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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼/大虐殺&人身売買

<<   作成日時 : 2016/03/03 07:45   >>

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志賀城で有名なのは、「武田晴信が小田井原の合戦で討ち取った首
3000を城下に掛け並べ、城兵たちに見せ、士気を削いだという
残酷エピソードである。」
志賀城=笠原城攻めには真田幸綱(幸隆)
・芦田信守・相木昌朝・大井貞清なども加わっている。
志賀城から
逃げた笠原配下は、村上義清の砥石城で、武田信玄に再び刃向
かい、「砥石崩れ」で無念を晴らした。でも、現在も志賀の人々は
武田信玄を嫌っているだろうな?人身売買もあったし、・・・
富岡武蔵さんが「志賀城はなかなかの堅城だよ。」とおっしゃ
っていたが、登らなかった。



【1】志賀城下
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志賀城は上信国境の寄石山から延びる尾根に築かれた
山城である。
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・登り口・・・墓が
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【2】悲惨な戦国時代「大虐殺・人身売買の話」
戦国時代は戦国大名たちによって、大量虐殺や人の略奪と
人身売買が普通に行われていた時代である。
ドラマでは武将のどす黒い部分をオブラートで包み込んで、
主人公の乱世を生き抜いた知恵をクローズアップさせ、
視聴率を稼ごうとする。

今回の「真田丸」も時代考証は歴史の大家平山優氏・黒田基樹氏
・丸島和洋氏が担当しているが、歴史の史実を踏まえながらも、
判官びいきの日本人の心を掴んだドラマに仕上げている。
視聴率も高い。でも、真田のあくどいシーンは取り除かれている。
歴史好きな方には配役と武将キャラクターのミスマッチにちょっと
違和感があるかもしれない。


1)上杉謙信・・・永禄4年(1561)小田城下が奴隷市場に・・・
  奴隷の値段は一人20〜30銭の安さだった。
  そして、松山城救援に間に合わなかった腹いせに
  石土城(北本市)で虐殺、騎西城で3000人虐殺。

2)武田信玄・・・志賀城攻め3000人のさらし首
人買い商人が隊の後から付いてきた。

3)織田信長・・・@比叡山焼き討ち・女子ども数千人虐殺
      A 「長島一向宗門徒の大虐殺」2万人を
       四方より火をかけて人間バーベキューにした。

4)豊臣秀吉・・・@鳥取城攻めで餓死者多数。
            腹から木の根っこ。
          A朝鮮出兵で朝鮮人虐殺させた。

5)徳川家康・・・大阪夏の陣後の豊臣家の残党虐殺。

6)黒田官兵衛・・・豊前:城井谷城の一族大虐殺。



【3】◆◆ 真田幸綱(幸隆)の志賀城攻撃までの歴史 ◆◆
・天文10年(1541) 海野平の戦い
武田信虎+村上義清+諏訪頼重
VS
海野棟綱・真田幸隆・祢津元直・望月??など
 
@海野棟綱・真田幸綱(幸隆)・5歳の真田信綱は海野一族の
  上野国の羽尾城:羽尾幸全を頼った。

A祢津元直は諏訪頼重の配下になった。
  祢津元直の娘は武田晴信の側室になった説
祢津元直の娘は諏訪頼重の養女→武田晴信の側室になった説

B矢沢頼綱(綱頼)は村上義清の配下になった。

真田幸隆は羽尾幸全の娘を3番目の妻:側室として
娶った。・・・ 

※羽尾幸全の娘は真田幸隆の正室とする説がある。
  (★『羽尾記』)
 ※柴辻俊六先生は根拠に弱いとしている。
 (★真田昌幸:芝辻俊六著)
★真実なら、真田幸隆の次男となる。真田信綱の弟という
 ことになる。
 真田幸隆は羽尾(羽根尾)幸全の娘を側室とした。
  →羽尾幸全の娘に真田清鏡を産ませたと言う説がある。
★一般的には6男で表記されている清鏡であるが
実質2男の可能性がある。

羽尾幸全の妻の義父:長野業正の箕輪城に行き、長野
業正におそらく連れられて、上杉憲政のいる平井城を
訪ねた。

■黒田説
海野棟綱&真田幸綱は海野の地・真田の郷の奪還を要請した。

長野業正を大将とした軍が結成され、佐久に侵攻した。
海野棟綱と真田幸綱(幸隆)も同行した。
武田晴信は甲斐に帰っていたため、佐久は国衆:大井一族
や笠原清繁・祢津政直(元直の子ども)は諏訪頼重の支配
下にあった。

※長野業正は諏訪頼重と同盟を結び、佐久の国衆を独立させた。
しかし、長野業正は海野平に行かず、引き返した。真田幸隆が
武田晴信の家臣になる遠因であった。としている。
(黒田基樹説)
理由は以下の2つである。
7月 @那波宗俊・長野賢忠・佐野助綱・成田親泰・庁鼻和上杉
憲賢
VS
横瀬泰繁
A北条氏康の北上
 北条氏康 VS 上杉定正
   
■平山優説
 海野棟綱と真田幸綱の2人は別行動をしていた。
@真田幸綱が頼ったのは長野業正である。
(★真武内伝・沼田記・・真田三代:平山優著)
真田幸綱と長野業正は昵懇になった。
羽尾幸全の娘を妻にした記述はない。
しかし、羽尾幸全の妻は長野業正の娘だったので頼った。
 小幡憲重と仲良くなった。
 「一徳齋、箕輪に御座候時よりその後甲州にても真田、小幡
  両輪のごとく・・」
  (★真武内伝)

A海野棟綱と家臣は平井城:上杉憲政を頼った。

武田晴信のクーデター・・父信虎の追放したことから
 内政に専念しなければならなかった。
直ちに3000余の兵を派遣し、海野棟綱の旧領を奪還
 しようと出陣した。
 (長野業正が出陣したとは書いてない。)
7月4日 諏訪頼重は長窪城に進軍した。
 ※上杉氏は諏訪頼重と同盟を結んだ。
諏訪頼重は芦田郷を領地とした。芦田守信を家臣とした。
 佐久の国衆を上杉配下とした。
 
しかし、上杉軍は海野平に行かず、引き返した。
海野棟綱と真田幸綱の目論見は完全に崩れ去った。
 2人は断腸の思いで引き返したのであろう。
 平山説は黒田説を引用している。
 上野国での内訌(家臣同士の争い)と北条氏康の北上で
 信濃での合戦に踏み切る余力はなかったとしている。

@真田幸綱が一般的には箕輪城に3年逗留した。 
 この間、安中後閑の長源寺の晃雲和尚と真田幸綱が出会った
 真田幸綱を中国の「韓信」に匹敵する器量と見抜き、
 本領を回復したら、住職となろう。
 (★松代:長谷寺書上)
 実際に真田に長谷寺を建立した。
A海野棟綱は家臣:深井棟広・小野沢守儀(もりよし)・瀬戸是
 慶らと平井城で過ごした。
 海野棟綱の消息が途絶える。客死したのであろう。

●真田幸隆は箕輪城に3年いた。
*天文13年(1544)真田幸隆は武田に臣従。
(天文12年説あり)


武田晴信は父:武田信虎を駿河に追いやり、家督を継承すると
  信濃侵攻を開始し、諏訪郡・北佐久郡を攻略の準備に取りかか
  った。

・天文11年(1542) 諏訪攻撃
6月、武田晴信は諏訪氏庶流:高遠頼継と諏訪領への侵攻した。
  諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧し
  た。ついでに、諏訪頼重の娘も側室にした。
@小説では、新田次郎:湖衣姫・・など
A祢津元直の娘→諏訪頼重養女説

9月 高遠頼継が武田晴信に対して挙兵した。
    武田晴信は高遠頼継を撃破して諏訪領を掌握した。
 ・上原城城将:板垣信方を諏訪郡代とした。
 ・桑原城に城将を置いた。

・天文12年(1543) 武田晴信の佐久侵攻。
  芦田(依田)系の相木昌朝は武田晴信に内応し、
岩村田城:大井貞隆を降伏させた。
  家臣:芦田(依田)守信 と相木昌朝は
主家を攻撃した。
  長窪城(現長和町)を攻撃。

  長窪城主:大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。

相木昌朝は以後は武田晴信に仕えた。
 帰参直後から騎馬80騎持ちで田口城代に任じられた。
(後、相木昌朝の長女は真田幸隆の次男:昌輝に嫁いでいる。
  また、相木昌朝の次男:市兵衛は山県昌景の娘婿となった。)


●天文12年(1543)か天文13年(1544)
 真田幸綱(幸隆)は武田晴信に臣従した。
 ★天文13年(1544) の長窪城?望月城攻め?の頃
  が有力かもしれない。箕輪城に、2年4ヶ月いた?違うか?



・天文13年(1544) 武田晴信は今川義元と和睦した。
@武田晴信は現千曲市&佐久市の侵攻を考えていたので、
南から甲斐に入られるのが不安だった。
A今川義元は駿東郡(富士市:富士川〜沼津〜三島黄瀬川)
  を北条氏康の支配下にあったので取り戻したいという思惑
あった。

・天文14年(1545)
4月 武田晴信は高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼした。
6月 福与城主:藤沢頼親を追放した。

7月 第2次河東一乱
   ※河東・・・静岡県駿東郡(富士川〜黄瀬川)
今川義元  VS 北条氏康 
7月下旬、今川義元は富士川を越え、善得寺に布陣。
     北条氏康も駿東郡に急行して応戦した。
B北条氏康は危機的状況になった。
 前門の虎・・今川・武田が駿河から・・
 後門のライオン?・・山内上杉がせっかく盗った河越城に
 挟み撃ち状態になってしまった。

9月初旬 今川軍+武田軍が合流。
  北条軍は、吉原城を放棄し三島に退却。
  今川軍は北条幻庵・葛山氏元の長久保城(駿東郡長泉町)
  を包囲した。
  河越城を包囲された。
  北条氏康は窮地に陥った。

10月下旬 武田晴信が北条・今川の仲介役として、
   停戦が成立させた。
 武田晴信が仲裁したことで両家に大きな「貸し」を作った。

11月初旬、北条氏は長久保城(静岡裾野)を今川氏に明け渡した。
  (★『高白斎記』)。
  B北条氏康は西方に安堵を得た河越城の救援に向かった
 

・天文15年(1546)
4月 河越夜戦
上杉憲政+上杉定正+古河公方 VS 北条氏康
  河越城を包囲していた関東管領:上杉憲政が北条氏康に惨敗
上野の平井城に逃げ帰った。
  上野国を中心とする上杉憲政の勢力はいまだ健在であった。

5月 武田晴信は再び佐久郡に侵攻。
  大井貞清が立て籠もる内山城を包囲した。
  武田軍は総攻めをしかけて城を落とし、大井貞清は捕えられた。

  真田幸隆の口利きで大井貞清は助命された。
 長窪城(現長和町)の大井貞隆&内山城の大井貞清の大井一族
 が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田氏に制圧された。
  
 しかし、志賀城の笠原清繁は武田晴信に抵抗を続けていた。

志賀城は上野国との国境に近く、入山峠(バス事故と軽井沢プ
リンススキー場の間)・碓氷峠(笛吹峠の表示の本もある。
また、碓氷峠は当時あったか不明)・内山峠・余地峠などを
通じて関東管領上杉憲政からの支援が期待できる。



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◆◆ 武田晴信の志賀城攻め&人身売買 ◆◆
・天文16年(1547)・閏7月から8月 小田井原の戦い
(長野県佐久市)
【3】 『高白斎記』・『妙法寺記』の志賀城攻め

閏7月、武田晴信は大井三河守貞清を先手として甲府を
     出陣した。


7月24日 武田晴信は志賀城の包囲を開始した。
「卯の刻から午の刻まで志賀の城に取り詰められる」

 7月25日 金堀衆が城の水の手を断った。
     志賀城は窮地に陥った。
「25日未の刻、水の手取りなさる」
 
  関東管領:上杉憲政は志賀城救援の軍勢の派遣を決めた。

 上杉憲政は重臣:長野業正の諫言を無視して、倉賀野党16騎
 を先陣に金井秀景を大将とする西上野衆の大軍を派遣した。
(★『関八州古戦録』→大河ドラマ「風林火山」)
長野業正
 「北条氏康のほか、武田晴信まで敵にすることはできない。」
と、出陣しなかった。
 (★大河ドラマ「風林火山」)

※エピソード@
 金井秀景の先陣はくじ引きで決まった。

関東管領軍は東山道の入山峠(バス事故現場と軽井沢プリンスス
キー場山頂の間)
を越えて信濃へ入った。
一般的に碓氷峠とあるが、当時の碓氷峠は軽井沢に入る碓氷バ
イパスの道ではない。
碓氷峠の戦いや笛吹峠の戦いという言い方で書いてある本もある

武田晴信は志賀城を包囲中であったが、重臣:板垣信方、甘利虎泰
(甘利元経済復興大臣の先祖)に別動隊を編成させて迎撃に向
かわせた。

 
 高田憲頼らの援軍もあって包囲は10日にもおよんだが志賀城は
 落城しなかった。

8月6日 小田井原で合戦
 甲斐守護武田晴信 VS  関東管領上杉憲政
「8月卯の刻、板垣駿河其の外働き、関東衆数多討ち取らる」
板垣、甘利率いる武田軍は関東管領軍を一方的に撃破して敵将
 14〜5人、兵3000を討ち取る大勝利を収めた。



その夜・・・
武田晴信は、名のある武将の首は槍先にかざし、
兵の首は棚に並べて志賀城下に晒したのだ。

 担当者は山本勘助だった。
(★大河ドラマ「風林火山」)



※『妙法寺記』・・・小田井の戦いが前年であるが・・・・
・天文15年(1547)の7月、志賀城には笠原勢に加えて、常州勢
(上州勢)が立て籠もって武田に抵抗していた。さらに上州からの
後詰勢が浅間山を廻って進軍してきたので、武田勢は上州勢と合戦
に及んだ。武田勢は、板垣駿河守、甘利備前守、横田備中守、多田
野三八らが大将となって上州勢に向かった所、「上州人数切り劣り
候ひて、名だたる大将14〜5人討ち取り、雑兵3000ばかり
討ち取り、此の首をシガ城を廻り悉く御掛け候。是を見て要害の
人数も力を失い候。」さらには「水につまって」志賀城は八月十一
日に落城せし・・。」。

8月7日
一夜明けて・・・。
志賀城兵上杉の援軍の到着を今か今かと首を長くして待ちわびていた。
志賀城内の城兵が目の当たりにしたのは・・・
しかし、来たのは生首・・・
見下ろす城下に、無数の生首が並ぶという悲惨な光景
であった。
武田軍は3000の首を志賀城の目前に並べて晒
して威嚇した。

ところで、3000もの首を一度の戦で実際に討ち取ることができ
るのであろうか。関東管領上杉憲政軍が大軍勢だったとしても、本
当に可能なことなのだろうか?
首3000はオーバーかもしれないが、相当数の首を並べて見せた
のだろう?武田軍3000人が一人1つの首を運ぶのは大変
じゃないのかな?重さを量ったことはないけれど・・・



これで、志賀城では救援の望みが完全に立たれた。
志賀城兵の戦闘意欲は削がれ、大きく意気消沈した。


8月10日、武田軍は総攻めをしかけた。
 外曲輪、二の曲輪が焼き落とした。
  「10日午の刻、外曲輪を焼く。子牛の刻、二の曲輪焼く」


8月11日、武田軍は本曲輪を攻めた。
  城主笠原清繁と高田憲頼は討ち取られ落城した。
「11日、午の刻、志賀父子・高田父子打ち捕らる」
もはや命運は尽きたと覚悟を決めた笠原清繁以下300余名は、
  決死の突撃を決行し、壮絶な討死を遂げた。
   笠原清繁、笠原清仲父子は討死。
   援軍に駆けつけていた高田憲頼、高田繁頼(笠原繁頼)
   父子も討死した。
志賀城は落城。

★『高白斎記』は城攻めが進行していく様子がよく理解できる。

武田晴信の敵兵への処置は厳しかった。
捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子供は売り払われた。
戦国時代の合戦では捕虜は報酬として将兵に分け与えられた。
金銭で親族に身請けさせることが行われたが、捕虜の値段は非常
に高額で身請けができず、ほとんどが人買いに売買されたという。
武田信玄の部隊の後続には、奴隷商人が付いてきていたという。

※エピソード
@「シカ殿御上は小山田羽州(信有)給りて駒橋に御同心申し候。
 去る程に男女いけどり成され候ひて悉く甲州へ引越し申し候。
 去る程に2貫3貫5貫1貫にても身類ある人は承け申し候」
(★『妙法寺記』)


A笠原清繁の夫人は小山田信有に与えられ妾とされた。
悲運に涙に暮れた笠原清繁夫人の哀話が残されている。
(★『甲斐国志』)
 
B小山田信有(小山田信茂の父:岩殿城主)がお金で買った。
(★大河ドラマ「風林火山」)

志賀殿(笠原)氏の奥方は、武田重臣の小山田信有に与え
 られ、信有は自分の領地である駒橋(大月市)に連れ戻った。
 小山田虎満は内山城代になっていて、行ってないなもしれない
 が・・・真田幸綱(幸隆)は小山田虎満の配属になっていた説も
 あり、内山城下に住んでいた可能性もある。
 笠原清繁の奥様は相当な美人だったのであろうか?
 それにしても、殺した敵の奥方を自分の側室にしてしまうと
 いうのは、どういう神経をしているのだろうか?
武田晴信も諏訪頼重を殺して、娘を妾にしちゃったけれど・・
 だいたい奥様はどう思っていのだろうか?
 慈善事業なのだろうか?


 小山田信有は、側室として可愛がった。しかし、ある時突然、
 発作的に信有を寝首をかいた=刺し殺してしまった。
 「信有の名誉を守るため、病死したことにせよ」
 と言っていた。
 (★大河ドラマ『風林火山』)

 実際は殺していないかもしれない。
小山田信有が笠原奥様に殺されたことを証明する史料はない。
 
落城後には、志賀城内に残っていた女や子ども、町人、城下
の百姓までもが生け捕りにされ、甲府へと連行された。
人身売買のための奴隷として・・・・・。
ただし、親戚等が金を出したものについては、2貫〜3貫といった
値段で買い取らせたらしい。上杉謙信は20〜30銭であった。
奴隷の末期は死か・・・
男は金山工夫か?・・・武田金堀衆?
 第2次世界大戦中の朝鮮人鉱山労働者のようだ。白根や
 松代の大本営のように・・・
女は宿場の飯盛女か?
これは、江戸時代も続く。宿場では、1軒の旅籠で飯盛女・女郎
は3人までと決められていたが、品川宿・三島宿・倉賀野宿など
ではルール違反が多かった。安中藩では、運上金もとっていた。


いずれにしても、生け捕りにされた者は人身売買の道具にされるのが、
戦国時代の常であった。
特に武田信玄の跡から奴隷商人がついて来ているのが特徴であった。


志賀城を落とした武田晴信は佐久郡の制圧を完了した。



【4】 『相木市兵衛依田昌朝と武田信玄』:依田武勝著の志賀城攻め
武田信玄は志賀城主:笠原清繁を納得させるために、相木市兵衛を
何回も交渉に使わせた。村上勢が上杉憲政を頼み、武田軍をたたき
つぶそうという作戦であった。
 武田信玄は志賀城を包囲し、比高170mの志賀城の本丸に目を
向けた。本丸には上野国菅原の高田憲頼の軍1000も加勢してい
る。
 7月18日、武田信玄は8000の兵で抗戦体制に入った。
 7月24日、攻撃開始。
武田信玄は水源を絶った後、廓、搦め手を百足組指揮官:多田
満頼に攻めさせ、虎生谷を占領した。
笠原清繁は上杉憲政に後詰めするように使いを出した。上杉憲政は
10000の大軍を用意し、金井秀景を大将として、小田井が原に布陣
させた。
 武田信玄は相木昌朝に相談した。相木昌朝は
「あと一息で志賀城が落城せんとしている。兵を引いてはならぬ。別働
隊で、小田井が原を攻撃すべし。」
と答えた。板垣信方は
「相木殿の言うとおり、我ら横田・甘利の軍勢3000でこれに当たる。」
と気勢をあげた。
 真夜中、武田勢3000が上杉軍10000を襲う。激しい戦いを繰り
広げた。翌朝までに3000の首を挙げた。上杉勢はちりぢりになって
上野に逃げ帰った。
 板垣信方は
「3000の首を無駄にしてはならぬ。これを志賀城の門前に並べよう。」
と言った。
「籠城を解いて、降伏するように・・・。」
と促した。
 相木昌朝は女房子どもを連れて逃げ出す武士のため、間道に置
 いた兵を退かせた。
 8月10日、城内に残る兵は3分の1程に減り、1000人を割った。
 8月11日、夜明けとともに、攻撃が始まった。法螺貝を吹き鳴らし、
寄せ太鼓を絶え間なくならし続けた。・・・逃げる者は今のうち・・と
知らせているのである。
 城将父子・高田父子など城兵300余人が最後をとげた。
 8月22日、武田信玄は甲府に凱旋した。




【5】◆◆ 笠原清繁と高田憲頼 ◆◆
高田右衛門佑憲頼の上杉憲政の家臣である。
上野国(群馬県)旧妙義町の高田城主&菅原城主である。

・享禄年間 関東享禄の内乱=山内上杉家の内紛
  長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
    VS
  小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政
 結果・・箕輪長野方業が上杉憲寛陣営の中心的存在であったとみられて
 いるが敗れている。
上杉憲寛方の諸氏は許されて、長野方業の後継者とみられる長野業正の
 娘を小幡憲重に嫁がせ、その後、箕輪長野方業の養女になっていたと
 みられる沼田顕泰の娘を安中重繁に嫁がせた。
 安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせることで当事者間の和解が図られて
 いる。
 (★西上州の中世:黒田基樹著)
★これが、黒田基樹先生の特徴のある説である。

■関東享禄の内乱・・・黒田基樹説
・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531)
第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時にも永正の乱
よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じた。
関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。

1)古河公方家
・享禄元年(1528)12月27日 古河公方家嫡男:足利晴氏が元服した。
・享禄2年(1529) 安房里見義豊が古河公方足利家当主として、
足利晴氏を挙げた。
古河公方:足利高基と晴氏の抗争が始まった。
  5月晦日 足利晴氏が高基の古河城を攻撃した。
・享禄4年(1531)
 6月1日 
足利晴氏が下野宇都宮城から古河城への帰座を検討した。
 足利政氏から足利基頼宛の書状が届いた。
 6月6日 足利晴氏が古河公方として、奉公衆・田代三輝斎に対し、
   足利政氏の治療を指示した。
 6月9日 足利高基が小山小四郎に対して隠居を知らせた。
   
2)山内上杉家の内紛
・享禄2年(1529)
1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
   (『続本朝通鑑』)
 8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、
    これを無視した。
   (『続本朝通鑑』)
 9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
 ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。
  上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立が  
  あったと考えられる。

  (★黒田基樹)
  長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
     VS 安中城付近で交戦
  小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政

  上杉憲寛は長野方業を随行させながら、安中城から程田
  (高崎市保渡田)に後退した。
    (★『続本朝通鑑』) 
  ・享禄3年(1530)
5月 
「左衛門尉」(小幡)が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して
 禁制を与えた。
  甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。
5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の
  戦勲に対して感状を発給した。
10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜
  を被官:三富平六に与えた。
・享禄4年(1531)
9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原
(市原市)に退去して、晴直と名を改めた。

●参戦武将・・・黒田基樹著
@勝者・・・
第4代古河公方:足利晴氏(下野宇都宮城)
第2代公方足利政氏、
足利基頼(高基の弟)
宇都宮興綱(下野宇都宮城)&芳賀次郎高綱?

山内上杉氏 :上杉憲政
安中氏:宮内少輔?(上野安中城)
小幡氏:小幡顕高?(上野国峰城)
藤田業繁
用土業国(武蔵国:用土城)
成田親泰(武蔵国:忍城)
里見義豊(安房国:)
上杉朝興(武蔵国:川越城)
小弓公方:足利義明

敗者側
第3代古河公方:足利高基(古河城)
小山小四郎(小山政長の嫡子)(下野小山城)
山内上杉氏 :上杉憲寛(古河公方家からの養子:高基の次男)
長野氏:長野方業?(上野箕輪城)
高田憲顕(上野高田城)
三富平六(子孫は赤城村)


●結果
1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。
2)山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原
  (市原市)にて隠棲。
結果:足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。

※箕輪長野方業が敗れている。
上杉憲寛方の諸氏は許された。

長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
  (★黒田基樹)
◆参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 
・『西上州の中世』:安中市・・・ふるさと学習館
◆参考サイト
ウィキペディア

箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

また、笠原清繁は上杉氏家臣の高田憲頼(旧妙義町高田城&
  菅谷城)と縁戚関係にあった。
高田憲頼は、笠原清繁の次男:笠原繁頼を娘婿養子に迎えて
 いた。高田繁頼(笠原繁頼)にとって実父からの要請であった。

上杉憲政は相模国北条氏康から武蔵→上野に北上している
 武田晴信は信濃→上野へと東への野望が覗える。
 武田晴信と北條氏康の挟撃を恐れて志賀城への救助を決断した。
 上杉憲政にとっても武田晴信を叩いておかなければならなかった
 ので利害が一致した。
 上杉憲政からの援軍として高田憲頼父子が志賀城に派遣されていた。
 平井城の関東管領上杉憲政からの志賀清繁の救援として高田憲頼は
 養嗣子:高田繁頼(志賀繁頼)とともに志賀城へ進軍した。
★高田繁頼の妻は長野業正の養女(妻の妹)が生んだ安中忠政
 (重繁)の子であった。長野業正の孫ということになる。

・天文2年(1533) 北条氏綱は鶴岡八幡宮再建のため、関東諸将軍
 に奉加を求めた。北条氏綱は諸将の動向を探るのが大きな目的
 であった。長野業政や白井長尾憲景は応じてない。しかし、高
 田伊豆守遠春(憲頼)は奉加に応じた。
  (★『快元僧都記』)

・天文6年(1537) 北条氏綱は扇谷上杉氏の支配下にあった河越城を
攻略した。

・天文15年(1546) 河越の夜戦
山内上杉・扇谷上杉・古河公方80000万余の大軍
VS
北条綱成が守る河越城
 結果・・・連合軍が、北条氏康の夜襲によって敗北した。
上杉憲政は平井城に拠って北条氏との対立姿勢を保った。

・天文16年(1547) 武田晴信の志賀城攻撃
 上杉憲政の佐久出陣を聞いた長野業政は、
「武田信玄をも敵にまわすことになる無益な出兵である。」
 として反対した。
(★大河ドラマ「風林火山」)

 志賀城は武田軍の猛攻の前に陥落、城兵300余人が討ち取られた。
 高田父子も奮戦のすえに戦死した。  

そして、長野業正が危惧したように、武田信玄の上野侵攻が開始
されることになる。
武田晴信は入山峠?碓氷峠を越えて・・・そして、上野の地を踏ん
だ武田晴信となる。松井田の坂本城(碓氷城)や愛宕山城を築城す
ることになる。
また、大井貞清の没落は傘下にあった上野国現南牧村の市河氏(砥沢
城など16城ほど支配)の武田氏への服属につながり、後年の余地峠
・田口峠→南牧村→下仁田・・・・
内山峠→西牧→旧妙義町(高田氏)・・・・・


後、武田信玄は「やり過ぎた。」と思ったのだろうか?
・永禄3年(1560) 北高全祝(ほくこうぜんしゅく)禅師を迎えて、
 佐久の龍雲寺を手厚く庇護した。
・永禄9年(1566) 箕輪城落城後、長野氏菩提寺:長純寺は龍雲寺
 の末寺になった。
・その後、箕輪城で燃やした善龍寺を内藤昌豊に再建させた。
・・・殺してから、結構供養しているのも事実だろう?
だから、戦国大名は嫌いなんだけど、・・
なぜ、毎日、こんな歴史を調べて書いているのだろうか?



★明日は佐久平尾城かな?

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箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼/大虐殺&人身売買 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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