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zoom RSS 箕輪初心:生方▲群馬藤岡【平井金山城:平井城の詰め城】前編&「上杉憲実」

<<   作成日時 : 2015/05/17 07:29   >>

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平井金山城は南西約2km程の所にある平井城の詰め城
である。永享10年(1438) 室町将軍:足利義教 VS 鎌倉公
方:足利持氏が対立した際、上杉憲実が平井金山城と平
井城を築かせた(伝)。山崎一氏は先に平井金山城を総社
城主:長尾忠房に命じて密かに築城させ、さらに平井城の
本丸&二の丸を築城させたという。(★群馬の古城塁祉の
研究:山崎一氏著)また、応仁元年(1467)、上杉顕定が
平井城の大改修し、平井金山城は築城したという説もある。
平井金山城は、天文20年(1551)または天文21年(1552)、
関東管領:上杉憲政の逃亡とともに使命を終えたと思われ
る。したがって、この城は天文21年(1552)当時の状態を
そのまま残している貴重な山城なのでなのである。
平井城はG上杉憲実→(清方)→H憲忠→I房顕→J顕定→
K顕実→L憲房→M憲寛 →N憲政まで平井城が本拠の城に
した。→ O長尾景虎(上杉謙信)で、山内上杉家の歴史は
16代:上杉謙信まで続いた。
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箕輪初心:生方▲群馬【平井城5回目】:関東管領の城
http://53922401.at.webry.info/201505/article_16.html

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◆訪問日・・・平成27年(2015)5月12日(火)
●公民館の事業にバス見学の参加申し込みが遅れたため、個人の
車で追いかけた。

●平井城手前からの平井金山城遠望
 手前の山である。
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★鎌倉公方軍も北条軍も上杉謙信軍もここから
眺めたのであろう。


●平井城保存会の矢島さんに資料を戴いた。また、資料の購入した。

●平井城からの金山城遠望
  ★写真の電柱の所の山である。
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・すぐに、平井金山城に向かった。
 平井城ガイドの矢島さんと以前荒神堀を教えてくださった
 方の後を車で向かった。

・県道175号線沿いに日野小学校がある。
 真向かい辺りに「平井詰城跡登山口」と書かれた大きな
 標柱が立っている。

・町の紫色のバスが見えた。

●広い駐車場に車を駐めた。

●案内板
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●「平井詰城跡登山口」
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山麓からの比高は160m程である。

●山麓付近にある数段の削平地&石垣
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・すぐに追いついた。
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・解説は公民館スタッフの城の専門家である。
・役所のスタッフにも同行をお願いした。

●数段の削平地&石垣

●一番上の削平地&石垣
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解説「一見、山麓居館の跡と郭周囲の石垣のようにも見えます。
 畑の造成に伴うものかもしれません。居館の遺構なのではな
 いかもしれません。」
と言っていた。 
★確かに、虎口のように見える部分もあるが、畑を開墾する時に
出た石を、土手の補強に用いたのかもしれない。
高さは1m〜1,2mある。古いもののように見られる。
削平地は20m×30m程しかない。関東管領の居館としては
少し狭い感だがある。

※この見学会には、箕輪城関係者が多くいた。
箕輪城祭り実行委員長や副委員長、箕輪城語り部の会4人
など、・・・
 
・ランの花が咲いていた。
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●上りは急峻になる。落ち葉で滑る。
 途中、斜面を直登するような道がある。

●虎口
「門があったのだろうな。」
 とF氏に話した。

●尾根のコル
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★10分程あれば、城址のある尾根まで到達できるが、
32名の団体で高齢者も多く、30分かかった。
★尾根に出た部分は堀切の跡のようである。
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●「物見台跡」の表示
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●右に進むと、「物見台跡」・・・尾根の先端部になる。
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★樹木がなければ、平井城や旧城下町がよく見えそうである。
北条勢が上杉憲政を攻め寄せてくるは東の方角からであった。
物見をするには格好の場所である。

●西に登った。

●小さな堀切
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●虎口
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「門があったのだろうな。」
 とF氏に話した。
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●本郭手前の郭の虎口 

●郭
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10m×30m?

●袖郭もあった。

●刻み石・・・清水のある場所を表示している。
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●堀
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●井戸曲輪との分岐
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●本郭の虎口
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★城門が置かれていたのであろう。
  木の柵で作った門であったろう。

●枡形状に窪んだ地形があった。

●本郭
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・30m×20m程の郭である。

・城址碑
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・案内板
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★技巧的な城である。


解説の先生が
「箕郷の人は箕輪城が中心です。ここでは、長野業政より
 上杉憲政公や上杉謙信公です。北条びいきではないよう
 です。」
★そういえば、沼田城&岩櫃城は真田で売り出している。
 岩櫃城は斉藤憲弘ではないのだ。

「回りには支城がたくさんありました。
 天屋城は・・・高山氏が・・・」
「小王山城は・・・上杉景勝が入った城です。」

「井戸曲輪の先はゴルフ城です。表門や櫓門が発掘
 されました。今日は行きません。」
●表示・・・行っていない城は3城だった。
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・篝火
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・上杉憲実公の籠城
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・仲間・知人に別れを告げた。
32名の団体と別れた。
もっと、探検するのだ。〜〜〜〜〜〜〜〜続く。
 



◆◆ 平井金山城&上杉憲実 ◆◆
 
上杉憲実→上杉房顕→上杉顕定→上杉顕実→上杉憲房→
上杉憲寛→上杉憲政・・・上杉謙信?

・永享8年(1436)
 鎌倉公方:足利持氏は信濃守護:小笠原政康の
を討つように村上頼清から依頼された。
足利持氏は上杉憲実から、
「信濃は幕府領ですかた、兵を派遣できません。」
と諫めた。
2人の確執が始まった。
足利持氏は出兵した。
「上杉憲実を討つ。」という噂が流れた。


・永享9年(1437)
室町将軍:足利義教 VS 鎌倉公方:足利持氏

6月〜
上杉憲実は平井金山城を総社城主長尾忠房に命じて密かに築城
させた。さらに長尾忠房に平井城の本丸&二の丸を築城させた
という。
 (★群馬の古城塁祉の研究:山崎一氏著)

●上杉憲実が平井城を本拠地とした理由(山崎説)
@鎌倉公方(後の古河公方)の勢力範囲(山崎)
A上杉氏の有力家臣:白井長尾&武州高見大石の勢力範囲
 の中間地点
B鎌倉から越後へ通じる往還に面していた。
C日野地区に製鉄技術があった。
 (★「群馬の古城」:山崎一著)
 

●上杉憲実が平井城を本拠地とした理由(利根川説)
@上杉憲実の領国であった。山内上杉氏の勢力基盤。
A鎌倉往還が近くにあった。
B鎌倉から約100kmの安全地帯。越護・京へも行ける。
C日野の鑪沢(たたらざわ)に鉄を産し、武器製造ができる。
(★「平井城の管領たち:利根川靖幸著)


・永享10年(1438) 上杉憲実によって築かれたと云われる。
上杉憲実は関東管領:山内上杉氏5代目当主である。
上杉憲政は嫡子を平井城に移させた。



8月14日 上杉憲実は密かに鎌倉を脱した。
 警護は上杉持朝・庁鼻の上杉憲信・長井三郎・小山小四郎
那須太郎らであった。。

8月15日 朝、平井城へ逃がれた。  
 
足利持氏は上杉憲実を討つため、一色直兼・時家200騎を
 派遣した。

8月16日 足利持氏本隊は5000騎を率いて武蔵国高安寺
 (現東京都府中市:足利尊氏建立の安国寺)に兵を進めた。

 上杉憲実は情報が入るとn2000騎を常ヶ岡砦(庚申山の南
 面)・鮎川の砦などに分散することにした。

8月17日未明 藤岡郷の戦い
 足利持氏本隊は約20里(80km)を夜通し駆けてきた。
 約1里半(6km)で休息した。
 上杉憲実は先発隊800騎が霧の中、本隊を襲撃した。
 兵を引くと見せて、各砦の隊に攻撃させた。
 足利持氏本隊は撤退した。
 しかし、諦めきれない足利持氏は、再び攻撃してきた。
 上杉憲実は平井金井城に籠城した。
 長尾忠房かた支城ネットワークを巧みに利用している
 ことを知った。

 上杉憲実は室町幕府に急使:長尾定景を派遣して援軍を要
 請した。
 
8月28日 将軍:足利義教は上杉持房(禅秀の子→上杉氏朝の
 養子)を大将として今川・朝倉・小笠原・山名などに上杉憲実
 の救援を命じた。

9月16日 斯波持種が錦の御旗を掲げ、京を出発した。
 越後国の守護:上杉教朝が3500騎も救援した。
さらに、援軍が来るという噂が広がり、足利持氏
  側の結城・千葉。佐竹・武蔵七党等が次第に戦線から
退いた。
足利持氏軍は小競り合いで不利になり、撤退した。
武蔵府中の高安寺に陣を張っていた。
上杉憲直は捕虜となった。

9月27日 風祭・早川尻(小田原)の戦い
  今川範忠 VS 足利持氏方の宅間上杉憲直
今川範忠が上杉憲直を敗った。

10月6日 上杉持房の軍は高麗寺山(神奈川県大磯町)
 に陣を取った。
同日、 上杉憲実は平井金山城を出発した。

11月1日 足利持氏は相模の海老名まで行き、さらに、
 鎌倉に落ちようとした。
 しかし、途中で上杉憲実の家宰:長尾忠政(忠房2男)・景仲
 の軍と出会い、足利持氏は幕府軍に降伏した。

11月4日 相模国の弥名寺(=金沢文庫)で剃髪した。

・永享11年(1439)
閏1月24日 上杉憲実は幕府に持氏の助命嘆願
  行ったが叶わなかった。

2月20日 足利持氏は永安寺で自刃した。

 
・享徳3年(1554)享徳の乱
  鎌倉公方:足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した。

  上杉憲実の2男:上杉房顕が関東管領になった。

・康正元年(1455)上杉房顕が平井城に入城した。
以後、関東管領:山内上杉氏の本城となった。







★明日は平井金山城の後編である。
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