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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『館林城2回目』5代将軍:徳川綱吉のいた城

<<   作成日時 : 2015/11/25 06:51   >>

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・文明3年(1471) 享徳の乱で館林城が滅ぼされた。天文元年(1532)
赤井照光が築城したとも伝えられている。戦国時代、上杉謙信の関
東出撃駐屯地となった。天正18年(1590)豊臣秀吉の家臣:石田三
成に攻略された。その後、徳川四天王:榊原康政が石垣や天守を持
つ近世城郭に造り変えた。徳川綱吉や秋元氏も在城した。
現在、館林城跡地には館林市役所、館林市文化会館、館林
市立図書館、向井千秋記念子ども科学館・田山花袋記念文学館な
どが建てられている。公園や駐車場にもなっている。館林城の一
部の遺構を残しているのみである。三の丸に残る土塁は見事であ
った。
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 (★絵はがき)


箕輪初心◆群馬:【館林城】&茂林寺&田中正造の墓
http://53922401.at.webry.info/201311/article_12.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_12.html

箕輪初心▲埼玉【羽生城】:上杉謙信の忠臣:木戸忠朝
http://53922401.at.webry.info/201408/article_24.html

箕輪初心●埼玉『忍城』=城代:成田長親【のぼうの城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_6.html

箕輪初心:生方▲20151110【総社秋元公歴史まつり】:秋元長朝の功績
&光厳寺&元景寺
http://53922401.at.webry.info/201511/article_10.html

箕輪初心:生方★高崎城&長野堰【井伊直政&秋元長朝&新井喜左衛門】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_10.html
★秋元長朝はおそらく高崎城の内堀・用水路・遠構え
 建築に貢献したのだ。

箕輪初心:生方▲【上野総社藩2代目:秋元泰朝の生涯】
http://53922401.at.webry.info/201511/article_11.html

箕輪初心:生方▲群馬県明和町【シクラメン】&『水害の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_21.html

箕輪初心:生方▲群馬県板倉町【うおとし】のナマズ料理&
『ナマズの話』
http://53922401.at.webry.info/201511/article_22.html

箕輪初心:生方▲群馬板倉町【雷電神社】&『雷と空っ風 義理人情
かかあ天下』の話
http://53922401.at.webry.info/201511/article_23.html

◆訪問日1・・・平成20年(2007)8月?日
◆訪問日2・・・平成27年(2015)11月15日
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城沼を城の東側の外堀とし、沼に突き出す形の低台地にあった。
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 (★群馬県立博物館企画展)
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@本丸・・・現向井千秋子ども科学館〜田山花袋記念文学館〜南
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Aかつての水堀・・・消滅。現メイン道路。

B八幡郭:本殿・・・旧秋元邸・館林城跡出土土塁群
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C南郭・・・・八幡郭西〜現市役所東広場
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 ★森の部分から西
○湖沼・・・現菖蒲園
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D二の丸・・・・現市役所〜現市役所東広場
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Eかつての本丸門&城沼・・市役所南駐車場
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Eかつての水堀・・・中央の道

F二の丸千貫門・・・碑のみ
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 千貫門は三の丸の北中央にある。
 かつては渡櫓門で武士の正門とされていた。
 レリーフは、館林出身の版画家:藤牧義夫の作品『山岳画集』
 に収められているものである。尾曳神社に奉納されている
 館林城絵馬を参考に描いたものともいわれる。
(★ウィキペディア)

G三の丸土橋門・・・復元門&土塁&復元狭間
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・昭和58年(1983) 館林のシンボルとして城壁とともに復元された。
館林城の三の丸の通用門として使われた。「土橋門」の名前の由
 来は、門前の内堀に架けられた「土橋」からきたと言われている。
 また、防御用に黒色の鉄板が打ち付けられていて「黒門」とも
 呼がれている。
・内側に入ると
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H三の丸・・・・現館林市文化会館・第一史料館工事中〜館林図書館
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 ★パンフレットや印がある。
 
※@〜Hを取り囲むように・・・水堀=メイン道路北に・・
○城下町

○西の三の丸入り口
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I稲荷郭・・・現尾曳稲荷神社
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Jかつての水堀
K外郭・・・・・・・尾曳町の館林女子高校
Jかつての水堀
K惣郭・・・西に城下町の鷹匠町など〜大手門跡
  東の侍屋敷〜西の城下町を隔てていた。
  大手門→約400mにわたり「大名小路」と呼ばれる大路が伸び、
  広小路、千貫門へと続いた。
  大手門跡は現三角公園(大手町)の北東隅にあった。
  現在大手門跡碑が残されているのみである。
 水堀を挟んで北に尾曳町などの侍屋敷の城下町が広がっている。
L外堀



◆◆ 館林城の歴史 ◆◆
・文明3年(1471) 享徳の乱
  関東管領:上杉顕定 VS 古河公方:足利成氏
5月23日 舞木氏被官:赤井氏が上杉顕定に滅ぼされた。

  上杉(顕定)軍が赤井文六、文三の居城である
  「立林(館林)城」を攻略した。
(★足利成氏書状・上杉顕定感状)
「彼城の地利、湖水三方押廻され、責口一法なり」
(★松陰私語)

・享禄3年(1530) 鎌倉以来、館林を治めてきた赤井氏の当主:
  照光により築城を開始された。

・享禄4年(153) 赤井照光が移り住んだ説。
・天文元年(1532)  赤井照光が築城説。
  (築城時期は3説あり・・江戸時代に書かかれた書物)

●赤井照光の「狐の尾曳伝説」
@「赤井照光が子ぎつねを助けたところ、お稲荷様の化身の白狐
 が現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれた。k}
A赤井照光は、ある日傷ついた子狐を助けたところ、夢の中に白狐
 が現れ、尾を曳いて城の縄張を照光に授けた。」
 「尾曳城」とも言われている。

・弘治2年(1556) 赤井照康が築城した説
(★日本城郭大系)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄5年(1562) 長尾景虎の第一回関東出陣。
 長尾景虎(上杉謙信)の関東出陣に際して、城主赤井氏は
 戦わず、降伏開城し、武蔵忍城に落ちた。
 上杉謙信の支配時は足利城の足利長尾景長が城主を勤めた。
 上杉謙信の関東出陣の際には厩橋(前橋)城・館林城・羽生城・
 岩付(岩槻)城などが駐屯地となった。

・永禄9年(1566) 9月 上野金山城主:由良成繁が上杉輝虎
  (上杉謙信)に背いた。
9 月29日 武田信玄が西上野の最後の拠点:箕輪城が攻撃を受けて
  落城した。城主・長野氏業(業盛)は自刃し、西上野全域に武田
  の勢力が伸びた。
  関東において、北条氏康・武田信玄の両者と戦う状況となり、
 守勢に回る。
  

・永禄12年(1569) 館林城代:長尾景長が死去。
 太田金山城の由良氏より養子を迎え、長尾顕長と称した。
長尾顕長は上杉謙信に属した。

・元亀元年(1570) 羽生城主:広田直繁は上野館林城に移った。
     木戸忠朝が羽生城に移った。
 しかし、広田直繁は館林城で十分な支配体制を構築でき
  なかった。

・元亀2年(1571) 広田直繁は前館林城主:長尾顕長に館林領:
  善長寺で謀殺された。

・元亀3年(1572) 相越同盟が破棄された。
8月 北条氏政は石土城→羽生城を攻めようとした。
  上杉謙信は木戸忠朝に救援に行くことを伝え、
    羽生城の守備を一層厳重にするよう命じた。

  しかし、下総栗橋城主:北条氏照軍により大敗した。
    木戸忠朝は上野金山城へ敗走した。

天正元年(1573) 8月、上杉謙信が越中朝日山城を攻撃。
  北条氏政が上野国に侵攻。
  
・天正元年(1573) 北条氏政は羽生城を攻めた。
   松山城の上杉憲盛も降伏した。
  上杉謙信は松山城救援に間に合わなかった。
   上杉憲盛の子を殺し、腹いせに、石土城(北本市)
  騎西城などで大量虐殺3000人?をした。
   上杉謙信は羽生城を奪還した。

・天正2年(1574)
3月 膳城・女淵城・深沢城・山上城・御覧田城を立て続けに
    攻め落とした。
    上杉謙信は上野金山城主;由良成繁を攻撃。
     しかし、金山城を陥落させられなかった。
4月10日 第二次利根川の対陣
北条氏の羽生城攻撃
  上杉謙信が北条氏に苦戦する羽生城を救援する
  ために上州館林大輪に陣をとった。
  北条氏政と再び利根川を挟んで相対した。
  上杉謙信は利根川の増水や金山城主:由良成繁の離反に
  より積極的な支援ができなかった。
  利根川の水かさが多く渡ることができなかった。
  羽生城へ食料や弾薬を送ろうとするが、北条に
  奪われてしまった。

4月11日 上杉謙信は館林の陣を引き払った。
       北条氏も羽生を離れた。
 5月 上杉謙信は越後国へ帰国。

10月 上杉謙信は越中から関東へ出陣、武蔵国に攻め入って
    後方かく乱を狙った。
上杉軍は騎西城・忍城・鉢形城・菖蒲城など諸城の領内に
   火を放ち北条軍を牽制した。
 
10月の末 北条氏は羽生城を攻めた。
 上杉謙信は駆けつけた時には、北条氏照に攻めら
 れ城主:木戸忠朝は討死した。
 ★木戸忠朝は責任を感じて自害していたのかもしれない。
  木戸忠朝は上杉謙信をただ一人を主人としてい
  たのに・・・惜しい人を亡くした。

11月 第三次関宿合戦
 北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃した。
  簗田持助は佐竹義重・上杉謙信らに救援を求めた。

 上杉謙信は佐竹義重に同陣を呼びかけた。
  佐竹義重が上杉謙信の心変わりを警戒して動かなかった。
 佐竹義重は小山城(祇園城)まで来たところで、
 北条氏と講和を結んだ。
 上杉輝虎は関東進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するように
 なっていった。 
北条の大軍に攻撃を仕掛けることまではできなかった。
 このため関宿城は結局降伏することとなってしまった

 簗田持助は関宿城を開城し水海城へ撤退した。

    
 ★関東管領:上杉謙信 VS 古河公方の父:北条氏康
  どちらも、関東を掌握する大義名分を持っていた。

 羽生は上杉謙信と北条氏康が激戦を繰り広げた地であった。
  関東に13回出陣した上杉謙信・・・北条氏康は松山城や
  岩槻城などの要地を徐々に押さえていった。
  
  さすがの上杉謙信も武蔵北部に追い詰められていった。
  そして、武蔵最後の拠点:羽生城は「第3次関宿合戦」の
  敗北。そして佐竹氏の背信・由良氏の離反・・・・で、
  上杉謙信は
 「関東なんて、北条にくれてやらあ。わしゃ、疲れた。
  もぅ、や〜めた。・・・」
  上杉謙信は自らの命で羽生城を破却させた。
  「越後からでは救援に間に合わない。」
  「敵の手に渡るよりは破脚してしまえ。・・・」
  と考えたのであろう。
 上杉謙信は北武蔵が難しくなった現状を実感した。
  
  上杉謙信は羽生城が越後から救援が間に合わないのを
  恐れて破却させた。羽生城を自落させた。
  14年間、上杉謙信の羽生城は支配下であった。
  木戸忠朝は14年も上杉謙信を裏切らなかった武将である。
 上杉謙信は木戸忠朝の家臣ら1000の城兵を上野膳城(新里)
 に移すこと命じた。城兵は上野国:膳城へと撤退した。
  木戸忠朝の子:木戸元斎は上州膳城に配置された。
  広田直繁の子:菅原為繁は上州山上城に配置された。
  2人は羽生城を取り戻す機会を願っていたが、果たせな
  かった。赤城神社にも参拝したのに・・・・

上杉謙信は北条方の古河公方:足利義氏(北条氏政が外戚)
   を古河城に攻めているが、既に関東では上杉派の勢力を大
   きく低下していた。

結局、上杉謙信の「関東出兵」は13回で終了した。
  これ以後、2度と三国峠を越山することはなかった。

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・天正3年(1575) 上杉謙信撤退
「鬼のいぬ間に・・・」
  羽生城は北条方:忍城主:成田下総守氏長の支配地となっ
  た。城代として成田大蔵少輔長親(★のぼう様)、善照寺
  向用斎、野沢民部らが置かれた。

・天正6年(1578) 3月13日(4月19日)上杉謙信の死。
   後は北条氏、武田氏などにたびたび攻められた。

・天正13年(1585) 金山合戦
  北条氏の謀略で、長尾顕長と兄:太田金山城主・由良国繁が
  小田原城に監禁された。
  館林城・金山城・足利城は北条氏政・氏直は武蔵鉢形城の北条氏邦
  を総大将に、忍城・岩槻城などの軍勢2万に攻撃された。
  金山城の由良国繁は北条氏邦に降伏した。
  館林城の長尾顕長は北条氏邦に抗戦した。
 

・天正16年(1588)
 長尾顕長は両崖山城の支城:岩井山城(栃木県足利市:勧農城)
 に撤退。
 北条氏邦が長尾顕長を攻略。
 →伊豆韮山城主:北条氏規が館林城主となった。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城攻撃。
 館林城は北条氏規の城代:南条因幡守が守っていた。
3月29日 山中城落城
4月10日 松井田城落城
4月12日 武州松山城落城
4月27日 江戸城落城
5月1日   川越城落城
5月22日 岩槻城落城

石田三成は豊臣秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を
 命じられた。
 石田三成を総大将とする別働隊の
 大谷吉継・長束正家・佐竹義宣・多賀谷重経・北条氏勝・真田昌幸
 ら総勢2万3千余の大軍であった。
石田軍は館林城の外堀:城沼に大木を投げ入れ道を造った。
 しかし、一晩で沈んでしまった。
  狐の霊力とおそれ?、力攻めを諦めた。陸上からの包囲
 作戦をとった。
 5月29日 館林城落城 
 北条氏勝(玉縄北条氏)の斡旋で和議開城した。

 石田三成を総大将とする別働隊の大谷吉継・長束正家・佐竹義宣
 ・多賀谷重経・北条氏勝・真田昌幸ら総勢2万3千余の大軍は
 次に忍城を水攻めで攻した。
 しかし、忍城は北条氏降伏まで持ちこたえた。
  
 7月5日→北条氏の滅亡。


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 8月 徳川家康の関東入封に伴って、徳川家康は榊原康政を
   館林城主とした。10万石で入城した。
  榊原康政は検地を行った。
  館林城の城郭拡張工事を行って、近世城郭に造り替えた。
城下町の移転整備を行い、現在に続く館林が形作られた。

・慶長11年(1606) 榊原康政→榊原康勝になった。
・元和元年(1615) 榊原忠次が11万石で継いだ。

・寛永20年(1643) 榊原忠次が陸奥白河に転封した。
 
・その後館林領は24年間、一時天領となった。

・正保元年(1644)〜寛文元年(1661)松平家
 大給松平家 遠江浜松から老中:松平乗寿が6万石で館林城に入
 城した。

・承応3年(1654) 松平乗久が継いだ。

・寛文元年(1661) 松平乗久が下総佐倉に転封となった。

・寛文元年(1661)〜延宝8年(1680)徳川綱吉
  徳川家光の第4子:徳川綱吉が25万石で城主となった。
  約20年間に将軍家の威光を示すために城郭が修築整備された。
  館林城は黄金期を迎えた。

徳川綱吉は館林藩主となったが、江戸在住であった。
  家臣の8割も神田の御殿に詰めていた。

・寛文3年(1663) 4代将軍:徳川家綱に随伴した日光詣での帰路
  に初めて館林城に寄った。これ1回のみであった。

・寛文10年(1670) 牧野成貞を館林藩家老3,000石に抜擢した。
 
・延宝8年(1680)徳川綱吉は5代将軍になった。
  綱吉の嫡男:徳松は館林城主を継いだ。

・天和3年(1683)徳川徳松わずか5歳で亡くなった。
  徳川綱吉は館林城を廃城にしてしまった。

・24年間、天領になった。

・宝永4年(1707) 6代将軍:徳川家宣の弟:松平清武
  (越智松平家祖)が館林城に2万4千石で入封。
  松平清武が館林城は規模を縮小して再築された。
  本丸に天守代用の二重櫓・南曲輪二重櫓と三ノ丸二重櫓が
  一基ずつ上げられた。
館林城を再健した。
・宝永7年(1710) 松平清武は1万石加増された。
・正徳2年(1712) 松平清武は2万石加増されて5万4千石となった。
・享保9年(1724) 松平清武の養子:松平武雅が継いだ。

・享保13年(1728)松平武雅の養子:松平武元が継いだが、
  松平武元が家督を相続した日に陸奥棚倉へ転封になった。
  陸奥棚倉から太田資晴が5万石で入封した。

・享保19年(1734) 太田資晴が若年寄かた大坂城代となり、
   館林領は再度天領となり、城番を置いた。

・元文5年(1740) 太田資晴の子:資俊が5万石で入封した。

・延享3年(1746) 太田資俊は遠江掛川に転封となった。
越智松平家:松平武元が陸奥棚倉よりが5万4千石で入封した。

・明和6年(1769)松平武元が7千石の加増を受けて6万1千石となった。

・安永8年(1779) 松平武寛が跡を継いだ。

・天明4年(1784) 松平斉厚が跡を継いだ。

・天保7年(1836) 松平斉厚が石見浜田へ転封となった。 
井上正春が6万石で陸奥棚倉より入封した。

・弘化2年(1845) 井上正春が遠江浜松へ転封となった。
   出羽山形から秋元志朝が6万石で入封した。

・文久2年(1862) 秋元志朝が雄略天皇陵の修復に着手する。

・元治元年(1864) 養子:秋元礼朝が襲封する。

  秋元礼朝は戊辰戦争時、新政府軍に加わった。
  関東・東北方面の戦争に部隊を派遣した。
・明治維新
・明治2年(1869)

・明治3年(1870) 廃藩置県を迎え廃城となった。
廃藩して館林県となった。
秋元礼朝は藩知事になった。

・明治7年(1874)大名小路より出火した火災により館林城のほぼ
  半分を焼失。焼け残った城内の建物は取り壊され、わずかな
  部材は小学校などの建設に再利用された。

・現在  本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残さ
 れている。三の丸には土橋門が復元されている。

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