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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸107第31回「終焉=豊臣秀吉の死」史実編&真田丸

<<   作成日時 : 2016/08/08 09:47   >>

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慶長3年(1598)5月5日に病に倒れ、8月18日に死んだことが記述
されている。醍醐の花見で梯子から落ちた話は創作なのだろうが、
5月5日以降、痩せ衰えて病状は悪化し、漢方薬も効果がなく、
失禁(おもらし)もあった。豊臣秀吉は史実でも認知症=ボケ
老人だった。豊臣秀吉に死期が近づいてくる。@秀吉の死期
が近づく。A遺言状をめぐり石田三成と徳川家康が対立する。
B茶々は、秀頼を秀吉に会わせようとしない。信繁は必死の思
いで茶々を説得し親子の対面を実現させた。C三成は昌幸に家
康の暗殺を依頼した。D出浦は単身、徳川の屋敷に忍び込むが、
真田信幸の密告?で本多忠勝に撃たれる?E8月18日、豊臣
秀吉が永眠。享年62・・・・。
画像


【1】史実編
・慶長元年(1596)
  朝鮮王朝第14代王「宣祖(そんじょ)王は第2回朝鮮通信使
  を送り、豊臣秀吉に面会させた。
 明の使節が豊臣秀吉との講話を折衝した。
   秀吉は
   @明の降伏すること、
   A皇帝の娘を天皇に嫁すること、
   B朝鮮の南半分を割譲すること、
   などを条件とした。
   講話は決裂した。

  豊臣秀吉は再出兵を決意した。


・慶長2年(1597)2月21日付 『立花家文書』朱印状
 「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」
 「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中
  心として築城すること」
   (★『立花家文書』等)
  朝鮮半島の南西部を侵攻し、半島南部にさらに城を築き城主を
  定めて領土化とするという計画だった。
  「慶長の役」は朝鮮平定・・・支配下に置くことが目的であった。

 明は14万人の兵を送ってきた。
 朝鮮民衆の抵抗も激しかった。
 朝鮮水軍の亀甲船の追撃・補給路を断つ作戦で、
 倭軍の食糧事情も悪くなった。

 12月22日 蔚山倭城に明・朝鮮連合軍56,900人が襲撃してきた。
  加藤清正をはじめ日本軍は、食糧準備の出来ていないままの籠城戦
  となり苦戦した。
  多大な戦死者がでた。
  

・慶長2年(1597) 1月3日
  毛利秀元等の援軍が到着した。
   翌日に水陸から明・朝鮮軍を攻撃し敗走させて倭軍が
  勝利した。

  その後、倭城郭群が完成し、九州衆が城の守備のために
  朝鮮に残留した。

  四国衆・中国衆と小早川秀秋は順次帰国して、
  3回目の派遣に備えた。
  
 しかし、加藤清正と小西行長は戦略上で対立した。
 国内の大名たちも朝鮮出兵に嫌気がさしていた。

  史実では、加藤清正、福島正則ら VS 石田三成ら
との対立が決定的になったと言われている。


・慶長3年(1598)
3月、醍醐三宝院で盛大な花見を催した後、
 体調を崩して床に伏す。

***真田丸31話「終焉」の話********** 
5月以降、下痢、腹痛、食欲不振、手足の激痛が続く。
 痩せ衰えて病状は悪化。漢方薬も効果がなく、失禁もあった。


5月15日 豊臣秀吉の遺言は、豊臣政権での年寄り5人衆
 (5大老)と、5奉行衆宛に書かれた。 
※五大老は現在の政府の主要閣僚、五奉行は実務を取り仕切る官僚
  というところか?
 
 徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利
 輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束
 正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出した。
 年寄り5人衆(五大老)は、徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・
 前田利家・宇喜多秀家・・・
 5奉行は、石田三成、増田長盛、浅野長吉(長政)、長束
 正家、前田玄・・・である。
 メモを取りきらなかったので、Hpを利用した。

 10人は起請文を書きそれに血判を付けて返答した。
 秀吉は他に、自身を八幡神として神格化することや、遺体を焼
 かずに埋葬することなどを遺言した。
(★『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』)

豊臣秀吉は自分の死が近いことを悟った。

7月4日 豊臣秀吉は伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、
  家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。
 豊臣秀吉は遺言を述べた。
 側近によって11ヶ条に整理されて、五大老・五奉行に伝えら
※豊臣秀吉の遺言11箇条の内容

≪第1条から第6条までは年寄り5人衆とその跡継ぎ宛≫
5奉行の居る場所で度々申し付けられた内容である。
1)徳川家康(江戸内府):
  内府(だいふ)は律儀な人柄で懇意にしているから、秀頼様を
  孫婿にされ、取り立てていただきたい。このことは大納言殿
  (前田利家)を始め年寄衆5人のいる所で、たびたび話され
   たことです。
2)前田利家(加賀大納言):幼友達で律儀なので、秀頼様の御守
   (おもり)役とされた。
3)徳川秀忠(江戸中納言):秀頼様の御姑になるので、内府
  (家康)が年を取っても、秀頼様をよく助力いただきたい。
4)前田利長(羽柴肥前守):大納言殿(前田利家)が年を取られ
  ても、変わらずに秀頼様の御守役に付けるので、よく助力いた
  だきたい。中納言とした上で、新たに10万石を与える。
5)宇喜田秀家(備前中納言):幼少から取り立てたのだから、
  秀頼様を放っておけない立場にある。御奉行5人になったので、
  おとな5人の内に入り、諸職(政務)に邁進いただきたい。
6)上杉景勝・毛利輝元:両名は律儀な人柄だから、秀頼様を取り
  立てていただきたいと、輝元には直接伝えた。景勝は在国中な
  ので、皆々にいわれた。
≪「第7条と第8条は5奉行宛=年寄衆5人宛て≫
7).5奉行は法度を違える者が居た場合は急きょ双方の意見を聴取
  し、仲裁するように。それでも不届きな行いがある場合は刀で
  斬り、斬られた方は秀吉に斬られたと思うように。また、秀頼
  に殴られても、それは秀吉に殴られたと思い、秀頼を大切にす
  るようにしていただきたい。
  ※秀次事件後の御定のひとつ「口論、喧嘩の禁止」の再確認に
   当たる。

8)5奉行は収入を決済したら、徳川家康、前田利家の両人に確認
  を求めるように。確認を行ったら「請取」を取って、秀頼が成
  人後に尋ねた場合には請取を披露するようにしていただきたい。
9)何事でも内府(徳川家康)、大納言殿(前田利家)の御意見を
  聞き、それ次第で決めるように(従うように)していただきた
  い。
10)伏見(城)には内府(徳川家康)がおられて、(政務を見るよ
   うに)前田玄以と長束正家が留守居役を務め御助力いただき
   たい。
11)大坂(城)は秀頼様がおられるので、大納言殿が身の回り(守
   役を助力いただきたい。大坂城の警備は皆で協力して努める
   ようにお願いしたい。

遺言状に従えば、
  五大老=御奉行5人、
  五奉行=年寄衆5人、おとな5人が正しいようである。


◆参考資料
・「直江兼続:家康を挑発した智謀の将」:相川司著

 徳川家康が外公務を司どり、前田利家が豊臣家の内政を司どる
 ことが書かれていいる。
豊臣秀吉死後は5大老の合議制と言われているようであるが、
 実際は徳川家康、前田利家の2人体制だったと考えられる。

 徳川家康と前田利家にすべてを任せていることで、前田利家が
 亡くなってしまっては、徳川家康の天下になるのは当然ですね。

★石田三成とっては遺言は納得のいかないものだっただろう。

8月5日、豊臣秀吉は五大老宛てに2度目の遺言書を記した。
秀よりの事       (秀頼のこと)
なりたち候やうに    (成り立つように)
此かきつけ       (この書き付け)
しゆとしてたのミ    (五大老衆に頼み)
申候 なに事も     (ます。何事も)
此ほかにわおもい    (此の他には、思い)
のこす事なく候     (残すことはありません。)
     かしく

返々秀よりの事     (かえすがえすも秀頼のこと)
たのミ申候 五人    (頼みます。五人)
のしゆたのミ申候    (の衆、頼みます。)
いさい五人の物ニ申   (委細は五人の者に申し)
わたし候 なこり    (渡してあります。名残)
おしく候 以上     (惜しく思います。以上)

八月五日 秀吉 御判

いえやす        (徳川家康)
ちくせん        (前田利家)
てるもと        (毛利輝元)
かけか津        (上杉景勝)
秀いへ         (宇喜多秀家)
      まいる
http://homepage2.nifty.com/hijityoumokuroku/zatugaku/yuigon.htm
より引用

 

 秀吉の病は、前年に秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺
 へ移されていた信濃善光寺の本尊である阿弥陀三尊の祟りで
 あるという噂があった。
8月17日 三尊像は信濃へ向けて京都を出発したが、・・・・
8月18日 でも、豊臣秀吉は死去した。享年62。
 死因に関する史料はない。
 死因は何か?
@大腸がんや赤痢説(有力説)
 下痢、腹痛や急激な痩せ細りなどから、大腸がんや赤痢などが
 疑われる。
A加齢による認知症
B栄養の偏りによる脚気、
C脳梅毒、尿毒症、
D女好きの過淫が祟った腎虚(精力減退)
E胃癌説・・・最近の有力視されてい説。
など、原因は不明だ。
 秀吉は62歳で死亡したが、当時としては長命である。
 老齢による合併症の可能性大である。
@大河ドラマ「江」では、「秀吉が喀血した。」
A大河ドラマ「軍師官兵衛」では、老衰。
B大河ドラマ「真田丸」では、痴呆症&老衰。
・慶長4年(1599) 豊臣秀吉は朝鮮に3回目の大軍を再派遣して
  攻撃する計画を発表していたが中止になった。
 
【2】「官兵衛」の場合 
「秀頼、もう言葉を話せるようになったのか。」
と、茶々も度々見舞いに来ている。(★真田丸と違う。)
・秀吉は家康と会談。
・秀吉は家康に
  「ワシが死んだら・・秀頼のことをよろしく頼む」
  と頼んだ。
・官兵衛が朝鮮から帰国した。
・官兵衛は秀吉に謁見するが、秀吉は病床についていた。 
・秀吉「ワシは間違っておったのか?」
・官兵衛「殿下は・・信長公にこだわり過ぎたのです」
・秀吉、官兵衛に頭を下げて、「秀頼のことを頼む。」と手を取る。
・官兵衛は秀吉の手を離した。
・官兵衛「殿下、天下とはその器たる者が治めるべきであると
    思われます。」
・官兵衛は豊臣秀頼への忠誠を拒否した?
・秀吉「秀頼が(数え)6歳だから・・・秀吉の元で世の乱れを
  治めたかった。」と返した。
・秀吉「官兵衛は変わらない。昔のままじゃ。」
・官兵衛は去りかけた。
・秀吉「すまなかった。おぬしの思うような天下人になれなかった。」
・官兵衛「今まで軍師としてお仕えさせていただき、ありがとう
    ございました」
・官兵衛が涙ながら出て行く。
・秀吉「官兵衛、さらばじゃ・・」
・官兵衛も廊下で慟哭した。
 
・秀吉はお寧と話す。
 「露とおち 露と消えにし わが身かな 
   難波のことも 夢のまた夢」
 ※秀吉の辞世の句。享年62歳。
・家康「死んだか。・・・勝負に出るぞ。」
・茶々は石田三成の朝鮮出兵を家康を警戒して止める。
(★「真田丸」では、三成が家康を警戒し、太宰府に赴く。)
・朝鮮の出兵軍への帰国命令が出る。





********************
◆真田丸あらすじ解説31話「終焉」豊臣秀吉の遺言11箇条の内容
◆ナレーター
「・・・・太閤秀吉の死がすぐそこまでが迫っている。」

●伏見城
・幸繁は介護している。
「ごゆるりと・・・」
秀吉はベルをならす。
今時の・・・介護施設のようだ。
秀吉亡き後の時代を見据えた駆け引きは既に始まっていた。

秀吉の遺言状を巡って、豊臣家五奉行の筆頭:石田三成と
豊臣家五大老の筆頭格:徳川家康の対立が表面化してい
たのである。秀吉亡き後の豊臣家を盤石としようとする三成と
秀吉亡き後権力を握ろうとする2人の対立した。


●大谷屋敷
幸繁「年寄り5人衆(五大老)は、徳川家康・毛利輝元・上杉景勝
・前田利家・宇喜多秀家・・・」
5奉行は、石田三成、増田長盛、浅野長吉(長政)、長束正家、
前田玄以 です。」

※ 五大老は現在の政府の主要閣僚、五奉行は実務を取り仕切る官僚
というところでしょうかねえ。
三成「・・・」
大谷「口を挟む余地はない。」
三成「・・・」
大谷「」

幸繁「・・・花押を貰う。
三成「・・・10人の合議で・・・」

三成「花押をいただきたいとおもいます。」


●駿府城
正信「・・」
阿茶「・・・またされたのう。ようやく」
家康「。。ワシにどうせよと・・・7」
正信「・・・これがいけませんな。」

三成が来た。

三成「・・・天下の・・・」
家康「・・・」」
・・・・

三成「 朝鮮から、兵を戻す・・・
太宰府に以降・・・
家康「・・ワシが九州に行こう。」

三成「・・・誰かがたきつけて謀反がおこたら・・・」
三成が帰った。

正信「・・・言いたいことだけ、いって・・・」
家康「こざかしい男よ。」
正信「・・・よりあたらしい御遺言えおかかせればよい。・・・」


●真田屋敷
「御荷駄島のはなし」
仙千代に・・・



●大谷屋敷
三成「・・・内府に・・・。」

大谷「・・・」
三成「・・・よしなに」
そして、三成は幸繁にも頼む。

●伏見城
家康が来た・
家康「かような物を持参した。・・

信長公からもらった鎧だった。
片切は
正信「しばらくが内書に・・・」

寝ている家康に正信は・・・
秀吉「家康・・・・秀吉の事頼む。」
正信「・・・」
と新しい念書を書かせた。
正信は手を以て、字を書かせる。

大人衆・・・の名前・・・
5人の名前を連記させた。

殿下は「・・・追伸を書かれています。」
秀吉 「返す返すもくれぐれも秀頼のこと・・・」


三成「・・・家康、大胆なこと・・・」



三成は家康を起こした。
家康「疲れた。」

幸繁が捧げる。
三成は念書の間に追加文を書かせた。

「奉行・・・」
「・・・以上。」

お寧が「何をしておる。」
と怒る。
「やめんか?」

・・・かわいそうじゃ。
そんな姿を目の当たりにした寧は、心をいためるのだった。

お寧「・・・会わせたくはないらしい。とは?」

●大坂城
日に日に容体が悪くなる秀吉が溺愛する子:秀頼。
しかし、秀頼の母=秀吉の側室:茶々は、秀吉に秀頼を会わせて
やろうとはしない。
茶々が秀頼を秀吉に会わせようとしないのは、年をとってぶざまな
父親の姿を見せたくないからという理由である。

信繁は親子の対面を実現すべく、信繁は茶々の説得を決意した。

茶々「・・・
   会えば、殿下の大きさをしってしまう。・・
   心の卑しさ・醜さまで感じてしまいます。・・・」



●真田屋敷
出浦・・

「・・・・」
戦いをけしかける。



出浦「・・・いつでも、用意はできている。」



本多忠勝・・・
忠勝「孫の顔を見に来ました。」

赤ちゃん:百介が泣く。
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「父上、顔がこわすぎます。」

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薫「・・百介・・・」
稲姫「いつになったら・・・父に会わせて下さるのですか?」


初めて2人の子を会わせた。

昌幸「世の中に先延ばししていいことと悪いことがある。・・・」
と信幸を叱る。

●伏見城
きり「・・・容態が・・・」
幸繁「・・・先が見えない。」

徳川が来た。
家康「・・先日は手荒なまねをさせてしもうた。」

※懐古の話
「・・・・諸行無情じゃのう。・・・」



家康「・・・戦は大嫌いじゃ。・・・
    間違いなく、勝てる戦はない。
伊賀越え・・・
世がみだれたら、もともこうもないしのう。


幸繁「私もそう思います。」

中納言:宇喜多が来た。・・・・
秀家「・・・お元気で・・・
秀吉「 ・・・秀頼のことたのむ。」
と家康と中納言に・・・・
家康「お任せあれ。・・・」
幸繁「・・・秀頼・・・・」



◆ナレーター
「・・・」

侍女「鶴松様が初めて死んで・・・死を恐れるようになりました。
本当はお優しい方なのです。・・」



幸繁は茶々を迎えに来た。

茶々が来た。
「今夜なんですね。」
茶々「源次郎、私のそばにおれ。」
画像


三成は水垢離をとる。・・
秀頼が秀吉に近づく。
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「父上・・・」
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茶々が「殿下・・・」
茶々が笑顔で面会する。
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秀吉「・・・秀頼のこと頼む。
茶々はにこり笑い、頷く。・・・

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茶々はお寧々に抱きつき・・・泣く。
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お寧「よい子に育ててきれんましたね。」

秀吉が夢を見た。・・・・・信長の亡霊・・・・・
秀吉はあ〜あ、と叫ぶ。
佐吉(三成)・・・しがみつく。・・・
秀吉「佐吉(三成)、家康を殺せ・・・」

石田三成は、真田昌幸に徳川家康暗殺を依頼した。
 徳川家康暗殺計画を提案したのは、石田三成の重鎮
島左近であったという。
しかし、石田三成はその前に徳川家康に助けられている。
 実際は監禁された。なので、反対したため、実行されなかった
 ようであるが、「真田丸」ドラマでは三成が家康の暗殺を
 依頼する。


●真田屋敷
三成は昌幸に会いに来た・・・
三成は家康を豊臣家の今後のための障害であると考えた。
三成「・・・安房守様が私の師匠です。・・・」
三成は、真田安房守昌幸に家康暗殺を依頼した。
昌幸は迷う。・・・
昌幸「もし、明日の朝、家康が死んでいても
   ・・・真田は一切預かり知らぬ事・・・」
真田家素破の頭領:出浦(いでうら)昌相は、既に己の覚悟を
昌幸に伝えていた。
★流石、真田忍群頭領・・・
この前も書いたように「岩櫃城には出浦(でうら)」の地名がある。
「真田丸」では石田三成が真田昌幸に徳川家康暗殺を依頼したが、
史実ではなさそうである。創作だと思われる。

●真田屋敷

昌幸「徳川内府に死んでもらう。・・・」
出浦「・・・任せてくれ」
昌幸は昌相を家康暗殺のために徳川屋敷へと忍ばせることを
依頼した。
出浦「わしが死ぬとおもうか?・・一番烏が鳴く前に戻ってくる。」
佐助「私も連れて行ってください。」
出浦「佐助・・・私がもどってこなかったら、家康をうて。」
・・・


●伏見城
秀吉「源次郎、頼む。」
幸繁「わかっております。」
秀吉「・・・治部を助けてくれ。・・」
幸繁「石田様を?・・・」


●徳川屋敷
出浦が屋根裏に・・・


信幸「・・・稲姫を・・・
家康「後家にしたくはない。・・・ワシの娘でもある。」

家忠「・・江(ごう)を貰った。これもやっかいで・・・」

信幸「・・・気になることがござる。」
信幸が戻った。

信幸「・・火遁の術を稽古しているのを・・・」
★信幸は裏切りやがった。俺の大好きな出浦を・・・


忠勝・・・槍をつき
「くせ者じゃ・・」

一騎打ち

忠勝「手出し無用」

昌相VS忠勝・・


出浦が忠勝の槍を切り落とす。
一心一体の攻防・・・

出浦は数人を切り・・・

でも、忠勝に眉間を斬られた。・・・

煙幕を
自爆?・・・・



●真田屋敷
幸繁「徳川様の屋敷に賊が入ったようで・・・・」
と口早にいう。

昌相の死・・・・
昌相「わしとしたことが・・・」

昌幸は昌相を抱いて泣いた。
大好きな出浦が死んだ。昌相ファンの俺はがっくり・・・。
 出浦昌相は本多平八郎に討たれるのか?
史実では・・
出浦昌相(盛清)は関ヶ原の戦いの後、真田信幸の元で武者奉行を
務め、真田忍軍を統括した。




●伏見城
秀吉・・・苦しむ。
ミュージック擬音・・・ぼゆん・ぼゆん・・チンチンチンチン
★葬式の感じ
秀吉から一筋の涙。・・・
画像


◆ナレーター
「・・・一大の英雄が・・・
  それはさびしいものだった。 ・・・
  太閤秀吉・・・享年62。」


●▲■・・・「応酬」


●京都・・・
1)秀吉の墓・・・今冷神宮=「樹下社」

2)



★明日は

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