城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城220『戦国武将と味噌』&『高崎の糀屋:飯嶋一族の歴史&味噌造り』

<<   作成日時 : 2016/11/12 08:12   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

高崎「糀屋主人:飯島藤平氏」から先祖の話をお聞きする機会を得た。
私は『高崎の糀屋の味噌・醤油は武田信玄の信州味噌をベー
スにしながら、井伊直政の三河系井伊谷味噌を踏襲した。その後、
米の糀を開発したのはないか?』と勝手に思った。
@裄V佳雄氏の「糀屋:飯島家が長野業正の箕輪城で味噌・
醤油を扱っていて、江戸時代に群馬で最初にできた企業です。」
という話がきっかけであった。A井伊直政の家臣:戸塚の支流?
:マーちゃんが「糀屋は漬け物を法事にひいたよ。」の一言も
気になっていた。糀屋さんからの法事の引き物のTELもあった。
私にとっては糀屋さんは味噌造り体験も5年やったし、「飯島城
&飯島氏」のブログ掲載したこともあり、興味が非常にあった。
「糀屋主人:22代飯島藤平氏」がブログ掲載を許可してくださっ
た。感謝申しあげます。
画像



【0】「糀屋(こおじや)」創業430年 
問屋町店・本社・・・
高崎市問屋町2-10-4
元紺屋町店・工場・・高崎市元紺屋町13
スズラン店・・・・・高崎市宮元町13-1
※フリーダイヤル 0120-12-5028
画像

画像


@糀の生揚(きあげ)醤油のたまり漬け 米の花
A漬物各種・・・糀たまり漬
B生米椛
C塩椛・しょうゆ椛
D甘酒
E味噌
画像

★田中さんが法事の漬け物をコーディネートして
 くださった。







【2】◆ 飯島一族の歴史と味噌の話 ◆
・平安時代
飯嶋氏は清和天皇を祖とする源経基の弟:源満快の流れ
 を汲む。
源満快4代の孫が源為公である。
源為公は母親が源頼信の娘のため、源義家と従兄弟であった。

※ちなみに、河内源氏は
@源頼信→A源頼義→B源義家→義親→長男:為義
                 &次男:義国
●為義系・・・
長男:源義朝→義平・○・頼朝・○・○・範頼・○・義経
次男:源義賢→木曾義仲→義高
3男:志田義広

●次男:義国系・・・・
長男:新田義重・・・里見義俊・新田義兼・山名義範など
次男・足利義康・・・足利義兼
★当時・・誰が嫡流かは明確になっていない。

・永保3年〜(1083〜1087)後3年の役
源為公・源義家は、清原氏を滅亡させた。

源為公が信濃守に任ぜられて上伊那郡箕輪町上ノ平に居館
 を構えた。

*****************************
箕輪初心:生方▲伊那【上の平城】知久氏→藤沢頼親家臣の城
http://53922401.at.webry.info/201605/article_31.html

******************************
源為公を祖と伊那源氏の第5子の源為基は片切源八と号した。
片切氏が祖で片切、泉、大島、名子、前沢、那須、飯島、岩間
等が分流した。
片切為基の子:為行の3男:為綱が、次郎太夫と称して信州飯島、
岩間の祖となった。
(★「尊卑分脈」)

・寿永年問(1185) 飯島為綱は飯島城(本郷城)を築城した。
 飯島氏は西音寺を開基した。
****************************
箕輪初心:生方▲伊那『西音寺&飯島城遠望』:片切氏分流飯島氏の城
http://53922401.at.webry.info/201606/article_11.html
***************************

・・・・略・・・・・・・・・・・・・・・・・


●味噌の歴史と語源
※味噌の起源は、中国の大豆塩蔵食品の「醤(しょう・ひしお)」
 だと言われている。

・飛鳥時代 
 中国から伝来されたと考えられている。

・ 大宝元年(701) 「大宝律令」

「醤」という文字が日本で初見である。
 「未醤」という文字が書かれている。

・奈良時代〜平安時代
 未だ醤になる前の熟成途中のものが「未醤(みしょう)」と
 名付けられ、「みしょう→みしょ→みそ」と変化したと
 考えられている。
(★マルコメHp・ウィキペディアより)
 味噌は貴族や寺社で珍重された貴重食品であった。
副食や薬として、豆腐同様に食された。
貴族の給料や贈り物として使われた。
・昌泰3年(901) 「三代実録」に「味噌」が表れる。

・鎌倉時代
  中国から僧の影響で、「すり鉢」が使われるように
  なると、粒味噌は水に溶けやすかったため、味噌汁として
  調理され始めた。
  味噌汁の登場によって、
  禅宗の寺で味噌を作られるようになった。
 また、同時に鎌倉武士の質素倹約を重視した食事に取り入れ
 られるようになった。
 そして、武士の「一汁一菜(ご飯、味噌汁、おかず、香の物)」
 の食事習慣の基本が確立された。
1人「1日5合の玄米ご飯に、味噌汁とおかず(魚の干物)
(内陸部では魚に代わり、野菜の煮物)・お新香」という
献立での食生活が現在でも基本にある。
玄米で力の源:カロリー&ビタミンB1を、魚の干物から
カルシウム&タンパク質、味噌汁でタンパク質&適度な
塩分、野菜・お新香でビタミン類を取るという食べ方は理に
かなった食事法であった。

・弘安年間(1278〜)正応年間(〜1292)
  心地覚心が信濃国佐久郡下平尾村に安養寺を
  創建した。  
(★『平尾村誌』・佐久市Hp)


・南北朝時代
・貞治年間(1365〜) 法灯円明国師(天皇から認められた
  最高位):無本覚心が中国で修行した。
  中国から禅・味噌・普化宗の尺八などを日本に持ち帰った。
  無本覚心は信濃の母の実家に帰った。
  安養寺を中興開山し、現在の地に移した。
  安養寺で金山寺味噌から信州味噌を考案した。
  佐久の安養寺は「信州味噌発祥の地」と言われている。
  やがて、金山寺味噌から日本の醤油が作られるように
  なった。
  安養寺は大井氏累代の尊崇が暑かった。
大井一族も味噌造りを行っていた。

  ※現長野県佐久市安原1687   0267-67-4398

 
後、・・・・・
 ★平尾城(平尾富士・佐久パラダスキー場)・・・依田氏
 ★大井城・内山城・・・・・・・・・・・・・・・・・大井氏
 ★閼伽流(あかる)山城・・・・・・・・滋野系香坂氏
 ★志賀城・笠原城・・・・・・・・・・・・・・・・・笠原氏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ★平賀城・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大井系平賀氏
 ★田口城・・・・・・・・・・・・依田系田口氏・相木氏
 ★前山城・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・伴野氏
 ★望月城・・・・・・・・・・・・・・・・・滋野系望月氏
 ★芦田城・・・・・・・・・・滋野系芦田氏→依田氏
※城については「箕輪初心 ??城」で検索してください。
  
  有力武将兼有力農民の大豆の生産が増えた。
  そして、自家製の味噌を作るようになった。
  戦さ用の味噌が保存食として利用されたからであろう。


(足利持氏の末子:永寿王丸は、乳母の兄が安養寺の住僧
であった縁で大井持光に匿われ、結城合戦後、元服して
足利成氏となった。古河公方:足利成氏鎌倉に入り、
安楽寺に3500石余の寺領を授けた。
  現在も安養寺味噌が作られている。)

   


 「南北朝時代、飯島家は越中〜越後〜信濃系の味噌・醤油
  づくりをしていたらしい。何故、関西系の味噌でないか
 疑問である。」
 と述べる。
 (★現当主:飯嶋藤平氏)
★箕輪初心:生方私説

1)誰から?
 南北朝時代、飯島家は味噌造りを始めたとするならば、
 佐久の安養寺・依田氏・大井氏・伴野氏・香坂氏の誰かから
 伝授された可能性が高い。
 越後には味噌のような形で大豆を加工した保存食があった
 が、飯嶋氏は越後には行っていないと思われる。

2)いつに?
 飯嶋家はいつ味噌造りを獲得したのであろうか?
資料がないので、なんとも言えないが、・・・・
@南朝:宗長親王と伊那郡の武将が争った時
 A大塔合戦の時



**************************
箕輪初心:生方▲大草城&大河原城*宗良親王&香坂高宗
http://53922401.at.webry.info/201606/article_12.html
?????????????????????????? 
 香坂氏は滋野氏の庶流で佐久郡香坂郷発祥としている。


・興国4年康永2年(1343)宗良親王は信濃に逃れた。
 ★更科の牧島城主:香坂心覚(滋野一族)を頼ったかもしれない。
香坂心覚が挙兵したが、北朝方の小笠原氏や村上氏らの攻撃に
  あい敗北した。
 香坂氏の一部が伊那谷:大河原に移ってきた(伝)。

 @香坂高宗は更科の牧島城主:香坂心覚の子である
  と言う説もある。
A香坂高宗は香坂心覚の甥説もある。
 

・興国5年康永3年(1344)
伊那郡の豪族:香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれて、
 大河原(現長野県大鹿村)に入った。大河原城を築いた。
  香坂高宗は大河原に入った後醍醐天皇の第8子?宗良
 (むねよし)親王を庇護した。
@南朝方・・・
 諏訪の諏訪氏、
 佐久・小県の滋野一族(滋野氏、海野氏、弥津氏、望月氏)、
 伊那の香坂氏(滋野一族)、中沢氏、藤沢氏、
 松本の仁科氏、
 更科の香坂氏(滋野一族)、川中島栗田氏(善光寺系)など。
A北朝方・・・
 府中小笠原氏
 伊那小笠原氏系・・飯島氏、片切氏、大島氏、名子氏、松岡氏、
 坂西氏などであった。

以後、宗良親王は大河原を拠点として南朝勢力拡大にするよう
 になる。
 香坂氏の庶流によって大草城が築かれた(伝)。
 大草氏を称して大草城主となったとみられている

 宗良親王は文中2年(1373)までの約30年間拠点とした。
 「信濃宮」と呼ばれた。


・応永6年(1399) 
 伴野荘小笠原長清系伴野・岩村田小笠原系大井がいた。
佐久では佐久岩村田の小笠原長清系一族大井氏が強力
 な勢力であった。
 
 小笠原宗長・貞長は、元は平安時代の小笠原長清系で一緒であ
 ったが、鎌倉時代、京都に行った小笠原長経系阿波守護職
 をしていた吏僚一族となる。その拠点を伊那松尾館から府中
 松本井川館に移し、府中松本を中心に勢力を展開してした。

 5月10日、京都小笠原宗長・貞宗父子が前将軍足利義満から
 「信濃国春近領下地の事一円宛行うところなり」と御教書を得て、
 春近領全域を領土とした。
 
 大塔合戦直前の小笠原長秀の所領は
 伊那郡には、 伊賀良庄・福地・片切・田島・飯嶋・
  春近領の小井弖・二吉・赤須・名子の緒郷
  ・塩尻・小池・島立・新村南方の緒郷
などを持った。
飯嶋家も入っている。



・応永7年(1400) 大塔合戦(おおとうがっせん)
善光寺平南部:更級郡篠の井で争った。
信濃守護:小笠原長秀
 (★伊那の飯嶋家も含まれている) 
   VS
村上・井上・高梨・島津(長沼城)仁科などの国人衆
そして、滋野系の海野&根津など一族

滋野系の根津遠光を盟主とした「大文字一揆」のメンバー
大将は小県郡の大塔城:根津遠光であった。
一族の桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾の諸氏が従った。
「実田」、「横尾」、「曲尾」の名前が登場。
根津=祢津(ねつ)は東御市の祢津。群馬では「ねづ」。
  大塔城=祢津下城&祢津上城の可能性が大きい。
桜井・別府・小田中は東御市旧東部町に地名が残っている。
実田(真田)・横尾・曲尾は上田市真田町の地名として残っている。
横尾・・・尾引城=横尾城&打越城=内小屋城付近
曲尾・・・根小屋城付近
●大文字一揆衆の中に・・・・第9代:香坂宗継がいる。

結果・・小笠原長秀が大敗。
信濃国は中小の有力国人領主が割拠する時代が続くことになった。
  (★大塔合戦記)
実田(=真田)氏の名の最初。
★大塔物語:文政元年(1818)の作成・信憑性は不明。


箕輪初心:生方▲真田丸40【真田根小屋城】:真田氏の支城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_20.html

****************************


・室町時代
  裕福な農民の間での味噌の自家醸造が広まった。
味噌が一般農民にも浸透し、味噌料理が作られ始めた。


・応仁元年(1467)〜応仁の乱
  味噌の原料は主に米糠であったが、次第に大豆が原料に
  なっていった。
 戦に明け暮れた時代には、武将にとってカロリー源「米」
  と栄養源「味噌」・「芋がら縄」は必需品であった。
 戦国武将にとって「味噌作り」は大事な経済政策の1つとして見
 られるようになった。
 戦闘に大きく関わってくるため、「味噌」は兵糧(陣中食)と
 して重宝され兵士の貴重な栄養源になっていたのだ。
 朴葉味噌も伝わっている。
 小荷駄隊は「米」を運ぶだけではなかった。
 発酵食品「味噌」の運搬には心配った。
 従って、「味噌」の醸造法が工夫され、発達した。
戦国武将たちは戦場での食料に必ず味噌を持った。
 味噌は調味料であるとともに、貴重なタンパク源であった。
 保存できる栄養食であった。
 干したり焼いたりして携帯しやすくかった。


・永正17年(1520) 飯嶋氏支流は里見氏の家臣として
安房に行っている。
(★高崎「糀屋22代飯島藤平氏の話」)
長野憲業の娘が里見義尭に嫁いでいる。
後、生まれた里見義樹は長野業正の養子になっている。
(安中石井泰太郎系図・里見繁美教授・黒田基樹先生)


●@武田信玄は「信州味噌」の生産を命令した。
  武田信玄が信州味噌の基盤を作った。

戦争に寄って、衣(甲冑)&食(味噌)住(城)&
武器が大幅に進歩する。
特に「大井家・伴野家・飯島家は味噌生産のノウハウを
  持っていたので、優遇されたのであろう。」 
   

・天文14年(1545)
4月11日 武田晴信は杖突峠から高遠に入った。
4月17日 高遠頼継は戦わず、高遠城から逃亡した。
   (★『伊那箕輪町史』)
   高遠城も落城し、高遠頼継は武田晴信に降伏した。
   高遠頼継は甲府へ出仕した。
      (『高白斎記』)

4月20日 正午には箕輪(箕輪町)に侵攻した。
    藤沢頼親の福与城(箕輪城と呼ぶ説もある。)
    を攻めた。

※藤沢頼親の箕輪城説もある。
★従って、『箕輪町史』も福与城か箕輪城か不明である。

 藤沢頼親に同心した伊那の春近衆など諸豪族が
 籠城していた。

@府中小笠原長時(藤沢頼親の妻の兄)が辰野竜ケ崎城に
A松尾小笠原信定(小笠原長時の弟)が伊那に入った。
「小笠原舎弟小笠原信定、下伊那衆・中伊那衆を将(い)て、
  鋳鍋(伊那部★春日城)に本陣を取り、右後詰として、
 長時公(兄)の一左右(いっそう=一報)、相待たれ候也。
 此旗本には下条・赤須・宮田・片桐・飯島・知久・座光寺
 ・保科弾正・溝口・平瀬・大島、此外小身衆、合わせて
  二千余人の人数なり。」
(★『小平物語』:信州の山城)

 膠着状態が続いた。

6月11日 藤沢頼親は弟:藤沢権次郎を人質に出して、
      降伏した。

 藤沢頼親は起請文を提出し、穴山信友の傘下になった。

(★『箕輪町史』)

  府中:小笠原長時:松岡城:小笠原信定も箕輪城の開城により
  一戦も交えず兵を引き揚げた。
飯嶋氏も従った。

6月?日 高遠城は武田晴信により改修され、信濃支配における
   拠点となる。

・天文19年(1550) 武田信玄は佐久安養寺に寺領526石を
  寄進し堂宇の修復した。
★ 味噌が欲しかったのであろう。

・天文21年(1552)武田晴信は村上義清が籠もる塩田城を落とし、
   村上義清を北信から追い払った。

・天文23年(1554) 武田信玄の南伊那侵攻
 武田信玄が伊那に侵攻した際、小笠原氏とともに抵抗した。
 
武田信玄が南伊那に侵攻し、軍門に降りた。
大田切城→赤穂城→飯島城→赤須城→大草城→船山城
 →上穂城→大島城・・・・・
 武田信玄の伊那進攻で片切諸氏と飯島氏が武田氏に起請文を
 差入れ武田方に降りた。
片桐氏・赤須氏・飯島氏・大島氏・上穂氏は降伏した。
 5氏は武田晴信に臣従し五十騎の兵役を担った。
飯島氏は十騎であった。

 →山吹城→松岡城→座光寺城・・・
 松岡城(高森町)の松岡氏は抵抗することなく武田の軍門に
 降った。松岡氏は自身の所領を維持することができた。
 武田氏の配下で松岡氏は50騎(200人)ほどの軍役を
 課されていた。


8月  武田晴信は小笠原の制圧にかかった。
鈴岡城主:小笠原信定は林城→平瀬城→中塔城と武田晴信
に追われた兄:府中小笠原長時と武田晴信に抵抗した。
鈴岡城・松尾城は攻撃された。

武田晴信の信濃先方衆の松尾小笠原信貴・小笠原信嶺父子は
 松尾城の攻撃に参加した。
松尾小笠原信貴(信貞)・小笠原信嶺父子は松尾城を回復した。
鈴岡城は松尾城の支配下に置かれることになった。


 下条氏の飯田黒姫城→知久氏の神之峰城を陥落させた。

 武田晴信は南信濃と美濃の国境である伊那郡を制圧した。

 ★高遠城・春日城・殿島城・飯島城などが改修されたので
 あろう。

★ 武田信玄は村上義清と戦う時、小笠原長時と戦う時、
 伊那の家臣団に「米」を供出させた。
 飯島家は米のほか、味噌も提供したと思われる。
武田軍の移動に伴って、味噌醸造に関する知識やノウハウは
 さらに高まったと思われる。
 つまり、「飯島家も信州味噌の原点は大きく関わっていた。」
 と考えられる。

・弘治3年(1557) 長野業正が長純寺を原山に再建した。

・永禄3年(1560) 長尾景虎の第1次関東出兵。
(越後も関東だけど・・・)

・永禄4年(1561) 第4次川中島の合戦
  
 ※武田信玄と上杉謙信は上野国をめぐって国盗り合戦を
 し始めた。

・永禄5年(1567) 和田業繁は武田信玄に臣従した。
  和田信業7歳(跡部勝資の子)は和田業繁の婿養子
  となった。

◆永禄6年(1563) 飯島勘解由介は上野国木部城(高崎市)に
  在番衆として、木部範虎の家臣団に編入された。
(★『武田氏家臣団人名辞典』)

永禄6年(1563)「飯嶋喜太夫」という人が和田宿(現高崎市)
  に居を構え、「初代糀屋を名乗った。」という記録が残ってい
  ます。

 (★高崎新聞)

★和田城は上杉謙信方の倉賀野城・箕輪城を攻める
 前線基地だったので、武田信玄は和田の地に和田業繁
 ・和田信業(跡部勝資長男)の配下として、飯嶋
 しに「味噌づくり」命じたの当然である。
 この時代の和田宿は馬上宿・金井宿であった。

 
・永禄7年(1564) 馬場美濃守信房は武田信玄より
  和田城の大修理を命じられた。

 3月20日 飯島小太郎は上杉謙信の倉賀野城からの
   物見を捕縛した。
(★『和田業繁・金丸忠経の連署の書状』)
  ★飯嶋氏は上杉謙信方の倉賀野城を攻略のきっかけを
   つくった。




●B上杉謙信************************
・永禄7年(1564) 山王堂(新潟県長岡)の戦い
上杉謙信が上総の野田で味噌作りの技術を兵に習得させ、
 本拠地の越後国に広まった。
 越後味噌の始まりである。 
臨済宗の関興庵(現関興寺)は、曹洞宗の雲洞庵と並び評
された「2大禅道場」であった。
 雲洞庵と関興庵、どちらで修行したのかを修行僧同士で
 争った。
 「雲洞の土ふんだか?関興の味噌なめたか?」
  という言葉が生まれた(伝)。
 禅寺の修行僧は、味噌を修行の一環として作るようになった。
2つの寺で、上杉景勝・直江兼続が幼少時を学んだ。
 味噌も食べたであろう。
 ★関係ないけど、偶然の産物「 関興寺 総門」
 長野業正の第2家老:下田大膳亮は現箕郷支所のところに
 住んでいた。
 下田家子孫が安房勝山藩:酒井家の飛び地(高崎市箕郷町白川)の
 代官となった。
 新発田藩→赤穂浪士の「中山安兵衛」に庭園を設計して
 貰った。
 江戸中期(200年以上前)下田家の惣門が建設された。
 戦後、下田家の1人が総門の2階にも住んでいた。
 ・????年 総門が伊香保の道の駅に300万円?で売られた。 
 ・平成21年(2009) 関興寺に総門が移築された。


*************************** 


・永禄8年(1565)倉賀野尚行(直行)は上杉謙信の許に逃げた。
倉賀野16騎筆頭:金井淡路守秀景が倉賀野姓を名乗った。
      

・永禄9年(1566)
5月    武田信玄は鷹留城を攻略した。
9月29日 武田信玄は箕輪城を攻略した。
箕輪城主の長野氏業(業盛)は自刃した。

飯島大和守為方・為政は箕輪城の城番になった可能性が
 高い。大井家&大井系堀内氏・伴野家・飯嶋家は
 「味噌造り」をしたのであろう。
 




◆永禄10年(1567) 8月17日 生島足島神社の起請文
  飯島大和守為方は浅利信種(武田晴信)に起請文を提出した。
  飯島為政・片切為房・伴野三衛門と連名の起請文を差し
  出した。
  ★飯嶋氏・片切氏・伴野氏は仲良しだったのか?
「味噌造り仲間だった可能性がある。」
  私の母方先祖:塚越伴七(半七)浅利信種経由で起請文
  を提出した。


・元亀2年(1571) 武田信玄は秋山信友に大島城の改修を命じて
 いる。
 秋山信友が伊那郡代となるとともに、伊那の武将は
  配下の侍大将として属していた。
飯嶋家支流も当然入っている。

・元亀元年(1570) 金井淡路守秀景は倉賀野城主となり、武田信玄の
  命により姓を倉賀野に改めた。

★倉賀野淡路守秀景はこの段階で、倉賀野16騎の総帥になり、
  町人兼武田信玄の家臣として、倉賀野の陸交通・水運を
  支配した。


・天正3年(1575)長篠の戦い
   織田信長、徳川家康に武田勝頼が敗れた。
  飯島氏・片桐氏・赤須氏はとともに戦った。

 内藤昌豊が戦死→保科昌月は内藤家に養子入りして家督を継承
 した。
 武田勝頼の考えで上野箕輪城代は空席だった。


箕輪初心:生方▲【武田氏の箕輪城領国支配C不在時代、D内藤昌月〜
E北条家臣:内藤昌明】
http://53922401.at.webry.info/201607/article_4.html

・天正5年(1577)
●2月9日 内藤昌明書状(瀬下家文書)
「如承知、箕輪城之儀、被仰付候、若輩之事候之条、遠慮数多候間、
  種々雖御訴申候、頻而被仰付候条、無拠御請申、 来十一出府、
 14日吉日之由候、如何様其刻以面談余可申候、  恐々謹言
  2月9日       内藤昌明 
   瀬隼様     」
 (★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』:栗原修著)
※年次欠のため
@永録10年説・・・群馬県史
A天正4年説・・・・箕郷町誌:近藤義雄先生

◆内藤昌明の目付として「武川衆」柳沢弥右衛門が武田信玄の命で
箕輪城に付いてきた。内藤家も「武川衆」である。柳沢弥右衛門家の
家紋は花菱で武田信玄の家紋と同じである。旧群馬町のK地区に住
んだ。
  (★佐久:柳沢真也氏所蔵系図)
★保渡田に住む僕んちの母方先祖:塚越伴七(半七)・土屋文明
 先祖:土屋昌続の弟:昌恒、大熊さんちの先祖(大藪城):大熊
 備前守も家臣になっている。
旧佐久の伴野助十郎一族や内山大井貞清一族、岩尾大井高政・満安
・祢津松よう軒、瀬下一族(出自は富岡瀬下)も有力在番衆であった。

飯嶋家は箕輪城の味噌・醤油を内藤家・裄V家などに
 供給していたと考えられる。



・天正8年(1580)
●1月内藤昌明は大和守を官途とした。

・2月23日 北条氏政→北条氏邦宛て書状
 「此分に候者、当方終ニハ可向滅亡候哉、上州勝頼之物
     ニ罷成候共、慥氏政へ随身之様ニ者有間敷候、」
  (★『木村孫平氏所蔵文書』)
「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は武田
勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」
と嘆いている。
 (★群馬県史)

武田勝頼の上野支配は、跡部勝資・内藤昌月・土屋昌恒が奉行
となって進められ、上毛については真田昌幸が担当した。
(★『群馬県史 通史編3 』)
 (★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』栗原修著)

★和田信業は跡部勝資の長男(和田城)
★内藤昌月は保科正直の兄(箕輪城)
★土屋昌恒は土屋昌続の弟(保渡田城?)
★倉賀野家吉は跡部勝資の一族(倉賀野城)
 武田氏の重臣:跡部大炊亮勝資の一族出身である跡部家吉が
 倉賀野秀景の養子になり、倉賀野家吉と改姓した可能性が高い。
 現在、「跡部淡路守家吉」の関係文書は4点確認されている。
(★新編高崎市史資料編)
★裄V諸左衛門の妻は金井(倉賀野)秀景の娘である。



・天正10年(1582) 
1月 木曾義昌は織田に臣従した。
   
2月 織田信長の伊那進攻
  織田信忠の大軍が知久氏の神之峰城→下条氏の飯田長姫城
   を攻めた。
  ★木曾義仲が織田方に入ってるので、挟み撃ちはできなかった。
   
  保科正直は飯田城から大島城に撤退した。・・・
 
  下条頼安は織田に臣従した。
 ◆城主:飯島民部少輔為次(重家)&飯島小太郎父子は大島城
  に入った。
 しかし、大島城主:武田信廉は甲斐に逃れた。
 
 ◆飯島民部少輔為次、飯島小太郎は保科正直らと仁科五郎盛信
  が守る高遠城に入った。 
 
 織田信忠軍が大島城は落城させた。

 ◆飯嶋氏同族:船山城の片切氏・赤須城の赤須氏は滅亡した。

◆2月16日 織田信忠に飯嶋氏の飯島城は攻撃され、落城
  した。
  (★「信長公記」)

  伊那谷の武田氏配下の諸城とともに落城していった。
     
  織田信忠の大軍が飯嶋氏の居城だった飯島城(飯島町)
   に入った。
 
2月??日 織田信忠軍は飯嶋氏の居城だった飯島城を出発し
  た。
  →春日城(伊那市)・殿島城(伊那市)
  →高遠城と向かったのであろう。

3月1日 織田信忠の高遠攻め
 
3月2日 高遠城主:仁科盛信は戦死した。
飯島民部少輔為次、飯島小太郎も討ち死にした。
長子:飯島伝兵衛晴吉と家臣の一部は落ちのびた。
(★平山優氏、確証はない。)


3月11日 甲斐武田氏が滅亡。

3月24日以降? 滝川一益は箕輪城に入城した。
(★紀氏滝川系図:群馬県史)
「内藤昌明が箕輪城明け渡し」
 (★佐久:柳沢真也氏所蔵系図)


6月2日 織田信長が本能寺の変で亡くなった。


**************************
●織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が三河の「豆味噌」
  処に生まれた。
●A織田信長は「豆味噌」の生産を勧めた。
●B豊臣秀吉は戦いの山中では「豆味噌」+味噌汁に
  「ヤブレガサ」=俗称「とうきちろう」や「ウワバミソウ」
   などを具にした。
木下藤吉郎の最初の主人は3年間、現浜松の「松下嘉兵衛」
であった。
井伊直政の母は松下源太郎と再婚した。
井伊直政は・・・井伊直虎の養子になった。
松下源太郎は養父として箕輪城に入った。
箕輪竜門寺に墓がある。竜門寺の家紋も「橘」がある。

*****************************   
 
徳川家康は三河国と隣接する伊那を勢力下においた。

7月6日付 起請文 
 下条頼安から徳川家康への取次へ
 ◆飯島傑そう・飯島為吉・飯島為長・飯島為若・・・・
 片切・大島・・・
(★『武田氏家臣団人名辞典』平山優文責) 
山県昌景衆の飯島氏支族では飯島作右衛門大尉、
 原隼人正衆の飯島作三郎、飯島伝三郎、飯島宮内大輔らは
  徳川家康に臣従した。
*飯島右馬助、飯島弥兵衛らは小笠原貞慶の家臣となった。
(★『武田氏家臣団人名辞典』平山優文責) 



・天正13年(1585) 第1次上田合戦
 ◆飯島伝兵衛晴吉の子?:辰千代が戦死した。
(★『武田氏家臣団人名辞典』平山優文責) 
 


・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
 7月5日 小田原開城
 8月 井伊直政が箕輪城主になった。

*************************
●井伊直虎や井伊直政も井伊谷(現浜松氏)の「豆味噌」
を食したのであろう。
 ◆ところが、井伊直政が入った箕輪城には、武田時代・北条時代に
 味噌・醤油担当の飯島本家がいた。



・慶長3年(1598) 井伊直政が高崎城を造らせた。
 ◆飯島家本家は紺屋町に味噌・醤油を造る工場&店の
出した。

 ★当時の高崎の人口2万人?
  ・・・多くの家臣が飯嶋家の味噌を食したであろう。
 

 元紺屋町の自宅で商売を営み、箕輪城に参じていました。
(★高崎新聞)
 ★井伊直政は職人を箕輪紺屋町から高崎の紺屋町の移した。
実際には井伊直政は1年6ヶ月高崎にはいないが、・・・


・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
8月下旬 徳川家忠は高崎城に入り&城内8つの寺・5つの神社などに
 3万人の軍勢が烏川の増水で3日間、高崎にいた。
 ★@長野堰からの水、A井伊直政家臣からの米、
◆B飯島家の味噌・醤油が役に立ったのであろう。

◆ 「飯嶋藤兵衛右門」と名を変えた。
(★22代当主:飯嶋藤平氏の説明)


・慶長6年(1601)
@飯島伝兵衛晴吉の子:辰千代は、徳川家康に召されて
  井伊直政の幕下に属せられた説がある。

A飯島半右衛門は家老として、箕輪城・高崎城・
 佐和山城・彦根城に行った説。
 
B飯島半右衛門は保科正直の配下になった説

C飯島家本流は大坂冬の陣後、帰農した。
(★『武田氏家臣団人名辞典』平山優文責) 


・江戸時代
*****************************
●E徳川家康は「豆味噌」を使用していた。
 岡崎が豆味噌(赤だし)・八丁味噌が作られた。
 八丁村は岡崎城より西へ八町(約800m)離れていた。
 岡崎市矢作で収穫される矢作大豆と、知多の成岩(ならわ
 :半田市)や饗庭(あえば:吉良町)で作られた塩を用い
 て、八丁村で作られていたことから、八丁味噌と呼ばれた。
 徳川家康は、「五菜三根の味噌汁」を食べたといわれている。
 大根葉を含めた野菜の葉が5種類、大根・ごぼう・人参など
 の根が3種入った味噌汁であった。
 徳川家康は平均寿命が37〜8歳の時代に75歳の長寿だった。
 徳川家康は「五菜三根の味噌汁」と麦飯で健康を心がけた。
 徳川家康の家訓を守って、2代以降の将軍も食膳には
 「味噌汁」を飲んだ。

●F伊達政宗は「仙台味噌」を奨励した。




◆慶長19年(1614)
飯島家本流は大坂冬の陣後、帰農した。
(★『武田氏家臣団人名辞典』平山優文責) 
 しかし、帰農したのではなかった。
 飯島家本流:飯島藤兵衛右門が井伊直孝の家老職を辞退して、
彦根から高崎に戻った。
味噌・醤油店を高崎の紺屋町で商った。
大信寺&法華寺の間・・・・
「糀屋」は、井伊直政の高崎城下に最初につくられた中山道
の通り沿いにあった。
(酒井家次の時、中山道が現在のバス通りになった。)
★群馬初の店=企業になった。
初代は「飯嶋喜太夫」という。


「糀屋では創業当初、味噌づくりに必要な種糀を旅籠や農家に
  売っていました。」
  (★糀屋の22代目当主・飯嶋藤平氏)
  その後が「藤兵衛」8代前から「藤平」を名乗ってきた。
   当主が亡くなると、次の当主は戸籍の名を「藤平」に
   変えて跡を継いた。
 
 江戸の人口が50万人→やがて100万人になった。
 江戸の都市問題で「味噌」と「糞」が重要課題となった。
 @味噌の需要に対する生産量が不足すると、味噌が工業生産
 されるようになった。
 三河の赤味噌や仙台味噌が江戸に送られ味噌屋は大繁盛して
 いった。 
  味噌汁・味噌料理が庶民の味となっていった。
  味噌だけはどんな状況下でも変わらずに食べ続けられた。
徳川吉宗が飢饉にも対応するため、青木昆陽に甘藷(さつまいも)
 の研究・普及を命じたが、味噌も重要な栄養源であった。
 江戸時代のことわざに
 「医者に金を払うよりも、味噌屋に払え」
というのが知られている。健康食品であったのだ。
 江戸は女性の数に比べて男性が多かったので、外食の習慣が
 でき、料亭・蕎麦など飲食店が多かった。
 味噌を使った料理が発達していった。
松尾芭蕉は深川の相撲部屋の近くに住んでいた。
  「なっと切る音しばしまて鉢たたき」
  江戸っ子は納豆汁が好まれた。
  納豆を細かくたたいて、豆腐と青菜を入れた料理であった。


飯島家も御徒町に味噌屋を出店していた。

A「糞」は松戸方面や世田谷方面に運ばれ、肥料となった。
  ディズニーランド付近た浅草のりの地域に捨てられること
あった。また、江戸城の糞は浦賀沖まで運ばれた。
車弾左衛門などが仕切った。

天明年間(1781〜1789) 糀屋に「火伏稲荷」と呼ばれる祠が
作られた(伝)。・・・約330年前
 高さ145cm、幅75cm、奥行き89cmの祠である。
当時の当主が宮大工を出雲に派遣し、本物の社を造るのと
 同等の技術を学ばせるなどして半世紀をかけて仕上げた(伝)。
(★飯嶋藤平氏:高崎新聞)



◆明治時代 「飯島家本家」は「飯島藤平」を名乗っていた。
明治初頭、高崎の人口を賄える量の味噌を生産
 糀屋の蔵には、6尺樽という6tもの味噌ができる樽が10樽
 あり、6カ月で一回転し、1年で20樽・120トンの味噌を製
 造しました。明治初頭の高崎の人口は約1万人。一人が年間
 8〜10kg消費すると考えると、単純に高崎の人口が食す
 る味噌を一軒で賄える量といえます。
 6尺樽は、以前は木の樽でしたが、樽を締める箍(竹製の輪)
 を作る職人がいなくなり、今では繊維強化プラスチック(FRP)
 製に代わりました。
(★高崎新聞より引用)

明治12年の群馬郡高崎驛元紺屋町の戸籍帳には、“糀渡世”の
他に“太物渡世”として商売を営む親族の存在が示されています。
また、江戸時代から終戦頃まで、東京の御徒町に販売所兼旅館を
持ち、上州の人たちが商売で上京した時などに利用されました。
  (★高崎新聞より引用)


昭和30年代に入ると、「食品のデパート」と看板を掲げ小売業
 にも熱心に取り組みました。
 その後、食品の卸売や、埼玉・栃木・長野など周辺地域を含ん
 だ県内のスーパー等40店舗にテナントを出店するなど多店舗
  化も進めました。
(★高崎新聞より引用)


・明治時代〜大正時代〜昭和時代
・年間に平均1人1斗のみそを食べていた。
 味噌の醸造だけはそれぞれの家で、
 「1人に1斗×人数分&お客様用1斗」を年間の仕込みの目安に
 して造っていた。
 私の家ももちろん作っていた。
 平成時代になっていても・・・・
・そして、醤油は昭和40年頃まで、村の行事として、大豆を
 出し合って、作っていた。



現在
◆ 「糀屋」現22代当主:飯嶋藤平氏の祖母は、飯嶋家の直系だっ
 たにもかかわらず、東京の親戚に預けられ、婿となる祖父が早く
 から養子として飯嶋家に入るなど、飯嶋家では男子が跡を取る
 ことを重視し、家業の存続を第一としてきました。
(★現22代当主:飯嶋藤平氏:高崎新聞)

味噌の生産量の多い長野県、愛知県、宮城県、新潟県などは、
 武田、織田、豊臣、徳川・伊達・上杉など有力な武将の本拠地であ
 ったことに由来していることが分かった。



◆味噌関係の参考資料
・漫画『みそのひみつ』:学研
・小学校家庭科副読本『おみそ』
・『味噌・醤油・酒の来た道 』陳舜臣・佐々木史郎,共著
・糀屋の味噌造り体験5年
・小学校総合学習など


◆味噌関係のHp
 佐久の安養寺
味噌の歴史など



明日は?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲箕輪城220『戦国武将と味噌』&『高崎の糀屋:飯嶋一族の歴史&味噌造り』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる