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zoom RSS 箕輪初心:生方★2015高崎【山口薫の生涯:復刻版】

<<   作成日時 : 2015/09/13 07:48   >>

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★山口薫は高崎市箕郷町金敷平出身の洋画家である。山口薫画
伯の生家&墓は、『車持の君の善地地区』&箕輪城・箕輪小学校
の間にある。山口薫画伯は子どもの頃から絵に優れた才能があっ
た。山口薫の身内に画家がいた。育った箕輪・環境が題材にあっ
た。今回は高崎中学時代の絵&京都何必館の絵などに視点を当
ててみようと思っている。
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 (★絶筆:おぼろ月に輪舞する子供達)
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 (★箕輪小学校蔵)




箕輪初心★高崎偉人伝【山口薫】モダンアート洋画家
http://53922401.at.webry.info/201310/article_25.html
<< 作成日時 : 2013/10/25 05:37 >>

箕輪初心■群馬高崎「ひな人形=蔵人アンティーク」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_4.html
 ★宮川家

箕輪初心★群馬『関口コオ先生』=切り絵の第一人者
http://53922401.at.webry.info/201302/article_25.html


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箕輪初心:生方▲2015高崎『万葉集東歌:エロい伊香保9首』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_9.html

箕輪初心:生方▲2015高崎『万葉集上野国エロ東歌』
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newsedit.do

箕輪初心:生方▲群馬『豊城入彦命の子孫:上毛野氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_11.html

箕輪初心:生方▲『車持神社』&車持与志古娘の子:藤原不比等伝説
http://53922401.at.webry.info/201509/article_12.html

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箕輪初心●箕輪城シリーズ36第5回箕輪城祭り2007年写真集
http://53922401.at.webry.info/201010/article_56.html

箕輪初心■箕輪城シリーズ37第6回箕輪城祭り写真集
http://53922401.at.webry.info/201010/article_57.html

箕輪初心■箕輪城スリーズ39第8回箕輪城祭り写真集
http://53922401.at.webry.info/201010/article_59.html

箕輪初心■箕輪城73【第9回箕輪城祭り】写真集
http://53922401.at.webry.info/201110/article_29.html

箕輪初心●箕輪城84『2012年第10回箕輪城祭り』
http://53922401.at.webry.info/201210/article_29.html

箕輪初心●箕輪城114『2013年第11回箕輪城祭り』写真集
http://53922401.at.webry.info/201310/article_28.html

箕輪初心●箕輪145『2014年第12回箕輪城祭り』写真集
http://53922401.at.webry.info/201410/article_32.html






【0】 山口一族の先祖
・???? 山口家は朝鮮李王朝の末裔であるという。
・室町時代 周防山口(山口県)の出である。
  大内家(★塚原卜伝も世話になった)の子孫が山口を名乗った。
・戦国時代 箕輪城が廃城となった頃、金敷平に移り住み着いた。
  金敷とは鉄を加工する職人の一族という意味もあるそうだ。
  山口総本家は代々名主を世襲していた。
  系図もちゃんとある。叔父の東大出の山口哲朗(★山口薫の甥)
  という方が調べたとおっしゃっていた。
  (★当時前市女先生:山口先生の説明)
 ★山口一族は頭脳明晰で高学歴らしい?
  一族には下士官も2〜3人いるらしい。



【1】 山口薫の兄:山口求馬
・明治23年(1890)群馬郡箕輪村(現高崎市箕郷町)金敷平
 父:山口彦太郎&母:佐登の3男として生まれた
・箕輪小学校→高崎中学校(現高崎高校)→仙台第2高等学校
 →東京帝国大学農芸科を優秀な成績で卒業した。
・東京専売公社に就職。・・・技師になり、渡米した。
 渡米中に、福田赳夫にあった。
・仙台局の課長→○・○・○・東京局の製造課長に昇進。
・昭和12年(1937) 48歳で病没。
 ※山口求馬の実弟:祐三郎の次男が後を継いだ。


【2】 山口諒司:山口薫の甥だが年上の教育者&画家
・明治34年(1901)群馬郡箕輪村(現高崎市箕郷町)金敷平
  父:山口七郎・・八男:山口薫の兄の次男。
・箕輪小学校→→高崎中学校(現高崎高校)
・大正10年(1921) 群馬県師範学校に入学。 
・大正11年(1922) 上野美術学校(現芸大)に師範科に再入学。
 ★山口薫より山口諒司の方が絵が上手かった。
 (★宮川氏曰く)
・大正14年(1924) 青森師範学校に赴任。
・昭和26年(1951) 箕輪中学校教諭。
・昭和42年(1909) 66歳で死亡。



【3】 山口薫の生涯
・明治40年(1907)群馬県高崎市箕郷町金敷平
  父:山口彦太郎&母:佐登の末っ子として生まれた
  8男3女の11人兄妹の末子であった。
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・幼年時代
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・箕輪小学校時代
  榛名山麓の豊かな自然・・・
  大家族の愛情&ぬくもりに包まれて育った。
  経済的にも恵まれた環境の中で、おっとりとした性格に育った。
  榛名山のふもとで農作業を手伝った。
  馬や牛を飼い、子牛や子馬が生まれては喜び、飽きずに見続け
  る子どもだったらしい。・・・★絵に表現されている。
  郷里:高崎市箕郷町は生涯に渡り心の拠り所であり、作品にも
  深い影響を与えているのである。
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 (★箕輪小学校の奧:法峰寺&箕輪城木俣郭)

※「絵画で、県の一等賞を貰った。凄かった。
 ランクがちがうんだなあ。1年〜・・まで、全部出品
 されていた。一等賞はこれだよ。複製さ。」
 見せて下さった。 
(★宮川氏曰く・・・もちろん絵画は残っていない。)
※宮川家は山口家だけでなく、深井英伍とも関係があった。
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群馬県立高崎中学校(群馬県立高崎高等学校)時代
13歳・・・群馬県立高崎中学校に入学した。
 入学時より成績優秀であった。
 剣道、テニス、水泳、乗馬もこなした。
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 日々の学校生活の印象深い出来事を絵と文字を自在に操って
 物語風に仕立てた日記を書いた。
詩的で寂しさを含んだ文章と併せて、小さな画面は豊かな世界を
 のぞかせている。絵日記の描写力や抒情には、画家としての原風
景が垣間見えるのである。
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・・・・・・・
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 (★今井善一郎氏編集)


 14歳・・・油絵を始めたのは、姉に当時珍しかった油絵具を買っ
   てもらったことが、油絵の道に進むきっかけになった。

※兄(年上の甥)も東京美術学校に進んでいたことも理由の一つだと
 当時、前橋中学校に行っていた宮川さんが言っていた。
 (★箕輪町の宮川さん曰く)

※身内の兄:山口求馬や従兄弟(年上の甥)*山口諒司やが才能を
 見抜いていたと思われる。

誰も高崎市史や箕郷町誌で書いていないので、分からないが
 山口諒司の影響が大きいのではないだろうか?


B宮川さんの山口薫の思い出
学生時代からの仲間・・・山口家(山口薫・山口正彦・山口保)、
 下田氏と仲良しだった。
   

・大正15年(1926) 17歳・・・高崎中学4年修了。
   水戸高校を受験して、失敗。
水戸高校を受けたのは、2年先輩に、箕郷町西明屋
(★箕輪小学校の信号を降りて2軒目)に坂和一郎画伯が
  水戸高校に進学したからかもしれない。
 
 ※坂和一郎は水戸高校→東京帝国大学農学部を出た。
・大正10年(1921)には、勢多農林学校の教師となった。
「高崎創画研究会」のメンバーであった。
後に、坂和一郎・松本忠義・山口薫は箕郷町で、
「白樹社」を創建した。
 (★元箕郷中学校校長:田中準造先生の文責)
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 (★坂和一郎邸から椿山砦「白樹社」方面を望む)

東京美術学校を受験するために冬期休暇に東京の
川端画学校でデザインを学んだ。
  
高崎中学を卒業。


※山口薫17歳作
「 ふるさとの 山がかすかに 拳ほど
     都にのぼる 吾を送るか  」

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 (★保渡田古墳群:薬師塚古墳の先は箕輪の
   地区である。)




東京美術学校(東京芸術大学)時代
   西洋画科に進学
   群を抜いた描写力が認められ、2年に進級すると特待生に
   なった。
   力強く若々しい筆致の自画像が残っている。


・昭和元年(1926) 第7回帝展に初入選。
  『静物』
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・昭和2年(1927) 第8回帝展に入選
 2年連続で帝展に入選。


・昭和4年(1929) 第4回国画会展に入選

・昭和5年(1930) 第17回二科会展に入選。

・昭和5年(1930)卒業。
 9月末、横浜港より靖国丸にて渡航。
     川島理一郎、矢橋六郎と同行・・
  11月 パリ着。

・昭和6年(1931) 24歳

4月 ヴァルジネ街のVilla Leone Studioに移る。
7月 矢橋六郎、村井正誠とパリを発ち、ルーアンを経てノルマン
ジーへ小旅行。エトルタで写生を行なう。
12月、グランショミエール街16番地のアトリエを借りる。
(昭和7年(1932) 25歳 サントロペよりカーニュに移る。
4月 パリに戻り、エクス、ザン、プロヴァンスへ向かう。
5月 プロヴァンスよりマルティークへ移る。
9月 イタリア旅行。
12月 パリへ戻る。
  
※山口薫のサイン 
   K・YAMAGUCHI→ YAMAGOUTI
イタリア人モデル:ワンダ・ザナルディという人がやまぎし
と発音するので、変更したという。
(★40年の歩み:高崎市文化協会箕郷支部の金澤初男著)

・昭和8年(1933) 26歳
  4月 第8回国画会展に出品。

*セザンヌ、ゴーギャン、マチスなどの近代絵画に接しながら、
  足掛け3年の歳月をヨーロッパで過ごした。
  イタリアやスペインも訪れた。感動と研究の日々を送った。
  墨絵など日本的な精神の深さも再認識したのだった。

 7月、矢橋六郎とともにマルセイユより白山丸にて帰国。

東京の上北沢の自宅を建てた。
  建築費用は実家が負担した。
  箕郷から材料も職人も調達し、上州独特の樫ぐねも造った。
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 ★高崎の榛名山麓は「榛名下ろし」=空っ風が強い地区なのだ。
  静かで素朴な故郷と変わらない暮らしを再現したかったのか
  もしれない。
  
同じ箕郷町の宮川さんが東京に勤めたいた時、
 山口薫が訪ねて来たきて、
 「絵を買ってくれ?」
と頼んだ。
 「私は社長に山口薫は優れた画家なので、
  社長に頼んで、絵を2つ買った。」
と話しておられた。
宮川さんが東京就職時・・・
  山口薫画伯が宮川さんに絵を売りに来たので、
    8万円+3万円で購入。
   ・・・当時の月給12000円の時代でした。」
(★箕郷町の宮川さん曰く)

・昭和9年(1934) 新時代洋画展を結成。
4月   パリ時代の仲間たちと新時代洋画展を開催した。
津田(大津田)正豊、津田正周、長谷川三郎、村井正誠、矢橋六郎、
   シャルルユーグとともに新時代洋画展を結成した。
  
4月 第9回国画会展に出品。
5月 国画会を退会。
  
5月 第1回新時代洋画展に出品。
  以降3年程、ほぼ毎月1回づつ開かれた同展に出品を続ける。

・昭和11年(1936)29歳
7月新時代洋画展が山口を含む「新浪漫派」と「実験室」に
   分ける声明を発表する。

郷里:高崎で静養する。
   自然の中での癒しの時を過ごした。

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 ★金敷平の神社・・寺はない。
  結婚も葬式も神式の地区である。



・昭和12年(1937) 自由美術家協会を結成。
 7月 第1回自由美術家協会展に出品。
 9月 父:山口彦太郎が死去。
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・昭和13年(1938) 31歳
5月 第2回自由美術家協会展に出品。
8月 大阪大和書房にて個展。

・昭和14年(1939) 32歳
5月 第3回自由美術家協会展に出品。
10月 自由美術新作展に出品。
12月、越前谷マサ(正子)と結婚.    
・昭和15年(1940) 33歳
5月、第4回自由美術家協会展(紀元2600年記念展)に出品。
10月 美術創作秋季展に出品。
紀元二千六百年記念:美術創作家協会京城展に出品。

・昭和16年(1941) 34歳
4月 第5回美術創作家協会展に出品。
4月 長男保輔生まれる。
8月 美術創作家協会大阪小品展に出品。
10月、美術創作家協会名古屋展に出品。
11月、第1回群馬美術協会に出品。

・昭和17年(1942) 35歳
1月、矢橋六郎、森芳雄と三人展。
4月、第6回美術創作家協会展に出品。
10月、美術創作家協会会員展に出品。

・昭和18年(1943) 36歳
3月 第7回美術創作家協会展に出品。
7月 長女絢子が生まれる。
 10月、美術創作家協会会員展に出品。

・昭和19年(1944) 37歳
1月 母:佐登が死去。
5月 第8回美術創作家協会展に出品。
10月、文部省戦時特別美術展覧会に出品。

・昭和20(1945) 38歳
4月頃、郷里に疎開。
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 (★母校:箕輪小学校・・・約1km)
〜翌年12月に上京。

 ※二男一女をもうけたことは・・・画風の変化に繋がった。
 ※絵のモチーフに故郷の風景・・・
  榛名山・牛・馬・箕輪城の鎧、矢、白衣観音が現れる。
   そして、家族が加わった。
 どの作品にも柔らかな愛情がにじんでいる。
 作品は次第に具象→抽象へ、濃い色→淡い色へと変化した。
   
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・昭和20年(1945) 終戦
   サンパウロ・ビエンナーレ展やヴェネツィア・ビエンナーレ展
   などにも出品し、国内外でも高い評価を受けるようになった。
戦中、戦後と画家として暮らしていくには厳しい時代であった
   が、評価は徐々に高まり、画商から新しい作品を次々と依頼され
   るようになった。

・昭和25年(1950) モダンアート協会を結成
   日本におけるモダンアート運動の中心的な存在として作品を発表し
   続けた。
「しののめの馬」・・ロックフェラー財団の美術館収蔵。

・昭和26年(1951) 武蔵野美術大学講師に就任  

・昭和28年(1953) 46歳
第2回サンパウロビエンナーレ展に出品。

・昭和30年(1955)
   第4回サンパウロビエンナーレ展に出品。
   現代日本美術展に出品

・昭和31年(1956)
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●墓碑銘・・山口薫の自宅
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『 あしひきの 山路のここしき 道すらも
   けふよりしらす 人のこえすらむ』
明治32年春日此の道を修め4月成る
『 時鳥 自由に聞くや 丸戸張
   榛名に三里 高崎に二里 』

(★箕輪城語り部の会会長:岡田豊治先生訳)



・昭和33年(1958) 第2回グッゲンハイム国際美術展
  賞国内賞
   
  ピッツバーグ国際現代絵画彫刻展、
   ヴェネツィアビエンナーレ展等に出品を果たした。

・昭和34年(1959) 毎日美術賞
★ 松尾芭蕉に共感し・・・詩文も多い。
   「私に松尾芭蕉が住んでいる。・・・」


・昭和35年(1960) 芸術選奨文部大臣賞受賞
    箕輪城史を連想させる『矢羽根飛ぶ』を出品
深い詩情と厳しい造形意志から導かれる感性の美は、
日本人による油彩画の一つの到達点と評価された。

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・昭和37年(1962)
 愛犬:甲斐虎クマ

・昭和38年(1963)
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・昭和39年(1964) 東京芸術大学教授に就任
    母校の東京芸術大学で後進の指導にあたった。

・昭和42年(1967)
    「しのぶ鎧」
   「月に並ぶ馬」
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「過労の続く中で体調を崩し、・・・」
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 ★勲4等下賜。   
 ついに胃ガンを患った。
  
 9回の入退院の合間を縫って『おぼろ月に輪舞する子供達』
 を描いた。
月の光の中、子どもたちは手をつなぎ輪になって赤い馬が見守る。
この絵が発表されたのは、死の数日前であった。
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・昭和43年(1968)60歳で死去
現役教授のまま他界。

■山口薫画伯の墓碑・・・共同墓地
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★箕郷文化会館の緞帳・・・


★参考文献
●箕郷町誌P739
@子孫のことが書かれている。
A大好きだった松尾芭蕉のことが書かれている。
B詩も絵の脇に書いた。
・箕輪小学校
・40年の歩み:高崎市文化協会箕郷支部文責:金澤初男著
・大川美術館の資料
・宮川氏の口伝
・田中準造画伯の山口薫の記載文章
・何必館・・・京都の祇園近く。八坂神社から四條通り100m
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★明日は、山口薫の故郷:榛名山の自然&歴史かな?

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