城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲【一条信長流裄V家】&内藤昌明&倉賀野秀景

<<   作成日時 : 2016/07/13 19:37   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

平成28年(2016)7月1日〜2日、長野に裄V家の歴史探訪をし
た。昨日と同じ旅行であるが、裄V家視点で見ると内容が変わる。
@一条信長流裄V家、A源頼朝に殺され、青木家から一条流柳沢家、
A武田信玄の子ども一条信龍流裄V吉保家がある。「裄V弥右衛門
家」は箕輪城主:内藤昌月(保科正直弟)の目付として、旧群馬
町に在住した。一条家・内藤家・青木家・裄V家・米倉家・・・
そして家臣:江原家(滝川用水:高崎市史説・・私は滝の慈眼寺
を創建したので、和田家家臣と考えている。しかし、市川五郎兵衛
記念館の桜は滝の慈眼寺の桜である。・・つまり、井伊直政の高崎
城築城に当たって、井伊直政・新井喜左衛門・秋元長朝・泰朝・
市川五郎兵衛真親・裄V諸左衛門などが関わっていることがさらに
確認できた。井伊直政の17家老に、長野家(第3家老)内藤家・
和田家・里見家・・萩原図書(安中)がいることが井伊家資料で明
白になった。しかし、家老クラス・足軽大将クラスになるべき裄V
家・市川家・大井家・伴野家・瀬下家が帰農したことが分かった。


(★井伊家初期の彦根城城内絵図)

【1】裄V家+内藤昌明&金井(倉賀野)淡路守秀景
系図・・・関東管領:上杉顕定の家宰:子持長尾景仲の3男系
金井将監・・・もしかしたら、渋川の金井かも?・・・
・・平井城の金井地区に住んだ。
・文正元年(1466) 上杉顕定が平井城大修理した。
  平井金井城(詰め城)を築城した。


・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の内乱
 第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時に
 抗争が生じた。
 関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。
 上杉憲寛+長野業正 VS 上杉憲政+小幡憲重+安中忠政
 結果・・上杉憲政の勝利
 倉賀野行政&倉賀野16騎は関東管領の上杉憲政に従った。

・天文15年(1546) 河越城の戦い
  倉賀野行政が討死すると、倉賀野16騎の一人「金井淡路守秀景」
 は十六騎と共に病弱であった嫡男:倉賀野為広を助け、倉賀野城を
 守った。
・天文16年(1547) 小田井原の戦い
「金井淡路守秀景」籤引きで先鋒に選ばれ・倉賀野為広の名代=
 大将として上杉憲政勢を率い、武田晴信と戦い、大敗を喫した。
志賀城も全滅した。
 その後、倉賀野為広が死去。倉賀野尚行が跡を継いだ.

・永禄2年(1559)金井淡路守秀景は武田信玄に内通した。
倉賀野氏内部でトラブルが発生したらしい。
(★新編高崎市史)

・永禄4年(1581) 倉賀野宿の住人10名が舟により舟問屋の営業
 を始めた。

・永禄7年(1564)武田信玄は和田城を大改修した。

・永禄8年(1565) 武田信玄は上杉謙信方の倉賀野城を攻略した

・永禄9年(1566) 武田信玄の箕輪城攻撃。
  箕輪城主の長野氏業(業盛)は自刃した。
   倉賀野尚行は上杉謙信のもとに逃亡した。

・元亀元年(1570) 金井淡路守秀景は倉賀野城主となり、武田信玄の
  命により姓を倉賀野に改めた。
★この段階で、倉賀野16騎の総帥になり、町人兼武田信玄の
 家臣として、倉賀野の陸交通・水運を支配した。

・天正元年(1573) 倉賀野秀景は永泉寺を創建した。

・天正3年(1575)長篠の戦い
 内藤昌豊が戦死→保科昌月は内藤家に養子入りして家督を継承。
 武田勝頼の考えで上野箕輪城代は空席。
 内藤昌月は武田勝頼側近。

箕輪初心:生方▲【武田氏の箕輪城領国支配C不在時代、D内藤昌月〜
E北条家臣:内藤昌明】
http://53922401.at.webry.info/201607/article_4.html

・天正5年(1577)
●2月9日 内藤昌明書状(瀬下家文書)
「如承知、箕輪城之儀、被仰付候、若輩之事候之条、遠慮数多候間、
  種々雖御訴申候、頻而被仰付候条、無拠御請申、 来十一出府、
 14日吉日之由候、如何様其刻以面談余可申候、  恐々謹言
  2月9日       内藤昌明 
   瀬隼様     」
 (★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』:栗原修著)
※年次欠のため
@永録10年説・・・群馬県史
A天正4年説・・・・箕郷町誌:近藤義雄先生

・天正5年(1577)2月9日 内藤昌月→瀬下隼人への書簡 
  内藤昌月が箕輪城着陣。
 @若輩者ですが・・・2月11日に甲府を出発。
   2月14日に箕輪城に到着。
 A瀬下隼人から引き継ぎをおねがいします。
  (★瀬下家文書:地域文化233:栗原修著)

◆内藤昌明の目付として「武川衆」柳沢弥右衛門が武田信玄の命で
箕輪城に付いてきた。内藤家も「武川衆」である。柳沢弥右衛門家の
家紋は花菱で武田信玄の家紋と同じである。旧群馬町のK地区に住
んだ。後、金井淡路守も娘を貰っている。
★おそらく、武田信玄は一番信用のおける一門「武川衆」柳沢弥右
衛門家を内藤昌月の補佐とした。柳沢家は平安末期の一条信長の
子孫で青木家の分家であると思われる。江戸時代の柳沢吉保は
一条信龍の系統である。
(★佐久:柳沢真也氏所蔵系図)
★保渡田に住む僕んちの母方先祖:塚越伴七(半七)・土屋文明
 先祖:土屋昌続の弟:昌恒、大熊さんちの先祖(大藪城):大熊
 備前守も家臣になっている。
旧佐久の伴野助十郎一族や内山大井貞清一族、岩尾大井高政・満安
・祢津松よう軒、瀬下一族(出自は富岡瀬下)も有力在番衆であった。

★おそらくは、内藤昌明の命令下に和田信業・木部範虎・倉賀野
 秀景も置かれた。

・天正8年(1580)
●1月内藤昌明は大和守を官途とした。

・2月23日 北条氏政→北条氏邦宛て書状
 「此分に候者、当方終ニハ可向滅亡候哉、上州勝頼之物
     ニ罷成候共、慥氏政へ随身之様ニ者有間敷候、」
  (★『木村孫平氏所蔵文書』)
「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は武田
勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」
と嘆いている。
 (★群馬県史)

武田勝頼の上野支配は、跡部勝資・内藤昌月・土屋昌恒が奉行
となって進められ、上毛については真田昌幸が担当した。
(★『群馬県史 通史編3 』)
※武田勝頼の上野支配は跡部勝資、内藤昌月、土屋昌恒が奉行と
なって進められ、吾妻は真田昌幸が担当した。
 (★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』栗原修著)

 ★和田信業は跡部勝資の長男(和田城)
★内藤昌月は保科正直の兄(箕輪城)
★土屋昌恒は土屋昌続の弟(保渡田城?)
★倉賀野家吉は跡部勝資の一族(倉賀野城)
 武田氏の重臣:跡部大炊亮勝資の一族出身である跡部家吉が
 倉賀野秀景の養子になり、倉賀野家吉と改姓した可能性が高い。
 現在、「跡部淡路守家吉」の関係文書は4点確認されている。
(★新編高崎市史資料編)
★裄V諸左衛門の妻は金井(倉賀野)秀景の娘である。


・天正10年(1582)
3月11日 甲斐武田氏が滅亡。
3月24日以降? 滝川一益は箕輪城に入城した。
(★紀氏滝川系図:群馬県史)
「内藤昌明が箕輪城明け渡し」
 (★佐久:柳沢真也氏所蔵系図)
★おそらくは内藤昌明は箕輪城で滝川一益に会ったと
思われる。
一度も火事に遭ったことがない佐久浅科の柳沢家
系図では、内藤昌明が開城した。
柳沢弥右衛門は金井淡路守も娘を貰っていて、
柳沢諸右衛門が跡を継いでいた。

3月下旬  倉賀野秀景は織田信長の武将:滝川一益に伺候する。
 倉賀野秀景は武田豊信に出仕を促し、梶原政景を仲介するなど滝川
 一益の補佐役に位置する立場にあった。
 倉賀野淡路守は、滝川一益に重用され、主に下野国・常陸国などの
 連絡の任に当たっていた。
  (★新編高崎市史資料編4 中世2)
・6月2日 本能寺の変
・6月19/20日 神流川の戦い
  滝川一益 VS 北条氏直
滝川一益軍の内藤昌月・倉賀野秀景は奮戦したが破れた。
・6月21日 滝川一益が関東から撤退。
真田昌幸・倉賀野秀景・和田信業・木部高成は滝川一益との別れを
  惜しみ、木曾まで滝川一益を警固している。
(★群馬県史・唐沢定市・柴辻俊六)
  内藤昌月・倉賀野秀景・和田信業・木部高成等と共に北条氏の軍門
  に降った。

・倉賀野秀景と宇津木氏久が北条家から御朱印で文書を発給できる
 扱いになり、北条家から重用された。
 特に倉賀野秀景は北条氏の伝馬制に貢献した。


・天正16年(1588) 内藤昌月が逝去。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃。
上杉景勝軍が倉賀野城を落城させた。

 ・倉賀野秀景・和田信業・木部高成等が北条方武将として小田原城
  に籠城した。
  倉賀野秀景は早川口の守備についた。
 7月5日  小田原城が落城。
 7月11日 北条氏直は北条氏政・北条氏照を介錯した。
 7月??日 和田信業・木部高成は北条氏直について高野山に
行った。
 7月27日 倉賀野秀景は没した。死因は不明である。

   
8月初旬 井伊直政が箕輪城に入封した。

箕輪初心★箕輪城90【井伊直政の箕輪城時代の家臣団一覧】
http://53922401.at.webry.info/201212/article_15.html







井伊直政の17家老に、長野家(第3家老)・内藤家・和田家・里見家
 ・萩原図書(安中)がいることが井伊家資料で明白になった。
 しかし、家老クラス・足軽大将クラスになるべき裄V家・市川家
 ・大井家・伴野家・瀬下家が帰農したことが分かった。





【0】「裄V弥右衛門家」旧群馬町
近年、「裄V弥右衛門家」は一条家本家当主(裄V吉保の本家)からも、
目通り、当主挨拶、再来が許可となっている。
「裄V弥右衛門家」子孫からの「そっとしておいてください。」との
依頼もあり、詳細は避けることにする。


●【長野旅行】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】7月1日(金)&7月2日(土)長野旅行
1)高崎市の現「裄V弥右衛門家」

2)高崎市の「サンピア」
・高崎IC・・・上信越道・・・佐久南IC・・・・

3)佐久市の「市川五郎兵衛記念館」
  @市川五郎兵衛記念館現館長 「根沢氏」 (東大大学院) 
  A百姓代家「??家」の末裔・・・・古文書の大家
  B組頭家「市川家」・・・・・・・・★会えなかった。
  C名主家「裄V諸左衛門→裄V弥左衛門家」の末裔
裄V真也氏(元信州大学講師)
3)佐久市の「市川五郎兵衛記念館」
画像

  @市川五郎兵衛記念館現館長 「根沢氏」 (東大大学院) 
  A百姓代家「??家」の末裔・・・・古文書の大家
  B組頭家「市川家」・・・・・・・・★会えなかった。
  C名主家「裄V諸左衛門→裄V弥左衛門家」の末裔
裄V真也氏(信州大学講師)
画像

 (★裄V家所有の五郎兵衛用水絵図)
・円筒分水
画像


・大久保長安認可・・・市川家の水田開発・砥石開発の
 許可状
画像


◆裄V諸左衛門の墓?
 裄V弥右衛門家当主&裄V弥左衛門家当主が
 先祖を供養する。
画像

画像


◆新しい墓地・・・裄V3家
画像

画像

裄V真也氏の話
@裄V弥右衛門→裄V諸左衛門+妻:金井淡路守秀景の娘
 長男:裄V弥右衛門家・・・・子孫:裄V本次→裄V佳雄
次男:裄V弥左衛門家・・・・3つに分流
本家:裄V本也→裄V真也(信州大学講師)
裄V京子(切り絵画家)


4)上田市の「刀屋」(ランチ)「真田そば」

5)長野市の裄V京子画伯「切り絵」
裄V真也氏の妹

6)長野市の「八幡原」(「第4次川中島)」
7)長野市の「今日の饗」(夕食)
   ※信州長屋酒場はいっぱいで入れなかった。
8)長野市の「ホテルアベスト長野駅前店」(泊)
【2】7月2日(土)
・朝食
9)長野市のエムウェーブで行われた「大人の文化祭」
10)長野市の「松代城」
11)長野市の「松代大本営」
12)千曲市の「荒砥城」
13)上田市の「池波正太郎・真田太平記館」
井伊直孝は真田幸繁のいる真田丸に大砲で撃った
という話は確認できなかった。
14)裄V弥右衛門家の「創新館」


7月2日(土) 草刈り 万灯の下絵描き

7月3日(日) 草刈り 万灯の下絵描き

7月4日(月) 草刈り 万灯の下絵描き

7月5日(火)
高崎経済大学K「村と役人」 万灯の下絵描き



テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲【一条信長流裄V家】&内藤昌明&倉賀野秀景 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる