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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸136第49話「前夜」&塙直之、後藤又兵衛、木村重成の最後!

<<   作成日時 : 2016/12/15 09:59   >>

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▲4月29日樫井で塙直之、▲5月6日の夜道明寺で後藤基次、
薄田兼相、若江・八尾の戦いで木村重成など多数の勇将を失った。
@真田信之は、幸村が死を覚悟していると考え、大坂で幸村に会
った。しかし、幸村の決意は固かった。A後藤又兵衛、木村重成
らは討ち死にした。台所頭の大角与左衛門が豊臣の策を徳川方に
漏らしていたのだった。B幸村は、春や梅たちを伊達政宗に預けた。
C幸村は家康の首をとるべく、敵陣へと攻め入ることをきりに告げ
た。幸村はきりに、豊臣秀頼の正室・千姫を徳川方へと渡すこと
を指示した。幸村は自分は本当はきりを愛していたことに気づいた。
画像

 (★彦根の宗安寺:木村重成の首塚)



******************************
【1】徳川家康の夏の陣までの経過
・慶長19年(1614)
12月10日 大坂冬の陣集結

・慶長20年(1614)
正月 徳川家康74歳・・・は駿府に戻った。
豊臣家滅亡を企んでいた。

3月 京都所司代:板倉勝重は大坂城の不穏な動きを家康に報告
   した。

3月12・13日 大坂城の米・材木が持ち込まれた。
         牢人達は居座っていた。

  大野治長の弟:治房は12000人の牢人を雇った。

3月15日 大野治長が駿府で釈明の使者:米村権右衛門を
送った。
※米村権右衛門は大野治長の草履取りから出生した。
 木下藤吉郎みたいに、・・・

3月24日 徳川家康は秀頼の大坂城退去か牢人の全員追放かの二者択一
  を米村権右衛門に迫った。

4月1日 徳川家康は土井利勝・酒井忠世の連名で畿内の大名に
大坂から脱出する者・男女問わず捕縛するように・・・

4月4日 徳川家康は駿府を発った。
名目は「尾張名古屋城の第9子:義直の婚儀」・・・
カモフラージュであった。

4月6日 徳川家康は伊勢・美濃・尾張・三河の諸大名に伏見
   ・鳥羽に集結するように命じた。

4月7日 徳川家康は西国諸大名に出陣準備を命じた。

(4月9日、大野治長は弟:治房に襲われた。)

4月10日 徳川家忠が江戸を出発した。

4月12日 徳川家康は第9子:義直の婚儀を済ませた。

4月15日 徳川家康は名古屋城を出発した

4月18日 徳川家康は二条城に入った。

4月24日 徳川家康は常高院:初(茶々・お江の妹)に最後通告を
 持ち返らせた。

4月25日 藤堂高虎隊・井伊直孝隊が先鋒として淀・伏見を出発
 した。


4月26日 夏の陣の前哨戦
大野治房・後藤又兵衛2000が暗(くらがり)峠を越え、大和に
入った。小競り合いが始まった。

  徳川方の大和郡山城:筒井正次1000で首尾していたが逃亡。    
今井攻略を失敗した。

4月28日 大野治長は法隆寺付近に放火した。
水野勝成が接近してきたので、大野治長は郡山城を捨てて、
 大坂城に戻った。
 
大野治房・大野治胤5000が浅野幸長を討つため、和歌山方面に
 向かった。
 途中2隊に分かれた。
 @ 大野治房3000は岸和田城の小出吉英600を攻めた。
 A 大野治房2000は大野治胤に堺の町を焼かせた。堺の鉄砲鍛冶
  :芝辻家が徳川に大砲を献上していたからである。



【2】塙団右衛門直之の最後 
4月29日 ▲樫井の戦い
先鋒:岡部則綱隊&塙団右衛門隊 VS 浅野長晟3000
塙団右衛門は松林に待ち伏せされ、泥地で討ち死にした。
岡部則綱は負傷して逃げた。
大野治房が駆けつけたが、引き上げた後だった。


【3】後藤又兵衛基次&薄田兼相の最後
4月30日 軍議
   真田幸村・後藤又兵衛・毛利勝永は道明寺で合流して
国分で徳川軍を迎え撃つことになった

5月5日 水野勝成は前夜のうちに単騎で小松山の地形を確認した。

5月6日未明、後藤又兵衛が先鋒として2800の兵を率いた。
 藤井寺で待った。
しかし、霧で後続の明石全登、真田信繁が到着できなかった。

▲道明寺の戦い
  道明寺村   水野勝成
明石 薄田 川 後藤 ▲  本多忠政  ←伊達政宗 
応神天皇陵      松平忠明
真田       片倉重綱
 
 後藤又兵衛が道明寺まで来ると、先には徳川の大軍がいた。
 河内国志紀郡道明寺村付近において後藤基次と
 水野勝成が交戦した。

後藤又兵衛は徳川軍先鋒:奥田忠次らを討ち取った。
  敵味方から賞賛された。

 @後藤又兵衛が単独で小松山を占領した。
  水野勝成に小松山に後藤を誘いこまれたのだ。
  水野勝成は一番槍をあげた。
水野勝成配下:松倉重政隊を壊滅寸前まで押し込んだ。

  後方から伊達隊・松平隊が来て、3方向から攻撃
  された。
  平地戦に出た。第一陣・第2陣に勝ったは伊達本隊が
  来た。  
  後藤は敵陣に突撃した。
  伊達政宗勢の鉄砲隊に巨体を撃ち抜かれて落馬した。
  吉村武右衛門?
  金方平左衛門?に
 「早く首を切れ、敵に首を渡すでない。」
  と介錯させ、壮絶な最期を遂げた。
金方平左衛門は田に首を埋めた。
正午近く 8時間にも及ぶ戦いで小松山で討ち死にしたとされる。
 

【4】薄田兼相の最後


A正午頃、薄田兼相がようやく道明寺に到着した。
薄田兼相は水野勝成の家臣:河村重長に討ち取られた。
薄田文右衛門は幼少のため戦闘には参加しなかった 。
  落城後紀伊に逃れた。後に浅野家に召抱えられた。
   「沢」と改姓させられ。浅野家の安芸広島移封に従い
   500石を与えられた。

 B真田・毛利隊もようやく着いた。でも、真田幸村は殿をする
 しかなった。

  
 C水野勝成3800にさらに誉田村で渡辺糺と交戦した。
 渡辺糺は深手を負わせた。
  



【5】木村重成の最後
木村重成:豊臣秀頼の乳母の子。豊臣秀頼と乳兄弟
幼少から秀頼の小姓として仕えた。
元服後も豊臣家の重臣として重要会議などに出席した。
木村重成の妻は大蔵卿の姪・・つまり、大野治長の従兄弟。
木村長門守重成3,000石・・・・
大野治長に片桐且元が徳川家康との内通を疑われた時は、
仲介に入った。
 その後、木村重成は片桐且元を「改易」にして追放した。
大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から
追い出すのに一役買った。
@冬の陣では七将軍として後藤又兵衛(基次)と共に奮戦した。
冬の陣の和議の際には、正使として徳川家康の許に赴いた
※木村重成の立ち振舞があまりに堂々としたため、家康を始め
とする徳川諸将は感嘆したという逸話が残っている。
A大坂夏の陣では豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに
 八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣した。
▲八尾・若江の戦い
 八尾方面には長宗我部盛親、
 若江方面には木村重成・・・
 木村重成は藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した。
 木村重成は藤堂軍の右翼を破った。
  木村重成隊は玉串川西側堤防上に鉄砲隊を配置し、湿地を
  西進する井伊軍を襲撃しようとした。

5月6日 午前7時頃、 
▲若江の戦い
  玉串川東の堤防上から鉄砲隊による一斉射撃を行った。
  井伊直孝の鉄砲隊が木村隊を圧倒した。
鉄砲奉行は宇津木泰繁であった。
  玉串川は井伊隊に占拠され木村隊は撤退した。
  井伊直孝は先鋒を第2家老:庵原朝昌・川手良列
  (川出良則+井伊直政の姉の子)とした。

  川手良列は撤退する木村隊が突撃を行ったが、敵中に孤立し
  討ち死にをした。
  
  しかし、川手隊先鋒の突撃で木村隊は陣を整える間も無く
  庵原朝昌ら後続の井伊隊の追撃を受けることになった。

 木村重成は兵を収拾し、昼食を取らせると井伊軍の来襲を待
 ち構えた。
 木村重成軍は井伊直孝軍との両軍入り乱れての激戦となった。
 木村重成も槍をもって奮戦した。激戦の末に戦死した。
   
  木村重成が井伊家家臣に討たれた。
 @安藤重勝(長野氏の箕輪城侍代の安藤家子孫)に討たれた説
 A井伊家第2家老:庵原(いはら)朝昌に討たれたが、庵原朝昌
  が功を安藤重勝に譲った説。
 ※首実検が行われた際にはその頭髪には香が炊き込めてあったと
  いう逸話もある。

 井伊隊の戦闘に傍観していた榊原康勝、丹羽長重らが木村宗明を
 攻撃した。木村宗明は大坂城へ撤退した。

 木村隊の山口弘定、内藤長秋も討ち死にした。
 若江方面での木村隊は壊滅した。

木村家( 木村重成・木村秀望・飯島三郎右衛門・ 宇野右衛門介
     高松久重・ 山口弘定 )

★井伊直政の子:井伊直孝は彦根の「宗安寺」に木村重成の墓
 (首塚)を造って、供養した?誉れとした?




*******************************


【6】真田丸第49話「前夜」のあらすじ
◆ナレーター
「真田幸村からの書状を読んだ信之は、幸村が死を覚悟している
と考え、大坂行きを決意する。」

○江戸の真田屋敷
稲「どこにも死ぬなどと書かれておりません。」
稲は必死でとめようとする。
信之「あれは、敵の本陣に入り込み、大御所様の首をとるつもりだ。」
と、幸村の狙いについて話した。
稲がとうとう折れた。

稲「敵陣に向かうとなると、真田の家はお取り潰しになることも
  考えられます。家紋のついたものは、身につけぬようにして
  ください。」
とお願いした。
こうは、六文銭を渡しながら、
「道中、どうかお気をつけくださいませ。」
と無事を祈った。
★今年は2回、湯灌(ゆかん)→納棺に立ち会った。
 1回目は11月26日に父の湯灌(ゆかん)→納棺であった
 2回目は12月11日は叔父の湯灌(ゆかん)→納棺であった。
 湯灌に立ち会った。湯灌は安置しているご遺体の身体や髪を洗い
 清め、化粧を施し身支度を整える。身内はお湯やアルコールで浄める
 ことである。昔は湯は、今はアルコール消毒のようだ。
納棺とはご遺体を棺に納めることである。
 上帯、手甲脚絆、杖、草鞋などを棺に納めた。次に故人が愛用して
 いた品を棺に納めた。嗜好品はたばこだが、ライターなどの爆発物
 や燃えにくいものは入れられない。また、燃えるものでも水分を多く
 含んでいるものなどは火葬の妨げになるので、入れられないそうだ。
 2人とも酒のない紙パックが収まった。
 金属を少なめにして、遺品を燃やす。金は1円玉のみ、・・・・
 「六文銭は紙でできている」・・・「三途の川も金次第か?」
 ずだ袋に「六文銭」を入れる。
 白の帷子、手甲、脚絆、足袋、頭陀袋、天冠(額に当てる三角布)、
 頭陀袋(中に三途の川の渡し賃の六文銭)、草履、笠、杖などを身
 につける。ここの葬儀屋さんは「綿で天狗の姿のように着飾った。」
父は曹洞宗:「長純寺」長野業政の菩提寺だ。
 叔父は日蓮宗:「実相寺」
 旅の姿で、お遍路さんの姿を思い出した。
 仏教では死を冥土への旅立ちと考える。
 浄土真宗など、教義として旅立ちとしての死を認めてない場合は
 これらの装束を着せないこともある。
 副葬品を納めたら棺の蓋を閉め、納棺は完了となる。

●大坂城での軍議
幸村「まず、大阪を出て京を攻める。伏見を本陣とし、足並みが揃わぬ内
に一気に攻め入り、家康の首をとる。」
「そして、全軍の士気を高めるために秀頼様に伏見城入りしていただく。
・・」
と提案する。
秀頼は賛成した。
大蔵卿局は反対した。
「あくまで、敵を迎え討つのは大坂城」
「要害ができあがっておれば、ありえたかもしれませぬ。
知れも間に合わぬ今、この城に執着するのは愚策にござる。」
大広間が静まり返った。
後藤又兵衛・毛利勝永・木村重成は、「3人で立てた案」を紹介する。
木村が絵地図を広げ、毛利が口を開いた。・・・
「敵は大軍。必ず広い南側から攻めて来る。これに対し、われらは
 天王寺に兵を進め、この一帯を固めて迎え撃つ。秀頼公は城に
 いて吉報を待っていれば良い。」
と提案した。
長宗我部と明石は「城の東側と、背後からの攻撃に弱点がある。
 のでは・・・」
と指摘する。
幸村は、・・・・東から攻め入られる対策として、
「平野川の堰をあちこちで切っておこう。さすれば、このあたり
 沼地と同前、東から城に近づくことはできぬ。」
と提案する。


◆ナレーター
「慶長20年(1615)4月22日、秀頼の元に家康からの最後通告と
 もいえる書状が届いた。」

●大坂城
家康「秀頼公が大和郡山城に移れば、兵を引く。・・・
   但し、牢人達を連れて行っては許さない。・・・」
という内容だった。
秀頼「徳川とはこれにて手切れといたす。」
と文を破った。

●徳川の陣
徳川秀忠は、父:家康に
「秀頼がいる限り、牢人は増え続けます。父上は甘すぎます!」
と言い、攻め入ることを決断した。


●真田信吉の陣
真田信吉勢は山城と河内の国境沿いに布陣していた。
真田信之が突然は訪れた。
「源次郎と話がしたい。会う手立てはないか?」
と聞く。
矢沢三十郎と小山田茂誠は顔を見合わせ、
「(叔父)信伊(のぶただ)様が真田の陣に来ます。」
信伊(のぶただ)様が大御所様の命で源次郎様と会います。」
「その機に乗じて説得することにする。」

◆ナレーター
「4月29日、樫井において、大野治長勢と徳川方の浅野勢が
 激突した。大阪夏の陣が始まりである。」


▲樫井の戦い
塙団右衛門と大野治房が攻撃を開始した。
だが、塙団右衛門が討ち死にした。

●大坂城
茶々は、「いずれ、あなた方も横にならぶのですか・・・・」
とつぶやいた。
きりにたしなめられた。

幸村は庫裏(台所)で作戦会議をした。
地図で徳川軍の進軍コースを予測した。
「家康の本陣は生駒山を・・・河内に入る。・・・
 秀忠軍は山の西側、東高野の街道を進んでくる。・・・・
 ・・・道明寺付近で待ち伏せる。・・
 道明寺には後藤殿と明石殿、・・・私と毛利殿は後詰めに回る。
 長宗我部殿と木村殿は八尾・若江を押さえ、東高野の家忠軍の
 進撃を阻む。・・・・」

◆ナレーター
「五月一日、又兵衛と全登は道明寺近くの平野まで兵を進めた。」

●家康の陣
豊臣方の作戦が漏れた。
家康は、作戦を変更した。
秀忠とともに生駒山側から侵攻することを考える。
大和路には伊達政宗を大将とした。

本多正信「後藤又兵衛を調略しましょう。」
と提案する。
僧侶を使いに出した。
「播磨35万石で徳川に召し抱える。」
と調略をかけた・

又兵衛は申し出を拒否した。
本多正信の想定内であった。
「又兵衛が、徳川の使者と会ったことを広めましょう。
 調略に乗ったいう噂を流しましょう。」
と正純に言う。
「又兵衛は噂を消すのに必死になります。あとは戦いで手柄を立てる
しかない。大将が焦れば、陣は乱れる。はい、これにて又兵衛の命運
は尽き申した。」
家康も正信に唖然とした。感服:::::

●大坂城
真田信伊が大坂城にやってきた。
幸村は庫裏(台所)で対面した。
なんと兄」信之もいた。
信之は幸村に「信濃の一国ではどうか。と大御所様が仰せだ。」
と誘う。
が、幸村は拒否した。
信之「お前死ぬつもりだ。しかも、大御所様を道連れに」
と、幸村の狙いを指摘した。
「死んではならぬ。」
「捕まれ、と申されますか?」
「そうじゃ。・・・俺が今度もまた、お前を助けてみせる。
 俺の使命だからだからだ。」
「父はもうおらぬが、また酒を酌み交わす約束を果たすつもりで
 ここにきた。」
と言った。
幸村「ならば、ここで飲みましょう」
と言った。
だが、信之は断わった。
「これは今生の別れではない。」
というと振り返らず、去った。
信尹は去り際に、幸村の頬に手をあて、
「生きたいように生きればいい。」


●家康の陣
家康「ワシは、真田を滅ぼす。」
と上杉景勝に告げる。
上杉「この戦に大義がないから、そのことを知っているからでは
   ないですか」
と指摘する。
家康「あの者は、儂の生きたい人生を生きておる」

●大坂城
幸村は又兵衛に
「気を悪くしないでもらいたい。・・・悪い噂を立てられたからと
 いって、焦るべきではない。戦は、心が乱れた方が負けだ。」
と忠告した。


◆ナレーター
「五月五日、徳川勢は二手に分かれ、河内平野を目指した。
伊達政宗らが率いる35000の軍勢が後藤又兵衛・明石全登
のいる道明寺に進軍した。家康が率いる本隊は木村重成・長宗
我部盛親らが守る八尾・若江方面ねと突き進んでいた。」

●河内平野の又兵衛の陣
又兵衛は平野に陣を敷いた。又兵衛は痛くもない腹を探られて
苛立っていた。
幸村と勝永は心配して様子を見に来た。
幸村「悪い噂を立てられたからといって、捨てばちにならぬ
こと。手柄を焦ることはない。戦は心が乱れた方が負けだ。」
と念を押した。

●平野の夜明け
家康の軍が攻め入る。
夜明けとともに、又兵衛は槍を持って戦闘を開始する。
又兵衛の隊は先制攻撃をしかけ、多勢に立ち向かった。
しかし、後藤又兵衛は伊達政宗の猛反撃によって討ち死にして
しまった。塙団右衛門も討ち死にした。

●誉田の幸村・勝永の陣
明石は傷を負って駆け込んだ。
「又兵衛が討ち死にした。」
勝永「あれほど、功を焦るなというたのに・・・」
幸村は又兵衛の兜をじっと見つめた。

●八尾・若江の木村・長宗我部の陣

木村重成の陣には、予想に反して本軍が攻め入ってくる。

◆ナレーター
木村重成達は、又兵衛の隊の敗走したことを知らない。」

八尾・若江の
迎え撃つ。
その中で木村重成は死亡する。


幸村「どうやら、我らの策が筒抜けのようだ。」
策が漏れていると考えた。
近くで話を常に聞いていた者・・・・
豊臣の策の裏をかいて進軍してくる。
密偵は台所頭の大角与左衛門だった。



◆ナレーター
「伊達政宗が率いる徳川勢が余勢をかって誉田に進軍した。」

▲誉田の戦い
真田・毛利軍は激闘を繰り広げる。
九度山からついてきた久兵衛も死亡してしまった。

幸村は殿を務めた。
「これでしまいか。徳川勢に真の武士はおらんのか?」
伊達政宗はあっぱれと馬で遠ざかる幸村をみた。

●大坂城
幸村は馬上筒を手に取った。
幸村は佐助に伊達の使いを命じた。
幸村は、春や高梨内記らに
「梅と大八を連れて伊達を頼って、城を出よ。」
と命じた。
「あのお方なら、必ずお前達を庇護してくださる。」
幸村は、長男・大助、きりとともに城に残ることにした。
春は、別れを覚悟するも、涙をこらえ
「ご武運を」
と言って立ち去った。


●伊達の陣
佐助が伊達の陣に入った。
伊達政宗は書状を読み、春たちの庇護を快諾した。

●大坂城
幸村・大助・高梨内記・きりが大坂城に残ることになった。
堀田作兵衛は春たちを送り届けてのち、大坂城に戻ることになった
幸村は春を見送った。

幸村はきりに
「私は、翌朝、城を出て家康に決戦いを挑むことにした。」
と告げる。
そして、きりに
「いざとなったら、千姫様をお連れしてここを抜けだし、
 秀忠の陣へ行け。
と頼んだ。
「その後、沼田にでも戻るがいい。」
と言う。
が、きり「いいえ戻ってきます。こうなったらおかみ様とご一緒
  します。最後まで。源次郎様のいない世にいても、つまらないから」
と答えた。
そんなきりを幸村は抱きしめ、口づけした。
きりは「遅い。・・・あの頃の私が一番綺麗だったんですからね。」
幸村に言う。


明日は不明?

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