力基盤を固めた。
(★上杉家文書・『真田三代』:平山優著)
 信濃国人衆では、村上義清・高梨政頼・・・
 栗田永寿(武田についた鶴寿弟)
 ・島(嶋)津左京亮泰忠(武田についた矢筒城主)
 ・須田左衛門太夫信正(武田についた福島条主・須田城主)
 がいる。

●11月13日〜 信濃国衆の「直太刀持参之衆」
 信濃国衆が自分の太刀を持参し、臣従の意を表す儀式
 ※村上義清・高梨政頼・・・
 粟田永寿・須田信頼・井上左衛門尉・屋代政国・仁科盛昌
 ・市川信房・河田蔵人?・清野寿軒・
 嶋津泰忠・保科左近尉・東条信広?・西条治部少輔
 ・綱島兵部介?・大日向直武・・・室賀信俊
 それになんと・・・
 真田幸綱・望月信雅・禰津信直・海野幸忠の滋野系
 の一族がいた。
  (★『上杉家文書』「直太刀持参之衆」)
平山優説・・・武田信玄に所属しながら、長尾景虎につくのが
 容認されていた当時の社会通念であろう。
 つまり、「半手」「半納」・・・敵味方半分づつ年貢を
  納める慣習が容認されていた。
  従って、しばしば両方に人質を置くことになった。
 また、軍を両方に送ることもあった。どちらに奉公の
 比重を置くかは国人衆の判断に委ねられていた。
 境目の国人衆は武田晴信に臣従しながらも、
 長尾景虎にも折衝ルートを確保しておきたかった
 のであろう。
 (★『真田三代』:平山優著)

※丸島和洋説・・・関東管領就任の祝儀であると考えたれるが
真田幸綱も春日山城に赴いたことになっている。
 武田が敗北した場合の逃げ道を作っておく必要が北信濃の
 国衆にはあった。
(★『真田四代と信繁:丸島和洋著』
箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html

箕輪初心:生方▲箕輪城208【久保田順一先生20160827「長野業正
:新系図発見」】


・永禄3年(1560)・永禄3年(1560)
6月10日付 近衛前嗣は厩橋城の人質のことなどを長尾景虎に
 申し送る。「みのわ」(長野業政)から人質が置かれた。
 (★近衛前嗣書状・上杉家文書)

8月 長尾景虎(上杉謙信)の第1次関東出兵。

9月 近衛前嗣親子は長尾景虎(上杉謙信)の要請を受けて
   関東に下向した。越後の長尾景虎のもとに下向した。
彦部信勝は同道した。
   近衛前嗣は長尾景虎(上杉謙信)のいる越後府中(上越市)
   に行った。〜〜春日山城には直江兼続がいただけだった。

長尾政虎(上杉謙信)は出発して、厩橋(前橋市)の
滞在していていなかった。

   近衛前嗣親子が長尾政虎(上杉謙信)に追随し、
   厩橋(前橋市)に行った。
   近衛前嗣に彦部晴直の子:信勝が同道した。
   
   近衛前嗣も同陣し、彦部信勝も前嗣に従った。
   近衛前嗣親子・彦部信勝は長尾景虎&上杉憲政に会った
    
10月 
彦部信勝は桐生広沢郷竹ヶ岡の加賀屋敷を頼った。
  奉者を務めた。
*彦部信勝の妻は桐生彦部加賀守師光の娘である

  近衛前嗣親子・彦部信勝は桐生城に入った。
近衛前嗣親子の桐生城の滞在期間は不明である。
彦部信勝は金山城主:由良成繁から桐生千疋を貰って、
在住し、由良の家臣になった。
由良成繁は太田〜桐生〜大胡一帯を支配していた。
★上杉政虎に任されたといってよいであろう


・永禄4年(1561)
●2月〜閏3月 小田原城→鎌倉八幡宮
関東管領は上杉憲政から長尾景虎に譲られ、上杉政虎となった。
★3つも字が付いている。

近衛前嗣親子・彦部信勝が見届け役であった。


●4月 上杉政虎は厩橋に帰城した。
箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html

●4月中旬〜 上杉政虎と上杉憲政&長尾憲景&長野業政の病気
上杉政虎(謙信)の病気
・4月4日付 上杉政虎書状
「・・・わつらいよく・・・
    くらがの(※倉賀野尚行)かね五まいくれ候、・・・
 卯月(4月)四日   」
『上杉政虎書状:上越市史別編1・1419』

・4月16日付 上杉政虎書状写
「就湯治、・・・養生・・・
  四月十六日          政虎
  沼田入道殿(沼田顕泰)    」
『上杉政虎書状写(東京大学文学部所蔵)』
 近衛前嗣親子が関東下向し、桐生城入りした。
  彦部信勝は同道した。
  近衛親子の帰京後も桐生市広沢に留まった。
  ★戦乱に明け暮れた桐生氏、由良氏どちらとも距離をおいた
  ようである。

・6月10日付 『近衛前嗣書状』・・・近衛は厩橋に到着
「・・・ふくちう(腹痛)いかか候や、・・
    ・・・みのわハわつらい候よし申そうろうまま、・・・」
  六月十日         花押」
※上杉政虎(上杉謙信)は腹痛・・
 ※長野業政は病気を煩っている。 
(★「久保田順一先生の平成28年(2016)8月27日講演会)
★彦部信勝が奉者を務めたのであろう。

・6月19日 長野業政が死んだ。

・6月下旬上杉政虎(上杉謙信)は越後に戻った。

彦部信勝は桐生広沢郷竹ヶ岡の加賀屋敷を頼った。
  奉者を務めた。
*彦部信勝の妻は桐生彦部加賀守師光の娘である

 近衛前嗣親子・彦部信勝は桐生城に入った。
近衛前嗣親子の桐生城の滞在期間は不明である。
彦部信勝は金山城主:由良成繁から桐生千疋を貰って、
在住し、由良の家臣になった。
由良成繁は太田〜桐生〜大胡一帯を支配していた。
★上杉政虎に任されたといってよいであろう


・永禄5年(1562) 関東下向した近衛前嗣は桐生城に入った。
 のち、古河城・宇都宮城を回ってから京へと帰って行った。
彦部信勝は関東に残る道を選んだ。
 以後、彦部氏は桐生広沢に土着した。

*彦部篤夫氏説「彦部信勝桐生滞在理由」
 @近衛前嗣・父:彦部晴直から関東の情勢を探るように命じら
  れたのであろう。
 A近衛前嗣は古河城・館林城城に行っている。・・・
古河公方足利高基の次男→関東管領になった上杉憲寛は
5年程で上杉憲政に家督を譲った。上杉憲寛の子:上杉
憲当は「榎木上杉氏」(★おそらく安中の榎下城)を名乗
っていた。その名跡を彦部信勝に譲るというものであった。
(★彦部家文書)
つまり、近衛前嗣は上杉憲寛→実子:上杉憲当の名跡を
継がせるために、古河城に行ったことになる。
 彦部信勝は「榎下猿次郎」(「上杉信勝」)を名乗ったことも
ある。彦部篤夫先生は考えているようである。

  近衛前嗣は厩橋城に寄った。
上杉政虎bR:北条高広がいたはずである。
(★『大江一族:毛利氏・・関久先生著』)
  近衛前嗣は越後で上杉政虎にあった。
?月 近衛前嗣は京に戻った。

  足利義輝は三好長慶と和睦した。
  追い出されていた足利義輝は京に帰った。

・永禄7年(1564)三好長慶が病死した。

・永禄8年(1565) 三好の乱
  松永久秀・三好三人衆によって足利義輝が暗殺されてしまった。
  彦部晴直・輝信は奮戦したが彦部雅楽頭晴直、兄:彦部輝信が
  戦死した。ここに、彦部氏の嫡流は断絶となった。しかし、
桐生広沢にいた彦部雅楽頭晴直の2男:彦部信勝が跡を継いだ。
  以後彦部家は広沢の地で継がれていく。

・天文10年(1582) 
 3月11日 武田氏滅亡
6月2日  織田信長死亡。

・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻撃
 由良氏は桐生・太田から牛久に移動した。
 彦部信勝は由良氏の家臣ではなかったので、所領は安堵された。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
彦部屋敷から竹竿380本を、旗絹とともに献納、それによって
 桐生領54ヶ村は賦役御免になったという。





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11/23(水)文化フォーラム1 
中世彦部氏の武士像(13:00〜16:30)
・基調講演:
@「武士勢力の変換」山本隆志先生(筑波大学名誉教授)
A「南北朝〜室町期の彦部氏」亀田俊和先生(京都大非常勤講師)
・話題提供講演
B「平安末期〜鎌倉期の足利氏」須藤聡先生(太田東高校教諭)
C「戦国時代の武士と地域とネットワーク」青木裕美先生(県立文書館)
・パネルディスカッション
 司会は梁瀬大輔氏・・・パネラー4人


★明日は未定

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