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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城187【雉郷城】&武田信玄の長野業正の親戚衆への攻撃・調略

<<   作成日時 : 2016/06/19 10:20   >>

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『里見一族』里見義成著では永禄年間(1558〜)初期に里見城主:里見
河内守によって築かれたともいわれているが、無理がある。根拠は、
@長野憲業の娘は里見義尭に嫁ぎ、生まれた里見義樹は長野業正の
養子になっている。(黒田基樹氏・里見繁美氏説)、従って、永享
〜天文初期には箕輪近辺に戻ってきている。★桐生仁田山城・大間
々要害から里見築城説には無理がある。A箕輪城着到超帳では「高
橋氏」となっている。B『関東古戦録』:久保田順一訳では安中景
繁が秋間の礼応寺城・辻城を落とし、雉郷城に迫り、那波無理之介
が若田原から出陣し雉子ヶ峠がら雉郷城を攻略した。とある。
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秋間川:飽間→秋間・・・・・・・板鼻・八幡
   茶臼山城・内出城・・礼応寺城・辻城
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲若田原・八幡
  明神砦・かぎかき城・・御嶽山の砦・雉郷城・』
烏川:倉渕〜〜〜〜〜榛名〜〜〜〜〜〜〜〜大島・剣崎・

上流から
【1】御嶽山の砦

【2】雉郷城
雉郷城=八重巻の砦 
榛名町上里見の梨園の上



@山崎一氏
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A宮坂武雄氏
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雉郷城は雉子ヶ尾峠と浅間山間にある標高373.7mの山に築かれて
いる。
遺構は素材置き場&梅園の5つの郭&山頂部7つの郭から
 なる。
 (★境目の城:上州編:宮坂武雄著)
・遠景
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  (★右が浅間山砦?・真ん中が雉郷城)
・12郭
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・11郭
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・10郭
・9郭
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・8郭

・鋭角に曲がる。
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・7郭
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・6の腰郭兼武者走り?
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・1の郭&2の郭の間の空堀
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・2の郭
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山頂の主郭部から南東へ伸びた尾根に堀切と小郭が
連続している。

・3の郭
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・4の郭

・5の郭・・・浅間神社方面
 笹薮が続く。尾根が浅間神社に繋がる。
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・1の郭&2の郭の間の空堀
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・南は直立の崖・・・
・主郭=1の郭
 カモシカのうんち・・・吾妻から榛名越え・・ここまできたか
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・1の郭&6の郭の間の空堀
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・7の郭の南
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・8〜11の眺め



【3】浅間山砦
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  (★私説)砦ではないかもなあ?
  上里見の梨園を安中秋間方面に向かう。
  山頂近くの「浅間神社入り口」の看板を右折する。
  農業道路を3〜4分で桜山公園に着く。
     ★南の安中秋間の下秋間カントリークラブ入り口から望むこと
   もできる。
  武田信玄の家臣になった那波氏はこの辺りから雉郷城を攻撃した
   のであろう。


【4】猪土手=獅子土手(★榛名町誌のみ記載)
  雉郷砦〜浅間山〜天神山 =雉郷砦の東南の山伝いの土手
  「長野時代の連絡通路」
  (★榛名町誌:久保田順一先生説・・・榛名町誌のみ記載)
 *雉郷城の北西1kmの所。榛名梅林の山頂。


【5】天神山砦説(★私説)
  里見城と尾根の間の???ガーデンが(3月6日)最盛期だった。
  ★榛名のパラグライダーパークもある。 

【6】堂尾根砦 (山崎一氏の説)  南は八幡霊園
  ★東山道を見下ろす絶好の場所である。



箕輪初心●群馬伊勢崎【那波城&那波無理之介」
http://53922401.at.webry.info/201301/article_13.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ47鷹留城A歴史&長年寺・榛名神社
http://53922401.at.webry.info/201011/article_15.html


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】長野業正の娘婿・親戚衆→同心衆
★長野系図は17ある。

1)ウィキペディアの説
長野吉業
長野業盛
長野正宣・・・武田信玄に仕え、53貫文の地を拝領した。
長野業朝・・・不明。
娘(木部範虎の正室)
娘(上杉憲政の正室)・・・★16長野系図に出てこない。
娘(和田業繁の正室)
娘(安中景繁の正室)・・・
娘(高田繁頼の正室)・・・★大井貞清からの娘婿:養子。
   16系図には1回も出てこない。
   娘(長野業固の正室)・・・★あり得るかも?
娘(倉賀野直行の正室)・・★倉賀野淡路守(金井淡路守)説もある。
娘(安中忠政の正室)・・・★安中景繁の父なのだ。
黒田基樹説では、・・・沼田顕泰の娘(長野業正の母妹)の娘
    長野業正の養女となり、安中忠政(重繁)にできた子は
@安中忠成(景繁)+甘利昌忠の娘、A高田繁頼の妻
娘(沼田顕泰の正室)・・・★一般的に長野業正の母は沼田顕泰だ。

★何か、怪しい気もするのだ。時代的にマッチしない人もいるし・・

彦根藩の記録によると、長野業親なる人物が業正の子としてあり、
業親の子・伝蔵が井伊直政に仕え次席家老となったという。
ただし業親は長野氏の系譜に全くみえず、庶子か養子とみられる。
(『高崎市史 通史編2』)。


2)「浜川系図」(長野弾正系図)によれば12人。
ただし、城主の実名は記載されていない。
比定は原則として『箕輪城と長野氏』(近藤義雄1979年)
に依拠した。
小幡城主小幡信貞室(長女)
国峰城主小幡景定室(次女)
忍城主成田室(三女)・・・・
  忍城学芸員は、「史料がない。」とおっしゃった。
  ★岩付城を築城した成田正等の養子は総社長尾長尾忠景の3男
  :成田顕泰である。成田顕泰→成田親泰→成田長泰→成田氏長
               ・小田朝興
               ・成田泰季→成田長親(のぼう)
  となるので、成田長泰か成田泰季に嫁いだ可能性もある。
  時代背景を考える必要かあるかもしれない。
山名城主木部定朝室(四女)
大戸城主大戸左近兵衛室(五女)
和田城主和田業繁室(六女)
倉賀野城主金井秀景室(七女)
羽尾城主羽尾修理亮室(八女)
浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室(九女)
厩橋城主・長野氏室(十女)
板鼻鷹巣城主・依田氏室(十一女)
室田鷹留城主・長野業固室(十二女)

箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

箕輪初心★箕輪城132『長野業政の系図&長野一族』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_4.html

箕輪初心●箕輪城130「長野業正の生涯」=武田信玄を悩ませた人物
http://53922401.at.webry.info/201405/article_2.html

箕輪初心:生方▲箕輪城182初日の出&【長野業正の親戚:成田一族】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_2.html


3)「浜川系図」(長野正弘氏系図)によれば12人。
城主の実名は記載されていない。
小幡城主小幡信貞室(長女)
国峰城主小幡景定室(次女)
忍城主成田室(三女)・・・・・・・★あり得ない。
山名城主木部定朝室(四女)・・・・★木部貞朝=木部業虎
大戸城主大戸左近兵衛室(五女)
和田城主和田業繁室(六女)
倉賀野城主金井秀景室(七女)・・・★金井は永禄8年に城主
羽尾城主羽尾修理亮室(八女)
浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室(九女)
厩橋城主・長野氏室(十女)
板鼻鷹巣城主・依田氏室(十一女)
室田鷹留城主・長野業固室(十二女)
(★『箕輪城と長野氏』近藤義雄著1979年)

4)【系図2「安中秋間の石井泰太郎氏の長野氏系図】
@長野業行→長男:業高
      A次男:憲業=信業→B業政→女子12人 
              妹=安中忠政妻
妹=里見義堯妻
女=和田重能妻
     女=倉賀野為広妻        
藤井定俊
●藤井定俊(=藤井豊後守友忠:一般的には)
「石井泰太郎氏所有の長野氏系図」には藤井定俊は長野憲業の
  弟と記されている。浜川城主。
 *黒田基樹氏・・・長野憲業の弟は諏訪某のみ・・・
・永禄6年(1563) 若田ヶ原合戦
住吉城(高崎市沖町)より500騎を率い、武田信玄の家臣:
 内藤昌秀を安中まで撤退させた。
●藤井友安 (?〜?) 藤井定俊の長男である。
●藤井忠安 (?〜?)藤井定俊の次男である。

※長野憲業=長野信業家督は次男業政が継いだ。
  長野業政の子どもは@女=娘11人・・・
女:和田新兵衛朝常妻・・・★和田城
女:長尾弾正正景妻・・・・★厩橋城・・忍城へ養子?
女:沼田万喜斎入道妻・・・★沼田城・・業正の母が沼田顕泰。変
女:岡本兵部少輔持村妻・・★群馬サファリ。熊井戸姓なので変
女:小幡尾張守信定妻・・・★小幡館&国峰城
女:小幡図書之助妻・・・・★宮崎城・神成城
女:木部弾正宮内少輔妻・・★高崎堀の内&山名城
女:倉賀野淡路守妻・・・・★倉賀野城・・金井姓なので時代が合わない。
女:安中越前守妻・・・・・★松枝城(松井田城)かなりの爺で変
  A義樹・・・(養子・信房)・・★石井城(現前橋市富士見)
     石井讃岐守・・・・・★鷹留城(旧榛名町)
  B業盛→曽平之進
女:・・・舞鶴姫
C宗誉

●石井義樹=里見義樹(1533〜1563) 
「石井泰太郎氏の所有長野氏系図」には長野業正の養子
と記される。安房稲村城主:里見義堯の次男:文悟丸である。
系図は長野業正の妹を里見義堯室としている。
★この縁で養子縁組みしたのかもしれない。
 里見繁美氏はこの説を強調している。
・里見義樹は長野業政の養子になったが、業盛が生まれた。
・???石井城主石井城(現前橋市富士見)→
・天文20年(1551) 2月 鷹留城守将となった。
  石井讃岐守信房と名乗る。
・永禄6年(1563)2月21日、討死。31歳。
***************************************************
箕輪初心●箕輪城81「大悍猿=風「見繁美氏の講演会」
http://53922401.at.webry.info/201209/article_12.html

箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】
&箕輪城181長野業正養子:里見義樹=石井信房
http://53922401.at.webry.info/201512/article_5.html

箕輪初心:生方▲箕輪城170【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_2.html
・関東享禄の乱で長野業正が上杉憲政を推す小幡・安中・高田
に敗戦。
長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁(忠政)に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
  (★「西上州の中世」:黒田基樹著)

****************************************************

●宗誉・・・★長年寺の僧になったのだろうか。

・永禄元年(1558) 着到帳
@一般家臣・・・509人 
A準特別職・・・・83人
A家老・・・・・・・5人
B客分高家・・・・12人
合計・・・・・・609人
★騎馬は4人1組で1500人と推定されている。



【2】「雉郷城」への侵攻

・天文10年(1541) 那波宗俊は厩橋城主:長野賢忠らと共
  に金山城:横瀬泰繁(由良氏)を攻撃。
  →那波宗俊は境=小柴城主:小柴長光の離反により敗死。
 那波宗元が家督を継いだ。 
 @長男:那波宗安=名和宗安=那波無理之助=縄無理介
  縄を編んだ羽織を鎧の上からまとい、無理を押し通す
  ことから無理之介と異称されたという。(某Hpより)
 A次男・那波顕宗(甥説もある)→長男:那波俊広がいる。

・弘治3年(1557) 武田晴信(信玄)による西上州侵攻が開始。
 ※箕輪城主:長野業政は鷹留城など支城網を駆使して、
  撃退した。

・永禄3年(1560)の那波宗元の勢力範囲
足利義氏、北条氏康の勢力を背景に以下の城を領有。
@那波城(堀口城)・・・伊勢崎市立第2中学校の北西
A今村城・・・・・・・・・・・広瀬川右岸(西岸)稲荷町
B赤石城(後伊勢崎城)・・・伊勢崎市立北小学校周辺


・永禄3年(1560)8月 長尾景虎の第1次関東出兵 
12月 長尾景虎(=後上杉謙信)の伊勢崎攻撃
  今村城及び赤石城・那波城が落城。
 那波宗元&次男:那波顕宗は降伏し、長尾景虎家臣となった。
●長男:那波無理之助は、那波城を脱出し、武田信玄の下へと
  逃れて、武田信玄の臣下となった。(永禄5年説もある。)      
★と言われているが、・・・・・
 那波宗元&北条(きたじょう)高広は先祖が大江一族である。
9月 北条高広は那波城に入った。

・永禄4年(1561)『由良成繁』が那波城主に抜擢。
  上杉謙信の命により、那波一跡を知行として支配する
  こととなった。
  由良成繁は、戦勝は『伊勢神宮』の御加護であるとし、
  赤石郷を伊勢神宮へ寄進した。
  ※伊勢崎の「伊勢」の発祥ではないかと考えられている。
 ★しかし、那波氏は旧領安堵ではなかったから、悔しかった
   であろう。

・永禄3年(1600)に従兄弟の小幡図書之介に国峰城を乗っ取られ
 てから、武田晴信に臣従した。従って、南牧の笹の平城にいて、
  武田信玄命令で市川一族を家臣団に取り入れた。
   (★真田三代:平山優著)
・5月6日付 武田家朱印状写 
 小田切・高野(佐久市小田切・佐久穂町)120貫
  ■田・桑山(佐久市)80貫
  海瀬・三分(佐久市)130貫
  崎田(佐久穂町穂積)70貫  
  所領充行・・・
  市川右馬助殿・市川右近助殿・市川縫殿助殿
(北佐久郡浅科村:五郎兵衛記念館市川家文書)
★ここでも、小幡信実は馬生産が行った。

・同永禄4年(1561)6月 長野業政が死去。
  →長野氏業(=業盛)が嗣いだ。
遺言で「死を隠せ。」と言ったが、すぐばれた。

 武田信玄は国峰城:長野業政2女の娘婿の小幡図書介を攻略
 した。
・同永禄4年(1561) 
 →@長野業政長女の娘婿:小幡重貞(図書介従兄弟)が国峰
  城主に返り咲いた。 
 小幡信貞は国峰城を取り戻して貰ってからは、武田信玄の
 上野国の家臣団として、南牧の市川一族を同心として
 配下に加え、山県昌景同等クラスの騎馬軍団に成長して
 いった。市川家は佐久で馬の管理をしていたからである。
当時、モンゴル馬も唯一管理していたそうである。
  モンゴル馬は日本馬より大きく、タフで速かった。
(五郎兵衛記念館:根沢氏の話・・・根沢氏も南牧出身)
箕輪初心:生方▲武田晴信の天文15年(1546)の隠れた上州侵攻
&武田家臣:市川氏
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201605/article_14.html     

箕輪初心●群馬の城:旧甘楽町A国峰城=武田24将:小幡重貞
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html
★24将ではなかった。根澤館長は武田晴信の騎馬軍団では
 小幡信貞が最強であった。馬が圧倒的に多かった。

箕輪初心●群馬の城「宮崎城→神成城」=小幡図書之介の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_16.html

・永禄4年(1561)武田信玄の平井城攻撃
武田信玄→小林監物宛の手紙
「味方になれば、所領安堵する。」
高山行重・高山定重・高山衆・
小林平八郎監物は武田信玄に臣従した。
 藤岡を支配下に置いた。
箕輪初心▲群馬:【高山館&高山城】&高山氏の戦国時代
http://53922401.at.webry.info/201505/article_20.html
★世界遺産:高山社は平時の館跡
★小林館の写真は消滅してしまった。

・永禄5年(1562)北条(きたじょう)高広を厩橋城代とし、
   那波城・伊勢崎城を支配した。
北条高広はこのあと30年近く、厩橋城・片貝城にいた。
(★『大江・毛利の一族』:関久著)

・永禄6年(1563)  
 那波顕宗(あきむね)が北条高広の妹を正室にした。
 ★政略結婚ではあるが、2人とも先祖は大江一族である。
  
 長男:那波無理之助=名和宗安は武田信玄の家臣として
  箕輪城攻撃に参加していた。
 
・永禄6年(1563)武田信玄の吉井攻撃
箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城@「吉井陣屋他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_11.html

箕輪初心●群馬の城:高崎吉井38城A「多胡館他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_12.html
 
箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城B「一郷山城・奥平城他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_13.html

武田信玄は甘楽・多野地方を掌握。   
吉井:長根50騎(長根氏+小河原氏)+多比良氏  
 

▲若田原(高崎市八幡町)の戦い・
 長野氏業の家老藤井友忠が中心になって反撃した。
※箕輪城の城兵は板鼻、若田ヶ原などで反撃した。

・永禄7年(1564)
  武田信玄が替佐城(中野市)を築城した。
  武田信玄が上杉謙信側の壁田城(中野市)を乗っ取った。
 城将は小幡信貞・・・
 ★市川氏も入った可能性が高い。


・永禄7年(1564)和田城大改修 
武田信玄は馬場信房(信春)に命じて、上杉謙信側の
  倉賀野城に対抗するため、和田城の大改修を行った。
(★新編高崎市史)
 ★おそらく、幅20mの堀が4つ・・・

・同永禄7年(1564 松井田城・安中城:落城。
  →A長野業政の叔父の娘婿:安中忠政・安中忠成が
  武田信玄の支配下となった。
安中忠成は甘利昌忠の娘を貰った。
以後、安中景繁を名乗ったようである。

・永禄8年(1565) 倉賀野城:倉賀野八郎?直行が落城。
  倉賀野尚行(直行)上杉謙信を頼った。
 →倉賀野16騎の筆頭:金井小源太秀景が倉賀野城主となった。
  武田信玄の命令で、倉賀野淡路守秀景と名乗った。

 ※箕輪城は孤立・・・丸裸状態。
●真田幸綱(幸隆)の調略により敵となった長野業正の娘婿・親戚衆
@長野原の羽根尾城:羽尾幸全・海野幸光など
A東吾妻の大戸城:大戸真楽斎・大戸浦野氏
B東吾妻の大柏木城:羽田氏
★長野弾正系図でいうと、@ABは元々、海野一族

●武田信玄の攻略により敵となった長野業正の娘婿・親戚衆
@旧妙義の高田城:高田繁頼(父は妻が安中重繁娘)・高田直政
A安中の松井田城:安中重繁(長野業正の叔母の娘の婿)
 安中の安中城:安中景繁(甘利昌忠の娘婿) 
 &家臣:松本・須藤・・・後閑の萩原
  甘利の配下・見張りとして共に行動したようである。
  ただし、秋間攻めは単独行動かもしれない。
B小幡の国峰城:小幡信貞(業正娘婿)(重貞→信貞→信実)
 &小幡城:熊井戸(後、岡本姓)
 小幡重貞は武田信玄推薦の2人目の妻を断った。
 武田信玄の「信」の字を貰った。
 ・天文16年(1546)頃から3重契約(上杉憲政・北条氏康
  ・武田晴信)をしているが、武田に比重が高かった。
 ・永禄3年(1600)に従兄弟の小幡図書之介に国峰城を乗っ取られ
 てから、武田信玄の臣従し、た。  
 (★真田三代:平山優著)
従って、南牧の笹の平城にいて、市川一族を家臣団に取り入れた。
・永禄4年(1561)国峰城を取り戻して貰ってからは、武田信玄に
 臣従した。箕輪城攻略後には約4万石程度の所領があった。
その後、替佐城・壁田城(北信濃中野市)の城代も兼ねた。
C高崎の和田城:和田業繁(業正娘婿)&和田信業=跡部勝資長男5歳
小宮山・馬場の配下・見張りとして共に行動したようである。
D高崎の山名城:木部範虎(業正娘婿)はいなかったかも? 
 木部10騎
大井貞清の配下・見張りとして共に行動したようである。
E高崎の倉賀野城:倉賀野秀景等倉賀野16騎
伴野助十郎の配下・見張りとして共に行動したようである。
F伊勢崎の那波宗安=無理之助・・・
G吉井:長根50騎(長根氏+小河原氏)+多比良氏など
G藤岡の高山行重・高山定重・高山衆・小林平八郎監物



・永禄9年(1566)
  那波無理之助=名和宗安は武田信玄の先方となった。

?月・・・武田信玄の作戦命令


5月・・・武田信玄は二万の大軍で侵攻・・・
○信州余地峠→南牧→下仁田→高田→安中八幡陣城
○伊勢崎の那波無理之助宗安が先発隊で秋間(飽間)の
  蔵人城:島崎蔵人や礼応寺城:赤見藤九郎などを攻撃し、
  攻略した。
 (★箕郷町誌)
安中忠政は秋間の八貝戸・内出・蔵人・礼応寺を攻略した。
  (★上毛古戦記)
○那波無理之助宗安が200〜250で雉子ヶ尾峠を夜間に越えた。
    高浜砦を急襲。奪取。
○武田方の飯富(おぶ)・小宮山(こみやま)隊が里見城・雉郷城
 を陥落させた。
 ※茗荷沢砦(=御嶽山砦)・雉郷城・里見城は
  里見河内宗義の支配であった。    
○安中忠政・小宮山・飯富隊は烏川北岸の長野業通弟:業勝を攻撃。
 突破し、那波無理之助が高浜城に火をかけた。
 (★上毛古戦記)
鷹留城将の長野業通は弟:業勝・業固ら数百の手勢で迎撃。
 (★箕郷町誌)
武田軍の小幡信貞らの一隊を一時は烏川南岸に押し戻すなど善戦。
   しかし、業勝は討ち死。
  (★上毛古戦記)
○那波無理之助は白岩まで進軍した。
   白岩観音堂(=長谷寺)で狼藉。
 長谷寺の僧が仏像・教典を持って箕輪城に逃亡した。
○箕輪城から高浜城主:鷺坂(匂坂)長信・安藤九郎左衛門勝通・
  青柳金王丸らが高浜城奪還を目指して進軍。
  (★上毛古戦記)
○安藤九郎左衛門勝通100と那波無理之助200が激突。
→安藤九郎左衛門勝通が戦死。
 「老の身は いずこの土に なるとても
   君がみのわに 心とどまる 」
 (★上毛古戦記・上州治乱記巻之三)
○青柳金王丸・新波新左衛門ら200は白岩から高浜城・烏川の
 南岸まで那波勢を追い返した。
○翌日、飯富・小宮山隊は神戸から白岩を占領した。
 神戸(ごうど)城:桜沢伊賀守(榛名町神戸)はいち早く、武田
  の支配下になった。
 →遠北の陣屋(榛名町高浜)を設置し、箕輪城と鷹留城を分断した。
○鷹留城の長野業通・業固は覚悟を決め、山県昌景隊に突入した。
★既に鷹留城は落ちていた。
○武田方の応援の内藤昌豊・馬場信房隊に包囲された。
○長野方の利根木隊の救援で辛うじて、小幡重貞隊の囲みを突破し、
 鷹留城に戻ろうとした。
○しかし、このとき小幡重貞の鷹留城内の内応者、男蟹谷直光らによって
 鷹留城内に火が放たれ、鷹留城は落城した。(伝)
 武田信玄は馬場・山県隊と穴山・小山田隊などを出撃させていた。
 →箕輪城・鷹留城を分断。
○長野業通らはやむを得ず吾妻の長野原火打花に逃げ延びた。
○高浜砦(榛名町)・白岩砦を占領した。鷹留城は箕輪城と分断された。
  武田信玄は、本隊を東の若田原(高崎市)へ向け、進軍した。

【1】蓑輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏
 武田信玄は那波無理之助に秋間の城(口碑によれば、蔵人城
 主:島崎蔵人、礼応寺城主:赤見藤九郎)を攻略させた。
 那波無理之助は夜暗を利用して、二百の少勢をもって雉ヶ尾
峠を越え、雁又、茗荷沢、雉郷、里見の各砦に配した長野方、
 里見河内等の警戒網の間隙を縫い、烏川を渡って高浜の砦に
 襲い掛かった。
砦の将、鷺坂常陸守介長信はあたかも箕輪城にあって
「留守の家人防戦するも、敵は目にあまる大軍なれば、
 留守部隊は敗れ・・」と各戦記は記している。

 
※ここからは、近藤義雄氏の意見〜〜〜〜〜
 もし無理之介が、雉郷城か里見城にかかって里見河内と一戦
 していたとすれば、鷺坂は急遽高浜の砦に帰り、箕輪からも
 援兵が加わって砦を固めていたはずである。
 この砦から東、白川が烏川に合する地点に至る間には、所
謂本郷崖の絶壁が続いていて渡河点はなく、以西は鷹留城の
防御範囲であって、そこからの進撃は、鷹留城の強力な反撃
を受けやすい。その切際部を固めた高浜の砦は、箕輪方が放
棄するわけがなく、事実、この砦の失陥が箕輪の落城を早め
たのである。
 無理之介の行動は、その名の如く無理な作戦であって、これ
が成功したことから、雉ヶ尾峠突破は夜間行動であり、任務は
強行偵察を兼ねていたものと判断される。しかも、精強な武田
勢は機を失せず、戦果を利用し、突破口を拡大するため、那波
隊の直後に飯富、小宮山の有力部隊を進めていたのである。
那波隊が砦に突入放火し、守兵が箕輪に向かい敗走した頃には、
飯富、小宮山勢は雉ヶ尾里見両城に攻めかかり、背後の高浜の
砦にあがった火の手を見て、動揺した城兵を圧倒してたちまち
城を占拠したと思われる。
このことは、箕輪城に関するどの戦記にも記されていないが当
 然のあるべき戦況かと考えられよう。
  雉郷峠の失陥が、この稜線に備えた第一戦防衛陣の無力化を
 意味する。
 『敵は目に余る大群』というのは、200の那波軍を呼ぶにはあ
 まりな誇張であるが、砦を焼いた那波隊は、白岩に向かって
 突進した。
(★箕輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏)

【2】上州治乱記→上毛古戦記:山崎一氏
 武田信玄は安中忠成を先鋒として秋間の諸城を攻略した。
 八貝戸、内出、蔵人、礼応寺の諸砦は追い落とされ、里見河内
 の守る雉郷、里見の両城も落ちて鷹留城は正面から敵を受ける
 ことになった。
 武田方先鋒は烏川北岸に備えた長野業勝(業通弟)の軍を突破
 して渡河に成功した。那波無理之助は手勢250余騎を率い、
 高浜の砦を襲った。砦将、匂坂常陸守介は箕輪城にあって
 留守の小部隊は防戦のあと、砦を捨てた。那波無理之助は
 ・・・(中略)・・・
那波無理之助は白岩砦に進んだとき、箕輪城から出撃した
 安藤九郎左衞門の100余騎と遭遇。白岩観音堂付近で激戦と
 なった。安藤九郎左衞門は戦死した。・・・那波勢が観音堂の
 仏像や教巻などを担いで・・・
 そこで、青柳金王・新波新左衛門は200の兵を率いて、白岩に
 向かった。・・那波勢を破って、烏川の南岸まで追いやった。
(★上毛古戦記:山崎一氏)

★若田ヶ原から里見河内守の城:高橋隼人正の守る
 雉郷城(旧榛名町)を攻撃した。
 武田信玄に家臣になった安中忠成(甘利昌忠の娘婿か妹婿)
 は旧支配下の礼応寺城(安中市秋間)などを攻略した。
 箕輪城の大支城:鷹留城(旧榛名町)は正面に見えるよ
 うになった。
★武田信玄の「箕輪城攻略作戦」は、
  まず、箕輪城(旧箕郷町)&鷹留城(旧榛名町)の分断。
次に、鷹留城を先に攻略。と考えたのであろう。
侵入経路は
  @雉郷砦→里見城・上里見城→西からの鷹留城攻撃→
  A雉郷砦→高浜砦→三ツ子沢砦→神戸砦→駒寄砦→
       南からの鷹留城攻撃
       →宮沢砦→東からの鷹留城攻撃
       高浜砦→白岩砦→箕郷の童子砦・・箕輪城
※白岩から箕輪城まで、3km程である。

5月 鷹留城が落城した。

9月29日(=新暦11月2日)箕輪城を攻略。
 以後、16年、箕輪城は武田信玄の支配下になった。

■参考文献
・群馬県史
・新編高崎市史 
・箕郷町誌(近藤義雄執筆)・・・ベース
・「箕輪城と長野氏」
・近藤義雄先生の論文・講演会
・榛名町誌(久保田順一共著)
・関東古戦録(久保田順一訳)  
・上毛古戦記(山崎一著)
・群馬の古城(山崎一著)
・境目の城(宮坂武雄著)
・「戦国期の上杉・武田氏の上野支配」:栗原修著
・「真田三代」:平山優著
・「真田四代と幸繁」丸島和洋著
・・・などなど多数。
  
関係ないけど・・・・
・天正18年(1590) 8月 井伊直政が箕輪城移封。
井伊直政の家老・・・
 @箕輪長野氏系子孫・・・・井伊家家老bRの禄高
鷹留長野氏系・・・・・・僧侶で彦根まで
 A内藤昌月の次男系
B和田信業の子ども
C里見河内守の子ども
D安中の萩原
★もったいないので、詳しくは「井伊直政シリーズ」 で
D山県昌景の配下で井伊家家老になった者
・広瀬・三科・孕石・(石原)など




★明日は鷹留城6回目かな?

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