城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸78【村上義清&上杉謙信VS武田晴信&真田幸綱・昌幸】

<<   作成日時 : 2016/03/31 06:51   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 2

村上義清は北信濃:塩田平&埴科(更級)の戦国大名である。
正室は信濃守護:小笠原長棟の娘(小笠原長時の姉)である。
側室は高梨澄頼の娘:於フ子であった。葛尾城主で、武田晴
信(信玄)の2度の侵攻:上田平の戦い&砥石城の戦いで撃
退するなどの武勇で知られる。村上義清は長槍による槍戦術
を得意とし、先陣を切って敵に突撃するという逸話もある。
村上義清を中心とした不思議な関係を書いてみた。
画像

(村上義清VS武田信玄)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲村上氏館跡:満泉寺&村上義清の墓&
坂木ふるさと歴史館
http://53922401.at.webry.info/201603/article_30.html

箕輪初心:生方▲信濃:【葛尾城】:村上義清の詰め城
http://53922401.at.webry.info/201603/article_31.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆◆ 村上義清+上杉謙信 VS 武田晴信&真田幸綱
・文亀元年(1501)3月11日、村上顕国の子として葛尾城に生まれる。
父:村上左衛門督顕国 (頼平・頼衝)
母:町幕府三管領家斯波義寛の娘
乳母:村上義清の傅役:出浦国則の妻
妻:小笠原長時の姉か妹


・応仁2年(1468) 村上政清は平安時代末期の村上盛清以来の村上
  氏発祥の地:更級郡村上郷から千曲川右岸の埴科郡坂木郷に
  居を移して本拠とした。
画像

**************************
※長尾能景の妻:高梨政高の娘?(上杉謙信の祖母)
※長尾為景の正室:高梨政盛の娘(上杉謙信の母)
※長尾為景の娘:高梨澄頼の正妻(高梨澄頼と上杉謙信は従兄弟)

***************************

・明応4年(1495)善光寺の戦い
  村上政清 VS 高梨政盛と
善光寺を巡って争った。

・永正7年(1510) 6月20日 長森原の戦い(八海山の麓)
上杉顕定 VS 長尾為景+本間(為景の娘婿)+高梨政盛
高梨政盛に上杉顕定が敗北し自刃した。享年57。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲【関東管領:上杉顕定の戦いの人生】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_2.html
箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html
★森田先生、掲載許可もありがとうございます。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺
・雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html

箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間→酒田本間家日本一の地主へ
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

永正12年(1515) 3月15日 元服し、村上義清と名乗った。

◆北信濃・・・村上顕国は、越後長尾氏と関係の深い
  井上氏や水内郡の高梨氏と争っていた。


◆東信濃・・・村上顕国は関東管領上杉家を後ろ盾とする小県
 郡の海野氏を押さえ込み、信濃守護代:佐久郡の大井氏を下
 して甲斐の武田氏と抗争を続けていた。
 村上義清は佐久郡を武田氏に奪われた。

永正14年(1517) 父:村上顕国より葛尾城を譲られた。

画像

・永正17年(1520) 父:村上顕国が病没した説
  村上義清が家督を相続したという説がある。

・大永4年(1524) 長尾為景の援助で高梨澄頼の子:政頼が
 高梨氏の勢力を拡大した。

**************************

@高梨政頼の娘:於フ子は村上義清の側室となった。
A高梨政頼の娘:娘:於北は真田信綱正室となった。
B高梨政頼の子か孫が高梨内記をとする説
C高梨内記は高梨政頼の娘(妹)が真田信綱に嫁いだことを
   縁に真田家へ仕えたという説
D高梨内記の娘は真田信繁の妻になり、阿梅を生んだ。
※丸島和洋説ではB、Cとも信憑性は薄いとしている。
★後日、高梨氏館・飯山城を掲載予定。
**************************

・大永6年(1526) 父:村上顕国が死去した説。


*天文10年(1541) 5月 海野平合戦
画像

 勢力拡大をもくろむ村上義清は甲斐の武田信虎と
   諏訪頼重と同盟。
@武田信虎・諏訪頼重・村上義清らの攻撃・・・有力説。多数説。

A甲斐の武田信虎(信玄父)+北信濃の村上義清
VS
中信濃の諏訪頼重+海野平滋野諸族(海野・望月・禰津・矢沢)
→滋野諸族の敗退。
   (★「真田三代」:清水昇著)


結果・・・
@禰津氏は武田信虎に降伏。・・・
  禰津(地元では:ねつ)元直は禰津政直の妹を武田信玄
  の妾として差し出した。
  娘:禰津姫が信玄の妾2号説もある。
  後に、武田信玄家臣
A望月氏は諏訪氏に降伏。
B海野氏(海野棟綱・真田幸綱)は、村上義清らに挟み撃ち
   にされ、敗北。
 ●海野幸義(棟綱の子)の墓・・・上田市蒼久保
海野棟綱、真田幸綱父子?は上野国吾妻郡羽尾に逃亡。
 真田信綱は5歳だった。
 →上野の吾妻:羽根尾に逃亡。信濃海野氏は没落。
 海野棟綱(幸隆の父説・幸隆妻の父説・幸隆の養父説)
 ・真田幸隆は村上義清・武田信虎に追われ羽根尾城へ  
       (★「真田三代」:清水昇著)
   
*村上義清は海野棟綱・真田幸綱(幸隆)らを駆逐して、
  小県郡海野平を完全に掌握することに成功している。
米山城(砥石城)を築城した。

C矢沢氏(幸隆弟頼綱)は村上義清の家臣へ・・
   侍大将で100人の家来がいた。(後、砥石城の間者)
・武田晴信が父:信虎が追放
      →武田氏と村上氏の同盟関係は終焉。

・村上義清は信虎追放事件に乗じて佐久方面への侵攻を
  目論んだ。
・武田の信濃の佐久侵攻
・村上義清は信濃東部へ進出した甲斐の武田信玄と敵対。


  武田晴信は父:武田信虎を駿河へ追放。



●黒田基樹説
 海野棟綱・真田幸隆は羽尾幸全の妻の父:長野業正にお願い
 して?・・・平井城:上杉憲政に小県奪還を依頼した。
 長野業正を大将とする小県奪還軍が編成された。
 海野棟綱・真田幸隆が参戦したと思われる。長野業正は
 諏訪頼重を同盟を結び、・・・小県に行かず、帰還した。
 真田幸隆が武田晴信に臣従する遠因となった。


●真田幸隆は3年間、箕輪城に客人として逗留した。
画像




●真田幸綱(幸隆)臣従説7説
・天文12年(1542)説〜天文18年(1549)説

・天文15年(1546)
4月 河越夜戦
上杉憲政+上杉定正+古河公方 VS 北条氏康
関東管領:上杉憲政が北条氏康に惨敗
上野の平井城に逃げ帰った。


★丸島和洋説・・・上杉憲政を見限った。真田幸綱(幸隆)臣従
★平山優説・・・・無事信濃に行けるのはこの時か?

5月 武田晴信は再び佐久郡に侵攻。
画像




*天文17年(1548)
2月1日 武田晴信は5000人の兵力を率い北信濃に向けて進軍を開始
  した。武田晴信は上原城で板垣信方の率いる諏訪衆や小山田信有
  の率いる郡内衆(岩殿:大月市)と合流した。
  大門峠を越えて長窪城に入った。
佐久内山城の小山田満虎の率いる佐久衆とも合流した。
 ●小山田満虎の配下に真田幸綱(幸隆)がいた。
 さらに、御陣ヶ原に陣を取った。

2月14日  上田原の合戦
画像

    
 
 村上義清は居城:葛尾城(千曲市)との支城:戸石城(上田市)
 に拠点に陣を置いた。
 村上義清の砦上田原を一望できる天白山に本陣を移した。
須々貴神社〜天白山が砦であった。
 天白山本陣→岩鼻まで南下して上田平に兵を進めた。

 千曲川支流:産川を挟んで村上方と武田方と対陣した。
 
※上田原の戦い
武田晴信8000? VS 村上義清5000余?とも7000?
●真田幸綱(幸隆)が 武田軍は先陣を願い出た。
武田晴信は板垣信方を先陣とした。
真田幸綱(幸隆)は板垣信方の脇備えであった。
 (★甲陽軍鑑)
★真田幸綱で、考えられることは
@真田幸隆は小山田虎満の配下だったが地の利を得ていたので、  
 小山田虎満に板垣の参謀格に抜擢された?
 (★箕輪初心私見)
 真田幸綱(幸隆)は板垣信方のbQ脇備えとして命令された。
A板垣信方に「わしの戦い方を見とけ。」と言われた。
B真田幸綱は小山田虎満の配下にいたので、記述間違い?

  板垣信方・栗原左衛門尉・飯富兵部少輔・上原昌辰(小山田虎満)
  ・小山田信有・武田典厩信繁らが村上義清軍に攻撃をしかけた。

  村上義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取った。

先陣の板垣勢は村上勢を撃破して敵陣深く突進した。
緒戦では村上軍を撃破した。
  しかし、板垣信方は気を緩めてしまい、勝鬨をあげた。
  板垣信方は備から離れて馬を下り、敵前で首実検を始めた。
村上勢は反撃に出た。板垣勢は混乱状態に陥った。
  板垣信方は馬に乗ろうとしたところを村上方の安中一藤太の一槍で
  倒れた。板垣信方は上条織部に討ち取られた。
(★『甲陽軍鑑』)
  また、退却を始めた村上軍に対し、信方の隊が深追いしすぎたため
  孤立していまった。村上軍の将:上条織部によって討たれた説も
ある。

  先陣の板垣衆が崩れると、村上勢は勢いに乗って猛攻をしかけた。
  武田軍は先陣が敗れたことで後続の武田軍は突き崩された。

村上義清が武田晴信の本陣に攻めかかった。
  武田晴信の旗本衆は後退した。
  脇備の工藤祐長(内藤昌秀)と馬場信房(信春)が横槍を入れて
  これを打ち払った。
   しかし、武田晴信は2ヶ所に薄手の傷を負った。
    (★『甲陽軍鑑』・『勝山記』)
武田軍は小山田信有の郡内衆が奮戦した。

  甘利虎泰、才間河内守らが討ち死にした。

@武田軍は重臣の板垣信方、甘利虎泰を失う大敗を喫した。
『甲陽軍鑑』での戦死者は武田軍は700人(1200人?)、
 
 A村上軍も屋代基綱・小島権兵衛・雨宮刑部正利らが戦死した。
   損害も多く追撃する余力はなく退陣した。  
  『甲陽軍鑑』での戦死者は村上軍は300人(1700人?)
    としている。

  
★真田幸隆も7年ぶりの村上義清との戦いなのに、旧領
回復が遠のいてしまったと悔しい思いをしていたので
あろう。

   武田軍は晴信の指揮のもと態勢を立て直して20日余の間
   上田原に留まった。
     (★『勝山記』)
  ※戦場に留まった理由
  @武田晴信が初めての負けを認めたがらなかった。
  A武田晴信は家臣に自分の指導力を示す必要があった。
  B退却までの時間かせぎをする必要があった。
C引くに引けない状況であった。
(★名城と合戦の秘密:二宮博志著)

  駒井高白斎は今井信甫と相談し、武田晴信生母:大井の方に働き
  かけた。大井夫人は野村筑前守・春降出雲守を使者として派遣
  し、武田晴信を説得した。

3月4日 武田晴信は撤退を指示した。

3月5日  武田晴信は上原城へ到着した。
3月14日 甘利藤三が上原城へ到着した。
3月26日 武田晴信は甲府へ帰還した。
   武田晴信は甲府の「嶋の湯」(甲府市湯村の湯村温泉)で
   30日間の湯治をおこなった。

結果・・・
@武田晴信にとって初めての敗戦であった。
A村上義清・小笠原長時を中心に結束して反撃に出た。
  諏訪郡でも西方衆が反乱を起こした。
A武田晴信の信濃支配は危機に陥った。
 決着はつかなかった。
 


・天文18年(1549)3月
「【真田幸綱の初見の史料:『高白斎記』】
3月14日
「14日土用、七百貫文の御朱印望月源三郎方へ仰せ下せし
候。真田に渡す。依田新祭文請取」
武田に味方することにした望月源三郎に武田晴信が700貫文の
領地を与えるとの朱印状を出したが、その使者を真田幸隆が務めた。

真田幸綱が望月源三郎に紹介し、武田晴信に帰属させた。
(★真田三代:平山優著)



◆砥石城
砥石城は村上義清が小県郡の押さえとして築いたと言われる城で
ある。、砥石城は米山城・砥石城・本城・枡形城からできている。
小県郡の最大の堅城であった。東西は崖に囲まれている。
村上軍の城兵は500人程でしかなかった。半数はかつて天文16
年(1547)武田晴信の志賀城攻めの残党であり、士気は高かった。
楽巌寺入道雅方&布下仁兵衛雅朝も村上義清を頼って砥石城に
入っていた。


*天文19年(1550) 村上義清が高梨政頼と戦っていて本領を
留守にした隙に、武田晴信が小県の砥石城に侵攻した。


7月2日 武田晴信は、真田幸隆に文書を与えた。
   其の方年来の忠信、祝着に候
   然らば本意の上に於いて
   諏訪方参百貫并びに横田遺跡上条
   都合千貫の所これを進し候
       恐々謹言
      天文十九庚戌
      七月二日 晴信
              真田弾正忠殿
(『真田文書』)
「私の本意(砥石城の攻略のこと)になった上には、諏訪形(上田市)
 300貫と横田遺跡上条・・合計1000貫をあてがう=くれる」


・7月25日 武田晴信→飯富虎昌・上原(小山田虎満)
「・・・真田方に物語りあるべく候・・・」
・・・後から出陣するから、真田幸綱にも伝えよ。
※平山氏・・・飯富虎昌・上原(小山田虎満)・真田幸綱が一緒に
 行動していた。真田幸綱が高い位置にいることがうかがえる。


・8月28日 小笠原長時は葛尾城(千曲市)の村上義清を頼った。
  武田晴信 は小県郡に入った。
  戸石城(上田市)攻略を目指して7000とも言われる兵を率い
て城下に迫った。
  村上義清が高梨政頼と争いを起こしていたのでその隙に乗じた。

・8月29日 矢入れをした。(戦いの宣言)

・9月3日 武田晴信は信濃北部・東部の平定を目指して、北信濃の
 村上義清の出城:砥石城攻略に乗り出した。
 武田晴信は総攻撃に向けて陣を城の南西部へと移した。
武田軍の兵力は7000人・・・・

9月9日 武田軍の横田高松の部隊が南西部の砥石のような崖を登
  ることで総攻撃が開始された。
  しかし村上軍城兵は石を落としたり煮え湯を浴びせたりして
  武田軍を撃退した。先陣大将:横田高松は戦死した。

 武田軍は兵力においては圧倒的に優位であったであったが、
自然の要害で堅城の上、城兵の果敢な反撃の前に苦戦した。
わずか500の城兵の士気は高く、城は容易に落ちない。

その間、真田幸隆は村上義清方の海津の城:清野清寿軒&
高井郡の須田城:須田信頼(武田の信)、寺尾城の寺尾氏を寝返
らせることに成功した。

村上義清は砥石城が攻められていることを知った。
村上義清は高梨政頼と急遽和睦を結んだ。

9月?日 村上義清が2000人の本隊を率いて葛尾城から救援に
駆けつけて来た。後詰めとして救援しにきたのである。
村上義清は直ちに武田方の寺尾城(長野市)へ攻め掛かった。

9月28日 村上義清は寺尾城攻撃を中止した。

武田晴信は真田幸綱(幸隆)&今井信甫(のぶすけ:勝沼氏)
に寺尾城救援を命じた。
しかし、間に合わなかった。

9月29日 真田幸綱が戻ってきた。
砥石城は攻撃開始より20日が経過しても城はびくともしなか
った。武田晴信はこれ以上城攻めにこだわるのは不利と見た。

9月30日 武田晴信は真田幸綱(幸隆)を交えて軍議を開いた。
 結局は退陣と決定した。
武田晴信は戦況不利を判断し、撤退を決断した。

10月1日 武田勢は退却を開始した。
しかし、村上義清がこの機を逃すはずはなかった。
武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃された。
村上義清は退却する武田勢に追撃戦を挑み、終日激戦が展開された。
酉の刻(午後6時)村上義清が諦めるまで続けられた。

武田晴信は影武者を身代わりにして窮地を脱した。


結果・・・武田勢の大敗であった。
村上軍の追撃は激しく、武田軍は1000人近い死傷者を出した。
横田備中守高松(たかとし)という有能な武将や小沢式部・郡内衆
の渡辺雲州(渡邊出雲守)らを始め、1000人に及ぶ兵を失った。
 (★『妙法寺記』)
村上方の死者は200人弱と伝えられている。
村上方の死者は193名ほどであった。(★ウィキペディア)

横田高松をはじめ約1200人もの将兵を失った説もある。


「十月小辛酉卯刻被入御馬。御跡衆終日戦フ。酉刻敵敗北」
(★『高白斎記』)
@「被入御馬」・・・「退陣なされた」の意味である。
A「御跡衆」・・・・「殿軍(しんがり=最後尾隊)」の意味である。
B「敵敗北」・・・・「村上軍が負けた。」の意味である。
 武田方の記録なので、武田びいきに書かれている。

どう見ても砥石城の戦いは武田軍の完敗であった。 
砥石城の戦いは武田家中では「戸石崩れ」と呼ばれた。
(★甲陽軍鑑)
夜、武田軍はようやく望月城にたどり着いた。

10月2日 大門峠を越え、湯川(諏訪市)に陣を張った。

10月3日 上原城に移った。
武田晴信は対策を練った。

10月6日 上原城を出た。

10月7日 甲府に戻った。
 小山田信有は4月から病床にあり、砥石城攻めの際には参陣して
 いなかったと考えられている。
  (★『甲陽軍鑑』・真田四代:丸島和洋著)

10月?日 村上義清は佐久地方に侵攻した。
    
10月21日 小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。
  小笠原長時&村上義清は平瀬城に入った。
 ※平瀬城は松本トンネルの北に梓川に面した場所。安曇野SA反対。
  筑摩郡の小笠原氏の旧臣が結集した。
  深志城将:馬場民部少輔信房、日向大和守是吉は籠城の態勢
  を整えて甲府に知らせを送った。

10月23日 武田晴信は甲府躑躅ヶ崎館を出陣した。
  村上勢は動揺した。
  武田軍が諏訪→佐久・小県の村上領に侵攻するという噂が
  流れた。
  村上義清は平瀬城から撤退した。

11月8日村上義清は小諸城に入った。
小笠原勢も動揺した。
 武田軍出馬と村上軍離脱により旧臣諸将の脱落が相次いだ。

 小笠原長時は平瀬城を出た。
▲野々宮の合戦(松本市の野々宮神社近く)
  小笠原長時は武田の前進部隊:飯富虎昌、馬場民部信房を
破った。
  武田軍は300の戦死者を出して退却した。

 小笠原長時は中塔城(安曇野市)に立て籠もった。
 その後、小笠原長時は中塔城に半年以上?いたらい。

その後も何度か失地回復を企てたが、失敗した。




*天文21年(1552)
5月?日 真田幸綱(幸隆)は高梨政頼を武田晴信に臣従させた。
 ★といっても、独立性を保っていたが、・・・
 (★真田幸隆:江宮隆之著など)
★『真田丸』の高梨内記は高梨政頼の弟であるらしい。
※高梨内記の祖父の妹は上杉謙信の父:長尾為景の妻だった。』
【高梨氏館&詰め城:鴨ヶ嶽城】
千曲川支流:夜間瀬川(よませがわ)と松川に挟まれた中野盆地
高梨氏城=「中野小館」(なかのおだて)がある。鴨ヶ岳城との
 間には如法寺の曲輪群、七面山砦の高梨城砦群がある。
 大平山の頂部に「鴨ヶ岳城」、南に「鎌ヶ岳城」、菅の山城。
 北には箱山城、夜間瀬がある。中野ICを降りた100円志賀トン
 ネルの上にも家臣団の城砦がある。


5月26日、「砥石ノ城真田乗取」
  (★『高白斎記』)
真田田幸隆が落城させ、幕を閉じている。
・天文20年(1551)
5月26日 真田幸隆が戸石城を乗っ取った。
画像

真田幸綱(幸隆)は砥石城の足軽大将:矢沢薩摩守頼綱(幸綱の
弟)等の内通により砥石城は攻略された。
真田幸綱は砥石城を1日で攻略した。
その際、城代であった山田国政、吾妻清綱を討伐した。
山田氏は滅んだ。
山田氏滅亡の後は、荒砥城には屋代政国が入城した。

武田方の信濃先方衆の真田幸隆の調略によって、兵を動かすことな
く砥石城は武田軍の手に落ちた。
と、一般的には「地元の情報や侍に通じていた真田氏が謀略によって
落とした。」とされる。
砥石城の足軽大将・矢沢薩摩守(幸綱の弟)が幸隆に内通
 していたためであった。
(★真田三代:清水登著)

★「城を乗っ取る」という表現と真田幸隆という智将イメージと重なっ
て、調略により、無血で陥落させたと思い込んでしまう。
「乗取る」とは、調略で落城させたとは限らず、真田氏が油断して
いるすきに攻め込んで攻略したのかもしれない。史実は不明。
【1】「真田三代」:平山優説
5月26日、「砥石ノ城真田乗取」
  (★『高白斎記』)
『高白斎記』の意味がよく読み取れない。
 砥石城はあっけなく乗っ取られた。
 内通者がいたのであろう。
弟:矢沢綱頼を味方にして城内に火をを放って、武田軍を
 城内に引き入れようとした。
 (★『更級少将村上源府君年譜』軍記物)
後、小山田虎満に「再興ののため、・・」
 火災は間違いなくあった。
6月1日 武田晴信は砥石城を支援すべく、若神子城まで
 出陣した。

【2】『真田四代』:丸島和洋著
5月26日、「砥石ノ城真田乗取」
  (★『高白斎記』)
調略による乗っ取りと示唆している。
後、「再興」するほどの戦闘があったと考えられる。
須野原(春原)若狭・惣左衛門兄弟を義清の元に派遣して
「真田の城を乗っ取りますので、兵を貸してください。」
兵500は幸綱の居城で挟み撃ちにされた。
 (★『甲陽軍鑑』)
海野一族という意味で真実味がある。
  須野原(春原)若狭は小草野と改姓し、晴信の次男:龍芳の
家老となった。


▲常田(東御市)の戦い
  村上義清は勝利を収めたが、家臣団の不安は広がっていった。

 村上義清の勢力は衰退していった。




・天文22年(1553)
3月 狐落城は、児島(小島)兵庫三兄弟が守っていた。
  武田晴信の戦略によって落城した。
  武田晴信は荒砥城を猛攻した。
  城将山田政国が奮戦したが、討死した。

4月 村上義清の属将の荒砥城主:屋代越中守政国、塩崎城主:
 塩崎氏寺尾城主:石川氏、塩崎城主:塩崎氏、春日氏、室賀氏ら
 が内応し、武田晴信に降伏した。
 
  村上義清の本拠:葛尾城を伺った。

4月9日 村上義清は葛尾城を棄てて逃亡した。
 村上義清はライバルの高梨政頼を通じて越後春日山城の長尾景虎
 (上杉謙信)を頼った。
  村上義清は再度体勢を整えた。

4月22日〜23日 村上・長尾軍は葛尾城を攻撃した。
 武田城将:於曾(おぞ)源八郎が戦死した。
  村上義清は葛尾城を奪還した。
  武田晴信は深志城に後退した。

5月11日 一端甲府に引き上げた。
村上義清は旧領を回復し塩田城に入った。
画像



8月4日  
 村上義清方の16の諸城が1日で攻略された。
   
  武田晴信は塩田城包囲のために進軍した。 

  村上義清は塩田城を脱出して身を隠した。

8月5日 武田晴信は塩田城を攻略した。 
  武田晴信は飫富兵部少輔虎昌を城将とした。
画像




▲第一次川中島合戦

8月?日 長尾景虎は村上義清らの要請により川中島に出陣した。

 
 武田晴信は塩田城を本陣として長尾軍に対峙した。 
 武田晴信は飫富虎昌を先鋒として室賀城に移動させた。
武田晴信の部隊は八幡(千曲市)に陣を張った。


8月22日 ●真田幸綱(幸隆)は3男:真田昌幸を防府に人質に
 出した。・・・(後、武田晴信の小姓となった。)
  

▲八幡・布施の戦い
・八幡・・・武水神社周辺
画像


9月1日 長尾景虎は葛尾城、荒砥城などで交戦した。
荒砥城を占領した。

9月3日 長尾景虎は青柳に進んだ。
武田晴信は手薄になった荒砥城に夜襲をかけた。

長尾景虎は麻績で武田軍と対戦した。
 長尾景虎は不利を悟り、再び八幡(千曲市)に戻り、
 武田晴信のいる塩田城に向かった。

しかし、武田軍の守りは堅かった。

武田晴信本隊は塩田城から本隊を途中まで出陣した
  
 
9月17日
 長尾軍は葛尾城下の坂木南条(坂城:千曲市)に放火したものの
 塩田城には迫れなかった。

9月20日 長尾景虎は撤退した。
 村上義清も越後に移った。

 
武田晴信は塩田城から出陣したものの、撤退の報を聞いて
塩田城に戻り、論功行賞を行った。

●真田幸綱(幸隆)は塩田城での戦後処理でに恩賞として秋
和(上田市秋和:虚空蔵山と上田城の間)350貫文を与え
られた。
※平山優説・・・真田幸綱の忠節と活躍に報いたのであろう。
 また、天文19年に約束していた諏訪方と上之城(御所)
1000貫文も引き渡されたとみられる。

武田晴信は葛尾城を取った。
武田晴信に従った屋代政国が屋代城の替え地として、荒砥城に
 移った。
また、稲荷山に砦を造って、川中島への中継地にしたと思われる。
甲州流築城術の「馬出し小路」の地名が残っている。

武田晴信は深志城に在陣した。

 
〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※天文22年(1553)〜永禄7年(1564)までのあしかけ12年、
5回に及ぶ川中島の戦い・・・・・・
@天文22年(1553)4月22日第1次:埴科:八幡(千曲市)の戦い
 
A弘治元年(1555)7月19日〜閏10月15日第2次:犀川の戦い
 
B弘治3年(1557)8月29日〜10月第3次:上野原の戦い
 
C永禄4年(1561)9月10日 第4次:八幡原の戦い
 村上義清は信玄と名前を変えた武田晴信と再びまみえた。
 武田信玄の弟:武田信繁を討ち取った?とされる。
 
D永禄7年(1564) 8月3日〜10月1日 第5次:塩崎の対陣 
後日、掲載予定
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・永禄8年(1565) 村上義清は上杉謙信から根知城(糸魚川)を
 宛がわれた。嫡男:村上国清とともに上杉家臣となった。
★後日、掲載予定

 姫川流域の信越国境を警備する根知城の警備を厳重にするように
 命令された。
 
・永禄12年(1569)
 3月 上杉謙信は村上国清を養子として一門山浦氏を継がせた。
  上杉・村上両家の血縁を取り込むためである。
村上国清は山浦国清(景国)にを名乗った。
  上杉家bQの地位が与えられた。
  山浦景国は上杉謙信にとって重要な位置にあった。
  上杉謙信は越前朝倉義景の娘を養女とし、村上国清に嫁がせた。
  
 
・元亀4年(1573)1月1日 村上義清が越後根知城にて病死。享年73。
墓・・・日滝寺
     根知城根小屋地内の安福寺
     魚沼郡赤沢説。

・元亀4年(1573) 4月12日 武田信玄の死亡。

・天正2年(1574) 5月19日 真田幸綱(幸隆)砥石城で死亡。

・天正6年(1578) 3月13日上杉謙信が死亡。
  御館の乱
  上杉景虎(北条氏政弟) VS上杉景勝(姉:仙桃院の子)
北条氏政は上州衆を中心に北条氏邦や厩橋城:北条(きた
 じょう)高広・膳城:河田長親らを出兵させた。
  武田勝頼は北条氏政の要請で上杉景虎支援のため越後へ出兵
  した。
  武田勝頼は上杉景勝の和睦要請に応じた。
 武田勝頼は上杉景虎と上杉景勝の和睦を調停して越後から撤兵
 した。
 しかし、上杉景虎&上杉景勝の和睦は破綻し、上杉景勝が勝利し
 上杉景虎は鮫ヶ尾城で自刃した。
 ★後日、鮫ヶ尾城を掲載予定。いつになることやら、・・

 甲相同盟を解消し、武田氏と後北条氏は敵対関係に入った。
 武田勝頼は上杉景勝と甲越同盟を結んだ。

天正7年(1579) 武田勝頼の妹:菊姫は上杉景勝に嫁いだ。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天正10年(1582)
3月11日 武田勝頼が自害し、武田氏滅亡。
6月2日  本能寺の変  織田信長死亡。
6月8日 織田家家臣:森長可は海津城から、人質を
 つれて逃げた。
 
6月?日 上杉景勝が信濃平・川中島一帯は領有した。
8月5日 根知城主:村上義清の子:山浦景国(国清)が29年振り
 に海津城代として復帰した。村上氏は旧領に復帰したのだ。

 
 海津城将は山浦景国(村上義清の息子:村上康清)であった。
 海津城副将は屋代秀正がなった。
 屋代秀正が上杉景勝に従い海津城の副将として遇された。

根知城主:山浦景国が村上氏館跡に満泉寺を再建した。

 2年前に、村上氏一族の中で最初に武田方に寝返った屋代氏は
 信頼されず、上杉景勝は稲荷山城を築いて監視していた。

荒砥城は清野・寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の各氏に
 よる城番管理がなされた。



・天正11年(1583) 屋代秀正は徳川家康と通じた。
★ばらしたのは真田昌幸か?

・天正12年(1584)
4月1日 屋代秀正は上杉景勝の諸将に攻められた。
 落城した。
 屋代秀正は荒砥城に火を放ち、徳川の下へ出奔して旗本となった。
 荒砥城は廃城となった。


・天正13年(1585)
7月15日 坂木庄も真田昌幸の支配下になった。 

8月2日〜 第一次上田合戦
  屋代秀正は依田康国とともに矢沢城を攻撃した。
  上杉景勝家臣:須田満親は海津城から真田根小屋城に
  100人程で応援に行った。
  @砥石城の真田信幸を応援した説
  A矢沢城の矢沢頼幸を応援した説


・天正13年(1585)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
【1】真田四代と信繁:丸島和洋著
・天正13年(1595)
3月? 沼田城を明け渡す代わりに、母:河原髏ウの妹を取り返
   した。
   徳川家康を小県の上田城から撤退させた。
  いつのまにか、徳川家康が造った上田城は真田昌幸の物に
   なっていた。
(※第一次上田合戦の後、今度は上杉景勝に改修させた。)
 
 5月初旬 上杉景勝は信濃衆:須田信正を真田昌幸に内通した
嫌疑で処刑していた。
 (★北越軍記)
 関係は最悪であった。
 6月頃 真田昌幸は上杉景勝に従属することを決めた。真田弁丸
 (信繁)の供奉衆に矢沢頼幸が同心として預けられ、一軍の指揮
  官に任じられた。

7月15日は上杉景勝への起請文とされている。
※丸島説・・・新発田重家の内乱を押さえられていないので、
真田を取り込むことは上杉にとっても意味が大きかった。
 その後、真田信繁の矢沢軍は新発田重家を討伐に貢献した。

上杉景勝の真田の処遇には寛大であった。
@小県(上田)、吾妻(岩櫃)、利根(沼田)、坂木の庄を安堵した。
A真田昌幸に禰津昌綱の処遇も一任した。
B天正11年に出浦昌相(一般論の出浦盛清は誤りか?)
が真田の家臣になったのと符号する。
真田昌幸に安堵した埴科郡に出浦の所領が入っているので
あろう。(★丸島説)

【2】海津城・荒砥城・屋代城の諸説
1)丸島説
5月初旬 上杉景勝は信濃衆:須田信正を真田昌幸に内通した
嫌疑で処刑していた。
 (★北越軍記)
6月 真田昌幸は上杉景勝支配の須田:海津城に信繁(幸村)
  16才を人質に送った説は丸島説では間違いとなる。

●海津城将
かつての海津城将は村上義清の子:村上国清(景勝
養子:後根知城主:山浦景国)であった。

★個人的は、それから、海津城将とともに行かないと
 春日山城には入れないはずである。
@丸島説・・・出てこない
 A平山説・・・須田満親
Bウィキペディア・・・
  須田満親が真田昌幸との交渉役を務め、昌幸の次男・信繁を人質
  として預かった。春日山城に連れて行ったとは書いてない。


2)平山説・・・
 3月(5月?) 真田昌幸は須田信正の徳川内通を暴露した可能
  性がある。
※平山説・・・上杉景勝の歓心を得るためとしている。
   海津城将:上條宣順に成敗された。
6月 海津城将:上條宣順→須田満親
 7月15日 9ヶ条の起請文
 @上杉に忠節を尽くせ
 A敵が攻めてきたら援軍をよこせ
 B噂や密告を信じないで、密接な関係でいようね。
C信濃国の知行は海津城将:須田満親が行う。
D小県(上田)、吾妻(岩櫃)、利根(沼田)・坂木の庄を安堵した。
E佐久甲州のどこか、長野一跡(箕輪城)を与える。
F屋代秀正の一跡(荒砥城&屋代城)を与える。
G真田昌幸に禰津昌綱の処遇も一任した。
平山説・・・昌幸の配下にすること
H???
 
  真田昌幸は徳川家康に手紙で
「上杉景勝につくよ。」
 と送った。
徳川家康は裏切ったなとぶち切れ。
(★平山優・黒田基樹)

  北条氏との間で沼田城をめぐって対立。

※依田(松平)康国の佐久の勝俣城(稲荷山城)&小諸城が
 戦線基地となった。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

7月15日 真田昌幸が上杉景勝に坂木庄も所領として
貰った。

 屋代秀正の出奔後の領地の一部は上杉景勝の人質となっていた
 真田信繁(幸村)の領地として与えられ、屋代城に入った。
 荒砥なども支配地であった。



・明暦3年(1657) 子孫:村上義豊や坂城(坂木)代官:長谷川利次ら
  の寄進によって坂木に村上義清の墓が建立された。



★信濃:荒砥城かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
今年は、MDフェアには行かないのですか?私は、2日(土)に行く予定です!今年は、6月22日〜26日まで沖縄に行く予定です。一人旅なので、グルメ&レンタカーでドライブ&シュノーケリングツアーかな。梅雨があけると良いのですが・・。機会がありましたら、一緒に海外にでも行きましょう。
ゴリさん
2016/03/31 18:31
4月1日、MDフェアに行ってきました。台湾夜市はみつかりませんせしたが、甥が店長になった大塚の「はなたれ」に行ってきました。6月22日〜は梅の出荷の最後、同行は無理かもしれません。
ゴリさん
2016/04/01 20:10

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲真田丸78【村上義清&上杉謙信VS武田晴信&真田幸綱・昌幸】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる