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zoom RSS 箕輪初心:生方【中村茂先生講演会『山本勘助→子孫は高崎藩山本菅助』】

<<   作成日時 : 2015/07/27 06:57   >>

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平成27年(2015)7月19日、かみつけの里博物館で中村茂先生の
講演会があった。『高崎藩:山本菅助ついてーー風林火山の余光の
なかで』がテーマであった。中村先生のレジメ&講演内容をベース
に@山本勘助の実在証明への歴史的過程&A中村茂先生版「初代:
山本勘助〜16代山本までの家譜」を掲載したい。多少、加筆してあり
ますがご容赦ください。中村茂先生、感謝申し上げます。また、高崎
竜広寺の「井伊直政の供養塔」&「渡辺あきらの妻井伊直弼の娘:
ワカの墓」を紹介してくださり、ありがとうございました。
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●▲■ 「甲陽軍鑑」のヒーロー山本勘助ーーー山本勘助は実在したか?

◇戦国時代
「山本勘助」は戦国時代の資料に一切登場していない。
 

◇江戸時代初期
「山本勘助」は「甲陽軍鑑」に登場している。 
『甲陽軍鑑』によると明応2年(1493) 〜永禄4年(1561)という。
生誕は、明応9年(1500)説、文亀元年(1501)説などもある。
没したのは永禄4年(1561)9月10日の第4回川中島の戦いで討死し
たとされる。山本勘助を軍略と築城に長けた武将として描いている。
『甲陽軍鑑』においては名を勘介、諱を晴幸、出家後、道鬼を称し
たというが、甲陽軍鑑」以外の文書には勘助の諱・出家号について
は文書上からは確認されていなかった
「甲陽軍鑑」以外に納得できる文献がほとんどない。
 
次第に、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで取り上げ
られるようになった。
山本勘助は武田二十四将に含められた。
 
山本勘助はさらに脚色された「軍師山本勘助」像が作られていった。

『甲陽軍鑑』は軍学の聖典と尊重されて広く読まれ、山本勘助という
名軍師としても広く知れ渡ることになっていった。


◇元禄年間
・元禄9年(1696) 平戸城主:松浦鎮信が『武功雑記』を著
 した。
 山本勘助の子供が親の山本勘助を創作した。
 高坂弾正作と偽って甲陽軍鑑と名付けた。
 ・・・創作物語=作り話と主張した。
 山本勘助は甲陽軍鑑にあるような武田信玄の軍師ではなく、
 山県昌景の家臣であると論じた。


◇明治時代
・明治24年(1891) 東京帝国大学教授:田中義成は『甲陽軍鑑考』を
発表した。
 『甲陽軍鑑』の史料性=信憑性を否定した。
 『甲陽軍鑑』のみに登場する「軍師山本勘助」は山県昌景配下の身分の
 低い一兵卒が元であろうとした。
 田中義成は『甲陽軍鑑』は小幡昌盛の3男である軍学者:小幡景憲が
 高坂弾正に仮託して書いた創作物であるとした。
 
 『甲陽軍鑑』&軍師:山本勘助は歴史学の論文の史料として
 用いられなくなった。
 (★ウィキペディア)

・明治25年(1892) 東京大学史料編纂所の記録
 12月8日、 旧高崎藩士:山本某、「晴幸の子孫と称し、蔵する所
 なれども、最も新しき偽造にて・・・。」
 (★柴辻先生が平成19年に発表)

 星野恒が
 「武田晴信(信玄)が家臣に対し室町将軍足利義晴の
 偏諱である「晴」字を与えることは社会通念上ありえない。」
 と指摘した。

・????年 高崎温故会
  松平(大河内)輝耕は高崎藩の家臣の会を作り、子孫を集めた。
  山本管助の子孫もいた。



◇昭和時代
・昭和34年(1959) 奥野高廣は『武田信玄』を著した。
  山本勘助は架空の人物であるとした。
山本勘助の実在否定の根拠としては、勘助が武田晴信から貰っ
 た「晴幸」の「晴」の文字は武田晴信が臣下に与えることがない
 などの理由であった。

 歴史上では架空の人物説が優勢になった。


・昭和44年(1969)NHK大河ドラマ『天と地と』
 大河ドラマは「天と地」は石坂浩二の上杉謙信&高橋幸治の
 武田信玄が大人気であった。
 ★もちろん、私も見ていた。


10月「天と地」を見ていた北海道釧路市の市河さんが
  今まで否定されてきた勘助の実在を示す文書を発見した。
  先祖伝来の古文書から戦国時代のものと思われる「山本菅助」
  の名が記された一通の書状を紹介した。
  北海道大学、信濃史料編纂室に鑑定に出したところ真物と
 確認された。

「釧路市河家文書」には、
「弘治3年(1557) 第3回川中島合戦の最中に、武田晴信(信玄)が
 信濃国境の豪族:市河藤若あてに出した感状=感謝状である。
 市河藤若の働きで長尾勢は退散したという戦況を伝えた後、山本菅
 助を使者として送り詳細を伝えさせるよいうものである。
 長尾景虎(上杉謙信)を撃退した感謝の言葉と、その末尾に
 「猶可有山本菅助口上候」(なお山本菅助が口上でお伝えするもの
 ある。)と書かれていた。

※中村茂先生によれば
「市河家は信濃国高井郡の国衆で武田家の滅亡後、上杉景勝に仕え、
 景勝とともに会津→米沢へ移った。そして、明治時代、市河家の
 子孫は北海道に屯田兵として移り住んだ。」
 
 「釧路市河家文書」の「山本菅助」文書の発見によって、山本勘助
 の実在説が浮上してきた。


・昭和60年(1985) 上野晴朗が『山本勘助』を刊行した。
  山梨県北巨摩郡高根町上蔵原(現北杜市高根町)にある
  伝:山本勘助の墓石&屋敷墓を紹介した。
  ★通ったのに時間がなくて・・・


・昭和63年((1988) 渡辺勝正が『武田軍師山本勘助の謎』を刊行した。
長門国三隅の「山本家由緒書」から毛利家中に山本勘助の子孫
 が滞在したとした。



◇平成時代
 小和田哲男先生が「軍師」の役割を合戦の吉凶を占う軍配者と
 しての軍師と、主君に対して軍事上の助言を行う参謀として軍師
 の両面があることを指摘した。
 結論・・・山本勘助は「軍師」であったと指摘した。


・平成18年(2006)
 井上靖原作のNHK大河ドラマ『風林火山』が制作・放映されることが
  決定し、山本勘助に関する文献が多く出版された。
 ★7〜8冊あるよ。

・平成19年(2007) NHK大河ドラマ『風林火山』
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主演の内野聖陽は左目に眼帯をしていた。
『甲陽軍鑑』では、「山本勘助は背が小さく、隻眼だった。
※中村茂先生
「隻眼は右とも左とも出ていなかった。・・・イスラエルのダヤン
 将軍の隻眼にあやかったのではないだろうか?」
とおっしゃっていた。
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   (★無料画像より)

箕輪初心:生方:▲山梨【風林火山館】&大河ドラマの経済効果&
箱物経営多難
http://53922401.at.webry.info/201505/article_4.html

箕輪初心:生方▲山梨【平成19年の風林火山博】&箕輪城163
http://53922401.at.webry.info/201505/article_5.html 

〜〜〜箕輪城関係者など〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲【穴山氏館跡】&穴山信君・武田信吉の生涯
http://53922401.at.webry.info/201504/article_27.html

箕輪初心◆長野:川中島&胴合橋・典厩寺・雨宮など
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_12.html

箕輪初心●真田3代B『川中島の戦い&真田の上野国進出』
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201111/article_28.html

箕輪初心●箕輪城シリーズL6代「甘利昌忠」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_21.html

箕輪初心:●箕輪城シリーズM「第7代真田幸隆(幸村祖父)」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_22.html

箕輪初心●箕輪城シリーズP「第9代:内藤昌豊」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_25.html

箕輪初心●箕輪城シリーズQ「第10代内藤昌月」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_26.html

平成19年(2007)
柴辻俊六が『武田氏研究 第36号』「山本勘助の虚像と実像」を発表した。
東大史料編纂所所蔵「古文書雑纂」における「高崎山本家文書」の調査
記録に注目した。明治25年(1892) 旧上野国高崎藩士:山本家当主が所
蔵文書の鑑定を依頼した際の記録である。柴辻は「山本菅助」宛武田晴
信書状については信憑性があるものと評価した。
★「真田昌幸」の著者なので、3〜4ヶ月後、は紹介したい。



・平成20年(2008) 1月22日 下野新聞
 「壬生城の元禄の大改修」の裏付ける資料が発見された。
 2004年の沼津の山本家からの寄贈文書であった
 当時の城主:松平輝貞(後高崎城主)が御城御普請惣奉行
 :山本十左衞門に宛てた指示書が22通・・・200件にも
 及ぶ。
・・・(★中村茂先生の資料:後略)


・平成20年(2008) 5月1日
 「真下家所蔵文書」の発見&公開
群馬県安中市の安中市学習の森ふるさと学習館による真下家
の所蔵古文書の調査で武田氏関係文書が発見された。
さらに海老沼真治氏など山梨県立博物館による資料調査が
実地され、「山本菅助」とその関係者とみられる文書が確認
された。また、「菅助」子孫の動向も判明した。

5点の文書は
「山本菅助」宛て文書が3通
「菅助」子孫の山本氏宛てと考えられている文書が2通。
※中村茂先生は6通表示した。
写真は群馬県安中市の安中市学習の森ふるさと学習館の
「西上州の中世」を借用している。


@武田晴信判物:初代山本菅介*宛て 加増か恩賞
・天文17年(1548)4月吉日 武田晴信(信玄)が信濃国伊那郡にお
 ける山本菅介の働きを褒め、黒駒(笛吹市御坂町)の関銭から
 100貫文を与えることを言い渡した。
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A武田晴信書状:初代山本菅助*宛て 武田晴信自筆 
・永禄元年(1558)4月20日 武田晴信(信玄)が山本菅介
に小山田の様子を見てきてくれ・・・
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B武田家朱印状:2代 山本菅助宛て 軍役
・永禄11年(1568)6月7日 武田晴信(信玄)が2代目:
 山本菅助に具足が不足しているので、・・・
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C武田家朱印状:実質2代:山本十左衛門尉宛て 軍役
 ・天正4年(1576)5月12日 武田家から山本菅助の後継者である
 養子:山本十左衛門尉に対して、用意するべき武具を定めたもの
 である。
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D徳川家康朱印状:実質2代:山本十左衛門尉宛て 所領安堵
・天正10年(1582)9月5日 
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E武田家朱印状:実質2代:山本十左衛門尉宛て 所領安堵
・天正11年(1582)閏正月14日
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F結城秀康書状:実質2代:山本平一宛て  感状※印鑑
・慶長9年(1604)6月26日 
徳川家康A男:結城秀康は祐筆に書かせた文章に病気のため
  印を押した。
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G武田家カ朱印状:初代山本菅助宛て
・天文18年(1549) 6月22日


○小幡景憲印可状:初代山本菅助宛て
 万治3年(1660)『甲陽軍鑑』を刊行し、甲州流軍学を確立した小幡景憲
 が山本菅助に軍学の奥義を伝授した時の文書である。

群馬県安中市の真下家から「山本菅助」に宛てて出された
武田信玄の書状などが新たに確認され、山本菅助の実像が
明らかになってきた。
なお、真下家所蔵の文書は当初「真下家文書」と呼だれていたが、
 真下家が蒐集した古文書であることが判明したため、現在では
「真下家所蔵文書」と呼ばれている。
※中村先生
「明治時代、国会議員をされていた真下??さん・・・」


・平成20年(2010) 山梨県立博物館でシンボル展「実在した山本菅助」
  研究成果が一般に公開された。
  シンポジウムも開催された。
  海老沼真治、丸島和洋、柴裕之、平山優らによる諸論考が
  発表された。

・平成21年(2009) 5月28日
 山梨県立博物館は「市河家文書」を購入した。
 ※2000万円とも・・・

・平成21年(2009) 11月 静岡県沼津市で「第24回国民文化祭・
しずおか2009」
 企画展「後北条氏と沼津」に出展されていた古文書の中に、
2007年に柴辻が紹介していた
「山本菅助」宛武田晴信書状と同一の写本が発見された。
山本弘昭氏所蔵「沼津山本家文書」・・・古文書・家譜類などの
古文書が発見され、高崎藩士であった「山本菅助」子孫が明治
後に移住して沼津に住んでいたことが判明した。


真下家所蔵文書・沼津山本家文書の発見に伴って、「山本菅助」の
研究は加速していった。
@沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」
により、江戸時代に山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」
と認識していたことは確認された。
A「初代山本菅助」は『甲陽軍鑑』における「山本勘助」と同一人物で
あると指摘された。
B武田遺臣「菅助」の子孫の再仕官に関する情報が広がった。


・平成25年(2013) 山梨県立博物館監修海:老沼真治編『「山本菅助」の
 実像を探る』(戎光祥出版)が刊行された。


・現在 『甲陽軍鑑』の山本勘助の活躍や軍師としての役割など
 の点については課題が残されている。





◆◆◆ 「山本菅助」とその子孫 ◆◆◆
戦国時代〜江戸時代〜明治時代を生き抜いた山本菅助&とその子孫・
一族を中村茂先生の 【高崎藩士:山本勘助系図(中村茂案) 22/03/06】
を2代目以降に使わせていただきます。ありがとうございます。


【1】初代:山本勘助晴幸
明応2年(1493) 〜永禄4年(1561)9月10日(10月18日)
[2]によれば、勘助は
@駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)説(★『甲斐国志』)
 吉野貞幸と安の三男に生まれた。
 三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入った。
 NHK大河ドラマ『風林火山』も採用している。
A愛知県豊田市寺部(三州賀茂郡)。(★『北越軍談』)
B愛知県豊橋市賀茂(三河国八名郡加茂村)(★小和田哲男説)

青年時代・・・20歳?26歳 武者修行の旅に出た。
 中国、四国、九州、関東の諸国を遍歴して京流(行流)
 兵法を会得して、築城術や戦術戦法を極めた。
上泉伊勢守に剣を学んだ伝説もある。・・信憑性がない。
★NHK大河ドラマ「風林火山」では、山本勘助が安中の長?寺
で真田幸隆に助けられた。・・・1541年〜3年間、箕輪城:長野
業政の食客になっているので、時代が合わない。



・天文5年(1536) 37歳
山本勘助は駿河城主:今川義元に仕官しようと駿河国に入った。
 家老:庵原忠胤の屋敷に寄宿し、朝比奈信置を通して仕官を願った。
 しかしだ、今川義元は山本勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかっ
 た。
※山本勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、
 指もそろっていなかった。
山本勘助は仕官が叶わず、牢人の身のまま7年?9年?駿河に留まった。

・天文12年(1543)
武田家の重臣:板垣信方は武田晴信(信玄)に山本勘助を推挙した。
 武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れてきた。
 山本勘助は躑躅ヶ崎館で武田晴信と対面した。
 武田晴信は山本勘助の才を見抜き知行200貫とした。
(★『甲陽軍艦』)
『甲陽軍鑑』に拠れば初代:山本菅助は天文12年(1543)に武田家に
 仕官した。
 『真下家所蔵文書』からも足軽大将としての活動が確認されている。

 武田晴信は築城術や諸国の情勢の知識の深さに感心し、信頼する
 ようになっていった。
 
 武田晴信が信濃国へ侵攻した。
 山本勘助は9城を落とす大功を立て100貫を加増された。

・天文11年(1542)?天文13年(1544)?
武田晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を殺した。

・天文14年(1545)
武田晴信は諏訪の姫を側室に迎えることを望んだ。
 重臣たちは姫は危険であると反対した。
 山本勘助のみは姫を側室に迎えることを強く主張する。
 武田晴信は諏訪家との絆を主張する山本勘助の言を容れ、
 姫を側室にした。
 姫は諏訪御料人と呼ばれるようになった。


・天文15年(1546)
諏訪御料人は武田四郎勝頼を産んだ。

・天文15年(1546) 武田晴信の砥石崩れこ甲陽軍鑑説
 山本勘助は「破軍建返し」と呼ばれる作戦で加増され
 知行800貫の足軽大将となった。

・天文16年(1547) 上田原の戦い
武田晴信 VS 村上義清
重臣:板垣信方が戦死。
 村上義清は越後国へ走り、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。

・天文17年(1548)上田原の戦い

・天文19年(1550)砥石崩れの史実の説
 山本勘助の軍略を武田家臣が認めるようになった。

・その後、高遠城、小諸城を築城した。
 「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。
 また、山本勘助の献策により分国法「甲州法度之次第」が
 制定された。
 ※ということで、甲陽軍鑑は時々違っている。


・天文22年(1553)
武田信玄の命により、山本勘助は北信濃に海津城(後松代城)を
 築城した。
 城主:春日虎綱(高坂昌信)となった。

築城法は山本勘助→馬場信春・山県昌景→早川幸豊となる。


・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
上杉謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入った。
  武田信玄も2万の兵を率いて甲府を出発し、海津城に入った。
  数日に及び対峙する。
  軍議の席で
  山本勘助と馬場信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に
  乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた
  上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅
  する作戦を立てた。「啄木鳥戦法」と名づけられた。

  武田信玄は高坂昌信&馬場信春率いる兵1万2000の別働隊を編成し
 て妻女山へ向かわせた。武田信玄自身は兵8000を率いて八幡原に陣
  をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。

  だが、軍略の天才である上杉謙信はこの策を見抜いていた。
NHK大河ドラマ「天地人」では、海津城で煙があがり、炊き出し
  をしているのに上杉謙信:GACTが気づいた。
不思議なおばばも出ていた。
  上杉謙信は一切の物音を立てることを禁じて深夜に密に妻女山を下っ
  て千曲川を渡り八幡原に布陣していた。
  「べんせいしゅくしゅく 夜川を渡る。・・」
 夜明け、高坂勢が妻女山を攻めるがもぬけの殻であった。

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 濃霧が晴れた八幡原・・・
 武田信玄と山本勘助は驚くべき光景を目にした。
 上杉勢1万3000が眼前にいたのである。
 武田勢は上杉勢の動きに全く気がつかなかった。
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 ★一騎打ちは嘘っぽい
 上杉謙信は「車懸りの陣」で武田勢に猛攻をかける。
 武田信玄は「鶴翼の陣」をしくが、武田勢は押しまくられた。
 武田家の武将が相次いで討ち死にした。
 9月10日 山本勘助が戦死した。
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 (山本勘助の胴&首は離れちゃったが・・・)
「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、
 山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」と記した。(★『甲陽軍鑑』)
※川中島の遺構
山本勘助・・・・・・・・・・・胴合橋・墓
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武田信繁(信玄の弟)の墓・・・典厩寺:真田信幸?の建立。
諸角豊後守の墓・・・・・・・八幡原西500m程の道の左にある。


※山本勘助の遺髪を納めた墓・・・愛知県豊川市牛久保町



◆初代:山本勘助晴幸の関係者
@義兄:山本十左衛門尉幸俊
A山本勘助の弟:山本帯刀(帯刀左衛門)
 越後長岡藩文書『蒼紫神社文書』によると、長岡藩の家老:山本家は、
 山本勘助弟:山本帯刀(帯刀左衛門)の末裔としている。
 戊辰戦争の長岡藩大隊長の山本帯刀がいる。
 太平洋戦争の山本五十六元帥=連合艦隊司令長官がいる。

B長男:2代山本菅助(兵蔵)幸房
※中村茂先生は山本菅助(兵蔵)幸恒・恒幸
 天文22年(1553)〜天正3年(1575) 足軽大将。二代菅助。
 天正3年の長篠の戦いで戦死した。
C次男:十左衛門頼元・・・初代山本勘助の娘の婿養子
 饗庭利長(越前守)次男の十左衛門頼元が山本勘助の娘を妻とし
  改姓し、山本十左衛門尉を名乗ったとしている。
  (★甲斐国志)
※沼津山本家文書によれば、「山本菅助」子孫は初代「菅助」を
『甲陽軍鑑』における山本勘助と同一視している。




【2】 2代:山本十左衛門尉幸継
・天文20年(1551年)初代山本菅助には男子がなく、饗庭氏から
  十左衛門尉を婿として迎えていた。
(『沼津山本家文書』)
  初代山本勘助の娘の婿養子
・天文22年(1553)2代菅助が出生する。
  (『沼津山本家文書』) 
・永禄4年(1561) 川中島の戦い
父の初代:山本菅助が戦死した。
 2代山本兵蔵は十左衛門尉に後見され育った
 (★『沼津山本家文書』)。
・永禄11年(1568) 元服し「菅助」を名乗った。
  7月には武具の調達を命じられている。
  (★『真下家所蔵文書』)。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
2代目:山本菅助は討死した。
  山本家は十左衛門尉が継いだ。
※子どもなし・・

・天正12年(1582) 武田氏滅亡。
  徳川家家臣になった。
 『天正壬午起請文』の「信玄直参衆」に山本十左衛門尉の名がある。
 ※群馬県安中市の【真下家所蔵文書】には 天正4年推定の
 「山本菅助」の山本十左衛門尉宛の軍役文書がある。
●山本十左衛門尉幸継の子ども
長男:山本平一郎・・・徳川家旗本。伏見城在番
※群馬県安中市の【真下家所蔵文書】には
 慶長7年(1602)〜慶長11年(1606)推定の結城秀康書状は十左
 衛門尉の子:平一宛で、徳川家康に仕えた菅助・十左衛門尉の
 子孫が越前松平家結城秀康に仕えた可能性が考えられている。
慶長10年死亡。
2男:山本弥八郎幸明・・
3男:山本三郎右衞門→山本菅助正幸
4男・山本素一郎
越前松平家は山県昌景の子孫など武田遺臣を家臣団に加えている。
 ※井伊直政には山県昌景の家臣団は75名いる。(★高崎市史)
 越前松平家の藩士系図「諸士先祖之記」には結城秀康期家臣に
 「山本内蔵助成本」・「山本清右衛門」の名が記している。
 山本内蔵助は系図が不明であるものの山本勘助を先祖としている。
 山本清右衛門も武田信玄に仕えた山本氏を先祖としている。



【3】 山本三郎右衞門→山本菅助正幸
・文禄2年 甲斐で生まれた。★おそらく、現韮崎市
※山本菅助子孫にあたる沼津山本家文書によれば、
 「山本菅助」(正幸)は徳川氏に仕えた後に再び浪人し甲斐にいた。
  浪人・・・寛永10年(1633)頃に山城国淀藩主永井尚政に再仕官
し藩士となり、「菅助」の名乗りを復した。
 ・寛永10年 山城国淀藩:永井信濃守に仕えた。
※「五左衞門覚書」
「老中:永井信濃守は下総古河から山城淀に向かう途中、石和に寄った。
 甲陽軍鑑で山本勘助の存在を知っていた。娘婿の日向清安&代官
 平岡次郎右衛門が永井信濃守&山本三郎右衞門の会見の場を設定した。
 ・・・既に山本三郎右衞門は甲府勤番:伊丹播磨守から誘いを受けて
 いた。そこで、永井信濃守は伊丹播磨守に直接話をつけに行った。
酉4月11日、永井信濃守&山本三郎右衞門が伊沢であった。
 ・・・略・・・・
 8月11日 山本三郎右衞門は甲州を出立。25日に伏見に着いた。
 8月26日 淀に行き。27日、会見した。
 早速、萩原平左衞門組足軽20人を預けられた。
 その年、300石を拝領した。
 ・・・後略・・・・・・・

 ・慶安2年8月27日没
 ※墓・・・山城国八幡神應寺

※山本菅助正幸の子ども
 長男:山本晴辰→山本菅助晴方



【4】山本晴辰→山本菅助晴方
 
 ・???? 山城国淀藩:永井信濃守に仕えた。
 ・寛文9年  永井信濃守が丹後宮津に転封。
 ・寛文12年 恵林寺武田信玄100回忌に参加した。
          (奉加帳)
 ・延宝8年 永井因幡守が改易。
     →山本菅助晴方は浪人になった。
 ・天和2年 土浦藩:松平信興(松平伊豆守信綱5男)に仕えた。
   32000石の
 ・貞享元年 山本菅助晴方は土浦城改修の惣奉行になった。
 ・貞享4年10月3日 松平信興は大坂城代になった。
・貞享4年11月11日 山本菅助晴方は家老500石になった。
・元禄3年12月26日 松平信興は京都所司代になった。
・元禄5年 松平信興は下野国壬生藩に転封。
3月6日 山本菅助晴方は壬生城城代になった。
      10月13日 山本菅助晴方没
 ※墓・・・壬生の妙珊寺


【5】山本十左衛門尉幸運←山本菅助晴方の姉夫婦の子=甥っ子
・母:山本菅助晴方の姉+父:下野烏山藩士:市川五郎右衞門
烏山藩は永井尚政B男:永井伊賀守尚庸家臣
  山本菅助晴方の甥っ子:市川菅之丞が養子になった。
・元禄6〜7年 壬生城の改修工事の惣奉行になった。
  (★沼津山本家文書「指示書」・・壬生町に寄贈)
  ★俺って、これ見てきた。
  結城城や館林城の見積もり=縄張りも行った。
・元禄8年 松平大河内輝貞が高崎に転封になった。
  72000石になった。 
・宝永元年 鑓奉行350石
  「高崎城大意」を著した。
・宝永7年 越後村上に転封。
  間部詮房と交代
・正徳6年6月24日山本十左衛門尉幸運没
※墓・・・村上の満福寺
 ★ぼくちゃん、満福寺行っているけれど気づかなかった。

高崎藩主は松平伊豆守信綱5男:松平信興を祖とする松平家である。
家臣団関係資料「高崎藩士家格・家筋並びに苗字断絶者一覧」には
家臣に「菅助」「十左衛門」を名乗る藩士がいる。
 

【6】山本銀五郎晴様→山本勘助晴久と改名
・享保元年 村上藩馬廻り役350石
・享保2年 越後村上から高崎に再転封。
  間部詮房と交代
・寛永4年5月27日 没
※墓・・・高崎の大雲寺




【7】山本勘助晴就→晴生と改名
・安永?年 高崎藩??役300石
・安永9年5月14日 没
※墓・・・・高崎の大雲寺

 

【8】山本勘助晴資
・安永9年 家督を継ぐ。馬廻り役250石
・文政元年10月28日 没
※墓・・・・高崎の大雲寺
嫡男:平一郎は若死にした
次男:山本隼之助が継いだ。


【9】山本隼之助晴通
???? 250石
・文政2年9月21日没
※墓・・・・高崎の大雲寺



【10】山本平助晴朗
???? 高崎藩士:長坂平六敬典からの養子
・天保10年 鑓奉行 210石
・嘉永28月23日没
※墓・・・・高崎の大雲寺


【11】山本兵衛晴静
・安政6年 馬廻り役 190石
・文久2年7月18日 没28歳
※墓・・・・小石川是照院
信玄公200回忌に山本菅助の名がある。


【12】山本道三郎晴範
・文久2年 家督 170石
・明治元年 廃藩
・明治?年 安中で先生になった?
・明治38年 没
※墓・・・・小石川是照院



【13】山本喜三
・慶応2年 高崎山田町
・???? 群馬師範卒
・明治19年 高崎尋常小学校(中央小)訓導
・明治23年 東京巣鴨小
       本郷尋常小
       駒本尋常高等小
・明治31年 静岡御殿場高等小
・明治32〜大正9年 静岡金岡尋常小(現沼津)訓導兼校長
・昭和6年9月20日 没
 

【14】山本晴恵(はるしげ)
・昭和18年〜 沼津大岡小 校長
・昭和56年 没


【15】山本弘昭
・昭和33年 山本晴恵(はるしげ)長男:山本喜明殉職
・昭和時代 小学校教頭や校長を歴任
・平成15年 没
※山本弘昭は「沼津山本家文書」を公開&寄贈し、山本勘助の
 存在に大きく貢献した方である。

【16】山本???
 九州で医者様をしている。





★中村茂先生、ありがとうございました。

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