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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』

<<   作成日時 : 2016/04/26 09:47   >>

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・弘治3年(1557)8月下旬 第3次川中島の合戦:上野原において
武田晴信VS長尾景虎が合戦を行った。長尾景虎は旭山城を再興
した位で大きな戦果もなく、9月に越後へ引き揚げた。武田晴信
も10月には甲斐へ引き上げた。武田信玄は北信侵攻や飛騨侵攻
・駿河侵攻を続けていたが、長尾景虎は上洛や第一次関東出兵に
より大きな対戦にはならなかった。やがて、永禄4年(1562)、第
4次川中島の戦い:八幡原の戦いを迎えることになる。
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 (★新潟県史より)
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★★ 長尾景虎→上杉政虎の動向  ★★
・天文21年(1552) 関東管領:上杉憲政は北条氏康に敗れた。
  やがて、上杉憲政は上野国平井城→水上→越後国へ逃れた。
  上杉憲政は長尾景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し
  入れた。

〜〜〜上杉憲政〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲【水上:建明寺】&上杉憲政は水上での
逃亡生活7年間?
http://53922401.at.webry.info/201505/article_11.html

箕輪初心●群馬「平井城」=関東管領:上杉憲政の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html

箕輪初心●群馬【平井城前編】:関東管領8代上杉憲実〜16代上杉謙信
http://53922401.at.webry.info/201405/article_29.html

箕輪初心●群馬【平井城後編】関東管領:【15代:上杉憲政 】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_31.html

箕輪初心●群馬藤岡編:平井城の城郭群=「金井城」など
http://53922401.at.webry.info/201107/article_8.html
★額金山城は平井城の詰め城である

箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家墓所・林泉寺・照陽寺
http://53922401.at.webry.info/201307/article_5.html
 ★照陽寺境内の上杉憲政の墓がある。

 
・弘治4年・永禄元年(1558)


 将軍:足利義輝は長尾景虎に上洛
の要請をした。
  長尾景虎は「翌年上洛する。」と伝えた。

・永禄2年(1559)
4月3日 長尾景虎は関東管領職就任の許しを得るため、
  長尾実景・長尾藤景・本庄実乃(さねより)・直江実綱・
  柿崎景家ら500の兵を率いて、2度目の上洛をした。

4月27日 長尾景虎は将軍:足利義輝に拝謁した

5月1日 正親町天皇に異例の拝謁をした。
    莫大な献上物を送った。

5月2日 長尾景虎は酒宴を催し、足利義輝・近衛前久を
    招待した。
    
    足利義輝から関東管領就任を下賜されるための
    下工作である。

6月26日 足利義輝から御内書・大館晴光の奉書を
    賜った。
@「裏書御免」の特権・・・名・官途名を省略できる権利
A塗輿・・・・将軍・3管領・相伴衆のみ許された漆塗りの輿
B管領:上杉憲政の補佐・・・ 管領並(管領同等)の待遇を
  与えられた。
  ※関東管領就任を正式に許された。
  =北条氏康を攻撃する大義名分の獲得。
C桐紋の使用・・・
D屋形号の使用許可・・・守護大名のみが使える号
 =国人領主→幕府から大名を許可された。
E信濃侵攻の許可・・・武田信玄を幕府名で討伐する許し
 =信濃侵攻の大義名分の獲得

長尾景虎は関白:近衛前久を奉じ、北条氏討伐を計画した。

10月下旬 長尾景虎は越後に帰国した。

10月28日〜11月1日 家臣が祝儀に参集した。
 「侍衆御太刀之次第」・・・長尾一族・有力家臣61名
 に太刀を送った。
 長尾景虎は天皇・幕府との関係・権威をバックに
 権力基盤を固めた。
(★上杉家文書・『真田三代』:平山優著)
 信濃国人衆では、村上義清・高梨政頼・・・
 栗田永寿(武田についた鶴寿弟)
 ・島(嶋)津左京亮泰忠(武田についた矢筒城主)
 ・須田左衛門太夫信正(武田についた福島条主・須田城主)
 がいる。
 


11月13日〜 信濃国衆の「直太刀持参之衆」
 信濃国衆が自分の太刀を持参し、臣従の意を表す儀式
 ※村上義清・高梨政頼・・・
 粟田永寿・須田信頼・井上左衛門尉・屋代政国・仁科盛昌
 ・市川信房・河田蔵人?・清野寿軒・
 嶋津泰忠・保科左近尉・東条信広?・西条治部少輔
 ・綱島兵部介?・大日向直武・・・室賀信俊
 それになんと・・・
 真田幸綱・望月信雅・禰津信直・海野幸忠の滋野系
 の一族がいた。
  (★『上杉家文書』「直太刀持参之衆」)
平山優説・・・武田信玄に所属しながら、長尾景虎につくのが
 容認されていた当時の社会通念であろう。
 つまり、「半手」「半納」・・・敵味方半分づつ年貢を
  納める慣習が容認されていた。
  従って、しばしば両方に人質を置くことになった。
 また、軍を両方に送ることもあった。どちらに奉公の
 比重を置くかは国人衆の判断に委ねられていた。
 境目の国人衆は武田晴信に臣従しながらも、
 長尾景虎にも折衝ルートを確保しておきたかった
 のであろう。

 (★『真田三代』:平山優著)

※丸島和洋説・・・関東管領就任の祝儀であると考えたれるが
真田幸綱も春日山城に赴いたことになっている。
 武田が敗北した場合の逃げ道を作っておく必要が北信濃の
 国衆にはあった。
(★『真田四代と信繁:丸島和洋著』



 ★武田信玄のショックも大きかった。 
 第4次川中島の合戦は武田信玄にも引くに引けない事情が
 あったと推測できる。
 

・永禄3年(1560)
3月 武田信玄は越中(富山)一向一揆を三条婦人の弟:顕如を使
  って扇動させた。
  神保長職・一向一揆連合軍が松倉城に侵攻した。
  武田信玄が上杉政虎(謙信)の信濃国からの矛先をかわすた
  め、神保・一向一揆に要請して起こした。
 椎名康胤は長尾景虎に支援を要請した。
   
  長尾景虎は初めて越中へ出陣した。
  神保長職の居城:富山城を落城させた。
  神保長職が逃げのびた増山城も攻め落して逃亡させた。
長尾景虎は越中の大半を制圧した。
しかし、関東諸侯からの出兵要請を受けて、完全には
制圧できなかった。


5月 桶狭間の戦い
   織田信長が甲相駿三国同盟の今川義元を討ち取った。

◆第一次関東出兵の準備
@稲刈り後、出兵は農繁期・・・米があるし、・・・
A冬は武田信玄は越後に入れないし、・・
  戸隠スキー場・妙高スキー場・旧マウント新井
戸倉スキー場・野沢スキー場・・
など12月〜4月は豪雪地帯であるし、・・・

8月14日付 長尾景虎→足利長尾景長
「来月(9月、)出陣するので参加せよ。」

8月25日付 長尾景虎→柿崎和泉守景家などへの書状
「在陣留守中掟之事」

8月26日 安房稲村城・館山城主:里見義堯からの救援要請が
  あった。
(★『正木家文書』)
 里見義堯は久留里城で北条氏康に包囲されていた。
★里見義堯の妻は長野憲業の娘である。長野業正は里見義樹を
 養子とし、富士見の石井→榛名の鷹留城の城主に任命した。
 (★中世の西上州:黒田基樹著・『箕輪城着到帳』)

8月29日 ▲第一次関東出兵

  「関東を支配してよい。」という大義名分を得た長尾景虎は
  越後勢8000余りを率い北条氏康を討伐するため、関東へ
  出陣した。
  長尾景虎は関東管領:上杉憲政(平井城)を擁立して
・・・
  直江実綱(与板城)・北条高広(柏崎北条城)・柿崎景家
(柿崎城)を引き連れて・・・・

※越後も関東であるが・・・・・

 ★箕輪初心私見「庇護していた上杉憲政の権力の回復。
    +上杉姓のブランドが欲しかった。」
 →長尾景虎の関東への越山。
長尾景虎は北条氏康を討伐するため越後から関東へ向けて
  出陣、三国峠を越えた。
(+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣)
■@説:群馬県史説
※経路は明らかではない。(『加沢記』・『沼田記』がベース)
@宮野城(猿ヶ京)
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箕輪初心●群馬:みなかみ【宮野城】=ホテル湖城閣
http://53922401.at.webry.info/201202/article_19.html
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10月初旬 
→A沼田城に侵攻。
 城主:北条孫次郎(北条氏秀=沼田康元)ら数百人を討つ取
  った。
 ※北条孫次郎は撤退し、沼田顕泰は降伏した説もある。
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箕輪初心●群馬【沼田城】=北条・武田・上杉の狭間で揺れ動いた城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_3.html

→B岩下城(岩島飽間氏出身斉藤憲弘)
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箕輪初心■群馬【岩下城】=小田原攻めに参加した斉藤憲弘の城
http://53922401.at.webry.info/201201/article_16.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201201/article_16.html
→C明間城(群馬県史では安中市)
 (★箕輪初心説=川戸城の秋間氏と考えている。
   秋間7氏がいるが、・・・明間城という名前の城はない。)
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箕輪初心●群馬【川戸内出城】=長尾景虎の第一次関東出兵
「明間」では?
http://53922401.at.webry.info/201201/article_12.html
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同族白井城:長尾憲景・惣社城:長尾顕景は長尾景虎の陣所に来た。
箕輪城:長野業正(群馬県史:「政」の字を使用)も加わった。
★実際には、長野業正は病気のため、長野氏業(業盛)が参加した。

→D厩橋城(=後、前橋城)

赤城三夜沢神社に戦勝祈願・・・・

12月→
今村城・→赤石(伊勢崎)落城・・・

E那波城:那波顕宗(伊勢崎)
那波顕宗は激しく抵抗した。・・・
堀口城で降伏し、人質を出した。
北条高広は那波氏と同族:大江広元の子孫であるが・・・
  
→国峯城(富岡):小幡氏

里見義弘の家臣:正木時茂の戦勝を祝う書状がある。
「@明間城→沼田城の順になっている。」
(★群馬県史P576・★千葉県里見一族の正木家文書)


■ A説:黒田説
『長尾景虎は、長野業正らの支援を受けながら小川城・名胡桃城
・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方
 の諸城を次々に攻略した。厩橋城を関東における拠点とし、厩橋
 城で越年した。この間、関東諸将に対して北条討伐の号令を下
 し、檄を飛ばして参陣を求めた。景虎の攻勢を見た関東諸将は、
 次々に景虎のもとへ結集、兵の数は日増しに膨れ上がった。』
 (黒田基樹説)
★白井城は同族で変である。


▲北条氏康の動向
9月中旬 北条氏康は里見義堯のいる久留里城を包囲していたが、
  長尾景虎軍の襲来を知り、安房から河越城に向かった。

9月28日 北条氏康は河越城に出陣した。
      松山城(東松山市)にも入った。
 しかし、北条氏康は長尾景虎との直接対決は避け、牽制を繰り
  返した。


●長尾景虎は関東諸侯に傘下に入るように書状を送った。
長尾景虎は小田原城攻略に大規模な兵力を必要とした。
 そこで無血開城した厩橋長野氏の城:厩橋城から
 旧主:上杉憲政および関白:近衛前久を奉じ、上杉憲政の
 旧幕下の諸将に檄を飛ばして参陣を促した。
上野・武蔵の諸将は、長尾景虎のもとへ参集した。

9月29日 龍渓寺(市原市)に説得を依頼した。
  (★『謙信公御年譜』】・『越市史』)

 しかし、下野・常陸の反応は微妙だった。
 常陸・下野の諸将は北条か長尾・上杉のどちらに付くか決め
 かねていた。双方の実力を均等と見て決断は難しかった。
下野・常陸の諸侯は長尾景虎が関東を去れば、北条が攻め込
 んでくるし・・・と不安であった。
 
10月〜12月 長尾景虎は厩橋城でいらいらしていた。
長尾景虎は「義」を重んじ、どっちつかずのコウモリ的な
武将を嫌った。羽生城:木戸氏・太田氏タイプが大好きで
あった。







▲北条氏康の動向
北条氏康は伊豆・相模以外からの離反が相次いた。
 北条氏康の擁する古河公方:足利義氏(氏康甥)からの諸将への
  要請も効き目がなかった。
 甲相駿同盟を結んでいたので・・・
 北条氏康は武田信玄に援軍と背後からの牽制を要請した。
 さらに今川氏真は河越城等に援軍を要請した。
  北条氏康は松山城から小田原城へ退き、篭城策を選択した。
鉢形城の北条氏邦も籠城・・・
河越城の北条氏尭も籠城・・・
古河御所の足利義氏も籠城・・
  滝山城の北条氏照も籠城・・
  玉縄城の北条氏繁も籠城・・
 小田原城の北条氏康も籠城・・・

 
12月初旬 
  長尾景虎が率いる連合軍の勢いは止まらなかった。
長尾景虎は武蔵国へ進撃を開始した。
 深谷城→忍城→羽生城→河越城包囲
河越城:北条氏尭は籠城に徹した。
箕輪初心○埼玉深谷市【深谷城】&『深谷上杉氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201406/article_4.html

箕輪初心●埼玉『忍城』=城代:成田長親【のぼうの城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_6.html   
 
箕輪初心●埼玉熊谷『成田氏館』&行田『忍城』
http://53922401.at.webry.info/201409/article_8.html

箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

箕輪初心▲埼玉【羽生城】:上杉謙信の忠臣:木戸忠朝
http://53922401.at.webry.info/201408/article_24.html

箕輪初心★古河公方5代:足利成氏→政氏→高基→晴氏→義氏&氏姫
http://53922401.at.webry.info/201312/article_15.html

〜〜〜中山道に沿って〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心▲埼玉【岩槻城】=後北条時代は2万都市?
http://53922401.at.webry.info/201407/article_18.html

箕輪初心▲埼玉大宮【氷川神社】&『大宮歴史と民俗の
博物館』
http://53922401.at.webry.info/201407/article_19.html

箕輪初心▲埼玉さいたま『寿能城』=現:寿能公園
http://53922401.at.webry.info/201407/article_20.html

箕輪初心▲埼玉大宮『伊達房実館→大和田陣屋』
http://53922401.at.webry.info/201407/article_22.html

箕輪初心▲埼玉大宮『中丸城=春日氏館跡』
http://53922401.at.webry.info/201407/article_21.html

箕輪初心▲埼玉大宮『土呂陣屋=初鹿野氏館』
http://53922401.at.webry.info/201407/article_23.html

箕輪初心▲埼玉上尾【菅谷北城】=春日氏の陣屋?
http://53922401.at.webry.info/201408/article_12.html

箕輪初心▲埼玉伊奈【伊奈氏陣屋】&伊奈忠次
http://53922401.at.webry.info/201408/article_8.html

箕輪初心▲埼玉桶川@『明星院』:熊野信仰&A倉田孫四郎館
http://53922401.at.webry.info/201408/article_9.html

箕輪初心▲埼玉桶川『加納城』=土豪の館
http://53922401.at.webry.info/201408/article_10.html

箕輪初心▲埼玉桶川『三ツ木城』=足立遠元の館?
http://53922401.at.webry.info/201408/article_11.html

箕輪初心▲埼玉川島『三尾屋十郎廣徳館跡』=廣徳寺
http://53922401.at.webry.info/201408/article_14.html

箕輪初心■埼玉桶川【牧野氏陣屋】と「牧野山城守家の歴史」
&関宿城→田辺城
http://53922401.at.webry.info/201408/article_15.html

箕輪初心■埼玉桶川【武城】= 足立遠元関連の城館跡?
http://53922401.at.webry.info/201408/article_16.html

箕輪初心▲埼玉北本『石戸堀ノ内館=伝:源範頼館館』
http://53922401.at.webry.info/201408/article_17.html

箕輪初心▲埼玉北本『石戸城』岩付城太田資正の支城
http://53922401.at.webry.info/201408/article_18.html

箕輪初心▲埼玉鴻巣『伝」源経基館』
http://53922401.at.webry.info/201408/article_19.html

箕輪初心▲埼玉久喜【菖蒲城】&あやめ園
http://53922401.at.webry.info/201408/article_20.html

12月24日 長尾景虎は岩附城主:太田三楽斎資正に常陸・
  下野の諸将の参陣の仲介を依頼した。

 太田資正に正木時茂と原胤貞の抗争の仲介を依頼した。
 (★『上杉家文書』)。
 しかし、原胤貞が実権を掌握していて、下総の守惣領家:千葉胤富
 は古河の北条氏に援軍を送くることになった。



   
■永禄4年(1561) 群馬県史説&黒田基樹説&ウィキペディア説
・永禄4年(1561)
1月 長尾景虎は厩橋城厩橋城で越年した。

▲北条氏康の動向
1月 北条氏康は北条氏政に3万余の軍勢を与えて、下野:唐沢
  山城(佐野市)を包囲させた。
  ★北条氏康に降った関東の諸将に対し、長尾景虎に味方すれば
  北条家は攻撃するというデモンストレーションであった。
   佐野昌綱は唐沢山城に籠城し、抗戦した。
  
2月 長尾景虎は上杉憲政の居城:上野平井城にいた。
  長尾景虎は直ぐに8千の兵を率いて唐沢山城救援に向った。

2月 越後府内の直江山城守実綱に参軍を指示した。
   高梨政頼は春日山城に残った。

2月19日 長尾景虎は唐沢山城西に着陣し、唐沢城を囲む
  北条の大軍を見られる場所に陣取った。
  長尾景虎は 精兵を率いて自ら北条に挑んだ。
   長尾景虎は北条方の首級1300余を討った。
  唐沢山城は危機を脱した。

▲北条氏康は、野戦は不利と判断した。
  相模の小田原城や玉縄城(藤沢)、武蔵の滝山城(八王子)や
  河越城などへ退却し、篭城策をとった。

 下野・常陸の参陣を渋っていた諸将関東管領:上杉憲政の
 元に集った。多くは厩橋城に参集した。
 関東の諸大名の多くが長尾景虎に付き、軍勢は10万に膨れ上
 がった。
『松陰夜話』・・・7万余
『『関八州古戦録』:久保田順一訳・・・11万3000

※関東幕注文〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
長尾景虎は「関東幕注文」を作成した。
1)上野(群馬県)  
箕輪衆、厩橋衆は22で、最大規模。
 箕輪衆(箕輪一族:親戚)・・・同じ旗印
  長野業政(箕郷) 長野新五郎  南与太郎(榛東村) 
  小熊源六郎(保渡田砦)長野左衛門  浜川左衛門尉(高崎) 
  羽田彦太郎(東吾妻町) 八木原与十郎(渋川市)
  須賀谷筑後守(旧群馬町)
家臣・同心衆
 長塩左衛門四郎(吉岡町) 大戸中務少輔(東吾妻町)
 下田大膳(高崎箕郷支所) 漆原(吉岡町)内山(富岡市)
 高田小次郎(妙義町)   和田八郎(高崎市和田城) 
 倉賀野左衛門五郎(高崎市倉賀野城)  
 依田新八郎(安中市板鼻城)  羽尾修理亮(吾妻)
★真田幸隆の同族は@羽田彦太郎(東吾妻町)A大戸中務少輔
  (東吾妻町)羽尾修理亮(吾妻)は長野業正の檜扇を
  使っている。娘婿だから・・・・・・
  しかし、真田幸隆の甥:鎌原幸重は加わっていない。

厩橋衆・・・長野藤九郎・大胡・引田(旧富士見村)
  
岩下衆・・・斉藤越前守・山田某(山田城)
  紙が切れていて、岩下衆の残りの武将が不明。
(★群馬県史)
 岩下衆は他に、富澤豊前守が確実にいたであろう。
が、川戸内出城の武将が不明である。おそらく、斉藤越前
守の一族の者であろう。
群馬県史の明間城は安中の秋間と考えているが、
斉藤越前守の一族として、明間城主がいたのであろう。
★個人的には、明間城を地理的にみて、川戸城:秋間氏と
 考えている。
 また、富沢豊前守等も参加してしていたはずである。

小幡重貞(富岡国峰城)・白倉(甘楽白倉城)・高山(藤岡
 高山城)・小林(藤岡)、小幡三河守(下仁田青倉城)

由良成繁(太田金山城)など、・・・・
★つまり、上野国:99%・・・鎌原幸重以外・・・
 (★群馬県史)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★箕輪城135長野業政&長尾景虎の「関東幕注文」
http://53922401.at.webry.info/201405/article_9.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2)武蔵(埼玉県)
上田朝直(松山城:東松山市)・・・しかし、北条についた。
成田長泰 (忍城:行田市)
太田資正 (岩付城:岩槻市)


3)武蔵(東京都)
三田綱秀(勝沼城:青梅市)


4)下野(栃木県)
 佐野昌綱 (唐沢山城:佐野市)
 宇都宮広綱 (宇都宮城:宇都宮市)

 小山秀綱 (小山城:小山市)・・・幕注文には書いてない。
 那須資胤 (那須城:那須市)・・・幕注文には書いてない。

5)常陸(茨城軒県)
小田氏治 (小田城:小田市)・・・・幕注文には書いてない。
佐竹義昭 (太田城:常陸太田市)
多賀谷

6)下総・上総・安房
簗田晴助 (下総関宿城:千葉野田市)
里見義堯、里見義弘 (久留里城)
正木時茂、正木信茂(大多喜城)

2月下旬 直江実綱と合流した。
→長尾景虎は古河御所の包囲した。
関東公方:古河御所を制圧し、北条氏康に擁された足利義氏
  (妻は北条氏康の娘)を追放し、足利藤氏を古河御所内に
  迎え入れた。
 
  松山城(東松山市)着陣した。

2月27日 長尾景虎は鎌倉を落とした。

 鎌倉鶴岡八幡宮に勝利の願文を捧げた。
  (妙本寺文書・上越史)
 
3月3日? 上杉軍先軍は当麻(相模原市南区)に陣を取った。
3月8日  中筋(中郡)に着陣した
3月14日 大槻の戦い 
  上杉軍先軍は大槻(秦野市)で、北条方の大藤秀信隊
   と激突した。

3月22日 上杉軍は曽我山(小田原市曽我)に着陣した。

3月24日 怒田(ぬた)山(南足柄市怒田)の戦い

3月中旬 上杉政虎軍本隊はさらに北条氏康の居城:小田原城を
 目指して現東海道沿いを進撃した。
先鋒・・・岩付城城主:太田三楽斎資正・忍城城主:成田長泰。
前衛・・・柿崎和泉守景家
本隊・・・直江山城守、宇佐美駿河守など。

 藤沢→平塚

 小田原城支城を包囲、攻撃を開始した。
相模の岡崎氏・三浦氏の一部なども長尾景虎に寝返った。

 小田原の酒匂川辺に陣を張った。

3月下旬 ▲小田原城の戦い
▲北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城
  していた。  
  長尾景虎は関東管領:上杉憲政を擁して、宇都宮広綱・
  佐竹義昭・小山秀綱・那須資胤・小田氏治(常陸小田城)
  成田長泰(忍城)、太田資正(岩付城)、三田綱秀(青梅)、
  里見義弘(安房稲村城)ら旧上杉家家臣団を中心とする
  10万余の大軍で、小田原城をはじめとする諸城を包囲
   した。
  
  小田原城の攻撃を開始した。
  太田資正軍が小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、
  籠城する北条氏康を窮地に追い込んだ。
(★『関八州古戦録』:久保田順一訳)
  長尾景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた。
長尾景虎は小田原城下に放火をして挑発しても北条方は小田原
  城から討って出ることはなかった。
   (★『上杉家文書』)

 長尾景虎は小田原城を包囲は1ヶ月続いた。
 佐竹義昭・小田氏治・宇都宮広綱が飢饉のため撤兵を要求した。
 そして、佐竹義昭ら一部諸将が無断で陣を引き払った。
 武蔵松山城(東松山城)では上田朝直が反旗を翻した。

 参陣諸将の足並みが乱れていった。

★また、長尾景虎は信濃の武田信玄の動きが気になって焦って
 いたのだ。
▲北条氏康は、12月には武田信玄に援助を要請していた。
  北条氏康と同盟を結ぶ武田信玄はライバルのいない間に
  北信濃に侵攻し、長尾景虎の背後を脅かした。
 川中島に海津城を完成させたり、調略を進めたりし、川中島で
  長尾景虎の背後を牽制した。
  そして、高梨政頼のいる中野小城(高梨氏館)を攻め、飯山城
  に撤退させるなど、信濃善光寺平における勢力圏を拡大させた。

★長尾景虎は背後の信越国境を固めることは急務となった。
 そして、武田信玄の前進拠点:海津城を攻略して、武田軍を叩く
 必要があった。
長尾景虎は小田原城の包囲を解いた。
 長尾景虎は鎌倉に兵を引いた。
 
 結局、小田原城を落城させられなかった。
 滝山城、河越城、江戸城、玉縄城等の支城も落城
 させられなかった。
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箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】写真集前編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_24.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城3回目】:写真集後編
http://53922401.at.webry.info/201411/article_25.html

箕輪初心▲神奈川平塚 紫雲寺【大森氏頼の居館跡=矢崎城】
http://53922401.at.webry.info/201411/article_22.html

箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語
http://53922401.at.webry.info/201309/article_25.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


閏3月16日 長尾景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続
  と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めた。
関東管領職の就任式の際には、柿崎景家と斎藤朝信が太刀持ち
  を務めた。
(★後、上杉&北条との相越同盟の際、柿崎景家の子が小田
 原城に入った。)
鎌倉八幡宮で、関東管領の地位を獲得したのだ。

★伝説・・・忍城:成田氏が馬上で挨拶したため、成田の烏帽子を
  たたき脅した。成田氏は撤兵した。
(★NHK大河ドラマ『天地人』)  
  
 ※古河公方問題
 小山秀綱が足利藤氏を推した。
 簗田晴助が足利藤政を推した。
 同16日 上杉政虎は簗田晴助に起請文を与え、
   足利藤氏が擁立されることにさせた。
古河御所には足利藤氏とともに近衛前久がおかれた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●千葉【関宿城】=疑似天守の博物館
http://53922401.at.webry.info/201404/article_9.html
★梁田の城
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上杉政虎は鎌倉山内に数日間滞在し、関東諸将と談合した。
  また参陣をねぎらった。

しかし、成田長泰事件もあり、関東諸侯の不安感が増し、
た。
 (★『天地人』)

3月下旬 上杉政虎に
 「武田信玄の援軍が甲斐吉田に到着した。」
★実際は初鹿野源五郎率いる300の兵のみであった。
天正壬午の乱後、大宮に居城を構えた。
 
 「今川氏真の援軍も近日出陣のための準備ができた。」
     と知らせが入った。

上杉政虎は、川中島において武田信玄と雌雄を決する意図もあり、
 再び小田原城に戻らず、軍を引き、鎌倉を発った。
   (★『上杉家文書』)


4月 ▲松山城の戦い
上田朝直は北条氏康方の城主となっていた。
  武蔵国の松山城を攻撃した。
  上田朝直の抗戦を受けたが、落城させた。
  松山城には城将として上杉憲勝を残した。
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箕輪初心●埼玉『松山城』=上杉・武田・北条の激戦地
http://53922401.at.webry.info/201406/article_25.html
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  厩橋城には・・・・
@厩橋城城代:北条高広である。
平井城代:義弟:長尾謙忠となっている。
(★群馬県史)
厩橋城には河田長親→北条高広が入った。
 (★由良成繁事書案:群馬県史)
★北条高広は同族:那波顕宗の所領を与えられた可能性
がある。

A厩橋城代に義弟:長尾謙忠をおいて帰国した説。
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箕輪初心:生方▲【大江広元→越後毛利氏〜北条(きたじょう)高広】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_16.html
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上杉政虎は、将軍:足利義輝から関東出兵をねぎらう御内書を
  受け取った。

▲武田信玄は北条氏支援のため北信濃に出兵した。
4月? 割ヶ岳城を落とした。
上杉政虎にとって割ヶ岳城は重要拠点であった。
春日山城→野尻城・・柏原(小林一茶の生まれ故郷)
飯山城の押さえ・善光寺への道・戸隠への道の
分岐に近かった。
   
   また、武田信玄の三条婦人の弟:顕如と縁戚関係にあった
   ことから石山本願寺の一向一揆も越中神保長職に味方
   していた。
    武田信玄が扇動した一向一揆が信玄の後援を受けて
    神保長職が増山城を奪還した。


6月21日*箕輪城主:長野業政が死去。
  @説・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
  A説・・長野氏業(群馬県史の近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。
 ※死亡を隠していたが、武田信玄にばれてしまった。
  風雲=不運、急を告げる。

6月下旬 上杉政虎は厩橋城を発ち、春日山城に戻った。
  10ヶ月に及ぶ関東大遠征を終えた。

▲上杉政虎が関東から居なくなると、再び勢力を盛り返した。


8月 上杉政虎は春日山城を出発し善光寺→妻女山に布陣した。

▲武田信玄は茶臼山(塩崎城説、布施山城説・雨宮の渡し説
   など7説)に対陣した。


★明日は武田信玄・真田幸綱の動向かな?

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