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zoom RSS 箕輪初心:生方▲伊豆東街道C伊豆山〜熱海の旅&熱海の歴史

<<   作成日時 : 2015/08/22 07:47   >>

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国道135号線を仮に【伊豆東街道】と呼ぶことした。第C弾は
熱海市・・・伊豆半島の東の玄関口である。伊豆山神社は源頼朝
&北条政子の逢い引き、そして駆け落ちの場所であるそうだ。熱
海温泉は私にとっては、ダイビングに行くための通過地点なので、
ちょっと寄り道しかしていない。今回は気合いを入れて、「熱海の
歴史」をまとめた。写真は消滅して、数が少ない。
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箕輪初心:生方▲伊豆東街道@神奈川県小田原・早川・石橋・米神
http://53922401.at.webry.info/201508/article_19.html

箕輪初心:生方▲伊豆東街道A神奈川県:根府川・江の浦・真鶴
http://53922401.at.webry.info/201508/article_20.html

箕輪初心:生方▲伊豆東街道B湯河原町:土肥実平&湯河原温泉
http://53922401.at.webry.info/201508/article_21.html

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===静岡県====================
〜〜〜熱海市〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・熱海ビーチライン(有料)&国道135号線

●伊豆山神社・・・・・・・1回
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・平治2年・ 永暦元年(1160) 2月9日
平清盛の継母:池の禅尼の命乞いで、死一等を減ぜられて
  伊豆に流刑となり、助けられた。
 3月11日 伊豆国の蛭ヶ小島へと流された。
  大炊御門経宗・葉室惟方・源希義も伊豆流刑になった。
  
 ※源頼朝が伊豆国へ流罪となった。
 伊豆国に配流とのみ伝わっているので、本当に蛭ヶ小
   島に流されたのかどうかは不明である。
 源頼朝が平清盛により最初に流されたのは、
  現在の伊東市の基を作った伊東祐親の管理下であった。
(★曽我物語)


【1】源頼朝の伊豆伊東時代 13歳頃
源頼朝は伊東祐親に預けられ、伊東祐親の管理下に置かれた。
★おそらくは、流人とはいえ、母の弟:伊東祐範や源頼朝の乳母:
比企尼&夫:比企遠宗や娘夫婦から援助を受け、狩りを楽しむな
ど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。身の回りの
世話・食料調達をしてもらったのであろう。ある程度自由であっ
たが、謹慎の身の上、源氏一族の冥福を祈った。走湯権現(伊豆
山神社)や箱根権現にも参詣した。深く帰依して読経をおこたら
なかった。また、祈祷師を招いて法事も行った。地方武士として
敬虔な日々を送っていた。この敬虔な態度が平氏方の伊東氏や北条
氏の信用を得ていった。
比企尼の3人娘達
@長女:安達盛長の妻・・函南の桑原・大竹地区・本領武蔵
比企尼の婿である安達盛長が側近として仕えた。
A次女:河越重頼の妻・・武蔵
B3女:伊東祐親の次男:祐清の妻
C比企尼の養子・・・比企能員
D伊東祐親の長男:祐泰は妻は狩野茂光の娘
E比企朝宗の娘:北条義時の妻

〇源氏方に従ったため所領を失って放浪中の近江源氏佐々木定綱
四兄弟が従者として奉仕した。
〇京にいる乳母の甥:三善康信から定期的に京都の情報を得ていた。

・仁安2年(1167) 21
 源頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥
 実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されて
 た。
(★曽我物語)


ところが、成長していく間に恋をした。
伊東祐親が大番役・・交代で京で朝廷や貴族の警備をする役
の遠征に出ている間に、
・・・伊東祐親の娘:八重姫(伊東祐清の兄妹)
との間に男子をもうけてしまった。
※二人が愛を語らった場所は伊東市の「ひぐらしの森」
 「音無の森」である。
伊東祐親が2年の任期を終え、帰国した。
伊東祐親は
「ビックリした。平家から源頼朝の監視を頼まれたのに
 源頼朝のためにあらぬ疑いをかけられては困る。」
 と考えた。
源頼朝&娘:八重姫の子:千鶴丸を松川の上流で川に沈めた。
そして、八重姫を江間小四郎=北条泰時に嫁がせた。
八重姫は狩野川に入水自殺をしてしまった(伝)。

源頼朝は伊豆山神社に逃げ込んだ。
そして、狩野茂光や加藤景員に相談した。
狩野茂光から伊東祐親に
「北条時政の所で預かってもらおう。」
と言ったのであろう。
※『曽我物語』には次のような記載がある。
「仁安2年(1167)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在っ
た。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義
などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に
頼朝がその三女:八重姫と通じて子:千鶴丸を成すと、祐親
は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投
げ捨て、八重姫を江間小四郎(北条義時)に嫁がせる一方で
頼朝を討たんと企てた。祐親の次男:伊東祐清からそれを聞
いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。頼朝29歳
頃の事件であった。」

・治承3年(1779) 32歳
正月 北条時政は帰郷した。
同じころ、平兼隆が伊豆の判官として任用された。
平兼隆は元々は流人だったが平時忠と懇意であった
 ために目代となった。
が、実は北条時政は平兼隆に
「娘:政子を嫁にやる。」
と約束した。
北条時政は山木兼隆に嫁がせるべく、娘:政子を山木兼隆の
下に送った。

山木(平)兼隆&北条政子が祝言を挙げた。
その日、北条政子は山木の平兼隆邸から逃げ出し、
伊豆山神社に逃げ込んだ。
ドタキャン・・駆け落ちですね!
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★源頼朝&北条政子もワイルドな人生を歩んでいたの
ですね。伊豆山神社で待ち合わせた源頼朝と結婚した。

※伊豆山神社の梛の木(なぎのき)
 ※「梛の木」・・・・縁結びの木。
「鏡の裏側に梛の葉を入れて御守りにすると結ばれる。」
と信じられてきた。ロマンチックですよね。

※蛭ヶ小島の梛の木
 ※伊豆の国市の木・・・梛の木である。

源頼朝は北条時政の長女:政子と婚姻関係を結び、
長女:大姫をもうけた。

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箕輪初心★源頼朝@伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心★源頼朝19【北条時政の思惑@】&伊豆長岡【北条館】
http://53922401.at.webry.info/201502/article_2.html
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○伊豆山温泉・・・・0回
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○走り湯温泉跡・・・0回 通り過ぎてしまう。

▽伊豆山ダイビング・・・・0回

▲MOA美術館・・・・・・1回
★尾形光琳「紅白梅屏風」・野々村仁清「色絵藤花文茶壺」
が有名である。国重文は56点?らしい。
  レンブラント・モネもあった。

●熱海&伊豆山の間のレストラン・・・お墓の反対
 ★洋食が旨かった。

○旧日向邸
 ★ブルーノタウトの設計で唯一現存。
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箕輪初心★ブルーノ・タウト&群馬伝統工芸士「前島美恵さん」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_30.html
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昭和8年(1933)5月3日 日本にやってきた。
5月3日敦賀着〜昭和11年(1936)10月までの3年半、日本に
 滞在した。@京都滞在A仙台滞在B高崎滞在


●松崎君の貸しマンション=古屋旅館の東で大学同窓会
熱海温泉泊


●貫一&お宮の像=尾崎紅葉「金色夜叉」の主人公
尾崎紅葉の『金色夜叉』が「熱海」を一躍有名にした。
 
 ★2〜3回写真を撮っているのに・・ない。
 孤児として育った間貫一は、許嫁:鴫沢宮と相思相愛だった。
 しかし、金とに目が眩んだお宮の両親が銀行を営む金持ちの息子:
 富山唯継に強引に嫁がされることになった。貫一をそのことを知
 り激怒し、お宮と富山が見合いをした熱海まで追いかけてきた。
 海沿いの砂浜でお宮を問い詰めた。しかし、貫一は既に手遅れで、
 自分が顧みられることはないと悟った。お宮は許しを請おうと寄り
 添ってくる。学生服の貫一が着物姿のお宮を足蹴りにした。
 ★有名な場面である。貫一はお宮に向かって、
「ああ、宮さん、こうして2人が一緒に居るのも今夜限りだ。お前が
 僕の介抱をしてくれるのも今夜限り、僕がお前に物を言うのも今夜
 限りだよ。1月の17日、宮さん、よく覚えておき。
 来年の今月今夜は、貫一はどこでこの月を見るのだか? 再来年の
 今月今夜・・・十年後の今月今夜・・・一生を通して僕は今月今夜
 を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ? 
 いいか、宮さん、1月の17日だ。来年の今月今夜になつたならば、
 僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が・・月が・・月が・・
 曇つたらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように
 泣いていると思つてくれ。」

ちょっと、国定忠治の別れの場面にも似ているかな?
「ああ、赤城の山も今宵限り。かわいいてめえ達とも今宵限り。
・・・。」・・・そして、忠治は吾妻の大戸の関所で捕まった。


●熱海サンビーチ・・・花火大会もある。
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  (★無料画像)
写真右上が泊まったリゾートマンションだと思う。


●デニーズ・・・朝食は今まで3回食べた。

●Nagisa・・・・1回
近くに駐車場もある。海が見えるテラス席でパスタを食べた。
  ★旨かった。

●スコット新館・・・1回
  ★作家が通ったそうである。


●熱海商店街
平和通り&仲見世通りに飲食店・お土産屋が並ぶ。
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●熱海駅
★ダイビングを始めた頃はここで乗り換えて富戸などに行った。

●御汲湯の碑・・徳川家康が来たり、将軍に献上した。
 ★江戸時代・・・江戸城まで温泉を運んだ。
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 (★無料画像)

○日航亭:大湯・・・徳川家康が入浴した。

○谷崎潤一郎の旧宅「潤雪庵」(★「連月荘」隣)

○起雲閣
 熱海の有名な別荘の一つ「起雲閣」・・・・。
 大正8年に「海運王:内田信也」が和館を建てた。
 昭和3年に「鉄道王:根津嘉一郎」が洋館を建てた。
 昭和22年に「ホテル王:桜井兵五郎」が旅館として活用した。
 ★入り口に行っただけで豪華さは知らない。写真も消滅した。
舟橋聖一・・『雪婦人絵図』
  「起雲閣」で執筆。
   小説舞台も熱海の旅館の女将を主人公としている。
 太宰治・・・『人間失格』
 心中相手となる山崎富栄を伴って、宿「起雲閣」に逗留して
  執筆した。3ヶ月後、命を絶った。

○岩崎別邸
 
○来宮神社・・・★前を通ったが寄っていない。
★クスノキが有名

○海蔵寺・・・坪内逍遥夫婦の菩提寺


○熱海梅林
 ★明治19年(1886) 群馬県高崎市出身の生糸貿易商で、横浜銀行
  の創設者:茂木惣兵衛の造成した梅園である。


○中山晋平記念館
 ★長野県中野の出身の作曲家である。中野にも記念館がある。

○文化・歌人の旧別荘地・・・
 佐々木信綱・・・不明。熱海市立熱海中学校の校歌の作詞
 吉川英治・・・・不明。 


●海浜公園

○マリンスパ熱海


●熱海港

▽熱海ダイビング・・・・・0回

▼初島ダイビング・・・・・2回
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 (★無料画像)

○後楽園
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▲熱海城・・・・・・・・・1回
錦ヶ浦山頂に建つ。
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●錦ヶ浦

●曽我浦大橋

●赤根


●多賀・・・・民宿は20軒程。
 ★干物屋に寄った。


●長浜海水浴場&松並木 

●網代・・・古い漁師町である。

●網代のひもの銀座・・・・
国道135号線の200mの間に20軒程のひもの屋が並ぶ。
 群馬の潜水堂が寄る店は決まっているので、多く買う人はおまけ
 も多い。アジ・カマス・サバ・カワハギ・エボダイなど。
 私は金目鯛しか買わない、3枚で1000円位だったっけ?



△網代城・・・・・0回





◆◆ 熱海・熱海温泉の歴史 ◆◆

・白鳳時代・・仁賢天皇の時代頃約1500年程前・・
  海中から熱湯が噴き出し、魚が爛れ死ぬのを近郷の者が発見した。
  以来「熱い海」であることから、熱海と名付けられた(伝)。

・天平宝字年間(755〜765)・・・1250程前  
  箱根権現の万巻上人が、「熱い海」のために不漁に苦しむ漁民たち
  を救済すべく、祈願により源泉・泉脈を海中から現在の山里に移
  した(伝)。


・慶長9(1604)
 3月 徳川家康は義直、頼宣の2人の子供を連れて、
    7日間熱海に逗留した。
 9月 京都で病気療養中の周防(現山口県)の岩国城主:吉川広家の
   見舞いとして熱海のお湯を運ばせた。
  ★当時、全国レベルの名湯と知られた播磨の「有馬の湯」
   つまり、豊臣秀吉の好んだ湯より、徳川家康は「熱海の湯」を
   運ばせたのだ。

   以来、徳川家御用達の名湯として名を馳せた。
 また、多くの大名が熱海温泉を訪れるようになった。
   徳川家康が熱海を直轄領としたことで、熱海の治安が守られ、
   大名が熱海温泉療養がしやすくなった。また、東海道を通る
   西国大名の参勤交代の折、熱海に訪れるようになったからで
   ある。

・???年 老中:松平伊豆守信綱が伊豆巡見した。
  「羽衣の松」松が植えられた。

・???年
 3代将軍:徳川家光は「御汲湯(おくみゆ)」を命じた。
  
  徳川家光以降、熱海の湯を江戸城に献上させる「御汲湯」
  を行わせた。
  元祖:温泉宅配便は歴代徳川将軍に継承された。


・寛文7年(1667)4代将軍:徳川家綱が大湯の温泉を真新しい檜の
  湯樽に汲み、湯桶を頑強な男数人に担がせ江戸城まで運ばせる
  ようになった。記録では昼夜兼行で15時間・・
  「熱海よいとこ日の丸たてて 御本丸へとお湯が行く」
  という唄が生まれた。
約90℃の大湯は、江戸城に着く頃にが、湯樽の温泉はちょうど
  いい湯加減になっていた。

????年
その後、湯樽は船で運ばれるようになった。

・享保11年(1727)〜19年(1735)
8代将軍:徳川吉宗の時が最も盛んで3640樽送った(伝)。
 
 ★8代将軍:徳川吉宗は上野国(群馬県)の草津温泉にも「御汲湯」
  を命じた。草津温泉の湯畑の湯を何度も江戸へ運ばせて入浴した。
  「御汲上の湯」と呼ばれる汲み上げに使った木枠が今も湯の中に
  沈んでいて、前に碑が建っている。。(頼朝の湯の前である。)

・天保元年(1830)
山東京伝が「熱海温泉由来」の書いた。
  
※江戸時代、熱海には多くの文化人が訪れた。
 明和から慶応までの江戸時代約100年の間に代表的な紀行文だけでも
 36編あるそうである。


・明治時代 
  政財界要人、軍人、文化人などが頻繁に熱海に訪れた。
 *「別荘王国」・・・皇族、政財界の重鎮、多くの文人墨客で熱海
  に別荘を構えた人が多かった。
 ★熱海は当時のセレブ達の保養地として人気を博したのだ。
  そして、しばしば会談なども行われた。

・明治7年(1874) 初めての西洋式温泉分析報告書が熱海でできた。

・明治8年(1874)陸軍中将:曽我祐準(後大将・枢密院顧問)は
 熱海に通いリュウマチを治療した。
 
・????年 フランス公使・ロッシュは若き日の傷が痛み、
  度々熱海に逗留した。

・明治14年(1880) 伊藤博文と大隈重信は熱海で会談した。

・明治16年(1882) 6月 温泉に関する取締規則の制定発布された。

・明治18年(1884) 日本初の温泉療養センター「気館(きゅうきかん)」
 が設立された。
右大臣:岩倉具視が病気療養のため、後藤新平、井上馨、長与専斎
 らが話合いで決定し、大湯の隣に建設された。
 ドイツの気圧吸入器が設置された最新式の医療施設であった。
※温泉医学療法を駆使した日本初のクアハウスである。

明治19年(1886) 温泉療養後の保養施設として、「熱海梅園」が伊藤
 博文の肝煎りで造成された。
 群馬県高崎市出身の生糸貿易商で、横浜銀行の創設者:茂木惣兵衛
 の造成した梅園である。
 さらに、これ以降、政財界人が競って熱海に別荘を建てるようになった。


・明治21年(1887) 御用邸の建設。
※熱海に温泉地で初めての御用邸建てられた。
  その後、日光や那須に建てられた。

・明治??年〜
  徳富蘇峰は20年間、毎年3〜4ヶ月間、「古屋旅館」に滞在した。
  徳冨(点がない)蘆花の兄で、キリスト教の熊本バンドにいた
  徳富蘇峰は、明治20年、わが国最初の総合雑誌「国民の友」
  を発行した。。新島譲や新島八重・横井小楠の子どもも身内であ
  る。湯浅治郎・・・群馬にも新島譲と来ている。


・明治29年(1895) 人力電車「豆相人車鉄道」が開通した。
  小田原〜熱海を4時間・・・

・明治30年(1896) 尾崎紅葉の「金色夜叉」の連載が始まった。
尾崎紅葉の「金色夜叉」によって熱海の名は全国的に知られ
  ることになった。

・明治末期〜
  文人墨客が多く訪れ、多くの作品が熱海を舞台に描かれた。
  永井荷風の「冬の日」
  林芙美子の「うず潮」などである。

・明治40年(1906) 蒸気機関車になった。


・大正8年(1919) 「海運王:内田信也」が起雲閣和館を建てた。
 
・大正9年(1920) 坪内少々熱海の来宮の別荘「双柿舎」を建てた。
   死亡するまでの15年間を熱海で過ごした。
  シェークスピア全訳は双柿舎で完成させている。
  (★柿の木が2本ある。)

・大正13年(1924) 鉄道省熱海線(現JR東海道本線)開通した。
 小田原から熱海線がのびて湯河原駅・熱海駅が開業した。
鉄道省総裁:根津らの政治力で、東海道線を熱海に乗り入れさせ
 たのである。

・大正14年(1925) 東京から熱海までの直通列車が走るようになった。
 熱海は鉄道の開通によって著しく変わっていった。
 保養客が押し寄せ、熱海は一大保養地として人気を博した。
 政府要人・財界人・文人墨客の数が増した。

・昭和元年(1936) 貿易商:日向利兵衛の別荘が建てられた。
    
・昭和3年(1938) 「鉄道王:根津嘉一郎」が起雲閣洋館を建てた。

・昭和8年(1933)?〜「旧日向別邸地下室」の建設。
   ブルーノ・タウトの設計である。
  ★唯一現存するブルーノ・タウトの設計の遺構である。

・昭和17年(1942) 谷崎潤一郎も熱海に移り住んだ。
 「潤雪庵」(★「連月荘」隣)で「細雪」を執筆した。

・昭和20年(1945) 太平洋戦争終結
熱海ではジャズ喫茶や純喫茶が営業を始めた。

・昭和25年(1950) 熱海の大火で建物が多く消滅した。
  ホテル再建ラッシュが始まった。

・昭和30年代(1955)〜 
  熱海は最も栄えた時代に入った。
  日本でトップクラスの歓楽街が生まれ始めた。
多くの観光客が訪れるようになって、熱海市の中心地には
 大型ホテル・旅館が数多く建てられた。
 かつて営業をしていた旅館・ホテルでも増築・リニューアル
 オープンをして、多くの客を受け入れた。
 一大観光地域と変貌をして行った。
 そして、熱海は新婚旅行メッカで、カップルで賑わった。
私の知人にも新婚旅行が熱海の人がいる。
 @河内夫妻は妻の実家が神奈川県早川なので、・・・・
A関根夫妻は宮崎よりも熱海の方が近かった。飛行機に
  乗ったことがなく、怖かったからだと言っていた。
 また、職場旅行の行き先となっていった。
 飲食店や観光施設なども増えた。


・昭和39年(1964) 東海道新幹線が開通した。
 東京からは熱海には簡単に行けるようになった。
  
・昭和40年(1965)〜
 高度経済成長期に入った。所得倍増時代に入った。
 熱海では団体旅行を誘致を積極的にするようになった。
 会社の接待旅行も増えた。
 そして、熱海では男性客目当ての風俗店が増えていった。
 熱海温泉が日本を代表する歓楽温泉として栄華を誇った。
 ※熱海市そのものは潤った。
  しかし、イメージのダウンに繋がった。
 ★昔は伊豆の温泉と言えば、良くも悪くも熱海温泉だった。
 青森の浅虫温泉は、『東北の熱海』と異名を取った。


・平成時代初期
  熱海の新婚旅行や熱海社員旅行の衰退した。

  熱海温泉は塩化物温泉と硫酸塩温泉が約9割を占め、1日の総
  湧出量約24,000tである。塩分が皮膚を覆い保温効果に優れて
  いるので、神経痛、冷え性、慢性婦人病、慢性皮膚病、痩身に
  効くそうである。
   (★ウィキペディア)
 しかし、温泉を引いたリゾートマンションが増加し始めた。
  東京方面からの保養地・日帰り温泉地として賑わいを
  保った。

  ★松崎君はある会社の全国の保養地に宿泊できる権利を
   買った。大学の同級生で熱海の分譲マンションに泊まっ
   たのである。
 でも、熱海温泉には1回しか泊まったことがない。
この時が、伊豆の最初の旅行でもあった。
  
  また、高額所得者が熱海に温泉付の自宅を構えて東京都内へ
  新幹線通勤する人も増えた。
群馬も同じである。温泉ではないが・・・・

・平成10年代
 再び温泉地、リゾートとして賑わいが戻った。
私はこの頃から、伊豆にダイビングに出かけるようになった。
はじめは高崎〜新幹線〜東京から新幹線〜熱海〜乗り換え
  富戸・城ヶ崎・下田へと行った。
  しかし、群馬のダイビングショップのツアーに参加するよう
  になると、熱海での寄り道:朝食・昼食が多くなった。

・現在
 伊豆を代表する一大温泉街:熱海・・・・
芸者さんは全国で約2800人の内、約1割の300人が熱海温
 泉にいるそうだ。
  
 しかし、日本全国、ホテル経営は多難な時代を迎えているらしい。
 群馬の温泉は、平成26年度は草津温泉は伸びたが、伊香保温泉や
 四万温泉は下火になってきているようだ。
  熱海温泉もホテル乱立に伴い、衰退しているホテルも
 あるであろう。
 ★また、熱海市でも町の活性化に苦慮している。
 花火大会の回数を増やしたのもそのあらわれであろう。
熱海市の健全な町づくりを目指す団体のHpも見た。




★明日は伊東市かな?

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