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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸72【高島城】日根野高吉→諏訪頼水&真田昌幸&松平忠輝&吉良義周

<<   作成日時 : 2016/03/18 07:40   >>

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天正18年(1590) 諏訪頼忠の武蔵奈良梨の移封後、日根野高吉は
高島城を7年かけて築城した。諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の
浮城(うきしろ)」と呼ばれていた。日本3大湖城(松江城、膳所
城、高島城)の一つに数えられている。
日根野高吉はおそらく、
@膳所城=湖城の築城経験、A百済城→安土城の石垣移動技術、
A大坂城の縄張り、C大和郡山城の墓石を使うアイデアを生かした
のであろう。
が、江戸時代、諏訪頼水が諏訪湖の干拓を進め、水城
の面影は失われた。
南の丸(諏訪市役所駐車場の片隅:元城南小学
校)は流人のお預かり場所だった。

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@松江城は宍道湖 ・・・松江城には天守が現存。国宝になった。
箕輪初心●島根:松江城=現存天守のある百名城
http://53922401.at.webry.info/201105/article_19.html


A膳所城は琵琶湖・・・・天守が残っていない。膳所城跡公園。
箕輪初心●滋賀bS−3「百済寺城&膳所城」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_38.html

B高島城は諏訪湖・・・復興天守。天守最上階からの眺望は見事。
箕輪初心■長野【信州の桜の名所15城】=高遠城・須坂城他
http://53922401.at.webry.info/201204/article_8.html


【1】訪問日@・・・平成19年(2007)5月4日
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【2】訪問日A・・・平成19年(2007)9月2日
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◆ 高島城の歴史 ◆
・室町時代 
 築城年代は明確ではない。
 諏訪大社の上社大祝(おおほうり)諏訪氏と 下社大祝金刺氏が
 対立していた頃には既に存在していたと言われている。

・天文11年(1542) 諏訪攻撃
6月 武田晴信は諏訪氏庶流:高遠頼継と諏訪領への侵攻した。

7月 諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧し
  た。ついでに、諏訪頼重の娘も側室にした。
@小説では、新田次郎:湖衣姫・・など
A祢津元直の娘→諏訪頼重養女説
 諏訪頼重は板垣郷東光寺で自害させられた。

板垣信方は諏訪(小説では由布姫?湖衣姫)・武田勝頼の後ろ盾と
なった。諏訪の姫にとっては頼もしい武将であった。
 また、板垣信方は、家中の反対する中、山本勘助の才幹を見込み、
武田晴信に推挙した人物とされる。
※NHK大河ドラマ『風林火山』
 山本勘助は板垣信方を「武田一の合戦上手」だが。「苦戦になる
と弱い」と評していた。
 家中に心許せる者が少ない山本勘助には、頼もしい味方であった。
 そして、山本勘助も由布姫に味方した。

 諏訪頼重が武田信玄に敗れて、甲府で自害した。
  
9月 諏訪家惣領職を望む高遠頼継が武田晴信に対して挙兵した。
諏訪頼豊の父:諏訪満隣は高遠頼継・矢島満清が諏訪郡と諏訪
  大社上社の大祝を求めて武田氏に対して反乱を起こした。
  諏訪満隣は諏訪頼重の遺児・千代宮丸(寅王丸)を擁立したのだ。
高遠頼継は藤沢頼親と結んで諏訪郡へ侵攻して上原城を落とした。
  
 武田晴信は直ちに板垣信方を先陣とする救援の軍を送った。
 ※安国寺の戦い
   武田晴信の家臣:板垣信方は高遠頼継を撃破して諏訪領を
  掌握した。

   諏訪頼豊は武田氏の助力を得て撃破した
 諏訪頼豊は諏訪衆の筆頭となった。
 武田晴信の使番十二衆として活躍した。

・天文12年(1543)
4月 板垣信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じた。
5月  板垣信方は上原城を整備した。 
  ・上原城城将:板垣信方を諏訪郡代「諏方郡司」とした。
  ・桑原城に城将を置いた。  
     (★『高白斎記』)
攻略した諏訪氏の上原城に入り、郡代として諏訪・伊那地方
  を統治した。

・天文17年(1548)
 2月、上田原の戦い 武田晴信が村上義清の負けた。
8月 塩尻峠の戦い  武田晴信が小笠原長時を破った。

・天文18年(1549) 諏訪頼忠は茅野の上原城から諏訪茶臼山に
  本拠を移した。
  そして、麓の岡村に代官所を置いた。長坂氏を派遣した。
  上原城は諏訪地方の南隅であるため、諏訪地方を治めるのには
  茶臼山の方が地理的な条件が良かったのであろう。

・永禄10年(1567) 諏訪頼豊は今川氏侵攻戦でも戦功を挙げた。


・天正6年(1578) 諏訪頼豊&弟:大祝頼忠とともには諏訪大社の
 再建には中心になってあたった。
 諏訪頼豊を筆頭とする多くの諏訪一族は武田勝頼から優遇される
 ことはなかった。

・????年
  武田勝頼時代・・茶臼山高島城主は今福昌和であった。


・天正10年(1582)
1月 木曽義昌の離反
  織田信長の甲州侵攻の直接のきっかけは、木曽義昌の離反だと
  言われている。

1月28日 ▲ 鳥居峠の合戦@
武田勝頼は木曽義昌の離反を確信した。
 木曽討伐軍を派遣した。
 
武田勝頼は、武田信豊を大手の大将として今福昌和、山県昌満ら
 3000騎、仁科盛信を搦め手の大将として2000騎を木曽に進撃させた
と言われていいる。
今福筑前守昌和を初めとした3000騎が、木曽義昌が守りを固めて
 いた鳥井峠へ向かった。
 ところが、木曽義昌軍は山道に慣れていた。数百名が打たれた。
 今福筑前守昌和軍の敗色が濃くなった。
諏訪氏家臣団は諏訪頼豊に対して
「武田氏を離反して諏訪氏再興を図るべき・・・。」
と進言した。
諏訪頼豊はそれを拒んで出陣した。

諏訪越中守頼豊、諏訪伊豆守頼忠、秋山紀伊守らが駆けつけ、木曽軍
を撃退した。そして奈良井、贄川に陣取った。
木曽義昌は「全く逆意を含んでいない。」と必死の弁明をした。
しかし、木曽義昌は認めてもらえなかった。

2月2日 武田勝頼が出馬した。
  木曽義昌は、武田勝頼が出陣したのを聞いた。
木曽義昌は、信長へ助勢を求めた。
これにより、織田信長の長男:織田城之介信忠を大将として、滝川一益、
川尻秀隆、森長可ら3万騎が伊那口から、織田有楽斎(岐阜城)、苗木
久兵衛(苗木城)等3万が木曽口から進撃を開始した。
このため、武田の諸将は動揺し、武田勝頼は諏訪に退いた。
(★『甲乱記』)
「武田信豊、三千余人を以て、鳥井峠に於て木曾と合戦し、散々に戦
 負けて引退く」
  (★『武田三代軍記』)
1回目は木曽昌勢 VS 今福昌和、山県昌満、諏訪頼豊ら。

▲鳥居峠の戦いA
2月16日 武田勝頼は、今福筑前を大将として木曽勢と戦った。
 藪原から鳥居峠へ足軽を出してきた。
 織田方からは木曽勢に苗木久兵衛父子が加わり、奈良井坂より駈け
 上がって鳥居峠で敵勢(武田勢)に向かい、見事一戦を遂げた。
 この戦で織田勢が討ち取った首は跡部治部丞・有賀備後守・笠井某
・笠原某ほか首数四十余にのぼり、敵勢(武田勢)は主立った侍を多
 く失った。
※2回目 織田方の大勝利となり鳥居峠を奪還した。

※武田方の戦死者には諏訪頼豊、今福昌和、山県昌満もいた。
@諏訪頼豊は敗れた後、織田軍に捕らえられて処刑された説もある。
 諏訪家臣達は弟:諏訪頼忠を擁して諏訪氏再興を図った。
A今福筑前は高遠城に撤退後戦死した説
B山県昌満は武田滅亡の際、郡内で殺された説もある。

 その後、この木曽口には織田勢から、織田長益・織田某・織田孫
十郎・稲葉貞通・梶原平次郎・塚本小大膳・水野藤次郎・簗田彦四郎
・丹羽勘介・・以上の人数が加勢に加わり、木曽勢と一手となって
鳥居峠を固めることとなった。
 これに対して敵勢(武田勢)からは馬場信春の子が深志城に籠り、
鳥居峠と対陣した。
(★『信長公記』)
※諏訪満隣の墓 ・・・茅野市に諏訪氏安国寺御廟所。


・天正10年(1582)
3月3日 織田・徳川連合軍の侵攻。
  織田信忠は武田討伐のため高遠城を落とした
 諏訪に入り、武田家の守護神である諏訪大社上社本宮を
 焼き討ちした。隣接する法華寺は類焼を免れた。

3月11日 武田氏滅亡。
  武田氏の滅亡における諏訪氏の動向は不明である。

 織田信長の嫡男:信忠は、武田家が諏訪明神を篤く信仰し、軍旗も
 「諏訪神号旗」ため、諏訪神社上社の全てを焼き払ったのだった。
諏訪頼豊(越中守)父子が処刑された。
諏訪衆の千野兵衛尉昌房は上野へ亡命した。

3月11日  田野で武田勝頼が自刃した。武田氏滅亡。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲真田丸16【真田の選択&武田勝頼の最後の真偽】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_19.html
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3月?日   織田信長は自刃の報告を聞いた。
   織田信長は織田信忠が進んで来た道々で首実検をしながら
諏訪に入った。

3月19日 織田信長は焼き討ちされた諏訪大社上社に隣接した
 法華寺に着陣した。
 織田信長は目と鼻の先の焼け落ちた上社をどのように
 見たのだろうか。焼けこげた御柱を見て、「よくぞ、やった。」
  ライバルの武田信玄が敬った諏訪大社が焼け焦げ、灰じんと化し
 ている様を眺められる法華寺を陣所とした。
 織田信長らしいと言えば、織田信長らしいが・・・。

法華寺・・・織田信長が本陣とした。
織田信長の滞在中、徳川家康など武田討伐に加わった多くの武将が
謁見に訪れた。また、論功行賞も行われた。


以後、13日間滞在した。

※NHK大河ドラマ「真田丸」では
3月?日 法華寺で、瞬間湯沸かし器で虐待偏執狂?の織田信長は
 明智光秀をいじめていた。
真田信繁は法華寺でのいじめシーンを見ていた。

3月23日 織田信長の甲斐仕置
 甲斐は織田家臣の河尻秀隆が領した。
  茶臼山高島城には河尻家臣:弓削重蔵が配置された。
 
6月2日 本能寺の変
  織田信長が討たれた。

 天正壬午の乱が発生した。
武田遺領を巡る3つ巴の戦い。

6月?日 千野兵衛尉昌房は北条氏直に庇護された。
    
 大祝:諏訪頼忠や神長官:守矢信真は諏訪郡のどかにに隠れ住ん
 でいた。と考えられている。
※諏訪から脱出した記録が見られない。

6月下旬
 諏訪頼忠が河尻秀隆の郡代弓削重蔵を駆逐し、諏訪高島城(旧城)
 入城した。諏訪頼忠は北条氏政に書状を送った。
 北条氏直は、諏訪頼忠・木曾義昌に所領安堵状を与え、背後の憂い 
 を絶ち、主力部隊を川中島・海津城に向かわせた。
(★真田三代:平山優著の説)

7月  千野昌房が北条氏直の後援を経て諏訪へ帰還した。
    諏訪衆を糾合して茶臼山高島城を奪還した。
    諏訪頼忠も蜂起し、旧領を回復した。
    諏訪州は武田旧臣:木曾義昌の支援を得て高島城を奪還して
    いた可能性もある。
諏訪頼忠は徳川家康と後北条氏との争いでは、はじめ
    は徳川方、のち後北条方に転じた。
(★ウィキペディアの説)
    
8月 木曽義昌は越後上杉氏の侵攻により勢力が弱まった。
    諏訪頼忠は自立した。
諏訪頼忠が支配を回復した。
   諏訪は茶臼山高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。

・天正12年(1584) 金子城を築いた。
  諏訪頼忠は平城の金子城(諏訪市中洲)を新しい拠点とした。


◆日根野高吉の時代〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1)日根野弘就→日根野高吉→日根野吉明
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻め
?月 日根野弘就は再び豊臣秀吉に仕えた。

日根野弘就は「日根野頭形(ずなり)」を発明した。
日根野頭形兜は曲線的な形状から鉄砲に対するにあたって実戦向き
であるとして重宝された。日根野頭形の兜は戦国後期に流行した。
徳川家康、井伊直政、真田信繁(幸村)、立花宗茂、千利休など
様々な人物が日根野頭形を原型として独自の装飾を施して用いた。
(★ウィキペディア)

2)日根野高吉
3月17日 日根野高吉は山中城を攻略に貢献した。
7月5日  小田原城開城。
8月 徳川家康の関東へ移封。
 諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となった。
 日根野高吉が功績を賞されて、信濃高島に3万8000石
(★寛政重修諸家譜では2万7000石)を与えられた。
 茶臼山高島城に入城した。諏訪地方における最後の山城
 であった。

・文禄元年(1592)〜慶長3年(1598) 7年間
 日根野高吉はまず、島崎の村人には漁業権の特権や高島城の
 賦役免除権を与える代わりに代替え地:小和田へ移転させた。
 しかし、農民は7公3民に加え、過酷な高島城の賦役を課した。
 農民は労役がに苦しんだ。
上原城周辺にいた商工業者を移住させ、城下町の建設を開始した。
 ★荒廃した上田立て直しために農民の年貢免除・上田城城賦役
 免除の真田信之とはやっぱり違う。
 
 日根野高吉は島崎に新しい平城:高島城を築き始めた。

 高島城は連郭式の縄張りの平城である。
 諏訪湖岸の軟弱な地盤であったため、木材を筏状に組み、その上に
 石を積む当時の最先端の技術が用いられた。
 金子城の石材は全て持ち出し、墓石、石仏も用いた。
 (★天守閣2階コーナー・ウィキペディア)
★日根野高吉は織田信長の膳所城・安土城、豊臣秀吉の大坂城・
 大和郡山城などの普請を経験していた。おそらくは
@膳所城=湖城の築城経験を生かした。
A百済城→安土城の石垣移動技術を生かした。
B大坂城の縄張りを生かした。
C大和郡山城の墓石を使うアイデアを生かした。
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箕輪初心★織田信長F安土城から天下取り開始  
http://53922401.at.webry.info/201206/article_11.html

箕輪初心●滋賀bS−3「百済寺城&膳所城」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_38.html

箕輪初心●大阪「大阪城」・・・ごめんね。古くて?
http://53922401.at.webry.info/201101/article_34.html

・文禄元年(1592)〜文禄2年(1593)文禄の役
日根野弘就は肥前名護屋に駐屯し、豊臣秀吉の
   使いとして朝鮮に渡海した。

・文禄元年(1592)〜文禄5年(1596)指月伏見城築城
豊臣秀吉が隠居後の住まいを伏見指月(現京都市伏見区桃山町)
 に建設した。日根野弘就も貢献した。

・慶長元年(1596) 慶長伏見地震によって指月伏見城が倒壊した。

・慶長元年(1596)〜慶長2年(1597)木幡山伏見城が築き直された。
日根野弘就は伏見城築城でも功を挙げている。

・慶長2年(1597)〜慶長3年(1598) 慶長の役
日根野弘就肥前名護屋に駐屯し、豊臣秀吉の
   使いとして朝鮮に渡海した。

・慶長3年(1598) 太閤豊臣秀吉の死→日本軍の撤退で終結した。
・慶長3年(1598) 日根野高吉は7年かけて総石垣造で8棟の櫓、
 6棟の門、3重3層の天守など持つ近世城郭を築城した。
 「諏訪の浮城」と呼ばれた。
 茶臼山高島城は廃城となった。
 

 
・文禄4年(1595) 秀次事件
日根野弘就の所領は美濃・伊勢・尾張・三河内に合わせて
  16,000石となった。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い

 6月26日 日根野高吉が急死した。享年62。

3)日根野吉明
 日根野吉明は父:日根野高吉が病死したために信濃諏訪2万
 7000石を継いだ。
祖父:日根野弘就は東軍西軍どちらにつくか明らかにしていなか
 った。
 日根野吉明は東軍:徳川家康に所属した。
 会津攻めでは徳川秀忠軍に従軍して宇都宮に赴いた。
 その後、西軍:石田三成方の上田城主:真田昌幸の攻撃に回った。
9月15日 関ヶ原の戦い
 戦後に減封になった。

・慶長6年(1601) 祖父:日根野弘就が西軍に属して取り潰された。
日根野吉明も関ヶ原で東軍に参加したにも関わらず、
 下野壬生1万2000石(一説には1万5000石)に減封された。

・慶長7年(1602) 日根野弘就が死去した。

〜〜〜真田昌幸&真田幸繁 VS 真田信幸〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
  @松井田城攻め
A箕輪城開城・・真田昌幸・信幸・幸繁が受け取り
箕輪城の戦後処理
B忍城攻めに追加で参加
C鉢形城攻めに参加
  7月中旬 戦功で、沼田領が真田家の所領となった。
  8月 真田信幸が沼田城主となった。

・慶長5年(1600)
  徳川家康は徐々に野望を露骨に出していった。
6月 会津:上杉の直江兼続の「直江状」を契機に、徳川家康は五大老の
 名の下に諸大名を率いて会津討伐に向かった。
真田昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村)も徳川家康の発した号令の
下に集い、沼田を出た。
 徳川家康の3男:徳川秀忠の率いる軍勢約3万8千に合流すべく下野
:宇都宮城へ向かった。

7月21日 犬伏の別れ
 (栃木県佐野市犬伏:)
 真田親子が佐野犬伏に構えた陣所へ、石田三成の密使が到着した。

 東山道・・・寿司屋の道反対 
通説では、西東軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれた
とされる。・・・
@真田昌幸は石田三成とは姻戚関係(石田三成・真田昌幸とも妻は宇田
 頼忠の娘)であった。

A真田幸村の妻は豊臣家臣の大谷刑部小輔吉継の
 娘(竹林院)であった。
 真田昌幸は第一次上田合戦の遺恨で徳川家康を嫌っていた。

B真田昌幸の長男:信之は神川合戦の後、徳川家康の養女:小松
 姫を娶ったこともあり、徳川家康の親派となっていた。

3人の親子は長い激論の結果、真田昌幸・幸村は豊臣秀頼方に、
 真田信幸は徳川方に別れることとなった。
 真田昌幸が西軍・東軍どちらが勝っても真田家滅亡を防げるという
 考え方であった。とも言われている。

 真田昌幸:信繁(幸村)は真田信之と『犬伏の別れ』て、直ぐに
 上田に引き返そうとした。
 桐生辺りで、真田昌幸が
 「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出した。
途中、真田信之の沼田城に逗留しようとした。
 沼田城を訪れた。しかし、武装した姿で対応した小松殿は
 「たとえ舅であっても敵である。」
  と、真田信之の妻:小松殿(稲姫)入城を拒否した。
 
 真田昌幸の将兵は怒って門を破ろうとすると、小松姫は
 「力ずくで開門とは何事じゃ。 殿(信之)ご出陣の留守中に
  狼藉に及ぶとは曲者に違いない。女なれどもわらわは伊豆守
 (信之)の妻、本多中務(:本多忠勝)が女。 内府御女の称号
  を許されている。この城へ手をかけるものあらば、一人も漏
  らさず討ち取れ。」
 と、緋縅(ひおどし)の鎧をつけ、薙刀を掲げて城内より一喝
 した。
 (★産経新聞)
・・・・・・・ 
真田昌幸は
 「孫の顔が見たい。」
 と小松殿に懇願した。
 しかし、小松殿は頑として聞き入れなかった。
 真田昌幸は
 「頼もしきかな。武士の妻はこうありたいものじゃ。」
と答えた。
 小松殿は城門を開かず追い返した。
そして、真田昌幸は沼田で野陣した。
 (★『沼田日記』)

その後、真田昌幸が正覚寺で休息をした。
小松殿が子を連れて現れ面会した。
真田昌幸、信繁(幸村)父子は小松殿の才覚と人となりに
感服した(伝)。

※真田昌幸には沼田城を奪取する意図があったとも言われ、
  小松姫はそれを見越した上で穏便に解決したという説も
  ある。

真田昌幸・信繁は現在の中之条〜牧水コース:沢渡〜長野原〜嬬恋
 〜向かった。
嬬恋の大笹の関所に差しかかった。
徳川秀忠の命を受けた地侍が襲ってきた。
真田信繁(幸村)が斬り捨てた。
鳥居峠〜真田郷〜上田城にに無事たどり着いた。
★真田郷・・・真田本城・天白城・根小屋城・尾引城などがある。
 全て登っている。

徳川家康は下野国小山で石田三成ら西軍の挙兵を知った。
@徳川家康率いる東軍本隊は、軍を西に返し、江戸に向かった。
徳川家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだ。
★井伊直政3600も徳川忠吉(直政の娘婿)3000と合流し、東海道を
 進んだ。
徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。
★この中に、真田信幸&日根野吉明&諏訪頼水がいた。

そして、徳川秀忠軍は烏川の氾濫で、高崎で3泊することになった。
未だ、築城途中であった高崎城に徳川秀忠は泊まった。家臣達は
それぞれの寺に分かれて宿泊した。・・後日、井伊直政は徳川秀忠に
「高崎城に勝手に泊まった。」と苦言を言ったそうである。
・慶長3年(1598) 〜高崎城は完成した。
 しかし、井伊直政が高崎城に1年6ヶ月いなかった。
 徳川家康の警護&味方に引き入れ工作(黒田官兵衛など)に
 ・慶長5年(1600)2月 井伊直政は高崎城に初めて入城した。
約4ヶ月しか、高崎城にいなかったのである。

そして、東山道のその進路の先にに、真田父子の上田城があった。

9月2日 徳川秀忠は小諸に到着した。
9月3日 上田に接近した徳川軍に対して、真田昌幸は嫡男:信幸
 を通して助命を懇願してきた。徳川秀忠はこれを受諾した。
9月4日 真田昌幸は態度を変え、徳川秀忠に対して挑発的な態度
 をとったため戦闘状態に入った。
★詳細は、後日・・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心◆豊臣秀吉の死〜徳川家康の小山評定〜関ヶ原
の戦いへ
http://53922401.at.webry.info/201312/article_14.html
★関ヶ原の戦いの前・・真田父子は佐野:犬伏の別れで別れた。

箕輪初心▲【老神ひな祭り】&真田信之(幸村の兄)の妻:小松姫
http://53922401.at.webry.info/201503/article_3.html

箕輪初心:生方▲真田丸23【沼田正覚寺】信之の妻:小松姫の墓
http://53922401.at.webry.info/201601/article_26.html

〜〜〜諏訪頼水〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
2月〜  徳川家康の配下として諏訪頼水は父:頼忠と共に従軍した。
7月5日 小田原城開城
 徳川家康が関東に移封。
 諏訪頼忠父子は諏訪を後にし、武蔵国奈良梨に入った。

・天正20年(1592) 上野国総社へ移封された。蒼海城主になった。
  諏訪頼忠から家督を譲られた。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
  諏訪頼水は徳川秀忠軍に従った。
第二次上田合戦・・・
真田昌幸に敗北。
  徳川秀忠から信濃国や上野国の守備を命じられた。
  
  →井伊直政が高崎藩の井伊直政が近江:佐和山城に移封された。
  諏訪頼水が城番として高崎城に入城した。
  
・慶長6年(1601) 10月 諏訪頼水は信濃:高島藩=先祖の地に戻った。
  関ヶ原の戦いの功績により、高島2万7,000石へ復帰を許された。
  高崎城は3年間、城主が不在であった。
 
 諏訪氏が再び領主となり明治維新まで続くこととなった。
 諏訪頼水は前領主の七公三民で荒れ果てていた農地に逃散していた
 百姓を呼び戻して新田開発を奨励した。
★真田信幸は上田城では、荒れ果てていた農地に逃散していた
 百姓を呼び戻して新田開発を奨励した。のは同じだが、年貢の
 免除、城普請の賦役なしとした。諏訪頼水より、もっと凄かった
 かもしれない。

・慶長19年(1614) 大坂の陣
諏訪頼水は甲府城の守備を命じられた。
 長男:諏訪忠頼が諏訪軍を率いて出兵した。

・元和2年(1616) 徳川家康6男:松平忠輝は第2代将軍:徳川
 家忠の兄から改易された。

・寛永3年(1626) 松平忠輝は信濃国諏訪に流された。
諏訪頼水は改易となった松平忠輝の身柄を預かった。
  高島城南の丸を増設し、監禁場所とした。

●諏訪頼水のエピソード。
「ある日、罪人が諏訪氏の菩提寺:永明寺に逃げ込んだ。諏訪頼水は
 罪人を引き渡すように命じた。しかし、僧侶は特権を楯にして引き
 渡さなかった。諏訪頼水は、寺を焼いて罪人を捕まえ首を刎ねた。
 匿った僧侶も処刑した。」と言われている。

・寛永8年(1631) 諏訪頼水は頼岳寺を創建した。
   諏訪頼水は新たな菩提寺とした。
  
・寛永11年(1634) 諏訪頼水は第3代将軍:徳川家光から杯と饗応
 を受けた。
・寛永17年(1640)諏訪頼水は諏訪忠頼(忠恒)に家督を譲って
 隠居した。
・寛永18年(1641) 1月14日に死去した。72歳。
●諏訪頼水の妻・・・正室:貞松院(本多康重の長女)
●諏訪頼水の子
 諏訪忠頼(忠恒)・・・跡を継いだ。
 頼郷
 頼長
 頼孚
 娘(土岐定義正室)
 娘(三枝守昌正室)
 娘(大久保長重正室)
 娘(徳永昌成正室)
 娘(鳥居忠勝室)
 娘(茅野頼良室)
 娘(諏訪盛政室)
 娘(諏訪頼寛室)
 (★ウィキペディア)

・天和3年(1683) 7月3日
  松平忠輝は高島城:南の丸で死去した。92歳。
諏訪氏は松平忠輝の面倒を57年間も見た。
松平忠輝の墓所・・・諏訪市の貞松院にある。



◆吉良義周〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・元禄15年(1703)12月14日(1月30日)赤穂浪士討ち入り
18歳の吉良義周は武器をとって応戦したが、不破正種(一説に
  武林隆重)に面と背中を斬られて気絶した。
  吉良義周は家臣の糟谷平馬を使者にし、赤穂浪士による討ち入
  りの旨を老中稲葉正通邸に届けた。

・元禄16年(1703)2月4日(3月20日)
吉良義周は幕府評定所に呼び出された。
  結果・・・吉良義周は「不届き」として改易となった。
  諏訪藩主:諏訪忠虎にお預けを言い渡された。
  この日、赤穂浪士たちが切腹した。
 2月11日(13月27日)
  吉良義周は諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発した。
  随行の家臣は左右田孫兵衛・山吉盛侍の2名のみであった。
  また、荷物も長持3棹とつづら1個だけだった。
  高島城の南の丸に幽閉された。
・宝永2年(1705) 10月〜 寝たきりとなった。
・宝永3年(1706)
 1月20日 吉良義周が死去した。享年21。
 2月4日 江戸幕府の検死を受けた後、法華寺に葬られた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心生方▲真田丸71【諏訪上社前宮〜上社本宮&
「信長と光秀&真田信繁?因縁の法華寺」
★吉良義周の墓を掲載
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※以降も南の丸は、幕府から預かった流人の監禁場所となった。


・明治4年(1871) 廃藩置県により高島県庁舎として利用された。

・明治8年(1875) 天守など建造物は破却・移築された。

・昭和45年(1970) 本丸に天守閣・櫓・門・塀が復元された。
  高島公園として整備された。

・現在
天守閣
1階は「企画展示コーナー」「情報コーナー」
 2階は「築城」「藩主」「藩士」「藩政」の資料を展示コーナー。
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 3階は「展望コーナー」
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★明日は桑原城かな?

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