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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城219【2016山本隆志先生『堯恵&浜川木部氏』・『宗長&浜川長野氏』

<<   作成日時 : 2016/11/10 12:08   >>

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平成28年(2016)11月5日、中嶋講二氏が山本隆志先生を紹介
してくださった。山本隆志先生は榛東生まれで、高校の先輩だ。
筑波大学名誉教授:山本隆志先生の特徴は
@国府を総社と考えていること。
A板鼻→浜川→総社が交通の要所であったこと。
B堯恵の『北国紀行』から浜川にも「木部館」があったこと。
C宗長の『東路の津登』から浜川に「松田加賀守館」があったこと。
(松田氏系譜は不詳)。そして、「長野氏の館」があったこと。
つまり、浜川に木部氏・松田氏・長野氏がいたとしている。
D国人衆:国衆(黒田氏)は文化人・教養人である。

★私は「松田館を浜川の一番大きな200m×130mの山崎説
の「長野隆業館→浜川殿」を比定していた。
山本先生は通説の「長野氏は浜川にいた。」を採用している。
しかし、久保田順一先生の鎌倉時代〜室町時代の「長野郷広
域圏説(高崎浜川・並榎・箕輪・榛名箕輪本郷・榛名山・(「榛東
村は入っていない)」ことを考慮しなければならなくなった。
山本先生、掲載の許可、ありがとうございました。
画像



箕輪初心:生方★2015高崎『山名義範』に関わる疑問点&
久保田順一先生・山本隆志先生の研究
http://53922401.at.webry.info/201510/article_21.html

箕輪初心●群馬:高崎「山名義範館」=子孫は山名宗全
http://53922401.at.webry.info/201102/article_31.html

箕輪初心★「上野国:山名義範〜応仁の乱:山名宗全」
http://53922401.at.webry.info/201309/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_26.html

箕輪初心●兵庫『出石:有子山城』=山名一族の古城
http://53922401.at.webry.info/201304/article_20.html

箕輪初心:生方▲20151107久保田順一先生講演会
『上杉憲顕と南北朝の動乱』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_8.html

箕輪初心:生方★20151017山本隆志先生講演会
『山名義範の子孫:山名時氏』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_9.html

箕輪初心:生方★『山名宗全の祖父:山名時義→父:時熙』
&足利義満の陰謀
http://53922401.at.webry.info/201511/article_13.html


箕輪初心:生方▲『山名宗全の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_14.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201511/article_14.html
 ★山本隆志先生の本をベースに


箕輪初心:生方★2015年高崎「山名の歴史&木部一族」
http://53922401.at.webry.info/201509/article_30.html

箕輪初心:生方▲2015高崎【旧倉渕村の歴史散策】
http://53922401.at.webry.info/201509/article_25.html


【1】 榛名山麓の武士団の広がり
相馬山=黒髪山がそびえ立つ南西〜南〜南東の山麓に武士団が
生まれた。鎌倉時代、群馬郡では国衙役人が長野氏・足利氏系
の渋川氏・桃井氏、新田氏系の里見氏などが成長した。鎌倉幕府
→室町幕府に公的権益を認められ、勢力を拡大した。戦国時代、
大きな城を構えた長野氏が出現し、周辺武士を家臣に編成する
動きが進んだ。



【2】 15Cの板鼻〜浜川〜総社の地域社会
1)15C 長野郷は浜川は政治・文化の中心地であった。
●山本隆志先生説・・・
 長野郷は国府(総社城)に近く、守護上杉氏の
家臣・縁者が屋敷を構えていた。
 @長尾氏・・・上杉氏家宰。総社城に屋形である。
        山本隆志先生は国府を総社と考えている。 
A長野氏・・・国衙在庁の系譜、浜川に屋形を構えた。
          上杉氏臣下。
B木部氏・・・本拠は木部(高崎市木部)。
       浜川にも屋形を構えていた。上杉氏臣下
(山本隆志先生説)
C松田氏・・・系譜は未詳(京都松田氏?)。上杉氏臣下。       
  D上杉氏・・・板鼻に守護所があった。海龍寺があった。
   E依田氏・・・板鼻に館があった。
  
 ●山本隆志先生説
  長野浜川では9月末日に毎年「連歌会」が開かれた。
  堯恵・宗長などの歌人・連歌師が訪れた。




【3】 堯恵『北国紀行』&木部氏***********
 ・文明18年(1486)
重陽の日、上州白井といふ所に移りぬ。則藤戸部定昌
(上杉定昌)、旅思い愛隣を施さる。十三夜の一続侍し
に月に寄る神祇、
「越ぬべき 千年の坂の 東なる 守る神月 やめづらん」
これより桟路を云ひて草津の温泉に二七日(ふたなのか14日)
侍て、詞も続かぬ愚作などし、鎮守明神に奉幣し、また山中
を経て伊香保の出湯に移りぬ。雲を踏むかと覚ゆる所より、
浅間の嶽雪をいただき、白く積り初て、それより下は霞の薄く
匂へるごとし。
「なかばより 仁へる上の 初雪を 浅間の嶽の 麓にて見る」
一七日伊香保に侍ろ(り)し、出湯の上なる千嶽の道をはるば
るよぢ登りて、大なる原あり(榛名沼ノ原)
其一方に聳たる高峰あり。ぬの嶽(榛名富士)といふ。麓に
流水あり。これを伊香保の沼(榛名湖)といへり。いかにして
と侍る往躅を尋ねて分登るに、
「から衣 かくる伊香保の 沼水に 今日は玉ぬく あやめぞひく」
と侍り、京極黄門(藤原定家)の風姿まことに妙なり。
枯たるあやめの根、霜を帯たるに、まじれる杜若(カキツバタ)
の茎などまで、昔むつましく覚えて
「種しあらば 伊香保の沼の杜若 かけし衣の ゆかりともなれ」
神無月廿日あまりに、彼国府長野の陣所に至る事、晡時(申
さるの刻。日暮れ時。現在の午後4時頃)になれり。
  此野は秋の霜を争ひし戦場いまだ掃はずして、軍兵野に満てり。
枯れたる萩、われもかうなどを引結びて夜を重ぬ。
(白井上杉)定昌の指南により藤原顕定(関東管領上杉顕定)の
旅哀の心有て、旅宿本陣に移されし後は厳霜も穏やかなり。
平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会、羇中雲、
「武蔵野や 何の草葉に かかれとて 身は浮雲の 行末の空」
十一月五日には佐野の舟橋(高崎市佐野)に至りぬ。
・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・文明19年(1487)
九月十三夜、白井戸部(上杉定昌)亭にて松間月(松の間の月)
「澄まさる 程をもみよと 夏の葉の 数あらわなる 嶺の月影」
九月尽(末)、長野陣所小野景頼が許にて、暮秋時雨(しぐれ)
「誰が袖の 別れの櫛の 歯の黒髪 山ぞ間なく 時雨るる」
 
 十一月の末に上野の境近き越後山中石白(上杉相模守房定法名
 常康)旅所といふ所へ源房政たぐへて帰路を催すべき由、侍し
 かば、白井の人々餞別せしに、山路雪
 「帰るさも 君がしほりしに 東路の 山重なれる 雪や分まし」

廿七日、山雪に向ひて朝立ち侍。利根川を□(★「木」の下に
 「日」で「よう」・「ハルか」=遥かと同じ意味)に見侍りて、
「降積みし 雪の光や 誘ふらむ 浪より明くる 天の利根川」
明ければ、三国山を越侍るとて、・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・(後略)
  (★『新古典文学全集98「北国紀行」より』)

●山本隆志先生解説
@堯恵は白井から浜川の木部氏屋形に出向き、9月末日の会にて
暮秋歌を披露し、再び白井に帰り、越後に向かっている。
堯恵の道筋は「白井道」と呼ばれている。
現在の「渋川旧子持村白井→榛東→箕輪→浜川(高崎市浜川町)」
であると思われる。
★箕輪初心:生方・・
 永禄9年(1568) 真田幸綱は白井城を攻略した直後、
 3月8日、箕輪城代の1人になっているが、「真田道」と
 という名前になっている。道しるべが原中(箕郷町)に
 残っている。

A道からは「黒髪嶽(相馬山)が最高峰として見える。」
また、道沿いに「黒髪神社里宮」(榛東村広馬場)がある。
★箕輪初心:生方・・
実は山本先生の生誕地から車で5分・私の家からも5分
 なのだ。

B堯恵が「黒髪山」という語を浜川屋形の木部屋敷での歌会に
詠んだのは、木部氏など浜川では黒髪山信仰が広がっていたため
であろう。
榛名神社は嶽獄寺と呼ばれ、山岳信仰の修験勢力であったのだろ
う。榛名山の修験は黒髪山(相馬山)である。
(★『榛名山系の相馬山信仰と黒髪神社』
   時枝努著:あしなか201号)

D小野景頼・・・別の出展では木部景頼と出ている。



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箕輪初心★箕輪城143【尭恵「北国紀行」の上野国府長野陣所】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_29.html

箕輪初心:生方★2015年高崎「山名の歴史&木部一族」
http://53922401.at.webry.info/201509/article_30.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ59「木部範虎」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_22.html
<< 作成日時 : 2010/12/11 21:55 >>

箕輪初心●群馬の城「山名城&山上の碑」(高崎編)
http://53922401.at.webry.info/201012/article_21.html

◆◆ 箕輪初心★木部範虎と榛名湖の『木部姫伝説』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_22.html

箕輪初心■群馬東吾妻町【 箱島の名水】&木部姫の榛名湖
大蛇伝説
http://53922401.at.webry.info/201202/article_15.html
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【4】 宗長『東路の津登』&浜川松田氏&浜川長野氏
・永正4年(1507) 上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹の婚姻
 が成立して山内・扇谷両家の同盟関係が復活した。
★私見・・この時、同時に長尾顕忠の娘は扇谷上杉朝良の室になった
 のではないだろうか。


・永正6年(1509) 宗長が浜川:松田加賀守宗繁宅に寄った。
  『東路の津登』
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箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html
★上杉顕定の晩年は板鼻が中心であった。

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「長月四日なれば、つむ日を待こころによそへ侍る計也。
ここ(大胡上総介館)より野山をすきて、青柳といふ里有。
春ならましかばとぞ覚えし。此あたりにていかほのあらし
時雨来て、よきかたもなかりしに、荒蒔和泉入道宿所より
とて立ちよるべきよし。しばし有て夕日ははれやかにさし
きたりしに、ふとおかびへ(彰=うかび)侍りしかば、
 「やどれとて 時雨し秋の 夕日かな」
同行の衆、あるじ七・八人して、夜に入りて懐紙を折て、
おもて計のこと成るべし。宗祇周防(現山口県大内家)の
国より太宰府へ相伴ひて、長門の国の山路を越侍し、神無月
のはじめ也。けふのごとくにうち時雨しに、ある人の宿所に
あまやどりして侍し会に、
 宗祇「 をくりきて とふ宿すぐる 時雨かな 」
 此折のことまでおもひ出られておもしろかりし夕ぞかし。
はま川と云ふ所に松田加賀守法体して宗繁、この十年あまり
このかたいひかりし侍り。宗祇此道に相伴ひしに、信濃路
より例ならざりしに、此宿所にて廿日あまり逗留。懇切のみ
忘がたきことなるべし。一両日ありて重陽張行。
 「けふ幾重 にゐわた白き 宿の菊 」
折ふし家新造也。かつは此たび立よるべきなど、兼て音信
けるにやと見え侍る。いささかその心も有るべし。
大戸といふ所、海(浦)野三河守宿にて一宿して、九月十二日
に草津に着ぬ。同行あまたありしまで、馬人数おほく懇切の送り
ども成べし。廿一日草津より大戸に帰り出侍りぬ。兼約して
一座興行。
 「時雨かは もみぢの中の 山めぐり 」
きのふけふわけ出侍る山中、前後左右の紅葉の秋の興計算なる
べし。可□九月廿五日太守佳例の法楽連歌、依田中務少輔光幸
宿して、
 「 菊さきて あらそふ秋の 花もなし 」
則懐紙を越後の陣へとなん。
 はま川並松別当(★古い字・・写本よっては並榎)
 にして
 「色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」
その日九月尽なるべし。
「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。
 又発句、
神無月 里やふりにし 花の春

此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡
 弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣
 正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり
布留今道
ひの光や ふしわかねは 石上ふりにし里に
花咲にけり。
当月異名小春にそよへて過にし花の春に
 やと申計也。武州成田下総守顕泰亭にして
あしかもの みきはゝ雁の 常世かな 
水郷也。舘のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の露
枯れ廿余町四方へかけて水鳥おほく見えわたり
 たるさまなるべし。同千句興行第一句発句に・・・
 ・・・(略)・・・
●山本隆志先生解説
 9月末日、浜川の並榎別当(長野氏)屋敷にて、歌を詠んだ。
 宗祇は9月21日に草津を出発し、大戸城で一泊し、浜川
 長野氏屋形に到着していた。浜川に着いたのは9月23日
 前後。9月下旬、大戸城から権田・三の蔵を経る道を辿ったと
 推測できる。山の紅葉を堪能しながら浜川に向かった。
※浜川の長野氏屋敷には松が植えられ、装飾が施されていた。
 宝憧(正確には巾へん)などの石造ものも設けられていた。
 榛名山系の石を使っている。
 (★『新編高崎市史』)
 ★榛名山系の安山岩である。
松を飾る習慣は白井長尾氏も京都の大名屋敷も同様で有った。


【5】 浜川長野氏と榛名山

 @平安時代 「延喜式」伊香保神社&榛名神社
A中世   榛名神社  榛名寺領 榛名山執行職
満行寺執行 榛名巖寺 

 B元亨3年(1323) 榛名神社に二月二十八日鉄灯籠銘
  満行権現(伝説上の群馬大夫満行)として神になった。

C南北朝時代末期『神道集』
「郡馬の大夫満行も神と顕して・郡馬の内、長野の庄
  に、満行権現とて、満つ行き権現とも読めり、今の
  戸榛名と申すは即是也」

D明応5年(1497) 3月7日 長野伊予(業尚)が
   戸榛名神社の禁制を出した。
「上州戸榛名神領」と見える。
 (★『桜沢文書』・・・群馬県史に出てこない文書)
「戸榛名神社」

 E文亀元年(1501) 曇英恵応が長年寺に入寺。
  (★日本洞上諸祖伝等:久保田順一先生)
 「上州双林寺曇英慧応禅師、京兆華冑藤姓法輪之末裔・・・
   明応六年丁巳・・・平能景(長尾氏)於越後山□
   林泉寺、・・・
   文亀辛酉予州太守長野氏就上州室田□立長年寺延師、
   師喜其地幽閑適禅宴移此、・・・・
  (★日本洞上諸祖伝:享保12年成立:山本隆志先生)
・永正9年(1512)10月日 前伊予守憲業発給壁書
   (★長年寺文書・・壁書)」
「□□□当時、縦雖重科之者候、御門中於入者不可
 及成敗事
 一、国中有子遁世人、不可被入事
 一、寺中之山不可切取事、
 永正九年十月日   前伊予守憲業(花押)」
 

 F永正10年(1513)・永正14年(1517)説の憲業願文

 ・永正10年(1513)4月吉日 大戸要害の落居の祈祷を
  巖殿寺(榛名神社)に依頼する。
 (★長野伊予守憲業の立願状写:榛名神社文書)」
(★「榛名町誌:久保田順一先生」・箕郷町誌:近藤義雄先生)

 ・永正14年(1517) 長野憲業が100疋を榛名神社に寄進。
         大戸城の攻略を祈願
      (★『榛名神社文書』:山本隆志先生)
「大戸要害令落居、憲業属本意候者、百疋之下地お
    榛名満行権現{江}末代可奉寄進候、
   永正十四年四月吉日  憲業(花押影)
   奉懸 巖殿寺 」

長野氏は満行権現を保護し、群馬郡と満行権現を吸収
し、榛名神社への影響力を強化していった。
鷹留城・箕輪城を築城した。
(★山本隆志先生説)
黒髪獄(相馬山)修験を活用し、支配下に置いた。
 現榛東村広馬場に黒髪神社里宮が造られた。
 現榛東村広馬場に修験の「宿」が造られた
 榛東村広馬場字宿に字輪寺に室町時代の宝塔が多数存在
  している。
 (★『榛東村誌』)
山本隆志先生の出身地から車で5分
  白井道・・・後の真田道の途中にある。
箕輪城〜原中〜柏木沢(不動寺平安時代)〜榛東村宿〜
 広馬場〜山子田(室町時代の地名)
山子田・・・現柳澤寺には板碑が残る・
      桃井北城・吉岡町大藪城(桃井南城)
猪土手絵図(吉岡町森田家文書)


★山本 隆志(たかし)先生のプロファイル
・昭和22年(1947) 4月8日群馬県榛東村山子田に生まれた・
  山子田の小学校
  榛東中学校
  渋川高等学校・・・★私は後輩だった。
 
・昭和46年(1971) 東京教育大学史学科卒。
    専攻は日本中世史。

・昭和51年(1976) 東京教育大学大学院文学研究科博士課程中退。

高崎城山団地に住んだ。
群馬の高等学校教員になった。
東善寺の村上泰賢和尚と同僚になった。


・平成5年(1993)「荘園公領制展開過程の研究」で筑波大学文学博士。
     日本中世史学者となった。

・平成6年(1994)『荘園制の展開と地域社会』刀水書房
・????年 筑波大学助教授

・平成9年(1997)『群馬県の歴史』西垣晴次,丑木幸男共編
山川出版社
    ・群馬県史の編纂

・????年 筑波大学教授
・平成17年(2005)『新田義貞』ミネルヴァ書房

・平成22年(2010) 「新田氏成立の政治過程」〜源義国の政治史〜
   群馬県文化事業振興会

▲平成24年(2012)定年退官・・・
  筑波大学名誉教授名誉教授。
・平成24年(2012)『那須与一』編著 ミネルヴァ書房

・平成24年(2012) 『東国における武士勢力の成立と展開
東国武士論の再構築』思文閣出版

■平成24年(2012) 高崎城山団地に住んだ
・平成27年(2015) 『山名宗全』ミネルヴァ書房







●▲■箕輪初心:生方の追加*******************
【1】 総社〜浜川〜板鼻
・室町時代・・足利関東管領+上杉氏関東管領代理+
       長尾氏は上杉家執事

・永享元年(1429)足利直義は戦功により、関八州と伊豆・甲斐・越後の
   行政権を獲得。
  足利直家臣の長尾佐衛門景忠が上野・越後守護代。        
 4男の長尾忠房を上野国府を支配。
  長尾忠房は国府跡を蒼海城を城郭化。
   元の総社神社を今の場所に移築。
 〜以後、総社長尾氏の本拠地。
  (上野国守護代:総社長尾景行入城説あり。)
 ・越後栖吉城長尾・白井城長尾・蒼海城長尾(総社)
  ・足利両崖山城長尾。
  以降、惣社長尾忠房→→景棟と続く。
 白井長尾氏、山内上杉氏と対抗するがよりを戻した。

・嘉吉元年(1441) 結城の合戦の終結 長野周防守・・
  「守」がつくので本家筋。乙業では?
 長野乙業の子業尚(尚業?)は、関東管領上杉顕定の執事に抜擢。
★箕輪初心私見「1位長野業尚 2位小幡一族、いじけた長尾一族は
 足利成氏に味方?」
 長野業尚は浜川から下室田に居を移し鷹留城を築いたと伝えられて
  いる。
 
 しかし、業尚に関しては系図以外にその存在を語る確実な史料は
 ない。

  (★群馬県史)
A山内上杉氏に仕える一揆旗頭「分家系」・・・
  長野為兼・房兼系の長野氏勢力→
      1477年戦死・1504年戦死で没落?        
将軍足利義政から御内書を発給された長野左衛門尉は為兼。
 
※峰岸純夫先生の説・・・「兼」→「業」への下克上説

★箕輪初心私見「乙業・業尚父子と為兼・房兼とは、
  同時代の人物であるが、長野氏には、2つの流れが
  あったのではないか?山内上杉氏に仕える「本家筋属系」
  ・長野乙業・隆業・業尚系が長野氏の「業」がつく主流
  とはじめは考えていたが、・・・
  飯森康弘先生や黒田基樹氏は「為兼・房兼」を誤記とし、
  「為業・房業」としている。
  最近はこの説を信じている。
  「乙業・隆業は長野弾正系図(正弘氏系図)等、
  いくつかある。山崎一氏はこの系図を採用している。
  しかし、歴史学者:久保田順一先生・峰岸純夫先生・
  黒田基樹先生・飯森康弘先生などは
  「第1次資料では長野業尚からであるので、浜川に長野氏は
  いたことことは認めているが、乙業・隆業の存在を信じてい
  ない。」


【2】堯恵 
箕輪初心★箕輪城143【尭恵「北国紀行」の上野国府長野陣所】
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html
・文明18年(1486)5月末、美濃の郡上を出て、飛騨〜越中〜越後
 を旅した。
8月末越後柏崎を発ち、三国峠〜
上野国:沼田〜白井〜10月草津〜伊香保温泉に浴した。
10月2□日、上野国国府の長野陣所に行った。・・関東管
領:藤原(上杉)顕定に会った。その後、善光寺に詣でたり、
諸所の歌会に臨んだりした。12月半ばに武蔵国に入り、
翌年文明19年(1487)の2月に相模〜鎌倉〜三崎等に遊び、
6月に武蔵に行った。9月、再び上野国府の長野陣所小野景頼
を訪ねた。11月には越後に帰った。

8月末 越後柏崎を発った。

●三国峠越えて上野に入った。
「越後信濃上野の堺三国峠といへるを越えて侍るに諏訪の
 伏拝(三国権現)あり」

●上野国:沼田

●9月9日 上州白井にうつりぬ(渋川市旧子持村)
「重陽の日、上州白井と云所にうつりぬ、
 ・・・・(略)・・・・・


●10月 草津〜
「是より桟路をつたひて、草津の温泉に二七日計入て、
詞もつゞ かぬ愚作などし、鎮守の明神に奉りし・・・」
 草津に滞在27日。
「 忘るるよ 思ひのこせと 浅間山
    消えしけふりの  おもかげに立つ 」

●10月17日 伊香保着・・・・滞在17日

  「からころも かくるいかほの  沼水に
    けいふは玉ぬく  あやめをそひく 」
    (★藤原定家の歌)

10月20日頃? 伊香保温泉に浴した。

●10月2数日 
  上野国国府の長野陣所に行った。
  ・・関東管領:藤原(上杉)顯(顕)定に会った。
『無神月廿日あまりに国府長野の陣所に至る。哺時になれり。
 此野ハ秋の霜をあらそひし戦場、未だ払はずして、軍兵野
 に満てり、かれたる萩、われもかうなどを引むすびて夜を重ぬ。
 定昌の指南によりて藤原顯定(関東管領)の旅哀の心ありて
 旅宿を東(本)陣にうつされし後は厳霜もをだやかなり。
 平顕忠(長尾修理亮)陣所にての会 
 羇中雲
 『 武蔵野や 何の草葉に かかれとて
   身は浮雲の  行くすゑの空 』


●11月20日 上野国国府発


●佐野
 「  跡もなく むかしをつなく 舟橋は
    たゝことのはの   さのの冬原 」

●11月??日 善光寺に詣でた。
         諸所の歌会に臨んだ。

●12月??日  再び、上野国に戻った。
佐野に行った。

●12月半ば  武蔵国に入った。

※長尾修理亮顕忠
長尾忠景の嫡男 
 娘は長尾顕方室・扇谷上杉朝良室がいる。
・文明12年(1480) 長尾景春と秩父で交戦した
  (「太田道灌状」)。
  長尾修理亮顕忠が総社長尾氏の家督を継いだ。
・長享元年(1487)〜永正2年(1505) 長享の乱
関東管領:山内上杉顕定
    VS
 扇谷上杉上杉定正+没後は甥:上杉朝良
 長尾修理亮顕忠は山内上杉家の家宰として上杉朝良・伊勢宗瑞ら
 と戦った。
・晩年・・・武蔵国杉山城を居城にした可能性がある。
・永正2年(1505) 1月7日
(★「赤城神社年代記録」)
 長尾顕忠の娘は上杉朝良の室になった。
後、長野業正は上杉朝良の娘を貰った。
 

【3】宗長
箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

・永正6年(1509) 『東路の津登』
 (★『群書類従』・・・宗長『東路の津登』より)

●大胡(前橋市大胡)
大胡上総介綱長の館に泊まった。
★大胡氏は大胡長野氏の可能性がある。
(★高崎市史)

9月〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●青柳(前橋市青柳)
「青柳という里・・・」
★箕輪城主:長野業政の家臣:青柳金王はここに領地
  があった。

●荒蒔(前橋市荒牧)
「荒蒔の和泉入道宿所・・・」

9月9日
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
★松田加賀守は一体誰なのであろうか?
長野憲業・長野業政の家臣団の中に松田姓の
  有力家臣は出てこない。
予想される館は「隆業館、後の浜川館である。」
200m×130mの大きな館である。高崎北高
の井野川野球グランドの西隣から西に当たる。
1)寺内館:(元高崎市浜川公園南西部300m・・・
      東山道に隣接北部)
 2)乙業館(おとなり)(高崎市浜川町道場火薬工場北)
3)寺内館・矢島館・北爪館・北新波砦・満勝寺砦
   住吉城(沖町)など
★矢島砦(90m×90m)・北新波砦(90m×90m)など
約20の館が長野郷浜川地区にあるが、浜川館以外
はみな小さい。
久保田順一先生の長野郷の中心地は箕輪であったとすれ
ば、現箕郷町に館があった可能性もある。

●大戸(東吾妻町)
海野三河守の宿所に1泊した。
*************************************************
箕輪初心●群馬【手子丸城=大戸城】=吾妻の巨大な要塞
http://53922401.at.webry.info/201201/article_14.html
***************************************************
★大戸氏は滋野系海野氏である。
天文年間頃には長野業政の娘婿となっている
  分家の浦野氏は
武田信玄の時代からであろう。永禄年間の
榛名鷹留城を攻めた記録(★榛名神社)
の長年寺に火をかけた記録(長年寺受連)
が残っている。


9月12日 
●草津
・・・10日間滞在した。

9月21日
●大戸
 海野三河守の館にて連歌会

9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
 菊さきて あらそふ秋の 花もなし 
 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字)
 にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」

依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で  
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
森田真一先生
「依田屋形が板鼻にあった。建長寺僧侶が泊まったことがある。」

私見・・しかし、依田中務少輔光幸はこの段階では後閑にいた
可能性のある。後閑に新田景純が富岡丹生城から後閑に
入るのはずっと後のことである。但し、依田中務少輔光幸の
館が板鼻にあった可能性もあるが、依田徳昌軒館があるので
・・・。
ちなみに依田徳昌軒館の発掘は大工原豊先生などである。
依田中務少輔(しょうゆう)光幸=依田政友か光慶の可能性が
 高いと思われる。



*****************************
@箕輪初心●群馬【後閑城@】&長源寺&満行寺
http://53922401.at.webry.info/201211/article_19.html

A箕輪初心●群馬【後閑城2回目】&後閑城の歴史詳細
http://53922401.at.webry.info/201211/article_20.html

B箕輪初心●群馬安中【板鼻城】=螺旋式の城構造
http://53922401.at.webry.info/201211/article_17.html

**************************
・嘉吉元年(1441) 信濃の芦田城主・御嶽城主:
   依田(あしだ)内匠頭忠政が後閑城を築城開始。
※結城の合戦に、信濃小笠原正透3000の同心として
   芦田右衛門佐=依田光玄(=忠政=満春)
 結城氏朝と合戦。
  勝利の証として、後閑に定住した説
  (★富岡武蔵氏の調べ)

・嘉吉元年(1441) 結城合戦
結城氏朝が足利持氏の遺児:春王丸と安王丸を奉じて挙兵した。
 大井持光も兵を率いて結城に向かおうとしたが、関東管領:上
 杉清方軍に阻まれた。
大井持光はなんとか結城氏朝に永寿王丸?万寿王丸を送り届けた。
 
結果・・関東管領方が勝利した。
    春王丸・安王丸は殺害されてしまった。
 
 古河公方:足利成氏から戦功で大井持光は上野国後閑を
 貰った。しかし、家臣の依田政友を後閑に送った。
(★『武田騎馬軍団秘史』:依田武勝著)

 ★相木依田昌朝の5代前の次男である。
   (依田系図)

・文安4年(1447)後閑城が7ヶ年で完成。
     (★坪井家文書)

・文安5年(1448) 依田政友(=昌朝)が長源寺を創立。
(★立科町史・重田家文書)


・文明2年(1470) 依田信濃守全棟=政知が長源寺
 (安中市後閑)に、三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)に
 所領を寄進。
   (★安中市史:長源寺文書)
 @芦田光玄=忠政→A政友=政知→B光慶
   →全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌
   →昌忠→将監(弟)→盛繁
(★依田系図)
 ★依田政友=政知か依田光慶が依田光幸の可能性がある。

●明応3年(1494) 上杉顕定の実父:上杉房定が死亡した。

●明応9年(1500) 上杉顕定の実母:青蔭庵月山妙皓禅定尼顕定母。
 上杉顕定は父の7回忌&母の49日を行った。

●文亀2年(1502)8月28日、上野国板鼻海龍寺で亡母青蔭庵
 :月山妙皓の仏事を行った。
森田真一先生は従来13回忌とされていた文亀2年の仏事は、
 3回忌の誤りであると指摘している。
(★『群馬県立歴史博物館紀要』29号「山内上杉氏の拠点について」
  2008年&2015年11月21日の講演会にて)

※仏事奉行は長尾能登守定明、布施奉行は尻高左京(高山村)
 法座の幕担当は力石氏・・・7日間の法要があった。
 僧侶の宿舎は依田徳昌軒の館であった。酒宴は長尾能登守
 定明が仕切った。
 【談柄:上野武士団の中世史P110:久保田順一著】


●永正3年(1506)8月28日、上野国板鼻海龍寺で亡母青蔭庵
 :月山妙皓の7回忌を行った。

 
※森田真一先生説
「玉陰和尚語録」「春日山林泉曇英禅師語録」の記事より、青蔭庵
 月山妙皓を顕定の実母の房定妻としている。

★森田真一先生のこの提示が有力な手がかりとなる。 

※久保田順一先生説
 月山妙皓を実母ではなく養母の上杉房顕妻と推測する説
 (★『安中市史 第二巻通史編』第一編第六章第四節「室町時代の
  安中地域」2003年久保田順一著)

●永正元年(1504)、芳賀大方(芳賀某の娘。房能の母)の命により
 長尾能景は長尾小法師丸(長尾房景)に、普済寺領:栖吉の安堵
 状と普済寺の修復を命じる書状を出している。

※天文元年(1531)長野業政が箕輪城を継承。

・天文年間 依田光慶は、箕輪城主長野業政の女を
   室として嫁にした系図もある。同心になった。

・天文7年(1538)依田光慶が板鼻鷹巣城に移った(伝)。

**************************
★とすると、「東路の津登」に書き表された「依田中務少輔
 (しょうゆう)光幸は、依田信濃守全棟=政知の可能性が
 が高い。・・・中務少輔(しょうゆう)ランクは地方の戦
 国武将ではランクが高い。そうすると、・永正6年(1509)
 の時点では、依田氏は安中市後閑の可能性がある。
 多胡碑記念館の研究では板鼻になっているがどうなので
 あろうか? 安中市板鼻ではなく、安中市後閑ではないだ
 ろうか。安中市史・中世の安中・安中市教委の井上慎一先
 生講演会、長野立科町史?などでは天文7年(1538)
 依田光慶(徳昌軒)が板鼻鷹巣城に移った(伝)。ので、
 それ以前は、後閑にいたことになる。
 また、古くは碓氷郡は現倉渕の烏川右岸=西地域まで
あった。幕末に小栗上野介の子どもらが西軍のから逃れよ
 うとして、使おうとした道である。
 宗長は大戸→倉渕→地蔵峠→松井田細野→安中後閑と行け
 るはずなのだ。後閑から東山道に入り、板鼻→東山道北道?
 (国府道)と通ると、八幡→金井淵→長野郷:浜川となる。
 ★★★以前考えた後閑説は間違いであった。

連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町)に送られた。
****************************************************
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
http://53922401.at.webry.info/201307/article_20.html

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
*****************************************************


9月末〜10月1日
●浜川
「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。
 又発句、
神無月 里やふりにし 花の春

此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡
 弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣
 正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり
布留今道
ひの光や ふしわかねは 石上ふりにし里に
花咲にけり。
当月異名小春にそよへて過にし花の春に
 やと申計也。武州成田下総守顕泰亭にして
あしかもの みきはゝ雁の 常世かな 
水郷也。舘のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の露
枯れ廿余町四方へかけて水鳥おほく見えわたり
 たるさまなるべし。同千句興行第一句発句に・・・
 ・・・(略)・・・

★宗長は浜川(高崎市浜川町)に10月1日に戻ってきた。
・・・・・重要ポイント・・・

*************************************************
箕輪初心●箕輪城シリーズB「長野氏の系譜」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_6.html
箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森
・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html

箕輪初心●箕輪城105久保田順一先生「箕輪城と長野氏」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_26.html
****************************************************   
【銘文】
弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

【読み方】
弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅
に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左太臣正二
位石上尊、右太臣正二位藤原尊。

【現代語訳】
朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡
(かむらぐん)の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡を
つくり、羊(ひつじ)という人に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡としなさい。
和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日
に宣(の)べられた。
左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。

  (★多胡碑博物館の説明書き)


****************************************************
箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html
****************************************************
10月〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

●忍(埼玉県行田市)
宗長は高崎の浜川から埼玉の行田に行った。
武州成田下総守顕泰の館(埼玉県行田市)



・延徳元年(1489) 山内上杉氏配下の成田親泰が
   太田道灌の縁戚で扇谷上杉氏配下の
   忍大丞の館を急襲。

・延徳2年(1490) 成田親泰が築城を開始。
            翌年完成。

・永正6年(1509) 成田下総守顕泰(親泰)の忍城に
          連歌師の宗長は立ち寄った。

 ★成田顕泰か長泰が上野の箕輪城主:長野業政の
     娘をもらった?? ・・
  箕輪城主:長野業政は娘を成田下総守顕泰の
  嫡子に嫁がせた。
(★箕郷町誌:箕輪城&長野氏:近藤義雄先生)

しかし、長野業正の姉は長尾景英に嫁ぎ、娘が
  成田顕泰に嫁いだのだった。
一部の系図の間違いである。

★更に「のぼうの城」と繋がる。
***********************************************
箕輪初心●埼玉『忍城』=城代:成田長親【のぼうの城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_6.html


●鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)
「鉢形より菅谷に入る。
 鉢形(埼玉県大里郡寄居町鉢形)の舘にして。
  霜をへん 生さきしるし 松の千代
 馬庭豐前守重直興行せし也。
 顯方いまだ少年の行末はるかなることを賀し侍る計也。
 又一座興行。發句。顯方にかはりて。
  さえし夜を かさねてけさや 薄氷

 連歌はてゝ酒など有て夜更侍りし也。
 當城逗留の旅宿隨意軒といふにして。
  神無月 くれさりし秋か 宿の菊

 庭の菊秋を殘せるさま成べし。
 鉢形をたちて。」





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箕輪初心:生方▲箕輪城219【2016山本隆志先生『堯恵&浜川木部氏』・『宗長&浜川長野氏』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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