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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸118【第38話「昌幸」】&史実編諸説

<<   作成日時 : 2016/10/03 09:47   >>

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九度山で昌幸たちが幽閉生活を送っている間も、真田信之&
稲(小松姫)は九度山の昌幸たちに金銭や物資・酒を送り届
けていたと言われている。真田昌幸が金の無心をしていたと
いう書状も残っている。幽閉生活は10年以上にも及ぶ。
この間、@加藤清正、A本多忠勝、B真田昌幸が死んだ。
石田三成の加藤清正への遺言は「ワシが志し半ばで死んだら、
秀頼様をお守りしろ。」という内容であった。・・・・。
「真田丸」では九度山での流人生活をどう扱うのか?九度山
に誰がついていくか?真田昌幸・真田幸繁・16人の家臣
(含む高梨内記)&きり、そして、春=竹林院(丸島和洋氏
の説では)・・・。
画像

(★残念ながら、九度山には行っていない。)


慶長5年(1600)9月15日(10月21日)関ヶ原の戦い、・・・
★井伊直政の「抜け駆け」で始まったと言われている。西軍の
本戦時の死亡した武将は大谷吉継が平塚為広・戸田勝成と共に
小早川秀秋ら裏切り組と激戦の末に戦死。「島津の退き口」と
言われる島津義弘の退却戦において島津軍の多くが戦死した。
★井伊直政は鉄砲で負傷した。
9月18日佐和山城の石田一族・宇多頼忠が落城前に自刃した。
10月1日、京の京都六条河原にて斬首された西軍の武将は西軍
首謀者の石田三成、総大将毛利氏の戦争責任を負う形で安国寺
恵瓊、キリスト教で自刃できない小西行長などである。
徳川家康は徳川秀忠を翻弄した真田昌幸・幸繁は共に死罪とする
考えであった。しかし、嫡男:真田信之と舅:本多忠勝と本多
正信の必死の助命嘆願もあって、高野山へ流罪・蟄居となった。
★井伊直政が真田信之の懇請を受け入れ、真田昌幸と次男・信
繁(幸村)の助命にも進退を懸けてまで尽力した。真田信之は
将来まで徳川家に尽くすだろうと考えての行動だった。
(★『彦根城博物館研究紀要』18号「徳川家康天下掌握過程に
おける井伊直政の役割」・典拠史料は「真田家武功口上之覚」:
『真田家文書』中巻、野田浩子彦根城博物館学芸員)、
★箕郷歴史文化調査研究会依頼の博物館での講演
 野田浩子先生・・・ありがとうございました。





【1】【大いなる謎 真田一族】平山優著
1)真田昌幸は西軍は壊滅したため、支援も望めなくなった。
「天下を相手に・・華々しく討ち死にしよう。」
虚空蔵山城の麓に布陣する森忠政を夜襲攻撃した。
信幸・幸繁は降服を促した。昌幸は渋々承諾した。

2)信幸は切腹を命じようとする家康を説得しようと本多正信・
本多忠勝に頼んだ。高野山の追放に留まった。
本多忠勝は「真田父子を切腹にこだわるなら、婿と上田城で
   籠城して戦うのも辞さぬ。」と言い放った(伝)。
★・・・「真田丸」が伝説を採用したことになる。
■真田処分に関する諸説
徳川秀忠は間に合わなかった。
徳川家康は多くの犠牲を出し戦った諸将の手前、徳川秀忠を
怒った。そして、2人は真田に遅参の責任を負わせる=
切腹であった。
真田昌幸、信繁を当然死罪にする積りであったが、高野山配流
に減刑した。理由は
■真田信之の必死の助命嘆願以外で嘆願した人物の説」
1)平井優説
 真田信之から本多正信・本多忠勝に嘆願依頼
徳川家康の憎しみは激しく、当然、昌幸・幸繁を死罪と決めていた。
 しかし、真田信幸は本多正信や舅:本多忠勝にすがって、助命嘆願
 を行った。
 本多忠勝は「真田父子を切腹にこだわるなら、婿と上田城で
   籠城して戦うのも辞さぬ。」と言い放った(伝)。
(★『大いなる真田一族』:平山優著)

 徳川家康もついに折れ、死罪を免じ、高野山追放を下知した。
(【真田三代】:平山優著)

★本多正信の説を採るならば・・推測であるが・・・
「大阪城に近い高野山に真田を置けば、豊臣の旗揚げのきっか
 けになるでしょうな?」みたいなことを言った。
 徳川家康は豊臣家の存続に苦慮していたが、正信の進言に
「豊臣の完全廃絶」を考えるようになって行ったと考えるべき
 であろう。
(書いてなかったので、加筆してみた。)

3)12月13日 真田昌幸は真田信之に別れるにあたって
「・・・悔しい限りだ。家康こそ、このような目に会わせようと
 思ったのに・・・」
4)九度山の生活
 真田昌幸・真田幸繁の家族
 16人の家臣・・・
池田長門守・原出羽守・高梨内記・小山田治左衛門ら・・・

@高野山の麓の細川
A高野山の「蓮華定院」
B高野山の麓の九度山
浦野川の淵(真田淵)・上下5町(約550m×約1100m)
  の範囲内は行動自由であった。
監視は和歌山城主:浅野幸長にさせた。
・・・生活は困難を極めた。
16人の扶持も必要であった。
収入は、
 @蓮華定院のお布施
 A浅野幸長からの合力
 B真田信之からの仕送り
 C旧家臣・長谷寺・信綱寺からの心付け
  D国元の金子に送金を催促
・数年後、火事になり、真田信之から、100両を借金。
  ・・・
・5月16日付 河原右京宛の真田昌幸書状
「真田信之と河原綱家(★昌幸正妻の兄の子・昌幸に歯をかかれた)
 が高野山を訪れ、昌幸を訪問し、上田に帰国した。河原は高野山
 で用事を済ませ、遅れて帰国した。」
・真田昌幸は病気がちになり、真田昌幸は真田信之・浅野幸長を
 通じて徳川家康に赦免を繰り返した。
 一時、本多正信は家康に手紙を披露するまでいった。
 真田昌幸は上田に帰れると期待したが、・・・・
 徳川家康は真田昌幸を許さなかった。
・真田昌幸は赦免の希望も失い、病気は進行した。
国元に駿馬を送ってくれるように依頼した。


【2】【真田三代】:平山優著 P260~263
 第2次上田合戦で、真田昌幸は大勝利した。真田昌幸は信濃・
甲斐を掌握するつもりであった。しかし、西軍は壊滅したため、
真田昌幸は完全に支援も望めなくなった。
平山「もし、長期戦であったならば、独壇場になっていたかも
   しれない。」
徳川家康の憎しみは激しく、当然、昌幸・幸繁を死罪と決めていた。
しかし、真田信幸は本多正信や舅:本多忠勝にすがって、助命嘆願
を行った。家康もついに折れ、死罪を免じ、高野山追放を下知した。
12月13日、真田昌幸・幸繁は上田を後にした。信幸(平山説では
「信之」ではない。)と別れる時、
「さてもさても、口惜しきことかな。内府こそ、かくしょふと思ひ
しに」
と述べた。昌幸54歳。信繁34歳。
 上田より、池田・原・高梨内記・小山田治左衛門ら16人が従い
高野山に向かった。主従が高野山の麓:細川に落ち着いた(伝)。
その後、蓮華定院に厄介になった。蓮華定院の斡旋で、九度山に
屋敷を構えて移り住んだ。上下5町(約550m×約1100m)
の範囲内は行動自由であった。
監視は和歌山城主:浅野幸長にさせた。

・慶長16年(1611)  
  徳川家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見した
徳川義直と徳川頼宣は東寺まで出迎え、人質として加藤清正に
  預けられた。
  徳川義直と徳川頼宣は返礼の名代として大坂城の徳川秀頼
  を訪問した。
(★徳川家康:)

・真田昌幸は重い危篤となった。
 真田昌幸は真田幸繁に
「徳川と豊臣の戦は近い。・・・」
昌幸は幸繁に考え抜いた秘策を授けたと伝わる。
「籠城戦では勝ち目がない。積極的に打ってでて、勝負を
 かけよ。・・・家康を2度破ったワシの意見なら聞くが、
 無名の幸繁では握り潰されるであろう。・・・」
6月4日 真田昌幸が老衰で死去。享年65。

真田幸繁は年寄りのようになってしまった。
小山田茂誠(しげまさ:村松殿の夫)宛の真田幸繁の書状
「急に老け込んでしまい、歯も抜け、髭も真っ白で老人の
ようになってしまいました。」



【2】【真田三代と信繁】:丸島和洋著
7月21付 石田三成→真田昌幸
7月27日 真田昌幸→石田三成は7月21付手紙を受け取った。
背景
 
●石田正継→石田三成
     |  →石田重家
 姉:咬月院
●宇田頼忠→宇田頼次(石田正継の猶子)
| →女子(滝川一積養女・小山田之知室)
●真田昌幸→趙州院殿      
※真田昌幸は石田三成の取次でもあり縁戚でもあった。
 真田昌幸は会津の上杉の「取次」であった。

真田昌幸は信濃・甲斐の2国を・・・石田・毛利が協議
「真田丸」では大谷と・・

9月5日 丸島説「準備ではなく、攻めさせる策ではないか?」

※丸島説「遅刻は家康の戦況の見間違いであった。
 
10月1日、京の京都六条河原にて斬首された西軍の武将は西軍
首謀者の石田三成、総大将毛利氏の戦争責任を負う形で安国寺
恵瓊、キリスト教で自刃できない小西行長などである。
徳川家康は徳川秀忠を翻弄した真田昌幸・幸繁は共に死罪とする
考えであった。しかし、嫡男:真田信之と舅:本多忠勝と本多正
信の必死の助命嘆願も
あって、高野山へ流罪・蟄居となった。

※丸島和洋氏は「処刑されたのは、石田三成・」小西行長・安国寺
 恵瓊であり、徳川秀忠を足止めしたくらいで処刑されるほどの
 大物ではなかった。」
※「真田昌幸・幸繁を高野山において、豊臣秀頼を壊滅させる
  作戦に出たという説もある。」
P167〜
12月13日、真田昌幸・幸繁は高野山に登った。
 蓮華定院に入った。
 上田より、供奉衆筆頭は池田綱重などであった。
 ・原・高梨内記・小山田治左衛門ら16人が従った。

・慶長6年(1601)8月、飯島市之丞は上田に帰国した。
(★『真田三代と幸繁』:丸島和洋著)
 飯島市之丞は真田信幸→真田信之に仕えた。 P197
 ★「関ヶ原の戦い」後、徳川家康の命令説と違い、
  徳川家康に遠慮して改名したと、ニュアンスが異なっている。


真田昌幸に正妻:山之手殿は上田に残ったが、側室は連れてき
て、子どもが生まれた。

真田幸繁は大谷の娘?(竹林院)・高梨内記の娘・堀田の娘
等も連れてきた。女性は高野山に登れない。女人禁制なので、
蓮華定院の斡旋で、山麓の九度山に屋敷を構えて移り住んだ。

監視は和歌山城主:浅野幸長にさせた。


・慶長8年(1601)
2月、徳川家康は征夷大将軍になった。
3月、真田昌幸は本多正信を通じて赦免活動を展開した。
しかし、音沙汰はなかった。

九度山の生活は国元からの支援だけでは苦しかった。
借金地獄たった。

・慶長16年(1611)  
  徳川家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見した
徳川義直と徳川頼宣は東寺まで出迎え、人質として加藤清正に
  預けられた。
  徳川義直と徳川頼宣は返礼の名代として大坂城の徳川秀頼
  を訪問した。
(★徳川家康:)

・真田昌幸は重い危篤となった。
 真田昌幸は真田幸繁に
「徳川と豊臣の戦は近い。・・・」
昌幸は幸繁に考え抜いた秘策を授けたと伝わる。
「籠城戦では勝ち目がない。積極的に打ってでて、勝負を
 かけよ。・・・家康を2度破ったワシの意見なら聞くが、
 無名の幸繁では握り潰されるであろう。・・・」
6月4日 真田昌幸が老衰で死去。享年65。




【4】【真田幸村がよく分かる本】:押鐘太陽著
西軍は外に、青木一矩20万石・増田長盛20万石、宇喜多秀家
57万石、長宗我部盛親22万石、毛利秀包13万石、立花宗茂13
万石など・・・
押鐘「信幸→信之は幸の字をはばかったため、父との関係を絶つ
    ため、・・・」
浅野幸長より50石
※1石=10斗=100升・・・150kg・・・2俵半
 1斗=10升=約15kg
※30kgで250袋
・・・でも足りなかった。
沼田に金・酒(焼酎)の無心の書状がたくさん届いた。
書・碁・釣り・農耕などをしていた。




【5】「真田丸」第38話
 @徳川家康の「信幸」改名命令・・
「真田丸」では、真田信幸→信之と変えたのは家康が「幸」
 の字を使うなと命令したので、
  真田信幸は抵抗する意味で本人が字を変えたことになって
  いる。
  A真田信之から本多忠勝の嘆願依頼
忠勝「許して下されぬのなら・・・婿殿について、
     上田城で抵抗申しあげる。」
と家康に言った。
  B真田昌幸・本多忠勝等が上田城で必死に抵抗しては面倒と
   言う考え
C徳川家康「兵も所領もない生活で苦しんでもらおう」


真田信之の尽力により命だけは助かった真田昌幸と真田信繁とであった。
信濃からははるかに離れた高野山の麓にある九度山に幽閉されてしま
った。

徳川家康が「生き地獄」と言った・・・・。
真田昌幸はもはや領地を治めることも戦さに参加する事も叶わない。
昌幸が「信長が死んだ頃が最も楽しかったのう。明日の命も知れぬ日々
であったが生きておるという手ごたえがあった。」
という生活にはほど遠いで九度山暮らしであった。
真田昌幸には生きている実感がなかった
真田昌幸には九度山の平和な「生き地獄」になじめなかった。
九度山の景色はくすんで見えてしまっている。

真田昌幸にとっては平和だけの生活が生き地獄であった。
毎日、同じような一日が無限に続く、終わりの見えない静かで平和な
暮らしの中で昌幸の心は蝕まれていった。

真田信繁には春との子「大介」が授かった。

いつのまにか10年の時が流れてしまった。


真田昌幸は歳月月を重ねるだけの日々で弱気になった。
ある日、九度山の村人たちがやってきて
「戦い方をおしえてほしい。」
と申し出た。

真田昌幸は村人たちに戦略をさずけた。
真田信繁と高梨内記も加わった。
真田家は久々に活気づいた。


真田昌幸の九度山生活は10年続いた。
真田信繁と春(竹林院)は元気で、真田大介も成長した。

真田昌幸は真田大介に戦略を教えようと考えていた。

ある日。真田昌幸は倒れてしまった。


真田昌幸は老衰で病に倒れたのだ。
真田昌幸は死期を悟った。
真田昌幸は病床で真田信繁に策を授けようとする。


真田昌幸はいつか赦免され故郷に帰れると信じていた。

それから数年が経った。
すっかり老いてしまった昌幸・・・・白髪になって。

気もすっかり弱くなった。
「ひょっとしたらわしらはもうここから出られんのかもな」
と気弱な言葉を漏らす。

これまでどんな時でも諦めることのなかった昌幸が見せた
初めての弱気であった。

一方、信幸は信繁たちを九度山から呼び戻そうと徳川家康に何度も
赦免を願い出ていた。

しかし、徳川家康は一向に首を縦に振らない。

◆ナレーター
「家康は慶長8年、ついに征夷大将軍となった。
 それから2年後にはその地位を秀忠に譲り、徳川の世はますます盤石な
ものになっていく。」


●大坂城
真田信之は北政所から進言してもらえればもしかしたら・・・
と思った。
真田信之はかつて北政所の侍女をしていた通という女性に橋渡しを
お願いする。
ところが、真田信之は通と出会った瞬間、運命的な物を感じてしまった

●江戸城
加藤清正は
「大坂城で秀頼様に会っていただきたい。」
家康「二条城で・・会っていただきたい。」

徳川家康は大坂城では家臣というとになってしまうので、
 自分造らせた二条城で会いたがった。

●大坂城
秀頼「・・・どちらでもよいではないか>」

◆ナレーター
 4月8日、・・・


●二条城


●回想・・・・「三成・・・遺言」
  「加藤に三成が頼んだのは・・・秀頼の臣下に家康をさせる。
   ということだった。」

●二条城

家康「さがれ、肥後守」
しかし、加藤は真ん中に座って、平然としている。・・・・

「余が豊臣秀頼である。」

徳川家康は久しぶりに豊臣秀吉の嫡男:秀頼と会った。
久々に見た秀頼は想像以上にたくましい若者に育っていた。
徳川家康は豊臣秀頼の凜々しい姿に一抹の不安を覚えるの
であった。

●二条城
正信「なかなかの方になられましたな・・・」
家康「・・・」

正信「服部半蔵の出番」


◆ナレーター
「加藤・・2ヶ月後、熊本に帰る舟の中で死んだ。」


●九度山

「罪人の子」
と大介は言われ、しょげる

昌幸「ワシは徳川家康に2度勝った・・・
   大介にはその地が流れている。」
大介「・・・」

昌幸は大介の頭をさすりながら、
「・・・噛み付け・・・勝ったもんがちだ。」

幸繁「父上」
昌幸「・・・兵法書じゃ。ワシがまとめた。・・・
   遺言じゃ・・・ここを抜けだし、お前は豊臣につけ。・・・
  ・・・
   まず、・・・尾張を制す・・・徳川がやって来たら・・・
   尾張をすてる。・・・近江をまで引き下がる。・・・
   心をつかむ。・・・瀬田・宇治の橋・・・
   二条城を焼け・・・大坂に迎えるしかない・・・
   長引かせだけ長引かせ.・・・
 大坂城だけに関わってはいられない。・・・・

幸繁「私には・・・」
昌幸「場数はいらん。・・・」
  「軍勢を・・・・・・
   1人1人が思いを持っている。・・・夢夢うわすれるな。」

皆が見守る。・・・
昌幸「死ぬ前のに・・帰りたかった。我らのしろに・・・」

???の鳴き声・・・

「御館様、・・・・」

◆ナレーター
真田信繁にとっては実力を養いながら活躍の機会を待つ10年で
あった。
1610年、本多忠勝が亡くなった。
関ヶ原の戦い(1600年)からの11年後の1611年歳月が流れた。
真田昌幸が死んだ。・・・・




◆ゆかりの地

●高野山

●「小さな村があった。・・・紺屋町
●「蓮華正院」
6月・・・・10年・・・・

●奥の院・・・武田信玄・勝頼の供養塔


●織田信長の供養塔
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●豊臣家の供養塔
画像

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