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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸115【第36話「勝負」:沼田城の稲→第2次上田合戦】&史実編

<<   作成日時 : 2016/09/13 07:37   >>

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犬伏の別れ→沼田城の小松姫→第2次上田合戦→関ヶ原の報告。
@真田昌幸と信繁は、真田信幸と別れ、徳川勢を迎え撃つために上
田城へ向かった。A徳川秀忠の先鋒:真田信幸命じられた。兄弟の
直接対決を余儀なくされた。B途中、真田昌幸と信繁は沼田城に立
ち寄るが、稲に入城を断られた。C初陣の徳川秀忠は本多正信とと
もに兵を進める。D真田信繁は真田信幸とは戦うふりをする作戦に
出た。E第2次上田合戦に真田昌幸&幸繁は勝った。F関ヶ原の戦
いの知らせは「西軍の敗戦」であった。徳川秀忠軍を足止めして西
軍を勝たせようとした真田昌幸の作戦は成功しなかった。2回、TV
を見ているが、よく思い出せない。
画像

画像


箕輪初心◆豊臣秀吉の死〜徳川家康の小山評定〜関ヶ原
の戦いへ
http://53922401.at.webry.info/201312/article_14.html
★関ヶ原の戦いの前・・真田父子は佐野:犬伏の別れで別れた。

箕輪初心▲【老神ひな祭り】&真田信之(幸村の兄)の妻:小松姫
http://53922401.at.webry.info/201503/article_3.html

箕輪初心:生方▲真田丸23【沼田正覚寺】信之の妻:小松姫の墓
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201601/article_26.html

箕輪初心●岐阜:関ヶ原の戦い=天下分け目の合戦
http://53922401.at.webry.info/201109/article_12.html

箕輪初心●山形【長谷堂城の戦い】直江兼続VS最上義光
http://53922401.at.webry.info/201307/article_9.html

箕輪初心:生方▲『14代:毛利輝元』関ヶ原の戦いまで
http://53922401.at.webry.info/201512/article_20.html





◆真田丸あらすじ【第36話「勝負」】
◆ナレーター
「慶長5年(1600年)7月21日、・・・。
犬伏(現栃木県佐野市犬伏新町)で徳川家康と石田三成のどちらに
付くか激論を戦わした真田父子は、真田昌幸と信繁は豊臣に、真田
信幸は徳川に付くことになった。

★真田信幸は徳川家康の家臣:本多忠勝の娘→徳川家康養女を妻にし、
真田信繁は石田三成の親友:大谷吉継の娘を妻にしている。

★真田昌幸は妻が石田三成の妻と姉妹関係にあったことと、第一次
上田合戦のときから徳川家康が大嫌いになっていたからのようであ
る。
(★9月15日が関ヶ原の合戦)。

●犬伏
昌幸「上田に戻るぞ。」

幸繁「なんだか、聞きづらいぞ。」
河原「歯ががかけたげけですので、・・・」
★河原綱家は真田昌幸の妻の兄の子・・・


●小山の陣
家康「なんと手回しのよさ。
 治部が裏で糸を引いているな?」

家康「上杉など相手にしておれんわ。」
★@「真田丸」説は「蜂起を知らなかった説」を取っている
★A通説は、「石田の蜂起促進説」で、情報を増田から入手。


◆ナレーター
「7月24日、真田安房守は上田に向かった。」


●小山の陣

信幸「父は上田に参りました。」
家康「何?」

秀忠「ゆゆしき大事・・・」
信幸「・・・ここでのたれ死んでも・・・」
    
殺気だつ。・・・
忠勝はかばう。

家康「もうよい。・・・お主の父に去られたことはいたいが・・
    お主は残ったことは嬉しいことである・・・
   頼りにしておるぞ。」


●小山評定

家康 「毛利中納言は。・・・・
    おのおのは人質を取られている。・・・」
   ワシについていくのは、おのおのの判断で決めて・・」

福島正則「内府様に従う。・・」 」

4つの声は賛成した。
・・・

家康「またしても、安房守かあ。断じてゆるさん。


●犬伏


村松殿・小山田信誠が会いに来た。・・
稲・こう&2人の子ども・・・
村松殿「・・・」
昌幸「・・・」
こう「・・・・」

村松殿「・・・」

昌幸「よう息災で?達者であったか」
2人の子ども「はい、おじいさま・・・」
★ 子どもが可愛すぎる。

稲「我が夫はいずこへ?」
幸繁「兄は徳川に付いた・・」
稲「徳川にのこったのですか?」

こう「敵と味方に・・・」

稲「今日、おもどりなら・・・しばしのご猶予をください。」
昌幸「よかろう。」
稲 「さあ、もどりましょう」

●沼田城
★昌幸と信繁は上田城で戦さをするために上州(群馬県)沼田に
向かった。

堀田「御開門・・われらは真田安房守の手の者・・・」
幸繁 「おかしいな。」

稲達が弓などを構えている。
稲「これより一歩とも、・・・
  ・・・お引き取りを・・・」

幸繁「」
昌幸「まあ、そういうな・・
    敵と言っても・・・」

稲「射掛けよ。」

昌幸「まて、・・」
  「流石、本多忠勝殿の娘、信幸もいい妻を娶った。・・・・」

★留守を預かる信幸の妻:稲(後の小松姫)稲の思いがけない行動
に出たのである。真田昌幸の計略を見抜いて開門を拒んだ。
稲「たとえ舅殿でも敵を城内に入れることはできませぬ。」
と断った。真田昌幸は
「老い先短いので、孫に会いたいだけだ。」
と言った。
翌日、稲は寺で昌幸に孫を会わせたという。 
昌幸は「
武士の妻はこうあるべき。」
と、ほめ称えた。
沼田城を守ったという有名な逸話である。


★「真田丸」では、稲は「犬伏」に行って、夫が真田昌幸と信繁
が敵方になったことになっているが、事実かどうか?
 しかし、本当はどうやって知ったのだろううか。


◆ナレーター
 「7月27日、昌幸は上田城に戻った。・・・」


●上田城
昌幸「大戦である。・・何の因果か・同じ策は使えん。」
幸繁「徳川勢の中には・・・兄伊豆の守もいる。

昌幸「遠慮はするな・・・しかし、適当に・・・」
と家臣達に話す。


●小山の陣
家康「伊豆守・・・先鋒を命ずる。・・・」


★真田信幸は、犬伏で徳川家康を待つことにした。

徳川家康は西軍の挙兵を下野国(栃木県)小山で知ったため、
ひとまずに江戸に戻った。


◆ナレーター
「8月1日、信幸は沼田城に戻った。・・・


●上田城

石田治部から手紙が来た。・・・
昌幸「信濃1国か・・」?
幸繁「甲斐・信濃・・・」?
 ★忘れた。
昌幸「 もうすこし値をつり上げよ。」

●関ヶ原?
治部「なんと欲張りな?」
大谷「くれてやれ・・」
治部「信濃・甲斐をですか?」
大谷「いや、案外、真田が要なのかも知れぬ」

◆ナレーター
「8月24日、真田信幸は徳川秀忠の率いる
  軍勢約3万8千に合流すべく下野(栃木県)の宇都宮城
  へ向った。」

●会津城
景勝「兵を動かそう。」
直江「会津を動いてはなりません。」
景勝「何故じゃ。」
直江「・・越後を取った後に、・・・」

◆ナレーター
「8月28日
「9月1日 徳川家康は江戸を発った。」



●小諸城
回想・・・第1次上田合戦・・・
正信「あの時は、神川(かんがわ)の堰を切られて、大変な
  目にあった。」


正信「今度は、先に堰を切っておきます。」



●上田城
昌幸「

堀田「寒川の堰はきられたとのこと・・・」
昌幸「流石、本多佐渡守」

昌幸「伊豆守が来る・・・」
昌幸はクルミをがちゃがちゃ・・・・・


●小諸城
秀忠「真田安房守より、上田城を・・」
正信「つらい、お立場ですな。」
信幸「・・・当然です。」

平野長泰「・・・」

手紙「・・・」

秀忠「降参することがあるのか?」
正信「いかがなされますか?」

正信「砥石城を攻めた時、・・・(滅茶クチャやられた。)」

信幸「私が守っておりました。・・」
平野長泰「・・・・」


口上・・・
@
A
B
C「上田城をいずれかえす。」
D本領安堵
E安房守、・・

「降服の条件・・・」

正信「時を稼いでいる・・お手前でよいのか?
信幸「むろん・・」

◆ナレーター
「交渉は決裂した。秀忠は烈しく怒った。・・上田城を攻めた・・・



●上田城
「これで」
平野・・

★9月6日
昌幸「染めや原か?」
昌幸「・・戦いたくないのう・・。」

:::::::::::::::::
幸繁「砥石城で・・一芝居をうつ。・・」
   三十郎は・・・門を開ける役を・・
   そして、そのまま、兄と行動をともにせよ。」

三十郎「いやでございます。」

幸繁「三十郎・・・父と兄はは敵になっている。
   三十郎でなければできない。三十郎、頼む。

三十郎は歯を食いしばる。・・・
幸繁「佐助は徳川の動向を策って、報告せよ。」

●染めや原・・・徳川の陣
正信「この前の戦・・伊豆守殿は加わっておりましたか?」
平岩「・・・」

正信「いい気に攻めたりはしません。」
平岩「どうするのだ?」
正信「刈田をします。・・」
平岩「砥石城は・・」
信幸「・・私がございます。」
正信「親子で対決・・・」
??「信用できませんな?」
正信「半々、でしょうか?・・」
信幸「内通者がいます。・・
正信「伊豆守も・・

本多正信は3つの作戦を考え出した

●砥石城攻め
家臣「源次郎様・・信幸様が攻めてきました。」
信幸が大将であった。
信繁が待つ。・・
信繁「放てえ。・・
鉄砲を打った。・・・

密偵・・*矢沢頼幸
信幸「門が開いたぞ・・突っ込め・・」

信繁「引っ込め・・・・」
信繁軍は撤退・・・

宮沢勘十郎頼幸=矢沢頼幸・・・
信幸「ご苦労であった。」

石礫・・・

信幸は勝ち鬨を上げた。

◆ナレーター
「信幸はこの日から動かなかった・・・」

●上田城
昌幸「本多佐渡守・・・
 
  ・・
幸繁「兵糧を奪い取れ。・・」

●河原・・
堀田作兵衛・・刈田を防ぐ。

@平野陣屋
A
B
※真田昌幸の3つの応対策は成功していた。

●小諸城

正信「真田はこちらと思えば、あちら・・・」
雨がどしゃぶりになってきた。・・・・
正信「本ぶりになりましたな?・・」
正信「・・・時をかせいでわけか?・・・」

秀忠「・・神川か?・・」
正信「退路をたたれましたな。」


●「上田城」
家臣「正面から来たら、・・・」
昌幸「裏をかく。・・」

昌幸達は地図を見た。・・・・

昌幸「「蚕山(伊勢山砦)・・・始める前が・・・」

●小諸
正信「兵の数を過信してはなりませぬ。・・」
家忠「・・・明日、出陣じゃ。・・・」



●砥石城
信幸は・・・・・動こうとしない。


●上田城
家臣「砥石城は?・・・」
昌幸「とらんでもよい。・・・怖がらせてやればよい。」

昌幸「生涯。戦さは下手と感じさせればよい。」
★「江〜」と同じ・・江は「秀忠様は戦さが下手ですねえ。」
と言っていた。


●小諸城
幸繁は小諸城に行ってみると、・・・
幸繁「・・・」
小諸城は・・・もぬけのからだった・・・
★9月7日のことだった。

●関ヶ原の徳川軍

◆ナレーター
「9月15日・・陣を張った。
 福島正則が石田勢を攻める手はずになっていた。・・ 」

●関ヶ原の徳川軍
「いよいよだな?」




●関ヶ原・・

◆ナレーター
「治部側9万・・・徳川・・・


●上田城「
戦勝に上田城が酒宴を開いていた。
踊りで・・・
幸繁「2度も勝った。・・
昌幸「酒がうまくて・・たまらん」


家臣「戦はどこで・・・」

昌幸と幸繁は「・・・
     「・・・」

佐助が帰ってきた。
幸繁「静かにせよ・・」
佐助は昌幸・幸繁の前にひざまずく。
昌幸「大儀であった。佐助。」
幸繁「いかがであった・・・・・」
佐助「・・関ヶ原で対戦しました」
昌幸「ついにぶつかったか?」

幸繁「続きを・・・
佐助「徳川方の大勝です。・・ 
   大谷様が討ち死になさいました。
   石田様は行方が分かりません。・・・」

幸繁「何・・・」
昌幸「まさか・・・」

佐助が届ける衝撃の知らせとは、
「関ヶ原の合戦で西軍(石田三成側)が負けた。」
であった。
徳川秀忠軍を足止めして西軍を勝たせ、甲斐・信濃を獲得ようと
した真田昌幸の作戦は失敗に終わった。
★真田資料館・上田博物館・真田宝物館に史料はあるの
だろうか?出展が分からない。



**************************
◆砥石城
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◆上田城

◆神川


◆上田城


◆上田城の真田神社
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◆神川

●▲■史実編*************************
【1】真田昌幸・信幸(信之)・幸繁(幸村)の動向

7月19日 徳川秀忠は江戸を出発。
      
    真田昌幸・幸繁(幸村)は徳川秀忠に合流するために
     7月の上旬に上田を出発。沼田で真田信幸と合流した。
  
7月21日 下野国犬伏に到着した時、石田三成からの書状(密書)が
      真田父子の元に届いた。

 書状は長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状であり、
  内容は以下の通りであった。
「急度申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻之誓紙ならびに
太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ、出馬候間、おのおの
 申し談じ、楯鉾に及び候。内府公御違の条々、別紙に相見え候。
此旨尤と思い召し、太閤様御恩賞を相忘れられず候はば、秀頼様
  へ御忠節あるべく候。恐々謹言。
                       7月15日
                     長大正家(花押)
                     増右長盛(花押)
                     徳善玄以(花押)

 意味は、「上杉景勝の討伐は豊臣秀吉の遺言に背き、
  豊臣秀頼を見捨て出馬した徳川家康に罪がある。
  豊臣秀吉の恩を忘れていなければ、豊臣秀頼に
   忠節を誓って下さい。」
  ・・・だから、西軍に味方をするように促している。
       
●犬伏の別れ(栃木県佐野市)
  (アウトレットの信号を北上し、大きな旧道東山道?
  を右折。あけみずしの反対地点。唐沢山城の手前4km)
    
 下野の佐野「犬伏の陣」で東軍・西軍に。
    真田家を残す手段は何か?
★過去60年知略で生きた3代で7主君に仕える真田家の
   総集編。激論。
 上田城真田昌幸(父)・幸村(次男)・石田方に所属・・西軍
 沼田城真田信幸(昌幸長男)は徳川方に残留・・・・・東軍
東西に別れた理由〜〜〜〜〜〜
@敵味方となっていればどちらが勝っても真田家は残るという説
 「一見、兄弟で戦うように見えるが、生き残り作戦を賭けた
     真田氏の知恵ではないだろうか?。」
A3人が妻の縁で東西に別れた説
 真田昌幸の妻は石田三成の妻と姉妹だった?(異説あり)
 真田昌幸の娘も石田三成縁者に嫁いでいた。
 真田幸村の妻は石田三成の親友:大谷吉継の娘であった。
 真田信之の妻は徳川家重臣・本多忠勝の娘で徳川家康の
  養女:小松姫であった。
  

・真田信之妻:小松殿(家康養女で本多忠勝娘)と
 矢沢薩摩守(昌幸の伯父)で、真田昌幸・幸村を沼田城に入れず。
→真田昌幸は「流石、本多の娘、これで真田安泰だ。」と言ったとか?


 真田昌幸:信繁(幸村)は真田信之と『犬伏の別れ』て、直ぐに
 上田に引き返そうとした。
 桐生辺りで、真田昌幸が
 「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出した。
途中、真田信之の沼田城に逗留しようとした。
 沼田城を訪れた。しかし、武装した姿で対応した小松殿は
 「たとえ舅であっても敵である。」
  と、真田信之の妻:小松殿(稲姫)入城を拒否した。
 
 真田昌幸の将兵は怒って門を破ろうとすると、小松姫は
 「力ずくで開門とは何事じゃ。 殿(信之)ご出陣の留守中に
  狼藉に及ぶとは曲者に違いない。女なれどもわらわは伊豆守
 (信之)の妻、本多中務(:本多忠勝)が女。 内府御女の称号
  を許されている。この城へ手をかけるものあらば、一人も漏
  らさず討ち取れ。」
 と、緋縅(ひおどし)の鎧をつけ、薙刀を掲げて城内より一喝
 した。



 (★産経新聞)
・・・・・・・ 
真田昌幸は
 「孫の顔が見たい。」
 と小松殿に懇願した。
 しかし、小松殿は頑として聞き入れなかった。
 真田昌幸は
 「頼もしきかな。武士の妻はこうありたいものじゃ。」
と答えた。
 小松殿は城門を開かず追い返した。
そして、真田昌幸は沼田で野陣した。
 (★『沼田日記』)

その後、真田昌幸が正覚寺で休息をした。
小松殿が子を連れて現れ面会した。
真田昌幸、信繁(幸村)父子は小松殿の才覚と人となりに
感服した(伝)。

※真田昌幸には沼田城を奪取する意図があったとも言われ、
  小松姫はそれを見越した上で穏便に解決したという説も
  ある。


真田昌幸・信繁は現在の中之条〜牧水コース:沢渡〜長野原〜嬬恋
 〜向かった。
嬬恋の大笹の関所に差しかかった。
徳川秀忠の命を受けた地侍が襲ってきた。
真田信繁(幸村)が斬り捨てた。
鳥居峠〜真田郷〜上田城にに無事たどり着いた


7月27日 真田信之宛に徳川家康からの安堵状
    「小県郡(上田城・真田館)を安堵。」
    (★真田宝物館)


【2】西軍の動き
7月18日 石田三成の西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に毛利輝元
     の名で開城要求した。
     鳥居元忠は拒絶した。

7月19日 伏見城の戦い
  西軍は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍に
  伏見城を攻撃した。
  鳥居元忠らの奮戦

8月1日 石田三成は家康の伏見城留守居役:鳥居元忠を攻撃。
伏見城に徳川方の細川元忠(幽斎)が籠城。
     伏見城は陥落した。
    →鳥居元忠が戦死。
 
8月?日 石田三成は近江:三井寺に基盤を置いた。     


 石田三成は
 @丹後攻撃・・・小野木重勝を総大将に1万5,000
 A伊勢攻撃・・・宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など
         約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んだ。
 B北陸攻撃・・・大谷吉継
C美濃攻撃・・・石田三成自身は美濃方面へ

8月10日 石田三成は佐和山城から西軍の大垣城に入った。
   岐阜城・・・織田信長嫡孫:織田秀信が豊臣秀頼の後見
   と美濃・尾張加増を条件に西軍へ入った。
 
8月11日・美濃の関ヶ原に近い大垣城に入城。

 (★当時の大垣城ではない。)



【2】東軍の動向
7月19日 西軍首脳の一人:増田長盛から一通の書状が徳川家康に
  届けられた。
  「石田三成らが家康打倒の謀議を行っている。」

7月21日 徳川家康は江戸城を出発した。

7月24日 下野:小山に到着。
 小山に本陣にいた徳川家康に鳥居元忠の使者
 「石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した。」
  ことを知らされた。

 徳川家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集した。
 「石田三成が豊臣秀頼をおし立てて挙兵との知らせが入った。]
と伝えた。

7月24日 真田昌幸の長男:真田信幸(信之)は東軍として、
     佐野から沼田?上田に戻っていた。


7月25日 【小山評定】
  徳川家康にとって最大の問題は、
「東海道・東山道の豊臣恩顧の武将がどう行動するか。」
であった。


徳川家康→黒田長政(如水)
 @「福島正則に豊臣秀頼には害が及ばないこと」
 A「石田三成が豊臣秀頼のためにならないこと」
 を説明し、東軍につくよう説得した。

 ※この時点では、毛利輝元が大坂城で豊臣秀頼を擁して石田方の
  総大将になっていることは、知らなかった。

 小山の本陣において軍議を開いた。
※小山評定が開かれた場所の説
 @JR小山駅北東の結城街道沿い説

  (★2回目の時には石碑があった。)
 A市役所付近説・・・ここにも石碑がある。

 (★祇園城パンフレットより)

 B祇園城(小山城)址説


●小山市の一覧表・・・★凄い。

 (★祇園城パンフレットより) 
本多忠勝・井伊直政ら譜代の家臣
+福島正則・山内一豊ら豊臣秀吉の恩顧の外様
 大名も参加。

→会津征伐を中止し、石田三成征伐のため大坂に向かう
      ことを決断。


小山評定では、徳川家康の考えが伝えられた。
@山岡道阿弥・板部岡江雪斎から情勢の説明
「妻子が人質になっているため、進退は各自の自由
である。」
徳川家康の意向が伝えられた。


〜〜〜反対派〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@真田一族が退転した。
 信濃上田城主:真田昌幸&真田信繁(幸村)
 →佐野犬伏の別れ・・・・
 
A美濃岩村城主:田丸直昌は西軍へ退転する。

〜〜〜賛成派〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今後の対応を協議した。
   
@福島正則が大坂のことは考えず、徳川家康に味方すること
  を表明。
A黒田・徳永寿昌が続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に
  従うことを誓約した。

※福島正則ら、石田三成に反感をもつ武断派の大名は
   徳川家康に味方した。
  徳川家康を総大将とした。・・・東軍の成立。

〜〜〜東海道の山内一豊〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→石田三成迎撃をどのようにするか????? 

B山内一豊が掛川城の提供を申し出た。
 ・・東海道筋の諸大名がこれにならった?。
 非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明した。
 →山内一豊の東軍の加入
  軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。
   
 
  
〜〜〜〜上杉軍の動向〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜        
 ※直江兼続は、徳川家康を追えば、勝てるという自信があった
 といわれているが、上杉景勝に知らせ、白河・会津・米沢と
 引き返した。
 しかし、東北の関ヶ原「山形の長谷堂城の戦い」で、敗戦した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


東軍は徳川家康の徳川直属軍と福島正則らの軍勢→10万人。

7月26日以降〜〜〜続々と陣を払った。
石田三成を討つことを決め、大阪に先鋒隊を向かわせた。
 福島正則は居城:尾張清洲城を目指し出陣した。
 伊勢に所領を持つ富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、
 九鬼守隆らは居城防備のため自城へ戻った。

 
諸将が提供した居城には松平康重、松平家乗、内藤信成、保科正光、
北条氏勝ら徳川譜代の武将が城将として入城し、守備に当たった。

7月27日 真田信之宛に徳川家康からの安堵状
       「小県郡(上田城・真田館)を安堵。」
    (★真田宝物館)

徳川家康は徳川秀忠を大将に、榊原康政、大久保忠隣、本多正信
 など・・・約3万8,000の軍勢を中山道より美濃方面への進軍を
 命じた。


8月4日 徳川家康は出陣した。
 結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に
  上杉・佐竹への抑えとして、留め、監視させた。

8月5日 徳川家康は江戸城に戻った。
 そこから一歩も動かなかった。
 豊臣恩顧の武将の動向が見えなくなるからである。

9月1日 徳川家康は江戸城を出発した。
 (★当時の江戸城ではない。)

9月10日
 (★当時の掛川城ではない。)


9月11日 福島正則らが清洲城に入城。
    →西軍の勢力下の美濃:岐阜城に侵攻。
     織田秀信が守る岐阜城を落とした。
     徳川家康は織田信長の嫡孫:織田秀信を助けた。

 (★岐阜城)


9月14日 関ヶ原に到着。赤坂に着陣。



 (★徳川家康の陣)

 軍議・・・佐和山城→大阪へ攻撃と決定。
 石田三成は、関ヶ原に兵を移動させた。
 石田三成の家臣:島左近と宇喜多秀家の家臣:明石全登が奇襲
  →東軍の中村一栄、有馬豊氏らが敗戦
 ■通説・・野戦を得意とする家康がわざと流させた情報である。
 徳川家康の戦略は両軍が関ヶ原で対峙した理由として知られている。
 →両軍は関ヶ原に陣を敷き、対峙したのである。


 (★石田三成・大谷吉継軍)       
      

9月15日 京極高次は大津城を退去。
政所からさきに面会・・・高次は高野山へ隠居決意。
 (★TV大河ドラマ「江〜」・・もう一つの京極家)
  
 
【3】徳川秀忠の動向
@東山道大道隊・・・徳川秀忠(江の夫)が大将。本多正信が参謀。
     宇都宮城→

8月23日 徳川秀忠から沼田城:真田信之宛の書状
 「24日に(宇都宮)を立って、小県を攻めるから、お前も出馬せよ。」
  ・徳川秀忠、上田城を攻撃・真田信之も上田に出兵。
  
8月24日 徳川秀忠が宇都宮を出発した。
3万8千・・・先頭〜最後列
2列1m間隔なら・・・・19km
3列1m間隔・・・・・・13km
   
*************************
徳川秀忠が高崎城にいた日の類推
★推定@・・・・8月27日・28日・29日
 推定A・・・・8月28日・29日・30日
推定B・・・・8月29日・30日・9月1日
????????????????????????
結果・・高崎城に3日間、烏川の増水で、行けなかったのだ。
推定A・・・・8月28日・29日・30日
 3万8千人が泊まる場所・・・高崎城の築城途中であった。
 徳川秀忠は高崎城本丸に入った。・・後で怒ったって?
 有力家臣は寺などに泊まった・・・
龍広寺・安国寺・大信寺・法華寺・恵徳寺・石上寺・法輪寺
 延養寺など・・・
※高崎には、38000人の水があったことは推定できる。
  つまり、長野堰は確実に開かれたことを意味ずる。

8月30日 ★真田信幸はおそらく、この日に沼田城を出発した。

◆第2次上田戦争
東軍 (真田信之=徳川家康の養女:小松姫夫←本多忠勝娘)
      Vs
西軍 (父:真田昌幸&弟:真田幸村)
9月2日 小諸城(長野県)で徳川秀忠と真田信幸が合流した。
     
9月3日  徳川秀忠は上田城を攻めようとした。
      真田昌幸は徳川秀忠に
     「上田城城をあけ渡す準備をしているので待って欲しい」
     とだまして、戦の準備を整えた。

9月4日 徳川秀忠が上田城の明け渡しを催促した。
     真田昌幸は
     「戦さの準備ができたのでどうぞ。」
      と返答した。
徳川秀忠は激怒した。

★徳川秀忠が真田信幸を砥石城に向かわせた理由
 @徳川首脳陣の中には、真田一族の真田信幸を疑う者が多い
  ため、真田信繁VS 真田信繁と戦わせて、真田信幸を試す
  という考えであった・
 A上田城の直接攻撃に真田信幸を参加させると、真田信幸が
  寝返る危険性があることが考えられる。

●平山優説
 真田昌幸は
@「兄弟対決をするふりをする。幸繁が仕掛ける。
  攻撃が済んだら、砥石城から南回りで逃げて、上田城に
  入れ。・・・」
 という策であった。
Aこれにより、兄の真田信幸に手柄をたて
 させ、徳川秀忠の真田信幸に対する信用を高めようというので
 ある。
B真田信幸軍を砥石城に留めることで、上田城を攻める兵の
 数を減らすことできる。
C真田一族の同士討ちを避けることができる。
 
※「真田丸」では真田信繁が考えたとあったが、・・・
  「戦わずして真田信幸に砥石城を明け渡す。」
作戦であった。

9月5日 徳川秀忠は軍を上田城に接近させた。
 徳川秀忠は
 @真田信幸の軍を真田信繁が守る砥石城(上田城支城)に
  向かわせた。
真田信幸は虚空蔵山城(伊勢崎城)・砥石城(上田市)
  を落とし、待機した。
 A上田神川の戦い
  徳川秀忠38000 VS 真田昌幸2000? 
 ・真田昌幸は、徳川を上田城近くにおびき出しては鉄砲攻撃。
 ・真田昌幸・信繁(幸村)は、秀忠軍の侵攻を阻む。
 B神川の増水で、大群が混乱。
 C上杉景勝の配下:海津城須田氏が真田根小屋城に到着。

9月7日 徳川秀忠は撤退→関ヶ原へ

 真田昌幸&真田幸村2000 vs 徳川家忠・大久保忠隣20000
  →決着着かずに真田軍の勝利
           ・・・徳川家忠は関ヶ原に遅刻
★徳川家康の兵力温存説もあるが、
     徳川秀忠はお馬鹿だったのかもしれない。

■TV・・ ・徳川秀忠は真田に興味を持っていた。
    江は「秀忠様は戦さが下手。・・・」
    →遅刻は必至であった。
    乳母は、祠を持ち出した。
   (★大河ドラマ「江〜」9月11日TV)   
    ※江戸にあった徳川家康・・江と話
    
A関東防衛残留隊・・・結城秀康
  上杉景勝・佐竹義宣に対する抑えとして・・

     (★水戸城)   
   

【4】井伊直政&娘婿:徳川家康4男:松平忠吉(忍城主)の動向

(★井伊軍志&『徳川家康公400年祭記念発行:龍たん寺』記述)
・7月19日 徳川秀忠が出陣した。3万7千。
4男:松平忠吉(井伊直政の娘婿)も含まれていた。)

:7月24日 
  本多正信が「箱根を守り、領国に帰るべし。」
井伊直政が「上方に返し、天下一定なさるべき。」

・7月25日 【小山評定】
 福島正則が衆議を解く。

〜〜〜この間の情報は石田方情報である。〜〜〜〜〜

・8月4日付 徳川家康から井伊直政書状
「先鋒軍を命じた。」
 (★「譜牒余録」」井伊軍志)

8月5日・6日
 井伊直政は3600・娘婿の忍城主:徳川家康4男:松平忠吉3000
本多忠勝は僅か400人程(500説)の部隊しかいなかった


8月12日 井伊直政が病気平癒。

8月14日 井伊直政・本多忠勝は軍監として清洲に到着した。

8月19日 徳川家康の使者:村越茂助が到着した。
 「諸将ははっきり御味方との証拠を見せぬ限り、上様は御出馬
  なさいません。」
福島正則「なりほどごもっともな御おおせである。
     岐阜城でも攻め落とすべし。」
 と発議し、衆議をまとめた(伝)。)
(★『徳川家康公400年祭記念発行:龍たん寺』)

8月23日 井伊直政が岐阜城下にいた。★監視役

8月24日 福島正則などの諸将が岐阜城を攻略した。
美濃赤坂に集結した。

9月1日 徳川家康は江戸城を3万の軍を率いて出発した。

9月11日 徳川家康は清洲で評定を開いた。
 本多忠勝「徳川秀忠軍を待つべし。」
 井伊直政「直ちに一戦を交えるべし。」

9月15日 井伊直政は黒具足で鉄砲小隊を率い、途中で、
  娘婿の忍城主:徳川家康4男:松平忠吉を誘い、・・・
最前線に行った。
合戦の先手は福島正則であった。
福島正則隊に厳しく遮られた。
井伊直政「下野様(松平忠吉)に合戦の先手の厳しさを
 お見せするつもりでござる。止めるな。」
と言って、西軍の島津軍の前に出た。
午前八時、井伊直政の鉄砲隊が島津・宇喜多軍に発砲した。
これが合戦の合図となった。
井伊直政は松平忠吉に武勲を立てさせたが、軍律違反であった。
(★★『徳川家康公400年祭記念発行:龍たん寺』)







【5】 関ヶ原の戦い
9月15日 関ヶ原の戦い
午前8時・・両軍による決戦が開始。
      烽火が上がった。
   
9時頃・・・@東軍:福島正則・井伊直政が西軍:宇喜多に攻撃。
         高所を取った石田三成ら西軍が有利。

10時頃・・石田三成が小早川と毛利に進軍命令。
小早川秀秋は動かず。
毛利秀元も動かず。(吉川広家が本家の毛利を阻止)
※家康本陣攻撃ができず。

正午頃・・・徳川家康は松尾山の小早川の攻撃を促すため、
  小早川に向かって一斉射撃。
         A西軍の小早川秀秋軍が西軍を裏切って、
          西軍の大谷吉継軍を攻撃。
          →大谷隊は壊滅。→西軍の劣勢。

 B西軍の脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠ら
    4000人の寝返り・離反。→平塚・戸田軍を攻撃。
       →西軍は総崩れ。      
午後2時・・・石田三成・宇喜多秀家は北国街道で逃げる。
3時・・・→東軍の勝利。
  C西軍の島津義弘軍1500が敵中突破の退却戦で、  
       徳川家康の本陣目前にまで突撃、中央突破。
 島津軍の生き残りは80名。

4時  D南宮山の毛利軍15000・吉川軍3000も退却。→近江・伊勢へ
5時   徳川家康は首実検。

6時   徳川家康は大谷善継の陣跡に宿泊 

www.youtube.com/watch?v=gnxk2sfpmdI
   ★You Tube を見ると、面白い。
        (★地図で訪ねる歴史の舞台)
    
9月18日 徳川家康は石田三成の居城:佐和山城を攻略。

9月21日 逃亡していた石田三成を伊吹山中で捕縛。

10月1日 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊らを六条河原で処刑。

その後、徳川家康は大坂城に入城。
徳川家康は、西軍の諸大名を処刑・改易・減封に処した。
→召し上げた所領を東軍諸将に加増分配
→徳川領地も250万石から400万石に加増。
→豊臣秀頼、淀殿に対しては咎めず領地もそのままにした。
→豊臣氏の直轄地は諸将に分配した。
◆結果
@豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名と
 なった。
  
A徳川家康は天下人としての立場を確立した。
=天下を掌握したのだった。

★「真田昌幸・幸繁は死罪」と決まった。
真田信幸は井伊直政に「父・兄と内府:徳川家康に死罪に
 ならぬとように。」と頼んだ。井伊直政が
 「生かしておけば、何かの使い道があるかも知れぬ。」
と徳川家康に進言した。
 真田昌幸・幸繁は高野山に送りとなった。
 (★『彦根城博物館:野田浩子著』)
★でも、「真田丸」に井伊直政は登場しない。井伊直政が
 いなければ、「真田丸」事態が存在しないのにね?



★明日は?

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箕輪初心:生方▲真田丸115【第36話「勝負」:沼田城の稲→第2次上田合戦】&史実編 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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