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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸30【真田昌幸と滝川一益との腐れ縁:友情】

<<   作成日時 : 2016/02/02 07:20   >>

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★私見は、天正10年(1582) 3月15日、真田昌幸は織田信長の家
臣となったが、仕置きで真田の郷・岩櫃城と沼田城を召し上げられ
た、3月23日、滝川一益はその見返りとして、真田昌幸を箕輪城
代にした。そして、真田昌幸は榛名神社に制札を出したと考えてい
る。滝川一益が箕輪城を人質の城にするために、厩橋城に移ったが
箕輪城には真田昌幸に見晴らせたと考えている。
西上州の中心人物
は保渡田城:内藤昌月(まさあき:保科正俊の息子→内藤昌豊の養
子)であった。しかし、一方で内藤昌月を大将として扱ったのであ
ろう。でなければ、真田昌幸は神流川の戦いでの敗戦後、下諏訪ま
で送って行かないであろう。真田昌幸は滝川一益の孫:滝川一積に
娘を嫁がせた。滝川一積は真田幸繁(幸村)の娘2人か3人を養女
にして、大名に嫁がせた。
真田昌幸は娘を保科正光に嫁がせている。
保科正光は内藤昌月の甥である。保科正光は父:保科正直、母:跡
部勝資の娘である。養子には真田左源太、保科正之(徳川家忠の息
子)がいる。
画像







・天正9年(1581) 武田勝頼は新府城(山梨県韮崎市中田町中條)
 への府中移転と同時に異母弟:仁科盛信(信盛)を高遠城主
 を兼任させた。元は保科正俊&保科正直父子の城であった。

・天正10年(1582)
1月 木曽義昌(武田勝頼の妹の夫)が織田信長に臣従した。
  飯田の松尾城(長野県飯田市):小笠原信嶺も臣従した。

2月16日 武田勝頼は内通した木曾義仲攻めを行った。
   大将として仁科盛信
   副将として信濃佐久の内山城代の小山田昌成(2代目備中守)
   ・大学助兄弟がなった。

2月26日
飯田城(長野県飯田市)の内藤昌月の実兄:保科正直は
高遠城に撤退した。
父:保科正俊&保科正俊の本城は高遠城であった。

2月28日 潜龍院の建築
早朝、真田昌幸は岩櫃城に到着した。
直ちに鎌原、植栗、湯本、池田などの諸将を徴集した。
武田勝頼を迎えるための館:潜龍院の建築に取りかかる
ことにした。
御殿の材木は榛名山、四万、沢渡、山田の山中より材木を切り
出し、日夜工事を急いだ。

同日、武田勝頼は諏訪の上原城より撤退して、新府城に戻った。

3月1日 穴山梅雪は徳川家康に臣従した。

3月2日 高遠城の戦い
   織田信長は本格的な武田攻め(甲州攻撃)を開始した。
   長男:織田信忠に5万の大軍で高遠城に迫った。
   高遠城に籠もる守備兵の数は3千である。
織田信忠の降伏勧告をした。
   仁科盛信は退けて抗戦した。
織田軍は3方向から攻めた。
滝川一益は東門から攻めた。

  仁科盛信が奮戦の後自刃した。
  仁科盛信や小山田昌成・大学助兄弟らは戦死し、高遠
  城は落城した。
保科正俊&保科正直は箕輪城(実際は保渡田城)の内藤
  昌月(保科正直実弟)を頼って逃亡した。

  高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻した。


3月2日
 潜龍院御殿は突貫工事で完成した。
 
3月3日 武田勝頼が新府城に火をつけ、岩殿城に向かった。

3月?日 ※『真田丸』では、佐助の連絡
「勝頼公は小山田の策を入れて岩殿城に向った。」
 という報告を聞いた。
真田昌幸は驚き・・・
箕輪城(実際は保渡田城)の内藤昌月(保科正直の弟)に連絡して
2500騎の兵を集め、上田に向かった。
★おそらく、内藤昌月・和田信業・倉賀野秀景・木部高成であろう。

また、真田昌幸は急に備え 沼田城を守る矢沢頼綱にも兵糧を蓄え
牢人衆を召抱えるよう指示した。
沼田7騎を従えて・・・臨戦態勢に望んだ。



3月11日 武田氏滅亡。
 先は徳川・・・武田勝頼家臣700からから40名・・後ろは滝川


3月12日〜真田昌幸は武田の遺臣を召し抱えた。
工作を開始。・・・

3月13日? 真田の郷の甲斐より急使が来た。
 真田昌幸
「このような自体になったのであれば、予は上州吾妻に下らないで、
勝頼公のそばに居ればよかった。信長百万騎来ようとも、小山田が
いかに逆心を企てようとも、わが命ある限り、暗々と御生涯など
させなかったものを・・・・」
と大声を上げて泣いたと言われている。
★岩櫃城あざみの会:会長:富沢朗氏のHp
http://www.denno2488.com/index.php?%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3

TVより・・・
3月15日 真田昌幸は織田信長のいる高遠城を訪ねた。
●真田昌幸は滝川一益の案内で法華寺の大広間に通された。
昌幸は下座に、信繁は廊下で待つ。
昌幸は信長の嫡男:信忠から2通の書状について聞かれること
になった。
信忠
「一方の書状では織田家に従うと言い、もう一方では上杉氏に助け
 を求めている。いったい如何なることか?申してみよ。」

昌幸
「恐れながら、その上杉宛ての文、もう一度よくお読みいただきたい。
・・・それは上杉への返書でござりまする。上杉に助けを求めたもの
ではなく、上杉が服属を迫ってまいりました。それ故、そこにはそう
かいてあります。ありがたい話だがすぐには決められぬので時間をい
ただきたいと・・・」

来た書状に対する返事だと説明したが、信忠は納得しない。

「織田につく気ならなぜきっぱりと断らなかったのか?」
と問い詰めた。

それに対し昌幸は、
「織田につくと上杉に宣言すれば、こうして自分が真田郷を空けて
いることも知れてしまいまする。留守中に上杉に攻め込まれないた
めの布石の手紙でござる。
と答えた。
信忠
「上杉を欺こうとした。そう申すか?」

昌幸
「乱世を生き抜くにはかゆおうな知恵も欠かせませぬ。四方の力の
 ある国に囲まれた、我らのようなか弱き国衆は、そこまで慎重にな
 らねば、ならぬのです。」

信忠が黙っていると、さらに昌幸は反撃に出る。
「しかるに、そのような大事な書状が上杉に届かず、なぜここにある
のか?これは真田家にとってゆゆしき一大事。かくなる上は、信長公
に上杉から守るぬいていたがかなければ困りますぞ。」
と、信忠に迫る。

昌幸の勢いに圧倒され、信忠は言葉もない。

だが、家康は、
これは昌幸のハッタリで、書状が織田の手に渡るのは計算ずくの
 偽書だったのではないか、そもそも上杉から誘いなどなかったの
 ではないか)と疑っている。

家康
「大の戦上手である真田安房守昌幸は、上杉からも誘いが来るほどの
大物と我らに思わせようとしたのでは?」

家康は、
「上杉が本当に昌幸に誘いの手紙を出したか、ちょうど上杉の家臣
:直江兼続が来ているので、確かめてみよう。」
とかまをかけた。

家康に見抜かれていたが、
しかし昌幸は平然とした顔で・・・
「確かめたければ、確かめるがよかろう。」
と同意する。

家康
「シラを切ったうえで偽りとわかれば許されませぬぞ。もし、偽りで
あるならば、潔くここで認められよ。」

昌幸
「偽りであるならば今すぐここで腹を切りましょう。しかし、真のこと
ゆえそうもいきませぬ。」

互いに視線をそらさず、両者一歩は見つめあう。
腹の探り合いが続く。

しばらくの時が流れ、ついに家康が折れた。
家康
「信忠様、とうやら、拙者の読み違いのようでございました。・・・
この書状、しんじてよろしいかと・・・。」


★家康は流石、勇名を馳せた武藤喜兵衛だと、昌幸の度胸のよさを
称賛した。

昌幸がついに信長と対面を果たす時がやってきた。
信長の圧倒的な存在感=オーラに、部屋はみるみる緊張感に包まれた。
皆、頭を下げたまま・・・
言葉を待つ。
・・・長い沈黙・・・・
信長
「真田安房守か?」
昌幸はゆっくり顔をあげた。

信長はじっと昌幸を見つめ、

「よき面構えじゃ。」

と一言だけ残し、部屋を去っていった。

徳川家康は武田勝頼の景徳院などを造り、武田勝頼を奉った。
そして、武田遺臣の保護を進め始めていた。井伊直政の家臣の
中には、山県昌景の旧家臣が75名もいた。

しかし、織田家の方針としては「武田ゆかりの者は登用する
べからず」であった。

真田昌幸は謀略を駆使し、織田信忠に
真田と上杉・北条が繋がるのを恐れさせて、真田を味方に引き入
れるように仕向けた。
結果・・・真田家は織田信長に仕えることが決まった。
真田昌幸は織田信長に帰属した。

真田昌幸の思惑とは裏腹に、上野の沼田城と岩櫃城が織田信長に
没収されることになった。
※岩櫃城を取り上げられた。とあった。
(★真田パンフレット)
真田昌幸は織田信長の家臣となって本領を安堵された。
 (★群馬県史)

★●沼田城&岩櫃城・・・めしあげ・・
真田昌幸は残念でたまらない。しかし、真田昌幸もこれには従わ
ざるを得なかった。
そして、滝川一益の支配下におかれることになった。
真田昌幸は織田信長の仕置きにより、織田家重臣:滝川一益に従う
ことになった。真田昌幸は滝川一益の与力武将となった。
★ここから、真田家と滝川家との腐れ縁が始まった。
滝川一益の側近に近かった。
真田昌幸を滝川一益の与力武将にしたのは滝川一益であったかも
しれない。

〜〜〜北条氏の上野国侵攻〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
3月中旬 武田勝頼滅亡に乗じ、北条氏邦が上野国に侵入してきた。
北条氏邦は箕輪城(実際は保渡田城)の内藤昌月(保科正直の弟)
 に迫った。
★おそらく、内藤昌月・和田信業・倉賀野秀景・木部高成はすでに
 相談してあって、抵抗せず、北条氏邦に従い、北条氏直の家臣
 なった。 

3月下旬、北条勢はたちまち松井田城に進駐した。
 しかし、 織田信長の派遣した滝川一益の着城以前に撤退した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3月16日〜21日
真田昌幸は滝川一益について、信濃に侵攻した。
森長可は海津城方面に侵攻した。

3月21日
 武田領のうち、甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)
 の3国が織田信長の支配下となった。

3月23日 小諸城にて
織田信長は家臣・滝川一益に上野(群馬県)と信濃国の
 小県郡・佐久郡を与えた。
 真田昌幸は岩櫃城・沼田城などを明け渡すことになった。
同時に、名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜された。
 滝川一益を関東統治の取次役=東国取次を命じられた。
滝川一益の役名は「関東守護」「関東ノ主」「関東御警護」
 「関東管領:など・・・
※エピソード
 滝川一益は領地よりも、茶器:「珠光小茄子」を所望し
 たが叶わなかったことを悔しがった。

■■天正9年(1581) か天正10年(1582 3月23日
3月23日
真田安房守昌幸は榛名山に制札を出した。
「禁制 榛名山
  彼の小屋において、乱暴狼藉の事、もし、此の旨に
  違背の輩においては厳科に処すべき者也。
            真田安房守昌幸(花押)  」
(★榛名町誌:久保田順一先生)
★榛名神社に制札を出した戦国大名は、
箕輪城主:長野憲業、関東管領:上杉憲政、箕輪城主:長野
業政、武田信玄、真田昌幸、箕輪城主:北条氏邦、徳川家康?
(天海僧正を榛名神社に送り込んだ)などである。
つまり、箕輪城主以上の格の戦国大名でないと榛名神社への
制札は出せないのである。

@久保田順一先生説
 榛名町誌:久保田順一先生は天正9年だろうと書いている。
花押がこの時代の物・・・

A箕輪初心:生方
★私は、天正10年(1582) 3月23日〜6月20日
まで、箕輪城代になったと考えている。
沼田城&岩櫃城の取り上げ分の代替えの城ではなかろうか?
 滝川一益が箕輪城を人質の城にするために、厩橋城に移ったが
 箕輪城には真田昌幸に見晴らせたと考えている。この時の中心
 人物は保渡田城:内藤昌月(まさあき:保科正俊の息子→内藤
 昌豊の養子)であった。滝川一益を真田昌幸の所領安堵の優遇
策を織田信長に進言し、真田昌幸を滝川一益の与力武将にした
 のは滝川一益であろう。しかし、一方で内藤昌月を大将として
 扱ったのであろう。・・・でなければ、真田昌幸は神流川の戦い
 での敗戦後、下諏訪まで送って行かないであろう。
★ちなみに、滝川一益を送っていったのは、真田昌幸
&真田信幸(後信之)真田幸繁(後幸村)の真田一族、
倉賀野景秀、和田信業(跡部勝資の息子)、木部高成(
父:木部範虎は武田勝頼について戦死)であった。
おそらくは、真田昌幸をしてくれた滝川一益を尊敬し、
腐れ縁=いい関係ができた。でなければ、真田昌幸は
滝川一益の孫:滝川一積に娘を嫁がせないであろう。
滝川一積は真田幸繁(幸村)の娘3人を養女になんか
しないであろう。また、真田昌幸は娘を保科正光に嫁が
せている。保科正光は内藤昌月の甥である。保科正光は
  父:保科正直、母:跡部勝資の娘である。養子には真田左
  源太、保科正之(徳川家忠の息子)がいる。

B吉田美由紀さん説
※真田博物館→上田市観光ガイドの吉田美由紀氏は
 「天正10年の天正壬午の戦いの後に箕輪城主となった。」
とおっしゃていた。
 
★新編高崎市にも出ていない、久保田先生の貴重な資料である・

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



3月24日 小諸城にて
★おそらくは真田昌幸は滝川一益の前にいて、道案内したのであろう。
真田昌幸は滝川一益に上野国などの武将の所領安堵の優遇策を織田
信長に進言するように伝えて言ったのであろう。

佐久郡の小諸城には道家正栄が入った。
上野国の松井田城には津田秀政が入った。
●松井田城主:津田小平次秀政(滝川一益の娘婿・織田信長の一族)
 織田信長の重臣・滝川一益の与力武将となった。
 沼田城には滝川一益の嫡男:滝川益重が入った。
織田信長から関東管領に補せられた滝川一益は厩橋城に入って
 経略に当り、松井田城には寵臣津田小平次秀政をおき、関西への
 繋ぎに任ぜしめた。政秀は後閑城はじめ附近の諸城の制圧につと
 めた。
(★「群馬の古城」・「群馬県古城累祉の研究」:山崎一著)

 一益は、寵臣津田小平次政秀に手兵2000を附して松井田城に置い
 て上方とのつなぎとし、箕輪城に進み、武田氏時代の態勢を踏襲
 して上州諸将を従属させた後、厩橋城に入った。

3月25日
上野国と信濃国小県郡・佐久郡は滝川一益の所領になったが、
滝川一益は情勢不穏の2国を考慮して国人衆に対しては懐柔政策
をとった。
●滝川一益は真田昌幸は本領の小県〜戸石・真田の郷〜吾妻
(岩櫃城)を安堵した。

滝川一益は上野箕輪城に入った。
★おそらくは真田昌幸がついてきて、人質の城の管理を任されたので
あろう。事前の約束があったはずである。
沼田城には甥:滝川益重が入られた。

3月26日?〜
次に厩橋城に入った。
関東の鎮定にあたることになる。〜〜〜〜〜〜〜〜

滝川一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵すること
を申し渡した。近隣の諸将が人質を伴い、次々と出仕した


●信濃衆(出仕者)
真田昌幸(上田城主、岩櫃城主・旧沼田城主)
依田信蕃(春日城主)

●上野衆(出仕者:武田家旧臣)
@内藤昌月(保渡田城主:旧群馬町・含旧箕輪城主:旧箕郷町?)
 ★保科正俊の2男:旧武田時代の実質的な高崎近辺の総まとめ役
A和田信業(和田城主:高崎市・・・後、井伊直政の高崎城)
 ★跡部勝資の長男・・
B倉賀野秀景(倉賀野城主:高崎市倉賀野町)
 金井淡路守→倉賀野秀景・・・滝川一益の側近。
C木部貞朝=木部高成(木部城主:高崎市木部町)=
D白倉重家(白倉城主:甘楽町)
D小幡信貞(小幡城主:甘楽町小幡)
F安中久繁(安中城主・安中市)・・・安中景繁の子ども
(★甘利昌忠の娘の生んだ子の可能性有り)
甘利明先生・・さらに危機状態。
G高山定重(高山城主:藤岡の世界遺産:高山社・・本城は高山城)
H大戸真楽斎(大戸城主:東吾妻町)
I藤田信吉(沼須城主:沼田市の上沼須の金剛院が城址である。
・天正9年(1581)6月、真田昌幸は藤田信吉に沼須の城を与えた。
 藤田は倉内に在城し、妻子は沼須城にいた。森下、阿曾両城の
 繋ぎの城であった
・天文10年(1582) 北条氏邦の夜襲を受けて阿曾の城を逃れた金子
  美濃守は沼須城に辿りついた。
  (★群馬県古城塁址の研究:山崎一著)


●上野衆(出仕者:旧上杉景虎方)
北条高広(旧厩橋城主)・・★柏崎北条城(元は上杉謙信家臣)
長尾憲景(白井城主)・・・★正確には、真田昌幸の白井城城代


●上野衆(出仕者:旧北条方)
由良国繁(金山城主&桐生城主)
長尾顕長(館林城主&長尾足利城:両崖山城主)
那波顕宗(那波城主&茂呂城主)
富岡秀高(小泉城主)・・・大泉町

●下野衆(出仕者)
宇都宮国綱(宇都宮城主)
皆川広照(長沼城主)
佐野宗綱=天徳寺宝衍(唐沢山城)・・・滝川一益の側近


●武蔵衆(出仕者)・・・北条家臣
成田氏長(忍城主)・・・★行田市 「のぼう君」の叔父様
上田朝直(松山城主)・・★東松山ICすぐ300m
上杉氏憲(深谷城主)・・★妻は北条氏政の娘
本庄近朝(本庄城主)・・★
北条氏邦(鉢形城主)・・★北条氏康の実質3男
※関東の北条氏政父子、佐竹義重、里見義頼も臣従したのだ。
@ 北条氏政に下野祇園城を元城主:小山秀綱に返還させた。
A北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた
  太田資正、梶原政景父子は、織田信長の直参となることを望
  んで滝川一益のもとに伺候している。
(★ウィキペディアが貧弱なので加筆した。)

●陸奥国の伊達輝宗、蘆名盛隆とも連絡をとった。




4月8日 真田昌幸は織田信長に馬を送って誼を乞うた。
★真田昌幸は織田家へ完全臣従が認めたれた。


5月上旬 滝川一益は諸領主を厩橋城に集めて能興行を開催した。
    嫡男、次男を伴い、「玉蔓」を舞った。

5月23日 滝川一益の命により沼田城主の滝川益重が兵を率いて
  三国峠を越えた。
 上杉景勝家臣の清水城主(巻機山近く):長尾伊賀守と樺沢城主
 (上越国際スキー場一部)・栗林政頼に破れた(伝)。

5月下旬
 真田昌幸は娘:松・・小山田昌誠に嫁いでいた松を織田信長の
 人質とした。



● 本能寺の変〜沼田城奪還〜
6月2日 本能寺の変 
  織田信長は家臣:明智光秀に討たれて死亡した。
  織田信長が横死した。

 旧武田領は騒然とした。
 織田信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣:森長可、
 毛利秀頼、道家正栄らが相次いで美濃方面に逃走した。
 甲斐国主:河尻秀隆は殺害された。
 旧武田領の甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)の3国は
 領主不在の空白地となった。

 越後(新潟県)の上杉景勝、
 相模(神奈川県)の北条氏直、
 三河(愛知県)の徳川家康、
 旧・武田領へと侵攻し、「天正壬午の乱」が勃発した。

  ※北条氏は、4代目当主:北条氏政が隠居して、5代目当主:
  北条氏直が当主となっているが、実権は4代目北条氏政が握っ
  ていた。

 旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な
 争奪戦を繰り広げた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲山梨【若神子城】武田信玄の信濃攻略の拠点&
烽火集積地
http://53922401.at.webry.info/201504/article_29.html
★北条氏直・氏邦の陣

箕輪初心:生方▲山梨【獅子吼城】:徳川家康VS北条氏政
http://53922401.at.webry.info/201505/article_1.html
★北条方:大道寺政繁の陣

箕輪初心:生方▲山梨【新府城】:武田勝頼60日の城&出浦盛清
http://53922401.at.webry.info/201504/article_25.html
★徳川家康の陣

箕輪初心:生方▲【穴山氏館跡】&穴山信君・武田信吉の生涯
http://53922401.at.webry.info/201504/article_27.html
★穴山梅雪は徳川家康に寝返った。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 真田昌幸も信濃小県郡や佐久郡の旧武田家臣の取り込みを策した。
 
6月10日 真田領の四阿山白山神社の宝蔵院に寺領を寄進した。
  武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進めた。

6月12日 吾妻郡の恩田伊賀(沼田恩田)に30貫文を渡した。
 
6月12日小県郡海野郷:白鳥明神の祭礼に旧武田家臣が集まった。
  真田昌幸を総大将に仰ぐ事を表明した。
  旧武田家臣は岩櫃城にいた真田昌幸を訪れた。
  真田昌幸は快諾した。
  砥石城で主従の契りを結んだ。
 
6月16日 吾妻郡の豪族:鎌原重春(嬬恋村鎌原★同族従兄弟)
  に1000貫文を与えた。

6月21日 草津の湯本三郎右衛門に所領を与え、吾妻郡有力者
      の人心収攬に務めた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
6月16日 北条氏直の上野侵攻
  北条氏直は織田信長が死んだと確信すると、上野国(群馬県)
  へと侵攻した。武蔵国鉢形へ2万弱の軍勢を率いて出陣した。

6月18日滝川一益は武蔵国境まで北条軍先鋒隊:
    北条氏邦軍を切り崩した。

6月19日 神流川の戦い
箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
http://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html

箕輪初心◆高崎【第16回新町神流川合戦:滝川一益】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_3.html

箕輪初心●箕輪城シリーズR「第11代:滝川一益」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_33.html

滝川一益は神流川の戦いで北条氏邦に一度は勝った。
 
北条軍の本隊:北条氏直軍20000が到着し、
滝川一益は北条氏直との戦いに破れて厩橋城に退いた。
  
滝川一益は箕輪城で上州・関東諸侯に人質を無条件で返す
ことを伝えた。
 滝川一益は箕輪城にいた諸豪族から集めていた人質
 (妻子)を解放した。

 領国「尾張・伊勢」に帰国することを告げた。

滝川一益は箕輪城(高崎市箕郷町)で、内藤昌月・
  真田昌幸らと宴会(別れの宴会)した。
滝川一益は箕輪城で内藤昌月・真田昌幸らと酒を酌み交わした。

 諸侯達は滝川一益の人柄に感じ入った別れを惜しんだという。

 真田昌幸は岩櫃城の真田信幸・矢沢頼綱に小諸?上田?で
 落ち合うように指示した。

6月20日  真田昌幸は感謝し、滝川一益を護衛して諏訪
 まで送り届けた。
真田昌幸&和田信業・倉賀野景秀・木部高成らと一緒に
 箕輪城から旅立った。
 内藤昌月は名前が出てこないので、箕輪城で戦後処理にあたった
 と思われる。

後、松井田城に行き、入山峠(碓氷峠?という説が全てだが)
  を越えた。

   滝川一益の撤退には、津田秀政は見事に殿のつとめを果した。
  滝川一益は手兵と上州諸将を率いて北条勢を神流川誘って激戦を交
  え、北条氏及び地衆の追尾を断ち、松井田に残置した精鋭二千
  を従えて伊勢に帰ったのである。
(★山崎一著)

6月21日 小諸城へ入城した。
  佐久郡春日山城・芦田城の国衆:依田信蕃(よだのぶしげ)
  が小諸城に来た。
  滝川一益と面会した。小諸城を返した?
小諸城主は徳川家康家臣:依田信蕃となった。
  その後、滝川一益は木曽郡の木曽義昌とも交渉した。

6月21日 叔父:矢沢頼綱に沼田城を奪回させた。
 嫡男:真田信幸を岩櫃城に入れ、上野方面の守備を固めた。
★この日は、真田昌幸は小諸にいるはず・・・
 ということは、
 真田昌幸は岩櫃城から滝川一益の甥:滝川益重のいなくなった
 空き家となった沼田城をどさくさに紛れて北条家よりも先に取り戻
 した。
 ★やはり【表裏比興】の名にふさわしい読みの深さ・ずるさ・目ざ
 とさがうかがえる。

6月21日 北条氏直は織田家の家臣:滝川一益を撃破すると、
 上野国(群馬県)の平定に着手した。
  箕輪城には北条氏邦が入城した。
  
6月22日
※真田昌幸は信州佐久郡に真田信幸、禰津元直、矢沢頼綱の兵を
 率いさせて滝川一益の松井田城からの撤退軍:津田秀政を援護
 させた。
 
 滝川一益は真田昌幸の厚意に感謝したという説もある。

6月27日 清洲会議 
  滝川一益は信濃(長野県)にいた。
小諸城を退去して小諸→下諏訪に行った。
真田昌幸&真田信幸&真田信繁は下諏訪で分かれたらしい。
 (★中之条町誌:唐沢定一先生・「真田、昌幸」:芝辻俊六著)
  和田信業・倉賀野秀景・木部高成らと一緒に木曽まで行った。
真田昌幸も別れを惜しみ、真田信幸に木曽路口まで護衛を
  命じた。
木曽路口・・現奈良井宿辺りかなあ?まで送り届けた。
ここで、上野の旧武田家臣と別れた。
  真田信幸&真田信繁?、和田信業・倉賀野秀景・
木部高成らと分かれたのだ。

明智光秀への対応の遅れにあせっていた滝川一益は本領:伊勢
長島城へと急いだ。
 滝川一益は木曾義昌に手紙&お金を渡し、木曽路を通して貰った。

 滝川一益は清洲会議に出られず、織田家での地位が失墜した。

6月28日
 滝川一益は本国:尾張の蟹江城&伊勢:長島城まで逃げることが
 できた。清洲会議に遅刻したけれど・・・。

●甲斐・信濃・上野は北条・徳川・上杉の三つ巴の争いの場となった。





◆◆ 真田丸の平山優氏の説 ◆◆
6月9日? 真田昌幸は滝川一益に呼び出された。
厩橋(前橋)城に上がった。
滝川一益は信濃の国衆が反旗を覆すのではないか?
 と心配だった。
 「・・・信濃はこの私が・・・」
「それが心配なんじゃ?」

6月10日?真田昌幸は真田信伊を小田原城:北条氏政に派遣した。
 「滝川殿が明智を攻めている間は信濃を攻めないで欲しい。」


6月11日? 真田昌幸は母に
「一益の沼田城に伊って欲しい。」
「こんな年寄りでよければ・・・」

6月13日 山崎の合戦・・
秀吉が光秀を討った。

6月18日 神流川の戦い前哨戦
 
6月19日 神流川の戦い
北条氏直の本隊が来て、総崩れになった。

真田昌幸は滝川一益が箕輪城に退いたこと知った。
●箕輪城で
滝川一益は
「・・・伊勢に戻る。・・・信濃を越えたら、人質をかえす。」
と言った。」


6月20日 滝川一益は小諸城に入った。

真田信繁&矢沢綱幸は祖母の人質救出に忍び込んだが、捕まって
しまった。
真田の人質は4人になってしまった。

6月21日〜 小諸城
木曽義昌に足止めをされていた。

滝川一益は清洲会議があるので、焦っていた。
 しかし、滝川の木曽を通るのを拒んでいた。

6月27日 清洲会議

●ある寺で滝川一益&木曽義昌が談判
「・・人質の中には、・・・源次郎(真田信繁)様もいらっしゃる。」

●小諸城で
祖母は
「宗太郎(木曽義昌)、久しぶりです。・・・」

祖母は木曽義昌を平手打ちにした。


「自分だけが残ります。」
木曽義昌はいやと言えなかった。

6月28日
 滝川一益は本国:尾張の蟹江城&伊勢:長島城まで逃げることが
 できた。清洲会議に遅刻したけれど・・・。




◆◆  群馬県史P669〜673浅倉直美氏の説 ◆◆
3月12日 北条氏邦を通して、和田信業などの諸氏
(倉賀野秀景・木部高成・高山氏など)が麾下にになった
ので、真田昌幸も麾下に入れと連絡した。

3月21日 北条氏政は滝川一益を取り次ぎとして、織田信長
に江川の酒、白鳥などの進物を贈った。

3月23日 織田信長は滝川一益に上野・信濃2郡を与えた。
「諏訪の法華寺で・・・関八州・陸奥などを扱うこと・・・
  この馬に乗って東国に入部するように・・・脇差1腰を
  賜り・・・・」
(★滝川一益事書)

3月26日 北条氏政は馬の飼料として、信長に八木(米)1000俵
 を送った。

3月25日〜27日★滝川一益は箕輪城に入ったことを意味する。

3月28日 ●滝川一益→極楽院(高崎市箕郷町和田山)
年中行事安堵・・

3月29日 正式に知行割りがあったと推定している。
(★群馬県史:浅倉直美著)

4月2日 北条氏政は雉500余りを進上した。

*5つの判物・7つの滝川一益書状
3月下旬 箕輪城から北条(きたじよう)の厩橋城を接収した。
 北条高広&弟:は厩橋城から本郷に移った

4月?日  ●滝川一益→北条長門守(高政=高広弟)への充行状
 「原中尾郷之内,鉄炮放両人之給分職拾五貫五百,令扶助之上,不可
有相違之状,如件」とある。
  (北条文書・群馬県史資料編7)
 北条長門守に原中尾郷内で鉄砲給分15貫500文を宛行っている。

4月?日 滝川一益安堵状
 「原中尾之郷,其方本知并加増・・・」
※小田原北条氏は厩橋北条氏を区別するために喜多条と呼称している。

5月上旬 滝川一益は厩橋城で能を挙行した。
 「玉かつら」を北条高広と石川忠総が見学した。
(★石川忠総留書)


5月23日 北条氏邦→大導寺政繁宛て書状
  「滝川は厩橋に在城せり、」


5月?日 厩橋城に人質を置き・・・出仕した輩は
内藤・小幡・和田・由良・長尾・安中・上田・木部・
高山(藤岡市)深谷・成田・倉賀野・・信州に真田安房守
  これなり。」
 (★滝川一益事書)

6月2日 本能寺の変

6月9日 滝川一益は信長の死を知った。

6月9日 「飛脚が到来し、・・・儀太夫(益重)など重臣を
  呼び、信長の死を語った。・・・
  儀太夫(益重)など重臣は秘密にしようと言った。・・
  しかし、「もっともである。・・・国人は信長の死をきかば
  隔意ろ持つであろう。・・・急いで城主を集めよ。」・・
・・・・
「程なく、上野衆が来て、・・一益は哀愁の泪を押さえて
・・人質を返しましょう。・・・」
  各各驚き、・・至って剛なる大将と皆同意に感じた。
  義を持って事を運ぼうとしてしていのに、不義を働けようか。
  ・¥・皆に暇をつかわした。」  
(★石川忠総留書)

同日 滝川一益→北条高広・景広父子宛ての手紙
 「(後)北条氏との戦いは避けられぬ。・・・味方して欲しい。」
★数人の上野衆に手紙を出したと思われる。

6月12日 滝川 一益は厩橋城で能12組を挙行した。

6月12日 滝川一益→小泉城主:富岡六郎四郎
 「・・・誠に御親切な・・・」

6月13日以降 信濃出身者に本領安堵の手紙を発給した。
★同然、真田にも・・・

6月18日 神流川の戦い@金窪の戦い
6月19日 神流川の戦いA


◆◆ 大江・毛利一族:関久著  ◆◆
大江広元子孫→南城毛利→・・・北条高広
→・・・毛利元就→毛利輝元・吉川・小早川
@上野の膳城→越中の魚津城:河田長親の妻
A越中の上熊野城:二宮長恒の妻
  越中:新川郡若杉(現上市町)上熊野城
B上野の那波城:那波顕宗の妻
長男:那波宗泰(無理介)・・長篠の戦いで戦死。
   次男:那波俊広・・・・会津の毛利安田能元養子
C越後北条城:北条高当(たかまさ)の妻
D越後与板城主:直江景綱の妻
娘:船は直江兼続の妻。
E柿崎晴家の妻
息子は後北条氏へ人質へ

箕輪初心:生方▲【大江広元→越後毛利氏〜北条(きたじょう)高広】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_16.html




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

真田昌幸の5女は宇田頼次の妻→滝川一積(一益孫)の妻
となった。



〜〜〜真田幸繁(幸村)の妻たち〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
正室:大谷吉継の娘?姪?・・・竹林院
側室:豊臣秀次の娘・・・・隆清院
堀田興重の娘
高梨内記の娘


〜〜〜真田幸繁(幸村)の娘たち〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@長女:阿菊・・・・石合重定室

A次女:於市・・・・母は高梨内記の娘。九度山で病死。

B3女:阿梅・・・・片倉小十郎重長後室:白石城(宮城県)
滝川一積は阿梅も養女にしていた系図もある。
※大阪城で生け捕りにされた説・強奪説・滝川一積が片倉家へ
嫁がせた説がある。
※滝川一積は石田頼次の娘も養女として・・・小山田信茂の孫
で真田家臣:小山田主膳之知に嫁がせている。


C4女:あくり・・・蒲生郷喜室:三春城
 真田昌幸の5女は宇田頼次の妻→滝川一積(一益孫)の妻。
滝川一積は真田幸村の娘:あくりを養女として蒲生郷喜に
 嫁がせた罪で改易となった。
 滝川一積の子:滝川一明は妻は松代藩3代:真田幸道の叔母
 という。
 滝川一明の養子:滝川一重は真田氏家臣:鎌原外記重俊の
 子で、母は真田信政(真田信之の次男:松代藩第2代藩主
 の)娘である。


D5女:なほ:御田姫・・・・岩城宣隆室:亀田城(秋田県)
  滝川一積が養女にした説があるらしい?。

E6女:阿昌蒲・・・片倉重長養子:甥田村(片倉)定広室

F7女:於金(おかね)・・・・石川貞清室





★明日は、もう真田丸飽きたなあ?

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