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zoom RSS 箕輪初心:生方▲20160320清水豊先生講演会【和田城の再検討】

<<   作成日時 : 2016/04/02 08:15   >>

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清水豊先生は「和田城→高崎城」の発掘調査に関わってきた
考古学の専門家である。現在、かみつけの里博物館の次長で
ある。平成28年(2016)3月20日、清水豊先生が講演会【和
田城の再検討】というテーマで【1】歴史学から見た和田城、
【2】考古学から見た和田城・・・の2面から分かった事実と
考察について講演してくださった。講演内容の掲載を許可して
いただいた。ありがとうございます。また、個人的に、「井伊
直政の箕輪城から高崎城の移城について」の論文の追加
・校正をお願いした。大変お世話になりました。
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【0】はじめに
●史料1:M6年、陸軍の地図

●史料2:「和田町の歴史」
・中世 和田多中町
 ・M22 下和田町
 ・M30 上和田町 
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●史料3:高野山清浄院史料
 ・天正14年(1586) 和田上 和田下
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【1】歴史学から見た和田城
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●史料4:高崎の歴史学:2人の歴史学者
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●史料5:「御城御土居通」&「御植物木尺附絵図」(江戸時代)

1)山崎一氏の研究
「興善寺絵図」から、「高崎城西郭」を想定した。
  連郭式・並郭式と考えた。
 ★「群馬県古城累祉の研究4巻」の著者である。
 
2)茂木渉氏の研究
興善寺絵図」から、「高崎城西郭」を高崎城主郭
 想定した。
1郭を南北に設け、「並郭式」と考えた。
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3)和田城・鎌倉道に関する近世・近代の歴史
●史料6:参考史料
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@成立年代不明『上野国赤坂荘庄和田記』:興善寺僧著
A宝暦5年(1755)『高崎須奈子』:西田美英著
B寛政元年(1789)『高崎志』:川野辺寛著
C享保年間(・・・)
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箕輪初心:生方【中村茂先生講演会『山本勘助→子孫は高崎藩山本菅助』】
http://53922401.at.webry.info/201507/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201507/article_26.html
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DM16年『更正高崎旧事記』
EM30年『高崎繁盛記』



●史料6:「史実資料」
★箕輪初心
 @高崎市史通史:三浦編  
A新編高崎市史&資料編W(黒田基樹)
B群馬県史(久保田順一他) 
C箕輪町誌(近藤義雄・唐沢定一・久保田順一他)  
D「上野和田城をめぐる上杉・武田の抗争について」:久保田順一著 
E「群馬県古城塁祉の研究 下巻 増補版」山崎一著


4)和田城の記述
●史料7:『高崎城大意』:山本十左衛門幸運著
「此時は本郭・2の郭にして3の郭なし。」
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山本勘助の子孫である。


●史料8:『高崎志』:川野辺寛著
・寛政元年(1789)「高崎志」
「高崎城ハ和田氏の故墟也、和田記ニ正長元年(1428)戌申、
 和田八郎和田城を築ク」


〜〜〜秋本太郎先生〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@西田美英・・・
・宝暦5年(1755)『高崎寿奈子』「 馬上宿(今城ノ二ノ丸
南中門ノ内ナリ)、金井宿(今城ノ二ノ丸赤坂中門ノ内ナリ)」
A川野辺寛・・・寛政元年(1789)「高崎志」では、中世鎌倉道
のルートは近世高崎城の二の丸付近を通過する。
B【和田城並びに興禅寺境内古絵図】おおむね一致する
 と述べた。つまり、井伊直政時代の高崎城は本丸&二の丸
 &三の丸であった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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5)甲斐武田氏による(和田城の)普請
●史料9:『上杉謙信書状写』(三州寺社古文書)
「和田少地ニ候得共、晴信年(念)を入いかにも堅固二しらわれ
 候間落居さうなく堅候」
 「永禄7年(1564)か永禄8年(1565)コンパクトな城であるが、武田晴信
が念をいれて造ったので、堅固で落とせそうもない。」と謙信は
  金津・吉江・本庄に手紙を書いた。
 ※清水豊先生の新発見だそうです。


●史料10:『武田信玄書状』(円満寺文書)
「和田之普請未熟候所候、一段窮屈候条、是(うかんむり雖当手之
  衆労兵沙汰之限り候、重而為普請人」
「永禄7年(1564)和田業繁の造った城は未熟でちゃっちくて、
  窮屈な感じがいたしますので、
  ・・・造り直そう。」


●史料11:『和田記』
 「和田ノ城モ無心許思い召故、此れも馬場信房縄張ス」
永禄7年(1564)和田業繁の造った城も心許ないと思うので、
馬場美濃守信房が縄張りをした。」
★山本勘助・馬場美濃守は小諸城の縄張りをしたと言われて
いる。馬場信春(信房)は牧之島城の縄張りも良く残って
いる。山県昌景も築城術を心得ている。山県家臣:早川幸豊
はこの時に、いたかもしれない。箕輪城の丸馬出にも関わっ

可能性がある。高崎城&彦根城の縄張りの中心となった。

●史料12:上杉謙信の和田城関係一覧:清水豊先生作成
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 @永禄6年(1563)  
4月6日 上杉謙信の和田城攻撃開始。
4月12日 上杉謙信の和田城攻撃開始。
A永禄7年(1564)
3月9日  和田業繁が和田城に籠城
   3月10日  上杉謙信の和田城攻撃開始。(★久保田説)
 (3月13日の上杉謙信→金津・吉江・本庄氏連名への手紙写し)
  3月13日 武田信玄→???の手紙
        「和田に鉄砲の薬・玉、弓、兵糧を運び入れよ。」
  3月21日 武田信玄→小山田備中守殿への手紙
          「和田城の備えを命じた。」




6,城内の名称
●史料13:『清水寺棟札銘』
「天正11年極(12月)17日 和田信業は本堂を再建す」

●史料14:『天正18年(1590)和田城に残っていた者』
 天正18年(1590)北国軍:前田利家が和田城を攻撃。
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武対馬守・反町・中沢・斎藤・松本・柴田・山田ら・・
 城をすてて逃げた。
※前田利家は焼き払ったというが、発掘調査では焼け土層は
 出てきていない。削られた可能性もあるが、・・・



【2】考古学から見た和田城・高崎城

●史料15:『高崎城内23回の発掘調査』
和田城関連・・・25次・22次・23次
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●史料16:『15次調査』・・・◆最重要
@3号堀・・・和田城最大の堀 幅16,5m 深さ5m
17号線に続く。・・・
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A畠跡・・・天正18年(1590)廃城〜慶長3年(1598)高崎城

●史料17:『15次調査3号堀の発掘写真』・・・◆最重要
幅22m 深さ5〜6m

●史料18:『15次調査3号堀の付近の古地図』・・・◆最重要
現高松中学校?保健センター?     

●史料19:『古地図での焰硝蔵付近の崩れ&井戸』・・・◆最重要
井戸の検出できず。・・・崖崩れが進んでいた可能性がある。

●史料20:『22次調査3号堀の発掘写真』・・・◆最重要
@3号堀  幅6、7m 深さ5、13m
A4号堀  幅2、95m 深さ1、95m
B6号堀  幅3、6m 深さ2、45m→23次調査に繋がる。」
 4号堀〜6号堀は17号上り線に沿った裁判所職員などの駐車場
 (高崎医療センターの南、高崎の学芸館高校の東の駐車場
    〜医療センター体育館下の調査)
 ※武田信玄の拡張工事の可能性がある。

●史料21:『3号堀の発掘調査写真』
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●史料22:『4〜6号堀の地図』

●史料23:『3・4・6の現地写真出土品』

●史料24:『4号・6号の出土品:信濃型内耳土器』
信濃型内耳土器・・・16C後半、真田昌幸も使用している。
金属加工関連・・・轡の羽口
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●史料25:『1号・2号の出土品』
信濃型内耳土器
天目茶碗・水滴
金属加工品(3種)・・・銅の加工品」

●史料26:『溝跡の土分析』
・空堀・・・水生昆虫の痕跡がない。
・木・・・・赤松・ニワトコ(骨折の湿布薬)
放射性元素年代測定・・・1460年〜1617年
・寄生虫・・回虫・ギョウ虫→近くにトイレがあった。

●史料27:『信濃型内耳土器』
永禄6年(1563) 頃、武田氏に従属した。

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【3】歴史学から見た和田城

●史料28:『高崎市史 資料編4 309』
永禄6年(1563)6月 武田氏に従属した。
@和田信業が甲府へ赴いた。
A山宮氏が昼夜を問わず、和田本城に在陣
B跡部信秋・板垣信安に上杉謙信来襲の際、在陣を指示。


●史料29:『和田信業』
@和田信業は跡部勝資の子→和田業繁の婿養子
A天正3年(1575)長篠の戦いで和田業繁戦死。
   和田信業が家督を継いだ。


8)鎌倉道ー和田城下を通る道
●史料30:『源頼朝の三原の巻狩り』

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★源頼朝の巻狩りの話
 巻き狩りは地方の武士団の力を見るものであるという見方もある。
 つまり、コの字型の陣形で獲物を追う=集団戦の陣形で、コの字の
 空いた先で、本隊が待ち、獲物を捕まえるという方法である。
 源頼朝は御家人の戦闘力の視察=集団戦・個人の力量を観察した。
伊豆の巻狩→上野国三原(狩猪)の巻狩・・草津温泉→那須の巻狩→
 富士の巻狩と続く。

箕輪初心★源頼朝32【伊東祐親→河津祐泰の死→曽我兄弟の仇討ち】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_20.html

箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

箕輪初心:生方★源頼朝43【高山重遠+高山重久・小林重幸】
http://53922401.at.webry.info/201505/article_19.html
★三原の巻狩には上野国と信濃の御家人が参加した。
新田義重と子:里見義成や山名義範などは案内役&宿泊
 を担当した。
 信濃の滋野系の海野・望月・鷹狩りの名手:禰津も参加した。
上野吾妻の三原は滋野系の一族の地盤であった。

箕輪初心★那須一族の歴史=〜2代:那須与一宗隆〜31代
http://53922401.at.webry.info/201401/article_19.html

箕輪初心●栃木【高館城】=那須与一宗隆も在城?
http://53922401.at.webry.info/201401/article_23.html

箕輪初心★栃木:【那須与一伝承館】&与一の信憑性
http://53922401.at.webry.info/201401/article_15.html

箕輪初心●栃木【那須神田城】:那須氏初代〜4代の館跡
http://53922401.at.webry.info/201401/article_16.html

箕輪初心▲伊豆東街道G【河津三郎の血塚】&『東伊豆町の温泉』
http://53922401.at.webry.info/201508/article_26.html

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●鎌倉上道
源頼朝が鎌倉幕府を開くと同時に・越後・信濃・上州などか
ら鎌倉への道を整備させた。鎌倉街道は大きく3つの道があった。

●=====鎌倉街道上道(かみつみち)=======
(★本来の上道は、高崎から先に信濃、越後と続く。)
東山道安中板鼻〜 @高崎→A山名→B藤岡→C児玉→
D美里→E用土→F花園→〜荒川〜(寄居)→G赤浜
→H塚田→I奈良梨→J嵐山→K笛吹峠→L鳩山→
M毛呂山・N坂戸→O日高の女影→P入間〜入間川〜
Q狭山→R所沢→S小手指→その先は府中→本町田→
瀬谷→化粧坂→鎌倉と続いた。  

※鎌倉街道上道(かみつみち)は、「大道」などと呼ばれていた。
越後・信濃・武蔵の武者が「いざ鎌倉」を唱え、馳せ参じる軍事
街道であったと言われている。当時の街道幅は馬2頭が並んで
やっと通れる2m程であったと言う。
 (★埼玉県菅谷歴史博物館?名称は?)

・建久4年(1193) 源頼朝の三原(長野原町借猪)の巻狩り→
  源頼朝は鎌倉街道上道を通って、畠山重忠・山名義範・里見義俊
 も随行した。寺尾(高崎)で新田義重の館に寄った。
鎌倉→入間で狩り・入間川の宿泊→大倉(源義賢の館があった)
・児玉の宿→松井田の宿(当時は松枝):山名・里見が警護。
→碓氷峠→信濃(軽井沢)→沓掛の宿→三原の庄狩猪(現群馬県
長野原町北軽井沢)→草津・・・新田義重の館?
★個人的は、松井田→地蔵峠→倉渕→大戸→狩猪と考えている。
『曽我物語』巻5「浅間の御狩の事」
(★東京大学付属図書館蔵)
★信濃の海野一族・海野氏・望月氏鷹狩りのbP:禰津氏
 ・・・それに、依田氏・伴野氏・大井氏も参加していた。
 

・建久4年(1193) 4月 小代伊重の置文
 源頼朝が三原の庄へ鷹狩りに訪れた際に、武蔵国の御家人:小代
 行平(こしろゆきひら)が遅れ、「上野国山名ノ宿」で追いついた。
との記述がある。

箕輪初心▲埼玉東松山『小代氏館』=源悪源太義平の家臣:小代氏
http://53922401.at.webry.info/201406/article_28.html


●史料31:『宴曲抄』
・建久8年(1197) 源頼朝の善光寺参拝
 源頼朝の善光寺参拝の機に多くの人が鎌倉街道上道を通じて
善光寺に参拝した。善光寺式の仏像も岩鼻の寺に残っている。
鎌倉極楽寺の僧:明空によって編まれた歌謡集「宴曲抄」に
鎌倉街道沿いの地名を詠みこんだ「善光寺修行」という作品が
収録されている。
吹送由井の浜音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山、
かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢、
小萱刈萱露ながら、沢辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれに
しといひし人の、干飯たうべし古も、かかりし井手の沢辺かとよ、
小山田の里にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関と今ぞしる、
おもひきや、我につれなき人をこひ、かく程袖をぬらすべしとは、
久米河の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野はかぎりもしらずはてもなし、
千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、
草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、
光も細き暁、尋ても見ばや堀難の出難かりし瑞籬の、久跡や是ならん、
あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川、
あの此里にいざ又とまらば、誰にか早敷妙の、枕ならべんとおもへども、
婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵に槻河の、
流れもはやく比企野が原、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨、
打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる浪の荒河行過て、
下にながるる見馴川、見なれぬ渡をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、
是やは児玉玉鉾の、道行人に事とわん、者の武の弓影にさはぐ雉が岡、
矢竝にみゆる鏑河、今宵はさても山な越ぞ、いざ倉賀野にととまらん、
夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出や、豊岡かけて見わたせば、
ふみとどろかす、乱橋の、しどろに違板鼻、誰松井田にとまるらん、
◆宴曲抄
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/kamitumichi1/kamitumichi2.html
より引用

『吹送由井の浜(鎌倉市由比ヶ浜)音たてて、しきりによする浦波を、
なを顧常葉山(鎌倉市常盤)、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、
分過秋の叢(むら)、小萱(おかや)(藤沢市村岡)刈萱露ながら、
沢(藤沢市柄沢付近)辺の道を朝立て、袖打払唐衣、
きつゝなれにしといひし人の、干飯た(横浜戸塚区飯田)うべし古も、
かゝりし井手の沢(町田市本町田)辺かとよ、
小山田の里(町田市小野路町)にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、
霞の関(多摩市関戸)と今ぞしる、おもひきや、我につれなき人をこひ、
かく程(国分寺市恋ヶ窪)袖をぬらすべしとは、久米河(東村山市)の
逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野(所沢市)はかぎりもしらずはてもなし、
千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、
草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、
光も細き暁、尋ても見ばや堀難(狭山市堀兼)の出難かりし
瑞籬(狭山市三ツ木)の、久跡や是ならん、あだながらむすぶ契の名残をも、
ふかくや思入間川(狭山市の入間川)、あの此里にいざ又とまらば、
誰にか早(埼玉県毛呂山町苦林)敷妙の、枕ならべんとおもへども、
婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵(嵐山町大蔵)
に槻河(嵐山町菅谷を流れる川)の、流れもはやく比企野が原
(嵐山町菅谷)、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨
(小川町奈良梨)、 打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる
浪の荒河(寄居町の荒川)行過て、下にながるゝ見馴川(寄居町の小山川)、
見なれぬ渡(見馴川の渡)をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、
是やは児玉(児玉町児玉)玉鉾の、道行人に事とわん、
者(もの)の武(ふ)の弓影(ゆみかげ)にさはぐ雉が岡(児玉町八幡山)、
矢竝(やなみ)にみゆる鏑河(鏑川)、今宵はさても山な(高崎市山名町)
越(こし)そ、いざ倉賀野(高崎市倉賀野町)にとゞまらん、
夕陽西に廻(めぐり)て、嵐も寒(さむい)衣沢(高崎市寺尾町)、
末野(まつの)を過て指出(さしで:高崎市石原町)や、
豊岡(高崎市豊岡町)かけて見わたせば、ふみとゞろかす、乱橋
(らんきょう)の、しどろに違板鼻(安中市板鼻)、誰(ただ)松井田
(安中市松井田町)にとまるらん』

◆宴曲抄
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/kamitumichi1/kamitumichi2.html
より引用
★この著者は、高崎歴史民俗資料館の学芸員の方かなあ?
 凄すぎる。大工原先生かなあ?
 大工原先生・下田先生など6人の方々にに一昨年お世話に
 なりました


●史料33『高崎寿奈子(すなご)』
「往古此所を赤坂というのは、都の方より来たりて此所へは
 坂を登り土も赤土たるによりて赤坂と云か、昔の通りは
 今の赤坂門二の宮のきわへ上り、夫より今の大染寺の方、
 佐野村へ通る鎌倉道也」

★西田美英(よしひで):歴史地理学「高崎寿奈子(すなご)」
・宝暦5年(1755) 西田美英が「高崎寿奈子」を著した。
「 馬上宿(今城ノ二ノ丸南中門ノ内ナリ)、金井宿
  (今城ノ二ノ丸赤坂中門ノ内ナリ)・・・
箕輪初心★西田美英【高崎素奈子】&川野辺寛【高崎志】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_14.html

●史料34『更正高崎旧事記』:土屋老平著
「馬上宿旧跡ハ。旧三丸南ノ方ヨリ東ニ折レ、光明寺辺ヨリ
 南に曲ガリ、鎌倉道ヲ云、今馬上石ハ名勝の名残也、此道
 鎌倉道往還也」
★おまけ
「 赤坂ノ荘ノ時代ヨリ和田宿ト稱セシ時ノ街道ニシテ、其通
路ハ碓氷峠ヨリ烏川ヲ越ヘ、今日里俗ニ云フ、坊主山ト稱スル
小丘アリ(舊ノ御馬出シ土手ノ遺趾ナリ)是レヨリ後世建テラ
レシ赤坂門、二ノ宮ノ側ニ上ル」
「本町ハ、高崎根本ノ町也、慶長三年(1598)戊戌(つちのえ
いぬ)中山道啓ケ、和田ニ城ヲ築カレシ時、金井宿、馬上宿ヲ
此地ニ移シテ一町トス、城下ノ根本ナルを以テ本町トハ名ケシ」

●史料35:『高崎志』:川野辺寛著
「今高崎城赤坂門の外の坂は、即古の赤坂也、門内の南を赤坂山
と云、此所に榎多くあり故に榎の森とも呼り、昔は鎮守赤坂明神
の祠あり、和田氏居住の頃は、民家其北より東南に立つづけり、
是所謂和田宿也」
「其南に馬上宿植横宿ばど云里あり 是亦和田城下の町也 
 馬上宿は今の代官町の辺にありしと云う 植横宿の所在定か
ならず、 今植竹の地なりとも云う 是より佐野の渡しを過ぎて
 山名に出る鎌倉道の往還なり」」
★寛政元年(1789) 高崎藩士:川野辺寛が「高崎志」を著した。
「赤坂大明神の旧跡は榎廓の内也、昔ハ此地を榎の森・赤坂山と
云ふ、赤坂の総鎮守也、社今はなし、土人の説に、寛元年中和田
義信相州三浦の二の宮を赤坂明神の社地に勧請すと云り」


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9)興善寺絵図を読み解く・・・群馬県内最古の絵図の可能性
●史料36:『興善寺絵図』
・絵図・・・横50cm。16折り→現在は表装されている
 高崎市指定文化財
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・絵図内容・・・興善寺内部の施設・鎌倉道・和田ノ城
・作成者
長源寺8世:珊恵文瑚(ぶんけいさんご)→興善寺初代
●史料37:『絵図の概要』

●史料39:『新田氏光』

●史料38:『為景清春』
・贈与者(貰った人)  
長源寺8世:為景清春→興善寺都寺(つうす:寺の事務監督者)
  為景清春→興善寺2代

●史料40:『ふじやま』
・『高崎志』・・・「興善寺の南東にあり、高さ3丈周囲80間(
46,1m)ばかり上に浅間宮あり、」
・発掘調査63号溝・・・直径50m

●史料41:『白龍池・南カンノン道』
・発掘調査:高崎城3の丸遺跡63号・・・上幅10m・深さ2m


●史料42:『清水豊説:絵地図完成時期の限定』
・天文21年(1552) 長源寺8世:興善寺初代珊恵文瑚
  (ぶんけいさんご)が死亡以前に描かれた。



〜〜〜調べ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・文永 11 年(1274 ) 新田7代当主:新田氏光(新田義貞の父?)
 が興善寺客殿を建立した。
   (★太田の円満寺記)
 「梵鐘一口 寄進」


・永享11年 (1439)
・大井持光の「持」は足利持氏の「持」である。
大井持光は戦功により、信州・上州・武州に6万貫、
参勤1000騎、在国6000騎と言われる程になった。
・家臣
@芦田・・・・依田一族
A相木・・・・依田一族
B志賀
C平尾・・・・依田一族 依田為泰=平尾良信
D平原・・・・依田一族
E板鼻・・・・依田一族
F後閑・・・・依田一族
G手代塚
近習:依田
(★平根村誌)

・嘉吉元年(1441) 信濃の芦田城主・御嶽城主:
  依田(あしだ)内匠頭忠政が後閑城を築城開始。
  ※結城の合戦に、信濃小笠原正透3000の同心として
   芦田右衛門佐=依田光玄(=忠政=満春)
 結城氏朝と合戦。
  勝利の証として、後閑に定住した説
  (★富岡武蔵氏の調べ)
・文安4年(1447)後閑城が7ヶ年で完成。
     (★坪井家文書)
・文安5年(1448) 依田政朝(=昌朝)が長源寺を創立した。
(★立科町史・重田家文書)

・文明2年(1470) 依田信濃守全棟が長源寺に、
   三ツ木(中後閑)・下郷(下後閑)に所領を寄進。
      (★安中市史:長源寺文書)
   芦田光玄=忠政→政友=政知→光慶
   →全真→全賀(弟)→全真の子:信盛→虎昌
   →昌忠→将監(弟)→盛繁
(★相木市兵衛依田昌朝と武田信玄:依田武勝著)


・天文10年(1541)信濃平の戦い
海野一族・真田幸綱が敗戦→上野国羽尾城
箕輪城で3年逗留。

・天文??年 真田幸綱が山本勘助を上野国安中長源寺で助けた。

・天文16年(1547)真田幸綱(幸隆)が安中の長源寺から
 晃運(こううん)和尚を招き一宇=お堂を建て、「真田山種月院
 長谷寺」とした。

・天文21年(1552) 長源寺8世:興善寺初代珊恵文瑚
  (ぶんけいさんご)が死亡した。


・永禄4年(1562)〜3男:武藤喜兵衛=真田昌幸が
岩櫃城攻略→嶽山城攻略に参加して功績があった。

箕輪初心●群馬【後閑城@】&長源寺&満行寺
http://53922401.at.webry.info/201211/article_19.html
★@真田幸綱が山本勘助を助けた。(NHK大河ドラマ:風林火山)
★A長源寺の和尚が真田長谷寺を立てた。

箕輪初心:生方▲真田丸5【真田長谷寺】真田幸綱
・正妻:河原隆正妹・真田昌幸の墓
http://53922401.at.webry.info/201601/article_7.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201601/article_7.html

・弘治元年(1555)新田信純が長源寺に寄進。
(★長源寺文書)

・弘治2年(1556)北条政時を滅ぼした新田景純の子
    :伊勢守信純がに在城。
・永禄2年(1559) 長源寺第9世:為景清春が寺を開山した。
 @佐久の泉龍院を開創・・・長野県佐久市中小田切928  
A長野原の雲林寺開創・・・長源寺末寺
 B高崎の宝昌寺を開創  高崎市矢中町1014
C安中に長伝寺を開創

・永禄12年(1569) 佐久桂霄寺(けいしょうじ)を開山した。 
         南佐久郡佐久穂町高野町2794

・天正2年(1574)真田幸綱(幸隆)が戸石城で病死した。
  武田24将の長男:真田信綱(38歳)が真田家の家督を継いだ。

・天正11年(1583)3月28日 為景清春が死亡した。


・慶長3年(1698) 井伊直政が高崎城を造らせた。
  和田城時代は街道の西が和田の城(赤坂・武田は和田城)の
 城域だった。井伊直政が造ろうとする高崎城の計画では、街道と
 「和田宿」が城域に入ってしまうことになった。
 馬上宿をそっくり「本(もと)町」に移された。
 (★「高崎志」)
画像

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箕輪初心●箕輪城シリーズ58「和田城:和田業繁」   
http://53922401.at.webry.info/201012/article_17.html
<< 作成日時 : 2010/12/08 20:10 >>
箕輪初心●群馬の城:「和田城5代:和田信業」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_18.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201012/article_18.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ「和田業繁と和田信繁」
※戦国時代・・高崎市周辺を領した和田氏は桓武平氏三浦氏の一族:
和田義盛の後裔である(伝)。

  (写真は、安藤・間部時代の高崎城) 
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箕輪初心★「高崎の文化人19+α」江戸時代編
http://53922401.at.webry.info/201310/article_19.html

箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

箕輪初心★西田美英【高崎素奈子】&川野辺寛【高崎志】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_14.html

箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

箕輪初心◆群馬:高崎の用水路B「長野氏の用水路編A」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_6.html

箕輪初心◆高崎の長野堰=西新波堰の歴史
http://53922401.at.webry.info/201310/article_12.html

箕輪初心◆長野堰B「染色のまち高崎に流れる長野堰:高崎広報」
http://53922401.at.webry.info/201410/article_13.html

箕輪初心▲箕輪城141【永禄9年(1566)箕輪城落城後の長野氏】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_12.html

箕輪初心★箕輪城140【秋本太郎先生の箕輪城→高崎城+城下町】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_9.html

箕輪初心◆箕輪城139『第13回きつねの嫁入り』&箕輪城
http://53922401.at.webry.info/201410/article_8.html

箕輪初心◆【高崎の古墳群9地区】復刻版
http://53922401.at.webry.info/201410/article_11.html

箕輪初心◆中仙道の復刻版「新町宿〜倉賀野宿〜高崎宿」
http://53922401.at.webry.info/201410/article_10.html


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★後日、清水豊先生の「和田城」歴史年表も掲載したいと思う。

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