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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸85【2016上田城の桜】&真田昌幸の豊臣秀吉への臣従過程

<<   作成日時 : 2016/04/10 05:54   >>

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※平成28年(2016)4月5日、『2016上田城桜千本まつり』を見に
行った。箕輪城・沼田城・岩櫃城・上田城・真田の郷を語れる上田
bPガイド:吉田美由紀氏の都合がつかなかったのは残念であった
が、目的を@上田城の桜、A真田丸展、B上田合戦のシュミレーシ
ョン、Cウナギか蕎麦のグルメ、D室賀城とした。しかし、TV
『真田丸』の経済効果はもの凄く、平日なのに旅行客で大混雑。
*NHK大河ドラマ『天地人』では、真田昌幸は上杉景勝を介して
豊臣秀吉に接近した大名化を遂げたことになっていた。しかし、
『真田氏と上田城』・『真田三代』:平山優著では、自力で豊臣秀吉に
接近し、大名となったとしている。
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【1】『2016上田城桜千本まつり』
・TV『真田丸』の経済効果はもの凄く、駐車場も3時間500円の
 南駐車場近くがやっと見つかった。
 平日なのに暇人の旅行客がワンサカ・・・。
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1)信州上田真田丸大河ドラマ館
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 600円・・・

 @甲冑と一緒に記念写真・・・無料。大判1200円
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 A撮影場所は真田信繁の甲冑
 堺雅人さんの体型に合わせてアルミ製の甲冑である。
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 砦の穴付きセット・・・杭もある
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 ★おそらく、真田幸繁は兜の本物上州明珍のはずで
  ある。白井城(群馬)に明珍信家の出張所があった。
  ちなみに、直江兼続の兜は上州明珍「八幡村」
  である。板鼻に鍛冶がいたことになる。
 
 B上田の撮影場所とそのシーン

 @陣羽織・・・8940円★買えなかった。
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・81万円の甲冑
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2)上田城の門の2階の「第一次上田合戦」のいシュミレーション
今回は5回見た。
・閏8月1日 
  真田信幸は支城の戸石城に兵300余名で着陣した。
  徳川軍の主力部隊を奥地に誘き寄せる作戦だった。
  結果・・巧みに奥へ誘い込み、大手口で勝利した。

・閏8月2日
徳川勢の先手が上田城の南東の神川(かんがわ)に差し掛かった。
200の真田前衛部隊が迎え撃ち、槍での争いを数回あわせた。
作戦通り、後退し始めた。
真田昌幸は城門を閉ざし、櫓の上で甲冑もまとわず、家臣と囲碁を
打っていた。★塚本という家臣らしいことが載っていた。
  
 徳川勢は真田勢が小勢で弱いと思い、一気に上田城を落とそうと
上田城内になだれ込んだ。
真田昌幸の『空城の計』とも知らず、・・・・。
真田昌幸は諸葛亮孔明が琴を奏でて司馬仲達を退けた『空城の計』
による心理作戦を展開した。
★徳川家康が三方ヶ原の敗戦でうんこを漏らしながら?引き上げて、
浜松城の大手門を開け、内と外に篝火を焚かせ、太鼓を叩かせた
た。警戒した武田軍山県昌景・馬場信房は兵を引き挙げさせた。
そして、浜松城は落城を免れたという『空城の計』のように・・・

徳川軍に攻め寄せられた際に上田城の門を開け放ち徳川勢を引き入
れようとすれば、用心深い指揮官ほど逆に警戒する。徳川勢に見破
られた場合は全滅の危険性があるが・・・鳥居元忠・大久保忠世は、
功績を焦って、突入した。

真田昌幸は家臣と囲碁を打ち続けた。
そして、真田昌幸は家臣に手鼓を打たせて『高砂の謡』を謡った。

徳川勢は挑発に乗った。鳥居元忠・大久保忠世は上田城に楽に入れた。
徳川勢は大手門も突破しようとした。・・・
 
真田昌幸はようやく甲冑を着け、櫓台に立った。眼下には戦功を焦る
鳥居元忠・大久保忠世らの主力兵が狭い二の郭(二の丸)にうじゃ
うじゃひしめきあっていた。門に取り付いたり、城壁
をよじ登っていたり・・・と攻めあぐんでいる。

真田昌幸はこの時を待ってましたとばかりに「攻め太鼓」を打ち鳴
らした。
「ドン・ドン・ドン・ドドドドド・・・」
合図で城門上に隠し、繋いでおいた縄を切らせ、大木や大石を
徳川勢の頭上に落下させた。

「撃てえ・・・」
同時に、堀狭間から鉄砲や弓矢を一斉に撃ちかけた。


鳥居軍・大久保軍は大混乱になり、撤退した。
勝機と見た真田昌幸は城門を開かせ、総攻撃を命じた。
「出撃・・・。」
真田昌幸は上田城内の500の兵を追撃させた。
真田勢の怒涛の勢いに、徳川勢は浮き足立ち、逃げ惑うばかり
となった。
★袋のネズミ状態になったのだ。

上田城下には互い違いの矢羽根のような千鳥掛けの柵===ウナギの
びんどうのような逆矢羽根型の柵で、徳川勢はなかなか逃げられない。
★行きはよいよい帰りは怖い。通りゃんせ、通りゃんせ、ここは
ど〜この細道じゃ・・・状態になってしまった。

上田城外にいた200の遊撃前衛部隊は横郭に後退し、集結していた。
遊撃前衛部隊の200の兵を横から攻撃した。
 
 それから、上田城の町家に撤退した徳川勢に火を放った。
強風にあおられて、鳥居勢はまたまた大混乱となった。

 また、町家や山野に伏兵していた武装した百姓軍が火を合図に徳川勢
に打ちかかった。百姓兵は石礫を投げた。

 さらに、真田信幸は300?800?の兵で戸石城より討って出た。
徳川勢の退路を遮断し、真田信幸軍が襲いかかった。
真田勢は追撃の手を緩めなかった。

徳川勢の先手:鳥居・大久保勢は@城内軍、A遊撃前衛部隊、B百姓軍、
C真田信幸軍の四方から攻められた。・・・はさみ撃ちにされてしまった。

その上、千鳥掛けの柵{{{{{{くくくく《《・・・ハの字形に互い違いに
配置した柵で、塀・柵に突き当たってしまうと逃げにくい。
行きはすんなり行けるが、帰りが逃げにくい。
 (★和根崎剛氏・平山優氏の説明)
======塀・柵======================
/ / / / / / / / / / / / / / / /
 \ \ \ \ \ \ \ \  \ \ \ \ \ \
======塀・柵======================

複雑な町家のトラップに引っかかり、退路を見失った。
真田勢に、弓に刺さったり・鉄砲に撃たれたり・槍に突かれたりと
徳川勢は大混乱に陥いった。
 
 上田城に戻った徳川軍は鉄砲隊に次々と撃ち落とされた。

北国街道に撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信幸の
突撃で崩された。
真田軍は巻狩りのコの字状態にして、東方向に逃げ場を作った。
徳川軍主力隊はやっとのことで上田城の東方3km程の神川まで敗走
した。

徳川勢の多くが神川(かんがわ)を渡るに及んだ。
そこで、真田昌幸は最後の作戦に取りかかった。
真田昌幸は上流に築いておいた堰を切って落とすことを命令した。
雨による増水の上、さらなる増水=====
徳川勢を溺死させた。
これが最後の仕上げとなった。

矢沢城でも矢沢頼幸が800余の守兵で依田勢1500を退けた。

上田城・神川の戦いは徳川軍の犠牲者は300余名?一説には1,300名
にも上ったという。真田勢は40人程であったという。
●真田信幸の書状
徳川方の死者は1300余、真田方の死者は40余。
●大久保忠教の記録
徳川方の死者は300名余。

3)上田城見物
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4)藩主館=上田高校

5)まちかど案内所

6)刀屋・・・池波正太郎が好んだ蕎麦屋「真田そば・・味噌が有名」

7)上田駅


8)みやげ「北村」
「真田丸」大吟醸・・・2080円


【2】北条氏政の沼田城攻撃
※第一次上田合戦の時、北条氏政に沼田領は攻撃されている。
@「真田丸」13話では・・・信繁・三十郎頼幸が上田城に行
 ったとしている。

A『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著の『矢沢家文書』
9月5日付 上杉景勝→矢沢綱頼への書状
「三十郎を沼田に返す・・・」
9月18日付  上杉景勝→矢沢綱頼への書状
「越後から加勢を・・」
9月29日 北条氏政が沼田城攻めから小田原城に撤退。
(★『加沢記』)


【3】真田昌幸の豊臣秀吉への臣従過程
・天正13年(1585) 第一次上田合戦
閏8月2日 真田昌幸 VS 徳川家康
  徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われている。
  真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。(★ウィキペディア)
  真田軍は58人の犠牲ですんだ。(★真田丸ナレーター)

8月3日 徳川軍は丸子三左衛門(後、真田氏に臣従)の篭る
  丸子城を攻めるが、攻略できず、以後20日間程対陣を続けた。
  徳川家康は援軍:井伊直政、大須賀康高、松平康重の5000
  を出すと共に一時撤退を命じた。

8月26日 上杉景勝の指示で、西条・清野・寺尾・市川らが
上田城に応援に行った。

8月28日 徳川は上田より撤退した。
  大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り
  返した。


・10月初旬 真田昌幸は徳川軍と対陣中に、豊臣秀吉に書状を送り、
 援助を依頼した。
 (★『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著)

・10月17日付 豊臣秀吉の書状
「委細の段聞こし召し届けられ候心安かるべく候。その方の
進退の事は何の道にも迷惑せざるように申し付けてあるので、
心易く思うがよい。」
と返事をしている。
「あとは、小笠原貞慶を相談せよ。」
と豊臣秀吉は真田昌幸を味方した。
 (★真田宝物館・信濃史料16−383)

11月 真田昌幸と府中小笠原貞慶が豊臣秀吉と内通していた。
 府中小笠原貞慶の豊臣秀吉への内通発覚によって、
 徳川家康は石川数正に責任を問われた。

11月13日 徳川家譜代の重臣:石川数正が突如として岡崎城から
  離れ、徳川家康の下から出奔し、豊臣秀吉の下へ逃亡した。
  その際、石川数正が人質の府中小笠原秀政を引き連れて豊臣秀吉の
  元へ出奔した。府中小笠原秀政の父:小笠原貞慶も豊臣秀吉の家臣
  となった。
理由は謎であり、はっきりした理由は分かっていない。
@石川数正が小笠原の件で責められたことが一因になったとする説。
A石川数正が徳川家康と不仲になった説。
B石川数正が豊臣秀吉から提案され誘惑に負けた説
小牧長久手の戦い後の交渉に携わっていた。

・11月?日 石川数正が羽柴秀吉に臣従した。
 豊臣秀吉は以前、徳川家康の使者:石川数正に対し、徳川家の重臣
 の人質を出すように要求したが、家康は人質を出さなかった。
 石川数正は困り果てて、徳川を出奔した。というのは実際の所
 なのだろうか?・・・翌年、羽柴秀吉は妹:旭姫を徳川家康に
 送り込んだ。

徳川家康にとって石川数正は徳川の軍事的機密・策略を知り尽くして
 いたので石川数正の出奔は徳川にとって大きな衝撃であった。
 最初から真田のことより秀吉の事を気にしていて、井伊直政などの
 兵を送ってはいなかった。真田どころではなくなってしまった。
 徳川家康は上田から完全に撤退した。
 小諸城には??を置いたけれど・・・

・11月17日 真田昌幸→直江兼続への手紙
「当堺は無事ですが、配下等からの報せでは、家康が甲州、佐久郡、
 諏訪郡等に滞在させています。・・平岩・柴田・大久保を遠州に
 召し寄せました。どんな相談をしたのか分かりません」
(★『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著)
★真田昌幸は 撤退理由は分からなかった。


・11月19日付書状 豊臣秀吉→真田昌幸への書状
「13日に石川数正が尾張に来たので、家康の表裏が判明、
 今年は残り少ないなので、来年の1月15日前には家康成敗の兵を
出す。」

11月?日 豊臣秀吉→真田昌幸への書状
「信州・甲州両国の儀は、小笠原・木曾と相談、・・・・」
(★長谷寺殿御事跡稿)

※こうして、真田昌幸は羽柴秀吉との接近を果たした。
(★『真田氏と上田城』上田市史編纂委員会著)


*NHK大河ドラマ『天地人』
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が佐々成政を滅ぼし、上杉景勝に会談を申し
 入れた。勝山城(糸魚川市)で上杉景勝+直江兼続VS羽柴秀吉
 +石田三成と会談を行った。羽柴と上杉が同盟を結ぶ合意がなさ
 れたとされた。
 
★勝山城も後日掲載かな?

・天正14年(1586)

1月〜3月 真田昌幸は佐久に侵攻した。自領拡大を企てた。
8ヶ所に出撃し、宛状を発給した。
例、佐久に元長野業正重臣:矢島主殿助・神尾淡路守に宛がった。
例、矢沢頼綱・頼幸に海野領など1000貫を宛がった。

2月 豊臣秀吉は「尾張に攻め込む。」と宣言した。
   織田信雄は家康に上洛するよう伝えた


4月   羽柴秀吉は妹:旭姫を徳川家康に送り込んだ。
※政策を変えた。懐柔策を取った。




5月25日 北条氏直に沼田城を攻撃した。
 矢沢綱頼が撃退した。

6月 上杉景勝は豊臣秀吉に謁見した。
    真田信繁も一緒だった。

@『天地人』
 羽柴秀吉は直江兼続&真田信繁を家臣にしたいと申し入
 れた。自分の元に優秀な武将を起きたかった。
 ヘッドハンティングのような考え方・・・
 上杉景勝は秀吉に返してくれるように頼んだ。
 直江は自分で断った。
 幸繁は相手は天下人:秀吉であったので諦めた。

A『真田丸』上杉景勝が上洛して留守のうちに、真田昌幸が
  幸隆を呼び戻し、豊臣秀吉に出仕させた説。
 上杉の上洛に付いていく事になったので、真田昌幸の次
  男:信繁が上杉景勝の人質から豊臣秀吉の人質として
  大坂に出仕し、真田昌幸は豊臣家に臣従するのも
  想定内だった。
 

B豊臣秀吉に偶然あって気に入られたことから出仕する
 ことになった説。
 
C平山説
  上杉景勝は真田昌幸を豊臣の家臣の大名にさせる意志
 はなかった。真田昌幸は自力で大名の座を勝ち取った。
  豊臣秀吉が真田信繁を豊臣家人質とすること、
 真田昌幸・木曾義昌・小笠原貞慶を豊臣秀吉の
 与力大名になるように命じていること・・・。
 つまり、豊臣秀吉の徳川家康への懐柔策の
 一環であったとする説



7月 徳川家康が真田昌幸征伐のために甲府に出陣した。


8月7日 徳川家康は豊臣秀吉の調停を受けて真田攻めを中止した。
11月4日 豊臣秀吉の命令で真田昌幸は徳川家康の与力大名と
なった。

おそらく、この時、真田信幸&小松姫の結婚が決まったのでは?
本多忠勝は真田一族の知略に惚れ、軍略に恐れた。
本多忠勝は真田家を徳川に取り込むため、徳川家康に自分の娘を
嫁がせることを提案した。
徳川家康もまた、上田合戦後に面会した真田信之(当時は信幸)の
器量・力量に感服していたので、自分の配下の武将として取り込ん
でおきたいという思いがあった。
徳川家康は本多忠勝の意見を快諾した。徳川家康は小松姫を自分の
養子(秀忠の養子説あり)として、真田信幸へ嫁がせることにした。
本多忠勝の娘:小松姫を真田信之へ嫁がせて懐柔することに成功
した。


・天正15年(1587)
3月18日 真田昌幸と府中小笠原貞慶は駿府城で徳川家康と
 会見した。
★真田昌幸は大坂で羽柴秀吉と謁見し豊臣家臣となった。
 真田昌幸が自力で大名の交渉窓口を切り開いたのだ。






★明日はTV『真田丸』第14話かな?

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