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zoom RSS 箕輪初心:生方●西伊豆I『長浜城&重須の戦い:武田VS北条』詳細編

<<   作成日時 : 2016/09/07 06:39   >>

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天正7年(1579)11月、北条氏政は、伊豆西岸部の防備を厳重にする
ため、長浜に船掛庭=重須の湊を築かせた。重須の湊を守るため、
長浜城の大改修を行った。『北条五代記』によれば、重須湊・長
浜城には後北条水軍の将梶原備前守をはじめ、清水越前守・富永
左衛門尉・山本信濃守らが置かれた。天正8年(1580)3月15日、
後北条水軍と今川水軍を接収した武田水軍が重須沖で衝突した。
 駿河湾の海戦は大激戦であったが、結局、勝負はつかず、日
没になって双方が船を引いたことによって戦は終結した。
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〜〜〜西伊豆シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方◆西伊豆@【夕日のロマンチック街道の
 これからのブログ予定総論
http://53922401.at.webry.info/201510/article_3.html

箕輪初心:生方●西伊豆A「三枚橋城→沼津城」:武田信玄も侵攻した城
http://53922401.at.webry.info/201510/article_10.html

箕輪初心:生方★西伊豆B【若山牧水と沼津千本松原】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_11.html

箕輪初心:生方◆西伊豆C【沼津港界隈の散策】&『グルメ記録』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_12.html

箕輪初心:生方▲西伊豆D『沼津港口公園:本居長世の碑』〜
沼津御用邸〜
http://53922401.at.webry.info/201510/article_13.html

箕輪初心:生方●西伊豆E【獅子浜館&獅子浜城遠望&獅子浜ダイビング】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_14.html

箕輪初心:生方▲西伊豆F『三津浜』クルージング&三津城主:松下氏
http://53922401.at.webry.info/201510/article_15.html

箕輪初心:生方▲西伊豆G『長浜城1回目の復元前』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_16.html

箕輪初心:生方●西伊豆H『復元が素晴らしい長浜城3回目』=北条水軍の城
http://53922401.at.webry.info/201609/article_6.html

西伊豆の長浜城は沼津市内浦長浜にある。沼津の漁港前から〜
獅子浜城前〜三津浜〜大瀬崎ダイビングでは往復40回以上も
通っている。しかし、長浜城に登城できたのはわずかに3回で
ある。長浜城の水軍の城らしい雰囲気に感動する。本曲輪は大
きくないが、海に向って段曲輪が伸びている。また風浪の影響
を受けないように、湾の内海に船溜りがあり、縄張りが抜群の
構造である。長浜城は実に素晴らしい復元&分かりやすいガイ
ダンス施設となっている。



●●『長浜城跡』●●
〒410−0224静岡県沼津市内浦長浜

【3】長浜城3回目・・・平成25年(2013)8月26日
長浜城主は大川兵庫という在地土豪と伝わっている。
北条氏政の時代には、すでに北条家に接収されていた。
長浜城は北条家の水軍城として、記録に最も出てくる城だが、
特に今川水軍・武田水軍との攻防戦は、「伊豆水軍物語」「北条五
代記」などが詳しく載っている。

『長浜城跡』
@長浜城跡模型
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A説明看板
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詳しく歴史などが紹介されている。
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第三曲輪・第二曲輪・櫓・第一曲輪などへ行くことができた。

B登り口

○階段・・・

C堀

D第四曲輪
○第四曲輪の説明

○第三曲輪の東の通路

E第三曲輪
○鳥居があった。
○裏の土塁
○第三曲輪の説明


E第二曲輪
○虎口
○土塁
○第二曲輪土塁の説明
○第二曲輪掘立柱建物跡の説明
○掘立柱建物跡(復元)

F第二曲輪 掘
○第二曲輪掘の説明)


G第二曲輪の復元櫓=物見櫓→魚見櫓?
○第二曲輪櫓についての説明
○復元した櫓からの景色

H第一曲輪
○第一曲輪土塁と塀の説明)
★第一曲輪は長浜城の中でも最も高い場所にある。
○第一曲輪にあった説明
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  (★重須の湊方面)
「よく晴れた日にはここから、富士山と愛鷹山を背景として沼津
市街が広がる様子を見渡すことができます。戦国時代、長浜城が
北条氏の海賊城であった頃にも、この場所から狩野川河口あたり
がよく見えたはずです。天正7年(1579年)この狩野川河口に
北条氏の敵である武田氏が三枚橋城を築いて水軍を配置しました。
北条水軍はこれに対抗するため、梶原備前守景宗を大将として、
ここ長浜城に特別な軍船隊を置きました。梶原景宗は伊勢の出身
で、当時西国で発達していた「安宅船(あたかぶね)」と呼ばれ
る大型軍船の運用を得意としていました。長浜城は梶原景宗の指
揮する「安宅船」船隊の基地として整備され、武田水軍に対して
有利に戦いを進めるための足場になったのです」

○三枚橋城方面の景色・・沼津市街がとてもよく見える。

○下の3つの小曲輪






●▲■ 長浜城の歴史 ■▲●
・延徳3年(1491)  足利政知の死→堀越御所の内紛
        
・明応2年(1493) 北条早雲満37歳明応の政変
管領:細川政元が10代将軍義材(義稙)を追放した。
  茶々丸弟:清晃を室町殿(実質上の将軍)を擁立した。
  足利清晃は還俗して、義遐→義澄と名乗った。
  
  足利義遐=義澄は母と兄:茶々丸の敵討ちを命じた。
足利義澄は伊勢宗瑞(北条早雲)に茶々丸討伐を命じた。
  
  →伊勢新九郎(=北条早雲)は「不孝者・茶々丸の成敗」を
  大義名分に、伊豆の武士団を味方につけた。
  
伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵入を招いた。
 
@興国寺城説
 伊勢新九郎(北条早雲)は伊豆堀越御所足利政知の子:茶々丸を
急襲した。

A駿河の丸子城説
「伊豆討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され上野国
  の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と
  今川氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船
  に乗って清水浦を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸した。」
    (★北条五代記)
住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。
  (★伊豆水軍物語P86)
伊勢新九郎家臣・・約200
今川氏親の家臣・・約300
  葛山氏は今川氏に命じられて援軍として参加している。
  その後、伊勢宗瑞=北条早雲の次男:氏時を養子にむかえた。

+触れを出した。西伊豆の水軍のメンバー以下の通りである。
@三津の松下三郎右衞門
A江梨の鈴木兵庫助
B土肥の富永政直
C田子の山本太郎左衛門
E雲見の高橋将監
E妻良の村田市之助
達の水軍が加わった。

陸では、大見の3人衆:梅原・佐藤・上村などが加わった。
大見3人衆
  大見:梅原杢右衞門
  大見:佐藤四郎兵衛
  大見:上村玄蕃
  であった。

 (★土肥の富永一族:土肥町教育委員会)

  
 @北条早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中
   に逃げ自害に追い込まれた。」
   (★北条五代記)
茶々丸側の宇佐美能登守貞与の必死の抵抗があった。
宇佐美は戦死した。
  A茶々丸は堀越御所から逃亡して、武田氏、関戸氏、狩野氏、
   土肥氏らに守られて、中伊豆から南伊豆に逃亡した。
  
 北条早雲は伊豆の国人衆を味方につけながら、徐々に南下した。
  茶々丸方を追い込んでいった。

※説1・・・「茶々丸は山中に逃げ自害した。」
    (★北条五代記)
※説2・・下田の堀の内に「茶々丸の墓」があり、深津城の関戸氏が
   かばったという説もある。
  (★下田市教育委員会)
※説3・・・茶々丸はさらに、三浦氏隠れた説もある。
      後日、三浦義同(道寸)は北条早雲の援助を受け、
      三浦時高を茶々丸のいる新井城を攻撃し、奪取した。
(★漫画「北条早雲)
※説4・・・茶々丸はさらに、甲府に逃れて、今川氏親&北条早雲に
      討たれた説もある。
(★ウキペディア)
抵抗する関戸吉信の深根城=深根津城(下田市)を攻撃して皆殺し
  にした。3000人とも言われている
(★下田市教育委員会)

・明応3年(1494)
韮山城を居城とした。
  伊豆国内で四公六民の税制などを行い、領民の支持を得た。
富永政直は興国寺城代になった。
(★富永一族の歴史:土肥町教育委員会)

  北条早雲は伊豆:韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として
  伊豆国の統治を始めた。
  高札を立ててた。北条早雲は
  「味方に参じれば本領を安堵する。参じなければ作物を荒らして
  住居を破壊する。」
  と布告した。
  分国法=早雲寺21ヶ条を制定し、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、
  病人を看護するなど善政を施した。
※漫画:北条早雲では、風土病があったので、薬を配った。
  →暴君:茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち
  北条早雲に従った。
   (★漫画:北条早雲)
※「堀越公方家の重い税制を廃して四公六民の租税を定めたので、
  領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われるが、
  江戸時代の軍記は違っていた。
 北条早雲に5年かかって、全伊豆を平定したのは事実だった。



※初代北条早雲は小田原を支配、二代氏綱・三代氏康は
   武蔵から下総まで侵攻。
   北条氏は水軍を組織
 @三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織。
        →江戸湾から里見氏の勢力を駆逐。
 A宇佐美・福浦・岩を中心に東伊豆の水軍を組織。
 B長浜・獅子浜・江梨(大瀬崎)・土肥を中心に西伊豆の
  水軍を組織。
  三津浜:松下三郎右衞門尉
  江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁伴
  土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
  雲見:高橋将監
妻良:村田市之助

→今川義元亡き後の駿河に侵入した武田氏(久能山城が水軍基地)
  江尻城・袋城などへの準備。

・弘治2年(1557) 北条氏康は熊野水軍に書状を送った。
  @梶原吉左衞門・・・
    梶原助五郎・・・江戸馬込32貫60文
    梶原日向守・・・六郷新井宿51貫・・・後、安良里城へ
A愛州兵部少輔・・・三浦佐原80貫文
            御蔵出130貫文500文
  B橋本四郎左衞門
  C安宅紀伊守・・・・御蔵出215貫文+1貫500文


・永禄12年(1569) 甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻。
   北条氏の砦跡地に三枚橋城が建設された。
   御館の乱により敵対することになった北条氏に対する
  武田氏の駿河・伊豆国境の最前線の拠点である。
   

・元亀元年(1570)
   武田信玄の三枚橋城築城説(有力説) 
   城将は高坂源五郎(春日昌元)・曽根昌長(箕輪城から)
  ・堀内政豊等であった。
  武田氏の駿河における拠点の一つが三枚橋城として
    機能し始めた。
  武田信玄が三島や韮山城に攻め込んだ。           
※武田水軍は海上から物資の支援をした。
   
   興国寺城にいた伊勢新九郎(北条早雲)は政知の子:
   茶々丸を討って伊豆の領主。
      
   韮山城を本格的に築城。

・元亀2年(1571)
●武田水軍   
  小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)
(★甲陽軍艦)
VS  
 ■北条水軍 
  北条水軍の総裁は玉縄城代:間宮康俊であった。
間宮康俊の子:間宮武兵衛・間宮造酒丞もいた。
  三津浜:松下三郎右衞門尉
  江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁伴
  土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
  雲見:高橋将監
  
結果・・・北条水軍の負け
  間宮武兵衛・間宮造酒丞は武田信玄に1500貫文の知行で
  配下になった。

・元亀3年(1572)
●武田水軍       
  間宮武兵衛:10艘・・・(玉縄城代間宮康俊698貫の子)
間宮造酒丞:5艘・・・・(玉縄城代間宮康俊の子)
小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)

  ・・・計53艘

徳川水軍とも対戦した。

・天正4年(1576)北条氏政の大石越後守直久(北条氏照の義弟の子)
  が獅子浜城代となって守備した。
甲斐武田氏が沼津に進攻して以降、獅子浜城は西伊豆海岸防備
  の拠点となった。
  獅子浜城には、港がなく、水軍城ではないが、水軍援護基地と
  して重視された。
  ★武蔵:滝川城にいた大石一族・・・北条氏康の2男:
北条氏照が大石一族に婿養子の形を取って、八王子付近を
手に入れた。
  


・天正5年(1577) 
   武田勝頼が三枚橋城築城説。
  ●武田氏の三枚橋城
   ・高坂源五郎(春日昌元:元箕輪城代の春日弾正の子)
   ・曽根昌長(箕輪城城番から・・・永禄10年、三枚橋城代)
   ・堀内政豊(箕輪城城番・・・子孫は高崎市箕郷町にいる。)ら
を送り込んだ。
  
〜〜狩野川を挟んで〜〜〜〜〜〜
  ■後北条氏の戸倉城:笠原政尭(政晴=松田憲秀長男:笠原家養子)
        泉頭城:笠原範定

  武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻撃
  した。
  武田勝頼は獅子浜城の動向も気になっていた。

・天正7年(1579)11月梶原備前守景宗が重須の長浜城に着任。

熊野水軍(海賊):梶原景宗を招いて、梶原備前守景宗と
  名乗らせ、任命し、本拠として長浜城を与えたのである。
  北条水軍の事実上の統括者である。
  下田の整備も進めて武田勝頼との決戦に備えた。

●戦国時代関東一円を治めた後北条氏の水軍根拠地、重須湊
 を守るための城と考えられている。
 『敵船を発見したものはすぐに狼煙をあげること。
 一ケ所の狼煙を見届けたなら諸浦一同狼煙をあげるべし。
 狼煙を見た者は隣に伝えるように揚げること。
 見届けを怠ったものは重罪に科す。
 猶、のろし次第味方の船を出し、敵を討ち留まること。
 少しも油断なきよう。」

 『狼煙』が揚がった時、いかに早く伊豆の北条水軍の根拠地である
 長浜城や伊豆の中心の城:韮山城に連絡がするかが当時の
 最重要課題であった。 
 ▲鷲頭山(392m)・・・360度の展望できる山。
   一番高く、駿河湾と田方平野を一望。
 ▲発端丈山・・・葛城山に繋げるポイント。
 ▲葛城山(452m)・・・現伊豆長岡町のロ−プウェイ山頂。
 ▲真城山・・・・・・・・・・大瀬崎から井田・戸田への連絡ポイント。
 さあ、どうつなげたのでしょうか?
 (★静岡県史 資料編8 中世四p547を参照)


・天正8年(1580) 
戦いは、武田勝頼が浮島ケ原(現狩野川河口付近)に出陣した
 ことに始まった。
 北条氏政は嫡男:北条氏直に出陣を命じた。

3月15日 重須沖の駿河湾海戦。
 武田水軍 VS 北条水軍

 ■北条水軍 
 
  ※総大将として長浜城の梶原景宗が指揮を取った。
  長浜(重須)梶原梶原備前守景宗
  三津浜:松下三郎右衞門尉
  江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁伴
  土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
  雲見:高橋将監
妻良:村田市之助
これに加え、
戸田:北条幻庵の配下
  安良里:梶原日向守
下田:?
  A東伊豆の水軍
  B三浦水軍
   
北条氏直は重須の湊から兵船を繰り出させた。

  北条水軍は、梶原備前守と嫡子:梶原兵部大輔を先方として、
  松下三郎左衛門尉(三津浜)・鈴木兵庫助繁伴(江梨・大瀬崎)
北条無幻配下(戸田)、富永左衛門尉(土肥)、
  山本信濃守(田子)・清水越前守(子浦?)、村田市之助(妻良)
  友永佐兵衛尉(?)、山角治部少輔(八幡野)などの船大将が、
  重須の浦に大船を多数停泊させて待ち構えていた。
 梶原備前守ら後北条水軍の武将達が押し出していった。
 
  それに対し、武田勝頼も向井氏ら武田水軍の将に命じて船を出
  させた。
  重須沖で海戦が繰り広げられることになった。

●未明、武田水軍は3艘の関船をに重須の浦(長浜)に接近させ、
  鉄砲を撃って内浦に放火を始めた。

  北条水軍は10艘の大型安宅船(30m程)を出撃させた。

  武田水軍は浮島ヶ原方面(現狩野川河口付近)に退却した。

 北条水軍は追いかけた。
 
 武田水軍は狩野川河口からは2艘の関舟を待機していて合流した。

 武田水軍の関舟5艘と、北条側の安宅船10艘が戦いとなった。
 北条水軍は、武田水軍のの関船を包囲する作戦に出た。
陸からが武田の曽根昌長隊が膝まで入って鉄砲攻撃をしたり、
 火の付いた弓矢を射たりした。
  
  速度が速い武田の関船は北条水軍の安宅船の攻撃をかわし、北条
  水軍の安宅船に鉄砲や弓矢を撃ちかけ、攪乱した。
 
 安宅船には、鉄板がはられ、火器を使っても無駄な抵抗だった。

 結局、夜になり、両軍とも船を引き揚げた。
 結果・・・海戦には決着がつかなかった。

・さらに、海戦は行われた。
 武田水軍の向井伊兵衛正綱(持舟城主)の活躍により北条水軍は
  逃げ始めた。向井正綱は北条の安宅船を奪った。
(★「甲陽軍鑑」)


・天正9年(1581)
10月 三枚橋城主:曾根昌長から内応を持ちかけられ、
   笠原政尭・笠原範定が北条氏を離反した。
 
  笠原政尭・笠原範定が武田勝頼の支援を受け、義弟:笠原照重
  (笠原康勝の実子)を攻めて敗死させた。

  戸倉城は武田勝頼の所領となった。
 
  黄瀬川の戦い
   武田 VS  北条

忍者対決もあった。
  武田乱破 VS 風魔一族200人(足柄郡+伊豆)


・天正10年(1582) 
  2月29日 武田氏の城:戸倉城が北条氏の攻撃により落城
   した。守備兵が動揺し自落した。

  3月21日 武田勝頼・信勝父子が天目山(景徳院)で自害。
  武田氏が滅亡。
  ★2ヶ月後には景徳院の墓を紹介できると思う。     
 

〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
・天正16年(1588) 後北条氏は豊臣秀吉との関係が悪化した。
 豊臣秀吉と小田原北条氏の関係がさらに緊迫化してくると、
  北条氏は豊臣秀吉に備えて韮山城や山中城の修築を行った。
  同時に、下田に海の備えとして下田城を築城し始めた。


・天正17年(1589) 朝比奈知明が死亡した。
 朝比奈家は子がなかった。
そして、城将には伊豆衆を率いる清水太郎左衛門が配されたの
 であった。
  伊豆国は北部を笠原氏(山中城代:松田康俊の長男)、南部を
 清水氏が支配した。
 
しかし、既に関東以西は豊臣秀吉が統一していた。
 豊臣秀吉にとって「最後の敵」と呼べるのが後北条氏であった。
 豊臣秀吉との対決が避けられない状況が確実となった。
 西からの攻勢に備えるべく、軍港である下田の城が重要視された。
 豊臣秀吉の水軍勢は熊野九鬼水軍・安宅水軍・村上水軍・河野水軍
 といった西国諸水軍も吸収していた。
 伊豆半島を本拠とする後北条氏の水軍も戦時即応体制が求められ
 たからだ。
 後北条氏5代目当主:北条氏直は、南伊豆の地と水軍を掌握する
  清水康英に対して後北条水軍の母港となる下田城の再整備と
  拡充を命じたのである。

 清水康英は鵜島城をさらに修築した。
※先祖かいた本郷氏島城にちなんで、鵜島城と名付けた。
  (★伊豆水軍物語)
鵜島城=下田城は、標高68.7mに位置する鵜島山頂に主郭を置いた。
 3方向に伸びる尾根伝いに細長い曲輪を配置している。
 
 雲見(賀茂郡松崎町)の高橋氏や妻良(賀茂郡南伊豆町)の村田
 氏が戦闘準備のために入城した。
 そして、多数の武器・兵糧なども運び込まれた。
清水小太郎康英は下田城城主として伊豆水軍を率いた。

 後北条氏の戦略に基づいて、
  @下田という良港=水軍の出撃拠点とし
  て確保するために下田城が城郭として本格的に城が整えられた。
 A土肥の高谷城前から八木沢に港が建設され大型舟の入れる港を
   造った。また、丸山城を築城した、
  B長浜城の整備を強化した。
 B井田に真城(さなぎ)山に烽火台を造るように
  高橋家に命じた。
  ★これにより、内浦の長浜城〜土肥の丸山城〜下田城ねの
   西伊豆の烽火網は完備された。
 
北条氏直は
「豊臣秀吉軍は船働歴然ゆえ下田城を設けたのであり、康英は戦上手で
あるから一切任すのである。他人の差し出口は不要である。」
といった意味の手紙を送った。
 (★北条氏直の判物:清水文書)

   
8月 関白豊臣秀吉の裁定で、
   ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
   ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
   →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。
       名胡桃城は真田氏に残す。
     矢沢頼綱は沼田城から退去

10月 猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取(名胡桃事件)。 
北条氏邦の右腕で、沼田城主:猪俣邦憲は、名胡桃城主:
 鈴木主水の配下、中山城主:中山九兵衛を調略し、偽の
 真田昌幸からの手紙で、鈴木主水を城外に誘った。
南西の榛名峠城(=権現山城)から名胡桃城を奪取した。
鈴木主水は沼田の正覚寺で自刃した。(名胡桃事件)
※小田原征伐勃発の口火を切った城である。
{★名胡桃城の歴史・月夜野町(現みなかみ)教育委員会より}
  

 ●真田昌幸が徳川家康に苦情
    →豊臣秀吉は北条氏政に質問

11月21日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの書状
  「秀吉に上洛しない北条が、一部の部隊とはいえ、
   秀吉の裁断を破って真田領を侵した
   ことは〜〜〜。」と激怒。
12月 北条勢:猪俣邦憲は3方向からの岩櫃城攻撃。
岩櫃城周辺に大戸から攻撃。
    @中山口→横尾八幡城の戦い
    A白井口→中之条古城の戦い
    B大戸口→手古丸城占領→仙人窟陣城で監視
          (群馬県東吾妻町大戸)

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html
★★箕輪初心●【横尾八幡城】
http://53922401.at.webry.info/201202/article_12.html

→豊臣秀吉の小田原征伐の口実・豊臣秀吉は北条氏追討の指令。
  猪俣邦憲が兵を撤退させた。 
   
※土肥の富永一族は江戸城の2の丸にいて、武蔵に8万石のbR
であった。富永一族には北条氏邦の右腕:猪俣邦憲がいる。
★猪俣邦憲は養子前は、江戸衆:富永家の一族:富永能登守助盛
 と名乗っていた。
★富永氏は西伊豆の土肥の豪族であると思われる。富永助盛は
富永政家→政辰の身内だと思われる。
富永一族は北条水軍の総裁であり、北条家のbRの支配地を持っ
ていた。推定8万石? 伊豆の土肥・武蔵も領国であった。
栗橋城や江戸城・・・・。 
★2015年の夏には富永一族を紹介したい。
  もう、文章は2年前の秋に書いてある。   
(★土肥の富永一族:土肥教育委員会)
名胡桃事件で、豊臣秀吉の小田原城攻撃をさせてしまった人物
である。(★関東古戦録:久保田順一訳)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
しかし、現在、豊臣秀吉の勝手に攻撃した説が有力になりつつある。

 後北条氏は関東の大半を領有し、東国第一の大大名になっていた。
 

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
3月 沼津を進発した豊臣の水軍が下田城を来襲した。
豊臣水軍は長宗我部元親・脇坂安治:九鬼嘉隆(くきよしたか)ら
 海戦上手の「海賊大名」である。3人を大将とする1万余りの
  軍勢で下田城を囲んだ。
長宗我部元親勢2500、九鬼嘉隆勢1500、脇坂安治勢1300という
 大軍であった。

 北条方の清水康英を大将としてわずか600余名の兵力であった。
伊豆下田城には清水康英、次男:政勝らが籠もった。
下田城の攻防戦が始まった。
  清水康英は手兵600余で約50日にわたって籠城した。

 下田城で籠城することにより豊臣方水軍は足止めされた
 後北条氏の小田原城への攻勢は影響を受けた=遅くなった。
 ★下田城の籠城は小田原城を防衛するための戦略に叶うものだった
 と考えられる。
 籠城戦においては、武蔵国(東京都・埼玉県と神奈川県東部)から
 城の副将として派遣されて来た江戸朝忠らが戦死した。
 城兵の抵抗は根強く、遂に力攻めでは落城しなかった。


後北条氏の戦略に基づいて、
  @下田という良港=水軍の出撃拠点とし
  て確保するために下田城が城郭として本格的に城が整えられた。
 A土肥の高谷城前から八木沢に港が建設され大型舟の入れる港を
   造った。また、丸山城を築城した、
  B長浜城の整備を強化した。
 B井田に真城(さなぎ)山に烽火台を造るように
  高橋家に命じた。
  ★これにより、内浦の長浜城〜土肥の丸山城〜下田城ねの
   西伊豆の烽火網は完備された。

・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、
       長浜城は緊張状態。
       北条方の小田原籠城策。
            
  豊臣秀吉の毛利水軍・九鬼水軍の主力が小田原の海岸に集結。
  北条水軍が小田原に集結した後の長浜城を守ったのは
  在地土豪:大川兵庫と地元住民たちだった。
  →長浜城は水軍基地としての機能を失い、韮山開城と共に廃城?

 ※大川兵庫の子孫はこの地の津元(網元)として繁栄。
  大川家古文書「豆州内浦漁民資料」・・・
  近世漁業の実態を知る上で貴重な資料が残存。

・明治時代   長浜城跡には、三井家の別荘が建築。
・昭和40年代 別荘は取り壊わし→興廃。
・昭和60年  市教委による詳細分布調査が実施。
    4つの曲輪と15の腰曲輪の他、曲輪上の土塁跡
    6基の掘切等が確認。
    曲輪は小規模であるが、城郭形式は直線の連郭式で、
    後北条氏の城郭形式の典型であると分かった。

・昭和63年  国の史跡に指定

・平成6年度 土地の公有化も完了。
・平成7年度より保存整備に着手。
  城の南側:陰野川沿いに田久留輪と呼ばれる地域があるが、
  水軍武将の居館のあった曲輪跡であると推定。
    (★沼津市HPを参考に編集)




◆参考サイト
・沼津市HP
http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/siro/nagahama.htm
・埋もれた古城=H氏の友達

◆参考文献
・現地案内板
・伊豆水軍物語:永岡治著(中公新書絶版)
・富永一族:土肥教育委員会
・静岡県史



★明日は西浦平沢地区かな?

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