城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸93【第19話:恋路】@信繁&茶々*A信幸&稲α九州平定

<<   作成日時 : 2016/05/19 09:37   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

・天正13年(1585)大阪城が完成した。信繁は茶々にせがまれて、
大坂城の中を2人きりで案内した。信繁は茶々が過酷な運命を生
き抜いていたことを知ると茶々に対し好意を抱いてしまった。
信繁&茶々の関係は史実とは多分ちがうであろう。しかし、
信幸&稲の関係は史実・あるいは史実に近いだろう。
真田昌幸は長男:信綱が長篠で亡くなったために養子先:武藤
家から戻って真田家を継いだ。兄の娘:こうを長男:信幸の嫁
にして、真田家の直系の血をつなげた(伝)。従って、信幸は
「こう」も大事にした。
画像

画像

画像

画像

画像

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆ナレーター


●大坂城
幸繁は茶々に気に入られたら、秀吉に殺されると分かっている。
茶々は幸繁にとって危険人物であった。

真田を救うために、
「茶々の頼みごとなんでも聞くから、秀吉にとりなしてください。」
と頼んだ。

・2人は手を繋ぎ。・・・
「・・・」
信繁が茶々から依頼されて大坂城の中を案内してまわる。

●武器庫
茶々「見つからなければ大丈夫・・・」
極めて楽観的な茶々に・・・
武器庫は
「決して入ってはいけない。」
と秀吉に言われている禁断の場所であった。
武器庫でデート・・・・
見てはいけない武器庫に、茶々と2人っきり・・・★やべえ。

兜、鎧、やり等・・・物々しい武具の数々〜〜〜・・・

幸繁は、誰も来ないかと不安もある。
信繁は大坂城の縄張り図が頭の中に入っていたのだ。
★大坂夏の陣の伏線・・・三谷節の特徴か?


信繁は茶々の経歴を知ろうとはしていなかった。
信繁は秀吉から茶々の警護役を押し付けられて嫌々で仕えている。
茶々に興味を持ったら命が危ないので茶々のことを知ろうとしな
かったのだ。避けていたという感じであろうか?

2人は歩き回りながら・・・・
そして、茶々の話。
「私が5歳の時、父:浅井長政が、織田信長の命令で秀吉に攻めら
 れて小谷城で自害しました。・・・
 兄の万福丸(当時10歳)は秀吉の命により、串刺しの刑に
 なった。
 その後、母が嫁いだ柴田勝家は、殿下に攻められて、
 母と一刀の元に斬り殺した後、腹を十文字にかき切って自害
 しました。
 私の親しい人はみんな殿下に殺されました。
 だから、私は血を見るのが怖くない。人が死ぬのは怖くない。
 自分が死ぬのも怖くない。・・・」


茶々「ね、見て、・・・
茶々「血のにおい・・・この血はどんな人の血・・・?」

幸繁に抱きつく茶々・・・
茶々に抱きつかれた幸繁・・・★やべえ。

茶々「殿下の側室になれと言われました、どう思います?」
幸繁「殿下の側室になられることが茶々様の幸せになるか
   どうかわからないけど、断ったら茶々様はあまり幸せなこと
   にはならないかもしれません。

幸繁は茶々の過去の話を聞いてしまった。
幸繁は茶々が過酷な運命をたどってきたことを知った。
◆ちょっと織田信長
浅井長政は小谷城を本拠に鎌刃城・佐和山城も支配していた
織田信長は尾張から近江に侵略するのに浅井長政を味方につけよう
としたのだ。そのため、妹:お市を浅井長政に嫁がせたのだ。

茶々は浅井長政と織田信長の妹:お市との間に生まれた3人娘の
長女であった。織田信長の姪である。

しかし、浅井長政が織田信長に敵対したため、織田信長は本城:
小谷城(現滋賀県長浜市)を攻めた。小谷城は落城した。
茶々の兄:万福丸は織田信長の命により、羽柴秀吉に処刑した。
小谷城の戦いで、茶々の父:浅井長政とその父親は自害した。
母:お市の方と3人娘はお市に随伴して来ていた織田信長の家来に
救出された。多くのドラマは羽柴秀吉は助けたことになっている。
お市達は岐阜城にきた。その後は清州城に住んでいた。

母:お市が織田信長家臣:柴田勝家と再婚した。
茶々たち3人娘の越前国の北の庄城(現福井県福井市)に移った。

・天正10年(1582)6月2日織田信長の死。
 羽柴秀吉と養父:柴田勝家が対立した。

・天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦
柴田勝家が敗れた。
 母:お市が柴田勝家と共に自害しした。

※つまり、茶々は@父:浅井長政、兄:万福丸、母:お市、養父:
 柴田勝家を織田信長と羽柴秀吉に奪われてしまったことになる。
賤ヶ岳の戦で茶々が2人の妹とともに秀吉に引き取られた。

その後、茶々たちは長浜城や聚楽第に住んでいた。

・天正14年(1586) 信繁が上杉景勝と一緒に大阪城にきた。
 その時すでに茶々が大阪城にいた。
 茶々の方が先に大阪城に住んでいたはずなのに・・・・
 

*************************
※えっ! そうなんだ。


「帰りますよ。」
と、・・
とにかく、茶々はやばい女である。
こんな女にとり憑かれたら大変なことになる。
と思いつつ、奔放に振舞う茶々に信繁は好意を抱いた。
幸繁は茶々に惚れ始めてしまったのだ。


●茶々の部屋
きりが「カステーラ」
をきり始めた。

侍女「殿下に・・・殺されたようなものです。」
周囲が2人の関係を怪しみ始めている。

●秀吉の部屋
いよいよ秀吉が茶々を側室にしようと動き始めた
 茶々を側室にしたい秀吉は作戦を・・・
 =「茶々」という難攻不落な城を落とす戦略を練った。

正室:寧々(お寧)の膝枕で、
秀吉「かかならどうする???」
★相談する相手を間違っている秀吉
・・秀吉は茶々の口説き方を正室:お寧に尋ねた。
 子どもいないお寧に聞くのは当然か?
別のドラマ「????」では、

秀吉「どう攻めるかのう・・・?」

★お寧がどう答えたか記憶にない。酔っ払っていたから・・

秀吉が思いついたのは茶々の御殿を作る!

聚楽第の話〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
片桐「浅井・・・」

●茶々の部屋
秀吉「聚楽第を茶々のためにつくることにした。」

茶々「源次郎はついてきてくれるの?」
  「源次郎が来ないというのなら、茶々はここに残ります」




●駿府城
昌幸・信幸・・・★こっちはこっちで大変である。

家康が真田と縁戚を結びたいから本多平八郎の娘の稲姫を
家康の養女に迎えて信幸の正室に嫁がせる戦略!

※家康&本多
家康「・・・相手は信幸じゃ。・・・」
平八郎「稲は愛娘でございます」

説@本多平八郎忠勝は稲を真田に推薦した説(多くのドラマ)
説A徳川家康が考えついた説「真田丸」

※縁組み
昌幸「・・縁組み?・・・・」
昌幸「・・・こうがいる。・・・」
家康「それしきの理由で、・・・」
信幸「こうがいるんですけど!」
家康「離縁すればいいだけのこと・・・」
昌幸「・・・ここは泣いてくれ。・・・すまん。・・・」

※父:本多忠勝&稲
稲「稲は、いやでございます。」
本多「縁戚を結びたいためだけに派遣されるのではなく
   間者に・・・
稲「稲は冠者になるのですか?」
稲「喜んで・・・」
嫌がっていた稲は
「間者ってことなら話は違うわ、行きます!」
ってえことになった。

※信幸&稲の面会・・・見合い
稲「稲は徳川と真田の架け橋になりとうございます。」


●秀吉の部屋
茶々「蔵に茶々を呼び込んだのは・・・」

秀吉「且元、茶々にほれてるな?」

※片桐&幸繁
片桐且元「身分をわきまえよ!」と
幸繁は怒られた。

※秀吉&幸繁
秀吉「蔵でデートって本当か?」
幸繁「そんな事実はございません、」


城中では
「幸繁は茶々を蔵に連れ込んだ男」
の噂がたっていた。
結局ばれちゃって・・・大ピンチ!

加藤清正「おのれ、源次郎」


●花の場面
茶々「これはねえ。山吹。はい。・・・」
幸繁「いただきません。」

●きりに相談すると
幸繁「加藤清正様の誤解を解いておきたい。・・・」

きり「落ち度があったんばから・・仕方ないでしょう。」
源次郎さまにスキがあったんだと思うな。」
と指摘された。
幸繁「ない。」
ときっぱり否定したが、・・・・。

●秀次に相談すると
秀次「好きになっちゃったんだからしかたがない。」
幸繁「いえ、違います。」
秀次「好きじゃないの?・・・
   だったらお前に隙があったんだよ。」
と指摘された。
幸繁「・・不徳の致すところ・・・・・・」


●石田治部に相談すると
三成「おぬしに隙があったからこういうことになったのだ。」
と冷たく言われ・・・
幸繁「はい。そうです。隙がございました。」
私が悪うございましたとようやく観念した。・・・


三成「加藤清正には九州に行ってもらう。」

◆加藤清正
加藤「良くも謀ったな。・・・」
   「武具の蔵での・・・」

●秀吉&茶々
秀吉はお寧との話で、正攻法で直接気持ちを伝える戦略を
立てた。
秀吉は口説いた。・・・
秀吉「お前が死ぬと時に『私は日の本一幸せなおなごでした。』
と言わせると約束する。お願い、妻になってちょ。」

茶々には「秀吉の戦略」が見え透いていたが、・・・
茶々は承諾した。・・・

●側室:茶々
茶々「あの殿下が若者のように額に汗して必死に口説いている
  のを見たらこの人の思いを叶えてあげたいと思った・・・
  日の本一のおなご・・・」


◆ナレーター・・・おかしな話
「茶々は源次郎を解放してあげるってことにした。
でも、おかしな話をする。」
茶々「私と源次郎は不思議な糸で結ばれている気がする。
   離れ離れになってもあなたはいつか戻ってくる。
  そして私たちは同じ日に死ぬ。
  いつか一緒に死ぬ。・・・・」


きり「茶々様とはなれることができてよかったですね。・・」


●茶々正室
「・・・」

◆ナレーター
「茶々を側室に迎え入れるということが間違いなく豊臣政権が崩壊
に向かう最初の一歩であった。
★怖い語りである。
天真爛漫な茶々が実はとんでもなく、秀吉にとっても
呪われた魔性の女であった。


◆20回の予告
☆来週乞うご期待、見てね。

★岡崎市


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天正14年(1586)1月〜天正15年(1586)3月まで


【1】『真田四代と信繁』丸島和洋著

・天正15年(1567)
3月 真田昌幸が上洛した。
   酒井忠次が同席した。
※丸島説・・・これが思わぬ副産物を生んだ。
   真田は豊臣の大名になったのである。
  真田は上杉と対等な立場になった。
徳川家康の与力大名になった。
   戦時、徳川家康の指揮下のに置かれることになった。

3月18日 酒井忠次の案内で真田昌幸・小笠原貞慶は
  駿府城に入城して、豊臣秀吉に臣従した。
  正式に大名として認められた。



【2】『真田三代』:平山優著
・天正15年(1567)
1月4日 豊臣秀吉→上杉景勝への書状
「真田昌幸の赦免を正式に通達した。真田昌幸に上洛するよう
  指示させた。」

3月?日 真田昌幸・小笠原貞慶が上洛。
酒井忠次が同席した。
徳川家康の与力大名に真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌
  に正式に命じられた。

3月18日 酒井忠次の案内で真田昌幸・小笠原貞慶は
  駿府城に入城して、徳川家康の与力大名となり、
 豊臣秀吉に臣従が正式となり、大名として認められた。

★個人的にはこの時、真田信幸&稲=小松姫との結婚が決ま
ったと考えている。・・・

***************************
一方、北条は・・・
・天正14年(1566) 11月
北条氏政は豊臣秀吉が攻めてくることを想定し、
臨戦態勢に入った。

・天正15年(1567)
小田原城・山中城・玉縄城・下田城・・・
上野国では箕輪城・沼田城・松井田城・西牧城の
改修工事に着手した。

***************************
一方、豊臣秀吉は
・天正13年(1585)
豊臣秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令
 を発した。
 しかし島津義久は無視して北上した。
島津義久は大友氏の重臣:立花道雪が病没したことを契機に
 島津忠長を大将とする大軍を筑前に派遣ぢた。
▲岩屋城の戦い
 大友家の有力武将:高橋紹運は岩屋城に篭もって半月の間、
 抗戦したが、玉砕した。
 島津軍も3,000を超える死傷者を出した。
 立花統虎が篭もる立花山城を陥落させることが出来なかった。
 豊臣秀吉が吉川元春、小早川隆景の軍勢が豊前に上陸した。
 8月24日 島津忠長は博多を焼き払い、薩摩に撤退した。

箕輪初心:生方▲百名城G【85〜97】九州の城
http://53922401.at.webry.info/201506/article_33.html

箕輪城●福岡【岩屋城】=儀を貫いた武将:高橋紹運の山城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_19.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201112/article_19.html
 
10月 ▲豊薩合戦
  島津軍は日向と肥後の2方面から総計4万の大軍で
  大友氏の本拠地:豊後へ侵攻を開始した。


・天正14年(1586)
 12月12日 豊後戸次川の戦い・・現大野川
長宗我部元親・長宗我部信親父子、軍監:仙石秀久、大友義統、
 十河存保率いる豊臣勢
VS
  島津義久の島津軍

結果・・仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取ら
れて大敗した。
12月13日 島津軍は府内大分城に侵入した。
 大友義統は豊前に逃走した。
 大友氏は臼杵、杵築、佐伯、竹田等で激しく抵抗を続けた。
 豊臣の大軍が豊前に入ると、島津軍は豊後から撤退した。

箕輪初心●大分【岡城】=滝廉太郎の故郷
http://53922401.at.webry.info/201110/article_8.html

箕輪初心●大分:【杵築城】&昔の風情が残る城下町
http://53922401.at.webry.info/201110/article_9.html

・天正15年(1587)
 3月九州平定戦を開始した。
 備後国へ亡命中の足利義昭のもとを訪れて会見した。
 中国地方を完全に平定した。
 豊臣秀吉は弟:秀長と軍監:黒田孝高を伴い20万の大軍を
 率いて九州に本格的に侵攻した。
4月21日 島津義久は伊集院忠棟と平田増宗を人質として
 羽柴秀長に和睦を申し入れた。
5月22日 島津義弘は島津義久の説得により子:息島津久保を
 人質として差し出すことを条件に降伏した。
 島津氏を服従させた。
九州をほぼ平定した。
6月19日 豊臣秀吉は博多でバテレン追放令を出した。  

肥後国領主となった佐々成政が国人一揆で失政により改易された。

肥後の北半分を加藤清正、人吉を除く南半分を小西行長が領する
こととなった。
加藤清正は肥後北半国19万5千石を与えられ、熊本城を居城と
した。

箕輪初心:生方▲高崎経済大学:西沢教授「鈴木重成は偉人なの?」
俗説と史実
http://53922401.at.webry.info/201605/article_19.html

※豊臣秀吉はいよいよ、関東の北条・奥州への平定に向けて
動き出した。

・天正16年(1588) 秀吉は茶々を側室にした。 
   秀吉は52歳・・・。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲真田丸93【第19話:恋路】@信繁&茶々*A信幸&稲α九州平定 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる