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zoom RSS 箕輪初心:生方▲伊那『殿島城』:伊那武氏の弟:殿島氏の城

<<   作成日時 : 2016/06/09 13:11   >>

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伊那市東春近中殿島の殿島城址公園を目指した。住宅街の奥にあって
方形の土塁・三重の堀の遺構を残していることは凄いことである。
北は宮狭間の洞(現県道沢渡・高遠線)、南は火沢の洞に挟まれた
範囲で、住宅地も外郭に相当する大きな平山城であった。高遠城・
福与城・大島城と共に、春日城と殿島城も武田信玄の手が入って
いると看るのが妥当かもしれない。とにかく伊那最大級の城郭
である。
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◆訪問日・・・平成28年(2016)5月13日
○高遠町の「竹松旅館」に泊まり、朝6:00仁科盛清の墓
 →6:40 原新田用水・・・7:00春日城・・・・。
7:30渋滞にはまった。天竜川にかかる橋を渡った。
○コンビニ  朝食を買った。
○東近小学校前

○県道488号の中殿島の南東にある護国寺裏の丘
が城址である。
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●外郭部分・・・現在は住宅地。
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●小さな案内→
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●大手口
 駐車場があった主郭入口は模擬城門が造られている。


●殿島城跡公園
 住宅地の中に樹木が生い茂る場所・・・・。
草刈りをしている近所の方?・・・
 朝食・・・・

●門の右に主郭を巡る三重の堀
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 北東隅の横掘のカーブ部分を見る。
 ★武者走りである。
 ★面白い。三重の堀は武田信玄に拡張されたものであろう。

●土塁・・・
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●土橋&城門
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  ★なかなか怪しい微妙な造りである。

 本郭北東の隅に虎口が開き、城門が造られている。
 江戸時代後期に編纂された「箕輪記」にも虎口が絵図に描かれて
 いる。大手であったものと考えられている。
●門の左に主郭を巡る三重の堀
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●裏から見ると
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●案内板「殿島城の歴史」
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「殿島城は古くは本城と呼ばれ、稀に見る大きな平山城であった。
土居は高く濠は深く、城下一帯は沼地で、北方には御射山を隔て
て物見城があった。
 天文年間(153〜1555)の初めに、殿島大和守重国が1500石を
拝領してここに築城し、この地方をを治めた。
 弘治2年(1556)武田信玄が伊那に侵入し、廻状によって降伏を
迫った。大和守をはじめとする伊那の諸氏は防備を堅くし毅然と
してこれに対抗したが力及ばず、狐島にて磔にされ、後に黒河内
(長谷)の八人塚に葬られた。その後16世紀後半まで、高遠城
の支城であったという説もある。
 大正6年、東春近小学校運動場設置のため濠の一部が埋められ
た。その後、学校農園として芋や野菜が作られていた時代もあった。
 昭和63年に伊那市の都市公園として整備され、現在に至ってい
る。」
●案内板
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●見渡すと・・・長方形?方形館?
南北朝時代〜室町時代の館のような感じである。
主郭の周囲を巡る大規模な土塁は見事である。


●東の土塁
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●北の土塁
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●石碑
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●本郭の西側部分
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●北西角〜西側の土塁〜南西角
西側土塁の上を歩いた。4m程の高さかな。

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●帯郭・・・二段構造である。

●本郭の南西の隅
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 ターザンロープのタワー 

●南の土塁&主郭内
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●南虎口・・・南の土塁に開く虎口を見る。
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●主郭&2の郭の間の堀
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●2の郭

▼戻って主郭内
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●本郭東側の土塁・・・大手口に連なるので一番高い。
 
 高さが約4〜5m程ある。

●東の土塁の怪しげなトンネル
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 ・・・実は土塁を利用したトイレだった。
 
●空堀・・・・

▼門に戻った。
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 ◆ 殿島城の歴史 
・天文3年(1534) 平氏の末流:粟田口民部重吉の16代後裔が
 この地に来て築城した。
  (そして、本姓は春日であったが、)在名を氏として伊那部
 (伊奈部)大和(大和守)重慶と称した。
  伊那部重慶は初めは300貫文を領し10騎の将として住ん
 だ。
 (次第に大きくなり伊那地方の重鎮となった。)
 其の子:(伊那部)但馬守重成が嗣ぎ、さらにその長子:
 (伊那部)左衛門尉重親が相続した。
 次子の(伊那部)重国は殿島に分家して、家名を興した。
 (★殿島城を築城した。)
 (★『伊那武鑑根元記』:「信州の山城」飯塚政美文責)

・天文年間(153〜1555)の初めに、殿島大和守重国が1500石を
 拝領して殿島に築城し、この地方をを治めた。
(★現地案内板)

・天文11年(1542) 武田晴信の伊那侵攻

・天文13年(1544)
11月 武田晴信は上伊那荒神山の砦を攻撃した。


・天文14年(1545)
4月11日 武田晴信は杖突峠から高遠に入った。
4月17日 高遠頼継は戦わず、高遠城から逃亡した。
   (★『伊那箕輪町史』)
   高遠城も落城し、高遠頼継は武田晴信に降伏した。
   高遠頼継は甲府へ出仕した。
      (『高白斎記』)


・天文16年(1547)
 松島満清(清満)は諏訪上社に役料減免を願い出たが、
断られた。
★福与城落城後のことで、収穫もままならなかったと
 考えられる。

 ●また、武田晴信は山本勘助や秋山虎繁(信友)に命じて、
  高遠城の大規模な改築を行った

・天文17年(1548)
2月14日 上田原の戦い

  武田晴信は小県郡の村上義清に敗退した。
 
4月3日 高遠頼継は甲府から高遠城へ帰城した。
   (★『高白斎記』)

●藤沢頼親は再び義兄:小笠原氏と結び、武田晴信から離反した。

4月?日 小笠原長時・村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡
     へ侵攻する
     (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
★村上義清が諏訪下社を攻めたかどうか不明である。

6月10日 小笠原長時は再び塩尻峠を越えて諏訪大社下社に討ち
 入った。
 しかし、下社の配下・地下人たちに反撃された。

6月中旬 小笠原長時は諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻
     を行った。
   (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
 
7月?日  諏訪西方衆が謀反を起こした。
  (★『高白斎記』『勝山記』)

7月10日 小笠原長時は武田家に臣従していた岡谷の三沢氏・花岡氏、
 小坂氏・有賀氏・諏訪矢島氏の「諏訪西方衆」に内通した。
 「諏訪西方衆」は小笠原長時の傘下になった。
 諏訪西方衆は諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族
 で矢島満清(諏訪上社本宮の三之鳥居)、花岡(諏訪湖の取水口の
 山上)小坂(花岡南東)らが、小笠原長時に通じ、 反旗を翻した。
南の有賀城などの攻撃態勢に入った。

 そのため、武田方の神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
 (ゆきえのじょう)らは 上原城へ 逃げ込んだ。
 (★神使御頭之日記:守矢頼真著)  

7月11日 小笠原長時は花岡・矢嶋・小坂の応援するため塩尻峠へ
 出陣した。小笠原長時は諏訪郡代・板垣信方を失ってしまって、動揺
 の激しい上諏訪に押し寄せた。
武田晴信に知らせが入った。 
  武田晴信は反乱の情報が甲府に届くとすぐに出馬した。
  @武田晴信は甲斐の大井森(現北杜市長坂町)に軍勢を集結させた。
  しかし、軍事指揮権の両輪を失った武田晴信は動こうとしなかった。
先の上田原の戦いの敗戦が尾を引いていた?
「風林火山」作戦だったのかもしれない?
  A小笠原長時軍は兵力的にも戦況でも優位にあったが、小笠原長時
   は武田晴信に対抗するための寄せ集め軍団で結束力が難しかった
  途中、小笠原長時の舅:仁科盛能が作戦方針をめぐって小笠原長時
  と対立して軍を率いて退去した。
  家老:山家氏や三村氏などの武将らは武田晴信の調略で内応した。
三村駿河守長親の離反は小笠原長時の大敗の原因となった。

小笠原軍は内部分裂で塩尻峠まで撤退せざるを得なかった。

  武田晴信の行動は慎重で18日まで甲斐に留まっていた。
本来なら甲府〜諏訪までは2日間あれば行ける。
8日もかかっても来ないので、小笠原方が油断していた。
 

7月18日 武田晴信がようやく軍勢を動かした。  
  大井の森(現北杜市長坂町)より上原城に入った。
  深夜、上原城を密かにを発った。
武田晴信は奇襲を敢行した。

  
7月19日 塩尻峠の戦い=塩尻:勝弦峠〜桔梗ケ原の戦い
 未明、武田晴信は「風林火山」のごとく隠密裏に軍を移動させた。
 塩尻峠の嶺上にいる小笠原軍5000余を急襲した。
 小笠原軍勢は昨日まで甲斐にいた武田軍が、まさか来襲するとは
思ってもいなかった。
 小笠原軍は寝込みを襲われ、完全に意表を突かれた。  
 不意をつかれた小笠原勢は具足も満足につける間もなく、散々に
 打ち負かされた。
 しかし、小笠原長時は崩れかかる自軍を立て直して防戦につとめた。
 小笠原長時と埴原・桐原ら旗本衆は狭い峠道を強引に攻め登ろうと
 する武田軍を押し返した。
 当然、武田晴信に反旗を翻したかつての花岡・矢嶋・小坂ら「諏訪
 西方衆」も加わっていた。
 武田晴信は同母弟:武田信繁に別働隊を与えて勝弦峠越えで小笠
 原軍の背後に移動させた。そして、小笠原軍の背を急襲させた。
 また、武田晴信に内応の約束を交していた西牧・三村・山家らも
 小笠原勢の後方にいて、背後から襲いかかったのである。 
 はさみ撃ちにされた小笠原軍は総崩れとなった。
   (★小和田哲男)
結局、小笠原軍は将兵1000余人が戦死した。
 小笠原長時の家老:村井氏は村井館(=小屋城館)を拠点に府中の
 防衛拠点としていたが、塩尻峠の村井氏は討ち死にした。
小笠原長時は居城の林城に逃走した。
武田軍は府中:松本へ侵入し、林城付近を焼き払い引き上げた。

小笠原長時は敗戦の傷跡は深かった。武田晴信に恐怖心を抱いた。

 武田晴信は小笠原長時に大勝。武田氏は再び優位を回復した。
★武田晴信は上田原の大敗を塩尻峠の大勝で埋め合わせることに
 なり、本人自身、少し自信を回復した。

小笠原長時が大敗北し、小坂城・花岡城・高尾山城も廃城となった。
 
武田晴信の諏訪五十騎の1人:桑原城代:田中淡路玄儀が居城したと
も言われているが、不明である。
 
 福与城主:藤沢頼親を追放した説もあるが。
  藤沢頼親は武田との関係は穴山氏を通じており、
    穴山信友を通じて武田晴信に降伏した。



●松島貞実が高遠城内で木曽義康家臣:千村内匠に謀殺された。
高遠城は木曽義康の勢力下にあり、千村内匠が城代であった。
@小笠原信貞の言として、
 「信貞被仰候は大手廃陣候へば、対陣に不及とて、伊那へ御引
 被成候」
 と保科弾正と松島貞実が武田晴信に通じている。
 (★『仁木寿斎記』:箕輪町史)
  
 A「松島対馬守貞実こそ、武田が語らいに応じて逆心の工首を刎ねて
  諸士の見懲しと成るべしと千村の下知せらる。・・・
  ・・・後略・・・・ 」
(★『高遠記集成』:箕輪町史)


・天文18年(1549)
7月 武田晴信は箕輪城(福与城)の大改修を行った。
(★『戦国時代のみのわ』:箕輪町郷土博物館編集)

・天文19年(1550)11月13日
 ●松島備後守が忠節を武田晴信より賞せられた。
 
.・天文20年(1551)
●松島備後守が武田晴信より馬3疋文の過書を与えられた。
   (★『武田氏家臣団人名辞典』:平山・丸島・黒田
     鈴木・柴・柴辻)


・天文21年(1552)8月16日高遠頼継は死去。
  高遠頼継は武田晴信(信玄)の命により、自害?

・弘治元年(1555)藤沢頼親・小笠原長時は、上洛して三好長慶に
   仕えたいた。
小笠原長時・・・足利義輝の弓師範。1000貫
小笠原信定(長時弟)・・・300貫
藤沢頼親(長時の娘婿)・・300貫
  
第2次川中島の合戦=犀川の戦いは終わった。
しかし、武田晴信は合戦の最中に、別働隊を木曽に派遣して
 いた。
武田晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信
 濃平定を完成させた。
★木曾義昌への勝利で飛騨・美濃に足がかりができた。
  まあいいかという感じであったろう。
 
 武田晴信は木曾義昌16歳に3女?:真理姫を娶らせ、武田家
 の親族衆として木曽谷を安堵した。しかし、実際には千村備前守や
 山村新左衛門の真理姫の付け人とし、さらに、父:木曾義康・母
 や重臣の妻子を甲府に人質として、武田晴信の監視下に置いた。
 やがて、木曾は武田晴信の美濃や飛騨への侵攻における前線
 基地となった。

  武田軍に降った木曽義昌は武田晴信の3女:真理姫を娶り
 一門衆となった。

・弘治2年(1556)
7月 伊那の諸将は武田晴信が川中島に行っている隙に、
  武田晴信の娘婿である木曾義昌を攻撃して反抗した。
 武田軍は反乱が起こると、川中島から上伊那郡へ矛先を変えた。
 木曾義昌に負けてしまった。
▲春日城・伊那孤島の戦い
 
武田晴信は首謀者8名を捕らえ、伊那狐島で磔にして処刑し、
 晒し首となった。
●松島豊前守信久   (現箕輪町:松島城)
・黒河内隼人政信   (現伊那市長谷黒河内)
・溝口民部少輔正慶 (現伊那市長谷溝口:艮うしとら城)
※保科弾正の次男
●伊那部左衛門尉重親 (現伊那市西町:春日城兄)
●殿島大和守重国 (現伊那市東春近:殿島城弟)
・宮田左近正親房 (現宮田村北割城山) ×
・小田切大和守入道正則 (現宮田村南割)  ×
   ※佐久小田切と同族
・上穂伊豆守重清 (駒ヶ根市赤穂:赤穂城)×
★全部近くを通ったり、探したりしたが、3つしか行けなかった。
  

黒河内氏と溝口氏の領民が夜陰に紛れて首を奪還したが・・・
 自分たちの殿様の首がどれか分からず、一緒にあった8人のの首
 をまとめて奪還したそうである。
 領民たちは、溝口正慶の居城だった艮(うしとら)城の近くに8人
 を弔った。
 現在は八人塚と呼ばれる石碑が建てられ、追善供養をしている
 そうである。

 ●秋山虎繁が高遠城主となり、坂西氏などを伊那衆を配下に
  置いた。
 ★おそらくは殿島城・春日城も大改修したのであろう。
殿島城は高遠城の支城として機能していたのであろう。


・永禄7年(1564) 三好長慶が没した。
 藤沢頼親は旧領箕輪に帰り、田中城を築いて居城としていた。
  
・元亀2年(1571) 武田信玄は秋山信友に大島城の改修を命じて
 いる。
  ★殿島城の大改修はこの時かもしれない。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
  松島氏は大草衆と共に奥山(浜松)に在番を命じられた。
 松島城には伊那衆黒河内氏が在城した。
  (★武田神社所蔵文書)
 

・天正10年(1582) 
2月 織田信忠の大軍が高遠城を陥落させた。
  ★飯島城出発し、→春日城・殿島城→高遠城と陥落させた
   のであろう。
 
▲参考文献
・箕輪町史
・箕輪記
・山城探訪:宮坂武男著


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◎◎◎
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***真田の城********************
箕輪初心:生方▲真田丸41【米山城・戸石城・本城・枡形城】
真田幸隆乗取&真田兄弟対決
http://53922401.at.webry.info/201602/article_15.html

箕輪初心:生方▲真田丸42真田の里【真田氏館&真田本城
&支城群一覧】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_18.html

箕輪初心:生方▲真田丸3【真田本城】新名所:堺&長沢の腰掛け椅子
http://53922401.at.webry.info/201601/article_5.html

箕輪初心:生方▲真田丸4【真田氏館&真田氏歴史館】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_6.html

箕輪初心:生方▲真田丸35【松尾古城】角間館の詰め城
http://53922401.at.webry.info/201602/article_8.html

箕輪初心:生方▲真田丸37【真田天白城】真田昌幸長男
:真田信綱の築城?
http://53922401.at.webry.info/201602/article_10.html

箕輪初心:生方▲真田丸38【矢沢城】&真田昌幸の叔父:矢沢頼綱の生涯
http://53922401.at.webry.info/201602/article_11.html

箕輪初心:生方▲真田●75【真田横尾城=尾引城】
:横尾氏→真田信綱の居城?
http://53922401.at.webry.info/201603/article_26.html

箕輪初心:生方▲真田丸39【真田:洗馬(せば)城】:横尾氏の詰め城
→真田氏の城
http://53922401.at.webry.info/201602/article_12.html

箕輪初心:生方▲真田丸40【真田根小屋城】:真田氏の支城
http://53922401.at.webry.info/201602/article_14.html

箕輪初心:生方▲真田丸5【真田長谷寺】真田幸綱・正妻:河原隆正妹
・真田昌幸の墓
http://53922401.at.webry.info/201601/article_7.html


***南信濃*********************
・天文14年(1545)
4月 高遠城主:高遠頼継を滅ぼした。
8月 福与城主:藤沢頼親を追放した。
箕輪初心:生方▲【高遠城】:天文14年(1545)武田晴信の
高遠城侵攻と高遠頼継
http://53922401.at.webry.info/201605/article_21.html

箕輪初心:生方▲保科正俊→保科正直→保科正光→保科正之
【高遠の建福寺の墓】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_22.html

箕輪初心:生方▲伊那市高遠町6回の思い出
http://53922401.at.webry.info/201605/article_23.html

箕輪初心:生方▲【伊那蟻塚城】天文21年(1552)高遠城西を守る城?
http://53922401.at.webry.info/201605/article_24.html

箕輪初心:生方▲伊那:手良【内城&堀之内城付近】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_25.html

箕輪初心:生方▲福与城(上伊那箕輪町):藤沢頼親&武田信玄&保科正直
http://53922401.at.webry.info/201605/article_26.html

箕輪初心:生方▲伊那箕輪【松島城】藤沢頼親家臣:松島氏
http://53922401.at.webry.info/201605/article_28.html

箕輪初心:生方▲【箕輪城】藤沢頼親家臣の木下氏→箕輪氏の城
http://53922401.at.webry.info/201605/article_30.html

箕輪初心:生方▲伊那【上の平城】知久氏→藤沢頼親家臣の城
http://53922401.at.webry.info/201605/article_31.html

箕輪初心:生方▲伊那『春日城=伊奈部城』:伊那武(部)氏兄の城
http://53922401.at.webry.info/201606/article_8.html

箕輪初心:生方▲伊那『殿島城』:伊那武(部)氏弟の城
http://53922401.at.webry.info/201606/article_9.html



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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
お世話になります
いつもながら、いろいろな記事ありがとうございます。

ところで、先日お話ししたホームページの件なんですが
ひとまず形が出来上がったので見ていただけるとうれしいです。そしてトップページにある、先生からの引用した旨の表示や宗治が編集したことの表現はこんな感じでよいでしょうか?
ここ⇒ http://minowa1059.wiki.fc2.com/ 
がんばって作ったので、トップページのデザインとか自分では気に入っています。また時間があったらお邪魔させてください、ではまた。
棟治
2016/06/09 18:01
素晴らしい編集ですね。感謝申し上げます。
2回ほど、読ませていただきました。
棟治様へ
2016/06/10 13:18
やった
それでは、しばらくの間まとめる作業OKという事ですね。
それでは読経にいそしんどきます。
棟治
2016/06/11 01:13

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