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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『14代:毛利輝元』関ヶ原の戦いまで

<<   作成日時 : 2015/12/21 09:54   >>

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毛利元就の嫡男:毛利隆元は第13代当主(関久説)とも第14代当
主(ウィキペディア)とも言われている。毛利隆元のあと、毛利輝元
が跡を継いだ。関ヶ原の戦いには、なぜ出陣しなかったのだろうか?
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 (★広島城)

◆◆ 毛利元就の子ども ◆◆
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 (★戦国の城:西ヶ谷恭弘著より)

@長男:毛利隆元→毛利輝元→毛利秀就⇒(毛利本藩/長州藩)
              毛利就隆⇒(徳山藩)
A次男:吉川元春→吉川元長
         毛利元氏⇒(阿川毛利家)
         吉川広家→吉川広正⇒(岩国領⇒岩国藩)
              毛利就頼⇒(大野毛利家)
B3男:小早川隆景⇒(養子:小早川秀秋)
⇒(断絶。小早川の名跡は秀包の子小早川能久が継ぐ)
C4男:穂井田元清→毛利秀元→毛利光広⇒(長府藩)
                毛利元知⇒(清末藩)
D5男:椙杜元秋(毛利元秋)
E6男:出羽元倶
F7男:天野元政(毛利元政)⇒(右田毛利家)
G8男:末次元康(毛利元康)⇒(厚狭毛利家)
H9男:小早川秀包(毛利秀包)→毛利元鎮⇒(吉敷毛利家)
I10男:二宮就辰
J女・・・夭折
K女・・・宍戸隆家室:五龍局


◆◆ 毛利隆元  ◆◆
●大永3年(1523) 毛利輝元は毛利元就の嫡男として安芸多治比
 猿掛城で生まれた。
 父:毛利元就
母:吉川国経女:妙玖

●幼名は少輔太郎であった。

・天文6年(1537)
●毛利隆元は大内義隆の元に人質として送られ、山口で
 人質生活を送った。
 ※大内義隆を烏帽子親として元服し、大内義隆から「隆」の一字
  を賜り、「隆元」と名乗った。
 
●毛利隆元は大内家の長門守護代:内藤興盛や重臣:江良房栄、
 天野隆綱(興定の子)・陶隆房(陶晴賢)や弘中隆包(隆兼)
 らとの親交を結んだ。
  

●天文9年(1540)
 毛利隆元は大内義隆から吉田郡山城に戻ることが許された。
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・天文9年(1540)
 ▲吉田郡山城の戦い

 尼子晴久が毛利元就の吉田郡山城を攻撃してきた。
●毛利隆元は吉田郡山合戦に遭遇してしまった。
 初陣?
 尼子詮久が率いる3万の尼子軍に吉田郡山城を攻められた。
 毛利元就は3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。
 
 母実家:福原氏・友好関係:宍戸氏、主君・大内義隆の援軍
 ・陶隆房の活躍もあって、勝利した。

 安芸武田氏当主:武田信実の佐東銀山城は落城し、安芸武田氏
 は滅亡した。

・天文11年(1542)〜天文12年(1543)
▲第1次月山富田城の戦い
大内義隆を総大将のもと、毛利元就も従軍した。
 ●毛利隆元は父:毛利元就に従軍した。
4月 富田城の塩谷口を攻めたが、大敗し、大内軍は敗走した。 
 毛利元就軍には殿(しんがり=大将を逃がすたけ一番最後に
 いること)が命じられた。
 尼子軍の激しい追撃に加えて、土一揆の待ち伏せも受けたため、
 壊滅的な打撃を受けた。
 毛利軍は安芸への撤退をし続けたが、石見の山吹城から繰り出さ
 れた軍勢の追撃された
 ●蓮池縄手の戦い
  毛利元就と嫡子:毛利隆元は自害を覚悟するまでに追い詰めら
  れた。
  毛利隆元は撤退戦(七騎落ち)などの修羅場を経験した。
 ●毛利隆元は家臣の児玉就光に感状を与えた。

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箕輪初心●島根:百名城【月山富田城】=尼子氏の居城
http://53922401.at.webry.info/201105/article_18.html

箕輪初心●島根【世界遺産:石見銀山】A山吹城
http://53922401.at.webry.info/201105/article_13.html
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・天文13年(1544) 毛利元就は水軍を擁する竹原小早川氏の養子
 に3男・徳寿丸(後小早川隆景)を出した。
 ※小早川家には毛利元就の姪=兄:毛利興元の娘が嫁いでいた。

・天文14年(1545) 毛利元就妻:妙玖(毛利隆元母と
  養母:杉大方が相次いで亡くなった。

・天文15年(1546) 毛利元就が隠居を表明した。
 ●毛利隆元が毛利家当主となった。
 ※毛利元就が謀略活動するための一種の儀式である?
 ※実権は毛利元就が握っていた。
 毛利隆元は内政を中心に動き、外交・軍事は
  毛利元就が担当していた。
●毛利隆元は依然として毛利元就麾下の一武将の扱いであった。
 ●毛利隆元は教養豊かで穏和な武将として名高かったが、武将と
  しての気概に欠けた。文芸遊興に費やす時間が長かった。
  毛利隆元は毛利元就からの書状で
 「能や芸や慰め、何もかも要らず。ただ武略、計略、調略が肝要
  に候。謀多きは勝ち、少なきは負け候と申す。」
  と度々叱責された。
  毛利元就は老臣:志道広良が毛利隆元の訓育にあたった。
  毛利元就や重臣:志道広良から再三にわたって訓戒された。
  志道広良は「君臣は水と船の如く」と諭された。
  (★ウィキペディア)

・天文16年(1547) 毛利元就は妻:妙玖の実家に吉川家へ
 元春を送りこんだ。
 
●天文18年(1549) 毛利輝元は大内義隆の養女(大内氏の長門守
 護代:内藤興盛の娘)と結婚した。
 
・天文19年(1550)
毛利元就は毛利輝元旗下:井上元兼ら重臣一派を殺害した。
●毛利隆元は父:毛利元就の主導の下、毛利隆元直属の五奉行制度
 を発足させた。
 毛利隆元側近は
 赤川元保を筆頭奉行とし、国司元相、粟屋元親、児玉就忠、
 桂元忠を置いた。
発足当初は親隆元派:赤川元保、国司元相、粟屋元親 VS
親元就派:児玉就忠、桂元忠のとの対立によって運営が上手
 くいかなかった、次第に組織は機能し始め、毛利隆元は大い
 に貢献した。
 しかし、主導権を握っていたのは毛利元就であった。
  
 毛利元就は禍根を断つため、熊谷氏を殺害した。

 沼田小早川当主・小早川繁平が幼少:盲目であったのを利用して
 家中を分裂させ、後見役の田坂全慶を謀殺した。
 分家の竹原小早川当主に元就の実子:小早川隆景を後嗣にさせた。
 小早川氏の水軍を手に入れた。
 「毛利・小早川体制」が確立した。
 毛利氏の勢力拡大を支えることになった。

 安芸・石見に勢力を持つ吉川氏&
 安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、
 両安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

・天文18年(1549) 2月 吉川元春と小早川隆景を伴い山口へ
 下向した。大内家の分裂した。
 陶隆房:武断派 VS  相良武任:文治派

  
・天文19年(1550) 毛利元就は井上元兼を殺害した。
  毛利元就は毛利家への忠誠を起請文に署名させた。
 ★武田信玄も生品足島神社で同じようなことをした。
  後日、真田のコーナーで公開予定である。
 

・天文20年(1551)大寧寺の変=陶隆房の謀叛
 大内義隆は山口市外の大内村に住み、支那との交易により巨万
 の富を作った。
 大内義隆は月山富田城で負けてから、戦に関心を持たなくなって
 いた。
 ※山口の瑠璃光寺でのガイドさんの話
 『陶隆房は、戦の大将として、動かない大内義隆にしびれを切ら
 した。文化方面にこだわっていました。』

 8月28日(9月28日)、大内義隆は観世太夫をまねいて猿楽に興
 じている時、家臣:陶隆房が謀反を起こした。
 陶隆房の謀叛により大内の館は大混乱になった。
大内義隆は数10人の部下に護られて、秋吉から長門の仙崎に
 のがれ、舟で石見に逃げのびようとした。しかし、暴風で舟が
 進まなかった。
 9月1日(9月30日) 長門深川の大寧寺に逃れた。
 和尚の戒をうけ大寧寺において45才で自刃した。
 ★大内家もここに滅亡した。

●毛利隆元は仲良しだった陶隆房は近々、毛利にも攻めてくると
判断して陶隆房打倒を主張した。
〜〜〜恩顧ある義隆を殺された義憤に駆られたという説もある。
しかし、父:毛利元就は戦力的劣勢を理由に慎重であった。
そこで、毛利隆元は父:毛利元就を『陶との戦い』を本気にさせる
ため、5奉行など重臣達を使って、毛利家中に陶隆房の横暴ぶりを
喧伝して回らせた。
間もなく、毛利元就も陶隆房との対決を決めた。
★毛利元就は以前から陶隆房とのつきあいをやめていた。
 陶隆房(陶義賢)の大内軍兵力は30,000以上であった。
 毛利元元就の最大動員兵力は4,000〜5,000であった。
 正面から戦えば勝算はない。
 また、自分(毛利元就)と同調している安芸の
 国人領主たちも大内・陶氏に寝返る危険性もあった。
 従って、毛利家中の意見がまとまるのを待っていたのでは
 ないだろうか?
 毛利隆元の強硬策に敢えて反対したのは、家中に陶隆房の
 横暴・恐怖を浸透させて意見の一致を図ることにしていた
 のであろう。
 

天文22年(1553)1月22日、毛利隆元の嫡男:毛利輝元
 が生まれた。
 幼名は幸鶴丸であった。

毛利隆元と妻:尾崎局は幸鶴丸(後の毛利輝元)は後に
 娘((吉見広頼室津和野局)にも恵まれた。
 毛利隆元は大内義隆の養女(長門守護代:内藤興盛の娘)を
 深く愛した。毛利隆元は側室を持たなかった。

・天文24年?./弘治元年(1555)
4月〜6月 陶晴賢と毛利元就の間で小競り合いが発生した。
戦闘が大規模化することはなかった。

▲厳島の戦い

毛利元就は吉田城中で、わずかの兵で陶の大軍を破るには、
 野戦では不利なので、宮島の有の浦の宮尾城を築いた。
  (★毛利元就の築城以前に砦があったという説もある。)
  宮尾城には陶晴賢から毛利元就に寝返った己斐直之・坪井元政
 が約500人の兵力を与えて守らせていた。
 
 毛利元就はある夜、琵琶法師を吉田城中に招いた。
 毛利元就は 琵琶法師を陶義賢の間者であることを
 見ぬいた。毛利元就は敵を欺くため、
 「宮島に城を築いたことは、失策であった。もし、陶の大軍に
 包囲されたなら、我が軍の勝利は望めない。」
 ともらした。
琵琶法師は
 「海上交通の要所:宮島城の守りを固めている。」
 と報告した。
陶晴賢は大軍を率いて山口を出発した。
 陶晴賢は寝返った己斐直之・坪井元政の守る宮尾城を攻める
 ために厳島に向けて出撃した。
 9月21日(10月6日)
  陶晴賢は20,000~30,000の大軍を500艘余の舟に分乗させ岩国
の今津から宮島へ進航して陶軍は厳島の大元浦に上陸した。
  厳島神社近くの塔の岡(現豊国神社五重の塔の所)に本陣を
   置いた。
  民家に火を放ち、権威を誇示した。
  海上には水軍を待機させた。
厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、宮尾城を包囲し
  攻撃を開始した。
★ガイドさんがいうには、囮作戦であった。
 
 一方の毛利元就軍本隊はは、厳島の対岸に位置する草津城
  (現広島県広島市西区)に集結していたが、兵数で劣っていた。
  毛利元就は兵力差を埋めるために、伊予の村上武吉・村上通康
  ら村上水軍に援軍を求めた。
  村上水軍はなかなか現れなかった。
  毛利元就も援軍を諦めかけたが、厳島に渡る直前になって
  約300艘が到着し、毛利軍に加わった。


  毛利元就は毛利軍3,000を草津城から御前に前進した。
 毛利元就&子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景であった。
  対岸の御前に陣を進めた。

●毛利隆元は父:毛利元就からは従軍・渡海を拒絶されたという。
毛利隆元は
「自分一人生き残ったところで、御家の弓矢が成り立ちましょうか。」
と嘆願して同行を許可されたという逸話がある。
 (★ウィキペディア)

 9月30日(10月15日) 
●毛利隆元は暴風雨に怯えて渡海に反対する将兵らを奮起させる
 ため、毛利隆元は父:毛利元就の制止を振り切って自ら先立って
 船に乗り込んだといわれている。
 (★ウィキペディア)
●毛利隆元は毛利元就と共に本陣を率いて厳島に渡海した。
  厳島へ向けて舟を漕ぎ出した。
夜、折からの暴風雨を冐して、荒れ狂う怒涛の海の中を出発した。
  先頭は、毛利元就の指揮船である。
   
10月1日(10月16日)
 毛利輝元3000〜3500 ?  VS 陶晴賢20000〜27000?

 早朝、
小早川隆景隊は正面の大鳥居方面へ堂々と乗り入れ、陶晴賢
 の家臣に向かって
 『筑前の宗像秋月、御味方に参りました。』
 と、叫んで、塔の岡の正面に向かったという。
 
 毛利元就の率いる本隊は暴風雨の海を乗り切って宮島の北東岸に
 上陸した。毛利元就は陶義賢の本陣:塔の岡の背後へ兵を進めた。

 毛利軍は陶軍の背後(紅葉谷側)と宮尾城内(要害山側)
 から一斉に攻撃を仕掛けた。
 陶軍は、前夜が暴風雨であったことから、油断があり、厳島神社
 周辺の狭い場所にに大軍がひしめいていた。
大内義定・陶義賢軍は前後に敵を受けてしまった。
 陶軍は大混乱に陥って戦況の変化に対応できずにいた。
 そして、陶晴賢の軍勢は総崩れとなった。
陶軍は我先と島からの脱出の舟を奪い合い沈没したり溺死する者が
 続出したという。
 
 陶晴賢の本陣は総くずれとなって、厳島神社裏へ敗走した。
 陶晴賢は大元へ逃げた。大元から海岸づたいに逃れて、舟を求
 めて大江浦に出た。陶晴賢も島外への脱出を図ったが、舟は一
 艘もなかった。
 海上は伊予村上水軍に制圧されており、既に脱出用の舟も
 村上水軍の将兵達によってなくなっていたのだった。
 脱出することは出来ずに浜沿いに沿って大元浦に敗走した。
 そこにも脱出の舟はなかった。
 山越をして、青海苔浦に出たが、ここにも舟はなかった。
毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も
 断たれてしまっていたのである。
 陶晴賢は「最早これまで。」
 と、高安が原に引き返し、名残の宴を開いた。
 陶晴賢が伊香賀房勝の介錯によって自刃した。享年35。
 陶晴賢に最期まで付き添った伊香賀房勝も山崎勘解由隆方も
 柿並隆正、互いに刺し違えて自刃した。

陶晴賢に代わって本陣で殿として戦った三浦房清は最期30名余り
 となり奮戦の末に討ち取られた。

 弘中隆包(隆兼)は吉川元春の軍に敗れて大聖院へ逃げた。
 弘中隆兼・隆助父子は大聖院を経て山側に後退した。
 吉川元春の軍に追われ、弥山沿いの谷を駆け登った後、
  隣の山の絵馬ヶ岳(現駒ケ林)へ逃げ登り、断涯に追いつめ
 られた。大部分が戦死し、残兵は龍ヶ馬場のけわしい岩陰に
 退却した。
10月3日まで抗戦したものの部隊は全滅した。
 
10月5日(10月20日)
 毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(現広島県廿日市市)
 に凱旋した。
 陶晴賢の首実検も行なわれた。
 
 厳島合戦は毛利元就の勝利に終わった。
 厳島の戦いでの陶軍の死者は4,700人にのぼったともいわれる。
 
 戦後、毛利元就は両軍の戦死者、負傷者を対岸へ移した。
 血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流して清めさせ、宮島内の血が染み
 込んだ部分の土を削り取らせ、海中に運んだ。また、血で汚れた回廊
 の一部の板を取りかえた。海水で洗って清め、戦前の姿にした。

  
●結果・・・
  厳島の合戦を契機に、大内家は衰退の一途を辿っていくことになった。
 毛利元就の中国地方における地位は、にわかに高まった。



・弘治2年(1556) 忍原崩れ
  尼子晴久が25,000と小笠原長雄が大内方の
 山吹城(石見銀山)を攻撃した。
 毛利氏は迎撃したが、忍原にて撃破された。
 石見銀山は尼子晴久のものとなった。

・弘治3年(1557) 毛利元就が正式に隠居表明した。
 毛利元就は家督を嫡男:毛利隆元に完全に譲ろうとした。
 ●毛利隆元は拒否した。毛利隆元
「毛利家が依然として危険な状態であり、自分の力量に自信
  が持てないので、家督相続を辞退したい。・・・」
 と断ったと言われている。

 毛利元就は、毛利家と吉川家と小早川家3家の後見役として、
 体制を維持した。
 毛利隆元に毛利家の実権が移譲されることはなかった。 
 この後、毛利隆元は内政に専念した。毛利元就が外交と軍事を
 引き続き主導していった。
毛利元就は「隠居」後、後見役・諮問役として毛利隆元の政務
 を監督し、実権を保持し続けた。

・弘治3年(1557)同年 防長経略
 毛利元就は、大内氏の内紛を好機とみて、大内義長を攻撃した。
 陶晴賢によって擁立されていた大内義長(大友宗麟の異母弟で
  義隆の甥)が自害し、大名としての大内氏は滅亡に至った。
 
しかし、旧大内領をめぐって豊後の大友宗麟が西から、出雲の
 尼子晴久が北から侵攻してきた。
 毛利元就は北の尼子氏に対応するのとになった。
 毛利隆元は西の大友氏に対応することになった。
 ※毛利氏にとっては非常に危機的な状況であった
 
 その後、大友宗麟は大内輝弘擁立したが失敗に終った。
 ●毛利隆元は弟:小早川隆景の支援を受けつつ大友宗麟
 を撃退することに成功した。

 大内氏の中国地方の旧領の大半を手中に収めた。
 
・永禄2年(1559)
 ●毛利隆元は父:毛利元就との連署で正親町天皇の
  即位料を献納した。
 ●毛利隆元は従四位下大膳大夫に任じられた。

・永禄3年(1560)

 ●毛利隆元は第13代将軍:足利義輝より安芸守護に任じられた。
 尼子晴久が急死して尼子氏の勢力が衰退した。
 ●毛利隆元は九州戦線を受け持っていたが、足利幕府の仲介を
  利用して大友宗麟と和議を結び、尼子討伐に全力を傾けた。

・永禄5年(1562)
●毛利隆元は備中・長門の守護職にもなった。

・永禄6年(1563)
●毛利隆元は周防の守護職に任じられた。
 
 毛利氏は、正式に中国地方の大名としての立場を認められた。

・永禄6年(1563)
9月1日 ●毛利隆元の死
 毛利隆元は尼子攻めに参加する途中、毛利氏傘下の国人である
 備後の和智誠春からの饗応に参加した。
 安芸の佐々部で急死した。享年41。
   死因は食中毒とも毒殺とも言われる。

 毛利元就は突然の死を耳にした。
  父:毛利元就の悲嘆は尋常なものではなかった。

 その後、毛利元就は和智誠春・柚谷新三郎・湯谷又八郎・湯谷
  又左衛門・赤川元保らを暗殺の疑いで誅伐した。

 毛利家の家督は毛利隆元の嫡男:輝元が継いだ。
 毛利元就が実質的な当主として主導権をなおも握ることとなった。

◆◆ 毛利元就の子ども ◆◆
@毛利輝元
A娘・・・吉見広頼室:津和野局


〜〜〜毛利輝元時代〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆◆ 14代毛利輝元&関ヶ原の戦いまでの生涯 ◆◆
戦国時代
●天文22年(1553)1月22日、毛利隆元の嫡男として安芸国
 (現在の広島県)に生まれる。幼名は幸鶴丸。


・弘治元年(1555) 12代:毛利元就は大内義隆に謀反し大内氏を
  事実上乗っ取った陶晴賢を厳島の戦いで破った。

・弘治2年(1556) 忍原崩れ
  尼子晴久が25,000と小笠原長雄が大内方の
 山吹城(石見銀山)を攻撃した。
 
 尼子晴久によって山吹城を攻略され、石見銀山の
 支配権を失っていた。
 毛利氏は迎撃したが、忍原にて撃破された。
 石見銀山は尼子晴久のものとなった。


・弘治3年(1557) 防長経略
 
 毛利元就は、大内氏の内紛を好機とみて、大内義長を討って、
 大内氏を滅亡に追い込んだ。
 陶晴賢の傀儡であった大内義長を攻め滅ぼし、
大内氏の旧領をほぼ手中にする。
 大内氏の中国地方の旧領の大半を手中に収めた。

その後は北部九州に侵入し、筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏を
味方につけ、大友氏とも争った。

毛利元就は家督を嫡男:毛利隆元に完全に譲ろうとしたが、
 毛利隆元は拒否した。毛利元就は、毛利家と吉川家と小早川家
 3家の後見役として、体制を維持した。
毛利元就は既に次男の元春を吉川家へ、三男の隆景を小早川家へ
  養子として送り込んでいて、吉川・小早川勢力を吸収した。
  吉川・小早川が安芸毛利当主家運営への参画、補佐することを
   条件に隆元(元就の長男)が毛利家の家督を継いだ。
   こうして、毛利当主家を吉川家と小早川家でサポートする体制
   が成立し領国支配を磐石なものとした。
  ●3本の矢の伝説はこの時かもしれない。
   元就の死の間際とあったが、・・・・

  この後、毛利隆元は内政に専念した。毛利元就が外交と軍事を
 引き続き主導していった。
 しかし、毛利隆元が急死してしまった。

・永禄元年(1558) 毛利元就・吉川元春は
 石見銀山を取り戻すべく、小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃した。
 尼子晴久も出陣するが、互いに江の川で睨みあったま膠着状態
 になった。

・永禄2年(1559) 毛利元就は温湯城を落城させた。
  山吹城を攻撃するも攻めあぐねた。
▲降露坂の戦い
  撤退中に城主本城常光の奇襲と本城隊に合流した尼子晴久本隊
  の攻撃を受け大敗した。


・永禄3年(1560) 尼子晴久が死去した。
 尼子晴久の嫡男:尼子義久は毛利元就との足利義輝に和睦を願
 いでた。
 しかし、毛利元就は一方的に破棄した。

・永禄3年(1560)毛利隆元が安芸守護に任じられている。

永禄6年(1563)
父:毛利隆元が急死したため、11歳で毛利輝元は家督を継いだ。
 しかし。若年のため、祖父:毛利元就が実権を掌握し、
  政治・軍事を執行した。
 毛利輝元(54代)を吉川元春・小早川隆景が後見した。

●永禄8年(1565)13代将軍・足利義輝より「輝」の一字を
 許され元服し、輝元と名乗った。

  
・永禄5年(1562)
▲第2次月山富田城の戦い
毛利元就は出雲侵攻を開始した。
毛利輝元は月山富田城の戦いで初陣を飾る。


  尼子義久は、難攻不落の名城:月山富田城(現島根県安来市)
 に籠城し尼子10旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。

・永禄6年(1563)
毛利元就は尼子氏の支城:白鹿城を攻略した。
  月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込んだ。
  
  一方で、毛利家当主:嫡男:毛利隆元の不慮の死を遂げた。
  
毛利元就は無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。

・永禄9年(1566) 11月 尼子義久は降伏した。
 結果・・・毛利元就は中国地方8ヶ国を支配する大名になった。
 安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見
 を領有した。
 
 尼子勝久(尼子誠久の子)を擁した山中幸盛の率いる尼子残党軍
 が織田信長の支援を受けて山陰から侵入し、毛利元就に抵抗した。
 
 さらに、豊後の大友宗麟も豊前の完全制覇を目指して進入してきた。

・永禄10年(1567) 最後の息子:才菊丸が誕生した。

・永禄11年(1568)
  大内氏の一族:大内輝弘が山口への侵入してきた。
  ※毛利一族にとっては危機的な状況であった。

  しかし、後に吉川元春、小早川隆景らの息子達の働きにより、
  大友宗麟と和睦した。

  しかし、大友宗麟と和睦は博多の支配権を譲る結果になった。



・永禄13年(1570) 2月 布部山の戦い
毛利輝元 VS 尼子勝久
 毛利輝元が勝利した。
尼子再興軍を一掃することに成功した。
   
・元亀元年(1570)年8月26日〜9月23日
 野田城・福島城の戦い
  織田信長 VS 三好3人衆・本願寺顕如

・元亀2年(1571)
 6月14日 毛利元就は吉田郡山城において死去。享年75
画像

 (★無料写真より)
  
 ●毛利輝元は重臣:吉川元春・小早川隆景の補佐を受けた・。

・天正2年(1574) 15代将軍:足利義昭からの推挙で室町幕府の
  相伴衆ともなった。


・天正4年(1576) 2月、織田信長が将軍:足利義昭を追放。
将軍:足利義昭が毛利家領内の備後国に逃げて来た。
 ●毛利輝元は足利義昭に鞆に御所を提供した。

 足利義昭は、毛利輝元を中国地方各地の守護に任じた。

〜〜〜毛利輝元 VS 織田信長〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  
足利義昭は毛利氏の鞍御所で反織田信長勢力を糾合した。
越後の上杉謙信は将軍家の呼びかけにより織田信長と敵対した。
毛利輝元は本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うしたこと
 から、織田信長と対立するようになった。

・天正4年(1576) 7月
▲第一次木津川口の戦い
 毛利輝元約700隻 VS 織田信長約300隻
 ●織田信長軍の攻囲を受ける石山本願寺への兵糧搬入のため、
 毛利水軍・小早川水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍戦力と
 それを阻止しようととする織田方の水軍戦力が大阪湾木津川河口
 で激突した。
  
 戦闘は毛利水軍の使用する焙烙玉・雑賀衆の使用する焙烙火矢の
 前に織田方の水軍は壊滅的な打撃を受けた。
  (★『信長公記』)
 結果・・毛利輝元は石山本願寺への兵糧搬入という目的を果たした。


・天正6年(1578)
3月に上杉謙信が死去、
 7月 ▲上月城の戦い
毛利輝元 VS 織田方の羽柴秀吉・尼子勝久連合軍
  羽柴秀吉は三木城:別所長治の反乱により退路を塞がれること
  を恐れて転進した。
 ●毛利輝元は上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を
  滅ぼし、織田氏に対して優位に立った。


 11月 ▲第2次木津川口の戦い
 毛利水軍は鉄甲船を用いた織田水軍の九鬼嘉隆に敗北した。
  淡路島以西の制海権は保持したままであったが〜〜〜
  次第に戦況は毛利側の不利となっていった。

・天正7年(1579) 10月、毛利氏の傘下にあった備前国の宇喜多
直家が織田信長に通じて、毛利輝元から離反した。
 以降美作・備前各地を転戦して毛利輝元と合戦を繰り返した

・天正8年(1580) 1月 ▲三木合戦
織田軍羽柴秀吉が三木城を長期に渡って包囲ししていた。
 三木城は開城、別所長治は自害した。
※「三木の干殺し」と呼ばれる三木城の兵糧攻めは1年
 10ヶ月を要した。
 
 5月 播磨(兵庫県南部)を平定した羽柴秀吉は、弟:羽柴
  秀長に但馬(兵庫県北部)を攻めさせた。
  そして、羽柴秀吉は但馬の山名祐豊を討ち取り、但馬を
  平定した。

  羽柴秀吉は因幡(鳥取県東部)鳥取城を攻撃した。
  城主・山名豊国であった。

 6月、羽柴秀吉の軍勢が山名豊国の鳥取城を包囲を開始した。

  羽柴秀吉が
  「降伏すれば因幡1国を安堵する。」
  と話を持ちかけた。
  山名豊国は羽柴秀吉に降伏した。
  鳥取城を落とした羽柴秀吉は播磨へと引き上げた。

   9月、山名豊国の家臣や兵は毛利輝元に通じ、羽柴秀吉に
  降伏した城主:山名豊国を追放して鳥取城に籠城した。

 鳥取城で籠城する家臣は、吉川元春に守将の派遣を求めた。
毛利輝元は山陰の責任者:吉川元春に派遣を命じた。
  牛尾元貞を鳥取城へ派遣した。
 しかし、牛尾元貞は鳥取城で籠城中、死亡した。
このため、吉川元春は市川雅楽允・朝枝春元を鳥取城へ派遣したが、
 鳥取城では吉川元春に守将を要求した。
 吉川元春は吉川経家を鳥取城に派遣した。

・天正9年(1581) 3月 吉川経家が鳥取城へ入った。
※吉川経家は棺桶を用意して鳥取城へ入ったという。

・天正9年(1581)6月、羽柴秀吉は鳥取城への再派兵を決定した。
  黒田官兵衛を軍師とし、2万の軍勢を率いて鳥取城を目指した。

 軍師:黒田官兵衛は鳥取城を攻めるため、因幡にある米を相場の
 倍値段で買い占め、若狭へと運んでいた。
 さらに、黒田官兵衛は鳥取城を包囲する直前に、鳥取城の周辺の
 農村を襲い、ことごとく焼き払った。農民は鳥取城へ逃げ込ませ
 ろ知略を考えついた。鳥取城の人口は一気に膨れあがった。

そこで、黒田官兵衛は2万の大軍で鳥取城を包囲し、兵糧攻めに
したのである。
 鳥取城には20日分の兵糧しか残っていなかったという。
 鳥取城内では草や木の葉を食べ、稲の根を食べた。木の皮や草の根
 を食べ尽くし、牛や馬の肉を食べたが、食料は足らなかった。

毛利輝元は羽柴秀吉が2万の大軍で海路も陸路も完全に封鎖している
ため、鳥取城まで到達できなかった。鳥取城は完全に孤立した。

10月 籠城開始から4ヶ月が過ぎた。4千人の餓死者が出た。
  鳥取城内では、人肉を食べた言われている。

 ※鳥取城の籠城戦が、「鳥取の飢殺し」である。

 10月25日、 地獄のような状況にに耐えきれなくなった守将:
  吉川経家は、兵士の助命と引き替えに切腹して、開城した。
(★軍師:官兵衛の本多数、NHK大河ドラマ)

 毛利輝元は叔父:吉川元春:小早川隆景らと共に出陣した。
 しかし、織田信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも
 南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれていった。

・天正10年(1582) 4月、備中高松城の戦い:水攻め。
 羽柴秀吉は毛利氏の忠臣:清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃した。
 
 毛利輝元は、元春・隆景らと共に総勢4万の軍勢を率い、羽柴秀吉
と対峙した。
 ・6月2日、 本能寺の変・・・明智光秀の謀反?
  織田信長が死んだ。
 「信長の死」の情報を得た豊臣秀吉は、信長の死を秘密にしたまま
 毛利輝元との和睦を模索した。
 毛利氏の僧:安国寺恵瓊に働きかけた。羽柴秀吉から
 「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている。」
 と知らされた。
 毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった。
 毛利輝元は領地を維持したまま織田方と和睦を結んだ。
 結果・・・備中高松城は開城。城主:清水宗治は切腹。

 ●毛利輝元は羽柴秀吉との協力路線へと転換することになった。

※軍師:黒田官兵衛の策もあり、毛利との処理が済むと、
 大どんでん返しで備中から、京へ向かった。
 山崎の戦いで・・・明智光秀が農民に殺された。

・6月 本能寺の変により信長の死後、羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を
 巡り対立した。
 ●毛利輝元は柴田勝家・羽柴秀吉の両方から味方になるよう誘いを
 受けた。状況をを見て最終的には中立を保った。

・天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦い
毛利輝元は参戦しなかった。
  しかし、毛利輝元は羽柴秀吉には戦勝祝いを贈った。

 ●毛利輝元は羽柴秀吉を次期の天下人をと見定めて接近した。
 毛利輝元は人質として叔父:毛利元総(秀包)や従兄弟:吉川
 経言を差し出し、羽柴秀吉に臣従した。

・天正12年(1584)
1月、 長宗我部氏の伊予侵攻
毛利輝元は河野氏援助のため伊予に援軍を派兵した。
 毛利輝元と長宗我部元親の関係が崩れた。

 3月  小牧・長久手の戦い
  長宗我部元親は徳川家康・織田信雄と結び、紀伊の根来・雑賀衆
 と協力して羽柴秀吉の背後を脅かした。

 6月、長宗我部元親は讃岐十河城を攻略した。
 
・10月19日 長宗我部元親が西園寺公広の黒瀬城(愛媛県
  西予市)を攻略した。西園寺公広が長宗我部元親に臣従した。

 11月 徳川家康・織田信雄とはは羽柴秀吉の間で和議が結ばれた。

・天正13年(1585) 3月〜4月 羽柴秀吉の紀州攻め
  長宗我部元親の同盟勢力である根来・雑賀衆を潰した。
  長宗我部元親は軍事的に孤立した。

・天正13年(1585) 四国攻め
毛利輝元も伊予に小早川隆景:児玉就英らを派遣した。
 小早川隆景に西園寺公広は降伏した。
 
 ●毛利輝元は河野氏・西園寺氏への支援を強化した。

・天正14年(1586) 羽柴秀吉の九州侵攻
 ●毛利輝元は先鋒として参加した。
  武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。
  
  11月15日(12月25日) 吉川元春が病のために小倉城にて死去
   した・

・天正15年(1587) 5月、吉川元長も出陣先の日向で病に倒れ、
  6月15日に日向都於郡で病死した。享年40。
  跡を弟:吉川広家が継いだ。
  ★毛利輝元は吉川元春・元長親子の死を悲しんだ。

・天正16年(1588) 7月
  ●毛利輝元は上洛した。
  従四位下参議に任官された。
  豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、羽柴安芸宰相と称された。

・天正17年(1589)
 ●羽柴秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を
  開始した。太田川の三角州(五箇村)は交通の要衝であった。
画像


・天正19年(1591) 毛利氏の居城:吉田郡山城から、
 まだ工事中であった●広島城に入った。


3月、羽柴秀吉より
 ●知行目録を与えられ112万石の所領を安堵された。

・文禄元年(1592) 朝鮮出兵
毛利輝元は主力軍として兵3万を派遣した。

・文禄4年(1595)
 ●毛利輝元は従三位権中納言となった。

・慶長2年(1597)朝鮮出兵
小早川隆景が死去。
小早川家臣は養子:小早川秀秋に仕えることを嫌い、毛利家に
 帰参する者が多かった。しかし、毛利家中では外様視されてし
 まい出奔する者も多く出た。
 ●毛利輝元は鵜飼元辰も出奔を企てたため、殺害させた。

 ●毛利輝元は豊臣秀吉より五大老に任じられた。

・慶長3年(1598) 8月
 ●毛利輝元あh臨終間近の羽柴秀吉に、遺児:豊臣
  秀頼の補佐を託された。

9月18日 伏見城で豊臣秀吉死去。


・慶長5年(1600)
徳川家康 VS 石田三成
武力闘争に発展。
6月 徳川家康が上杉景勝討伐に出陣した。
7月 石田三成が挙兵した。
   石田三成は総大将に就かず、毛利輝元を西軍の総大将として
   擁立しようと画策した。
   安国寺恵瓊の説得を受けた毛利輝元は、総大将への就任を一門
   や重臣に相談することなく受諾した。(一般説)

7月17日、毛利輝元は西軍の総大将として大坂城西の丸に入った。
 ★徳川家康の思い・・
  毛利輝元が西軍に加わり、名目上とはいえ総大将になったことは、
  徳川家康にとって大誤算であったであろう。どうしたら、勝てる
  だろう
 ●毛利輝元の思惑
 毛利輝元は毛利家が西軍に参加する条件は、西軍勝利の暁には
 自分(毛利輝元)が筆頭大老になることであった。
 毛利輝元は逆賊家康を打つという正義の味方としての大義名分が
 あるので、自分の役割に満足していたのかもしれない。
 でも、自分の利益も欲しい。・・・
 吉川広元を東に派遣し・・・
 一方で、毛利輝元は西では、勢力拡大を図っていた。
 東国での戦闘でごたごたしている間に西国における覇権を
 確立しておけば、徳川家康が負けても勝っても有利な状況で
 状況になるであろう。徳川家康が勝った場合、有利な外交が
 できるのではないかと毛利輝元は考えたのだ。
四国九州において占領活動を行なった。
 
7月29日 徳川家康派:蜂須賀家政から没収した阿波の領地に毛利勢
      が入国した。
8月18日 藤堂高虎の伊予領内へ調略を行った。
8月18日 毛利軍は豊前門司に進出した。
8月27日  伊予加藤嘉明領へ武力侵攻。
9月17日〜23日 毛利輝元軍 VS 加藤嘉明軍。
     毛利軍は豊前小倉占拠。

 ★毛利輝元も徳川家康も石田三成の関が原が決戦場になるとは
  想定していなかったかもしれない。

 ★吉川広元の思惑
  吉川広元は西軍が負けると判断していた。黒田長政を通じて
  本領安堵、家名存続の交渉を徳川家康と行っていた。

9月15日 関ヶ原本戦
 ●毛利輝元は自らは出陣せず、毛利秀元と吉川広家を出陣させた。
  関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は
  不戦を貫いた。   
関ヶ原の役は、午後になって小早川秀秋が東軍に寝返るまでは、
  ほぼ互角であった。小早川秀秋の寝返りによって西軍は壊滅に
  追い込まれました。小早川隆景の養子:小早川秀秋はまさに
  毛利家の動きによって関ヶ原合戦の勝敗が決定したのだ。
   
 ※結果・・・関が原の戦いで徳川家康が
   短期間で勝利してしまった。
   毛利輝元の四国・九州の覇権は失敗してしまった。
   毛利輝元は豊臣秀頼を奉じる豊臣家臣という大義名分を重んじ
   ながら一方では毛利家の利益の確保のために行動した。

もし、毛利輝元が出陣していたら
   毛利全軍4万の兵が西軍に加わったなら、確実に徳川家康は
  負けていただろう。毛利輝元が大坂を出発したという報せがあ
  っただけでも、小早川秀秋は東軍に寝返ることを断念しただろ
  う。ましては、最初から毛利輝元が直々出馬となれば、戦闘回
  避に躍起になっていた吉川広家も迷わず、戦ったであろう。
  そして、関ヶ原の戦いに西軍が勝っていただろう。

 ●吉川広家の思惑
  ★もしかすると山陰の本領安堵だけでなく、
  加増も期待できると思ったかもしれない。
  
  吉川広家は黒田長政に使者を送り、
  「秀元ともども御本陣へ赴くべきところであるが、当方いまだ
  引き払いがだし。後日、大坂においてに輝元と同時にお礼申し
  上げる所存。」
  と申し伝え陣を払った。

9月17日、徳川家康は黒田長政、福島正則の2人の連署で
 「合戦を引き起こしたのは石田三成らの逆心であり、輝元の責任は
 問わない。」
 という旨の書状を大坂城の毛利輝元に送った。

9月24日 
  ●毛利輝元は大坂城西ノ丸を退去した。
  立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、
  大坂城から退去したのである。

しかし、徳川家康は「毛利輝元が西軍と関わりない。」との吉川広家
 の弁解とは異なり、大坂城で毛利輝元が西軍に関与した書状を
 多数押収した。
 徳川家康は「お咎めなし。」の約束を反故にして毛利輝元を改易
 にした。
 
 吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせ
 ようとした。
 しかし、吉川広家は徳川家康に直談判して毛利氏の存続を訴えた。
 毛利輝元は隠居のまま、毛利秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵
 とするという形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。
 ただし、毛利所領は周防・長門2ヶ国の37万石に大減封となった。


★明日は、「毛利輝元&萩城へ」かな?

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