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zoom RSS 箕輪初心:生方▲群馬【平井城5回目】:関東管領の城

<<   作成日時 : 2015/05/16 06:46   >>

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平井城はG上杉憲実→(清方)→H憲忠→I房顕→J顕定→
K顕実→L憲房→M憲寛 →N憲政まで平井城が本拠の城に
した。→ O長尾景虎(上杉謙信)で、山内上杉家の歴史は
16代:上杉謙信まで続いた。※平井城跡は、西平井地区の
鮎川左岸の断崖上にある。平井城は上杉憲実が総社城主:長
尾忠房に命じて築城させた説が通説である。その後、応仁元
年(1467)上杉顕定が平井城の大改修と平井金山城は築城した。
★従って、長野業正が箕輪城を築城したのもこの直後である
と私だけが主張している。何故なら、箕輪城鬼門の石上寺を
造ったが、・・・・
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★箕輪城128【築城年代7説】:私見は長野業尚の
1477年説
http://53922401.at.webry.info/201404/article_31.html

画期的な説なのにと自画自賛・・・・。
通説を覆すのは大変なんだね。素人だからね。



◆訪問日・・・平成27年(2015)5月12日(火)
群馬藤岡散策
@平井金山城2回目
A平井城5回目
B世界遺産:高山社2回目
C高山城遠望
D猪之田温泉600円
Eふしおか道の駅「翔」・・・
      トマトラーメン★★★★旨かった。





■訪問日・・・平成26年(2014)5月26日
5回目の訪問となった。

@川=外堀
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A総郭
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 ★上杉顕定の時代に修築した。

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B「荒神堀」・・・南〜西にで囲み、平林川に突入する。
 幅30m・・・★でっかい。
 
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・車を駐めたのが、常光寺であった。
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「天文20年(1551)10月、藤岡の平井城から常光寺の秀龍和尚と
逃げた。11月か12月頃、水上の粟沢に隠れた。しかし、和尚は
高齢のため、本尊の延命地蔵を持って、1〜2月の多雪の清水峠
越えはできないと考えた。そこで、建明寺を建てることにした。
結論:私見では、天文20年(1551)10月〜永禄元年(1558)
の7年間、上杉憲政公は水上にいたことになる。推論の域を出ないが。
 下記参照。

・清見寺
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C三の丸・・・本丸の北西
保存会:矢島さん宅
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・冊子
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・冊子1000円を矢島さんより「購入。
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・総郭&三の丸の境界
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・山崎一氏作成の縄張り図
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D二の丸・・・本丸の北
一段高い場所に「二の丸」がある。
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E本丸=主郭は・・・鮎川が湾曲する南端部に置かれた。
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  94m×短軸70m程の五角形を???
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  鮎川の断崖面には堅牢な竪堀
  断崖面以外は内堀と内土塁で区画されていた。
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F「笹曲輪」・・・・副郭が南北に連なっている。
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※自然地形「惣構」となっていたと推定されている。
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G「二の丸」と繋がっている副曲輪
★復元されているが、豚小屋あるため、見落としやすい。





◆◆ 平井城&上杉家 ◆◆
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上杉憲実→上杉房顕→上杉顕定→上杉顕実→上杉憲房→
上杉憲寛→上杉憲政・・・上杉謙信?
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・永享10年(1438) 上杉憲実によって築かれたと云われる。
上杉憲実は関東管領:山内上杉氏5代目当主である。

室町将軍足利義教 VS 鎌倉公方足利持氏
上杉憲実は平井金山城を総社城主長尾忠房に命じて密かに築城
させた。さらに長尾忠房に平井城の本丸&二の丸を築城させた
という。
 (★群馬の古城塁祉の研究:山崎一氏著)
上杉憲実は密かに鎌倉を脱し平井城へ逃がれた。
・永享11年(1439)足利持氏は上杉憲実を討つため、一色直兼・
時家3000騎を派遣した。後から足利持氏本隊は5000騎を率い
て武蔵国高安寺(現東京都府中市:足利尊氏建立の安国寺)に
兵を進めた。
上杉憲実は室町幕府に急使を派遣して援軍を要請した。
将軍足利義教は上杉持房を将として今川・朝倉・小笠原・山名
などに上杉憲実の救援を命じた。越後国の守護:上杉教朝が
3500騎も救援した。 幕府軍は早川尻(小田原)で足利持氏方
の宅間上杉憲直を敗った。上杉憲直、足利持氏は相模の海老名
まで退き、鎌倉に落ちようとしたが、途中で上杉憲実の家宰:
長尾忠政・景仲の軍と出会い、足利持氏は幕府軍に降伏した。
相模国の弥名寺で剃髪した。上杉憲実は幕府に持氏の助命嘆願
行ったが叶わず、足利持氏は永安寺で自刃した。上杉憲実は戦
死した。
●上杉憲実が平井城を本拠地とした理由
@鎌倉公方の勢力範囲
A有力家臣:白井長尾景仲&高月大石憲儀の勢力の中間地点
B鎌倉上道(鎌倉から越後府中へ通じる往還)に面している。
C日野地区に製鉄技術があった。
 (「群馬の古城」:山崎一著)


・宝徳元年(1449)上杉憲実の長男:上杉憲忠が関東管領になった。
 
・享徳3年(1554)享徳の乱
  鎌倉公方:足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した。

  上杉憲実の2男:上杉房顕が関東管領になった。

・康正元年(1455)上杉房顕が平井城に入城した。
以後、関東管領:山内上杉氏の本城となった。



〜〜〜カット〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・天文10年(1541)甲斐の武田信虎(信玄父)+奥信濃の村上
 義清が中信濃の諏訪頼重の海野平滋野諸族(海野・望月・
 禰津・矢沢)を攻撃。
 →滋野諸族の敗退。
 海野棟綱、幸隆父子?は上州吾妻郡羽尾に逃亡。
 武田晴信は父信虎を駿河へ追放。
 3年間、真田幸隆は箕輪城に客人として逗留。
 
 ついでに、平井城を訪問・・・
 1500人の宴会をした。(★加沢記)



・天文20年(1551)または天文21年(1552)関東管領:上杉憲政
は国人領主の離反により孤立し、結果的に北条氏康の攻勢を支えき
れずこの平井城より退去した。
最終的には越後の長尾景虎を頼った。
・永禄3年(1560)越後の長尾景虎(上杉謙信)の第一次関東出兵。
後北条氏の支配から平井城奪還を果たした。
しかし、長尾景虎は厩橋に関東支配の戦略拠点を移した。
翌年には関東管領職を譲られた。上杉政虎になった。






*******関東管領:上杉家関係***************************

箕輪初心★山内上杉16代@「初代〜7代」=足利尊氏の母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

箕輪初心★埼玉【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:庁鼻和上杉
憲英〜
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html

箕輪初心★上杉家A『8代:憲実〜9代:憲忠〜10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html

箕輪初心◆栃木:鑁阿寺&板東17番:満願寺
http://53922401.at.webry.info/201311/article_6.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_6.html

箕輪初心◆栃木:【足利学校】3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_5.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201312/article_5.html


*********上杉顕定の関係****************************
箕輪初心★上杉家10代:上杉顕房&11代:上杉顕定
http://53922401.at.webry.info/201405/article_28.html

箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心●埼玉【雉ヶ岡城】=上杉顕定の城→北条氏の城
http://53922401.at.webry.info/201405/article_32.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

*********上杉顕定の死********************************
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
http://53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
★長尾為景の協力者:佐渡本間家が上杉顕定を倒した。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
★上杉顕定の管領塚=戦死した場所


〜〜〜上杉家15代:上杉憲政〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●群馬「平井城」=関東管領:上杉憲政の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html

箕輪初心●群馬【平井城前編】:関東管領8代上杉憲実〜
16代上杉謙信
http://53922401.at.webry.info/201405/article_29.html

箕輪初心●群馬【平井城後編】関東管領:【15代:上杉憲政 】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_31.html

箕輪初心●群馬藤岡編:平井城の城郭群=「金井城」など
http://53922401.at.webry.info/201107/article_8.html
★額金山城は平井城の詰め城である

箕輪初心:生方▲【水上:建明寺】&上杉憲政は水上での
逃亡生活7年間?
http://53922401.at.webry.info/201505/article_11.html

箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家墓所・林泉寺・照陽寺
http://53922401.at.webry.info/201307/article_5.html
★上杉憲政公の墓は米沢の照陽寺にある。



上杉憲政公の像のある水上の「健明寺」の和尚様の話や私との
会話&高崎市史&榛名町誌&「上杉家御年譜」から、推論した。
「天文20年(1551)10月、藤岡の平井城から常光院?の秀龍和尚と
逃げた。11月か12月頃、水上の粟沢に隠れた。しかし、和尚は
高齢のため、本尊の延命地蔵を持って、1〜2月の多雪の清水峠
越えはできないと考えた。そこで、建明寺を建てることにした。
結論:私見では、天文20年(1551)10月〜永禄元年(1558)
の7年間、上杉憲政公は水上にいたことになる。推論の域を出ないが。




●藤岡平井城の落城説は5説ある。
@天文20年(1551)2月10日説
A天文20年(1551)3月説
B天文20年(1551)7月20日説(群馬町誌:唐沢定市先生)
C天文20年(1551)10月説(2度目の攻撃)
D天文21年(1552)説

●越後に逃亡説は6説ある。
@天文20年(1551)3月説
A天文20年(1551)10月説
B天文21年(1552)説。
(★関東古戦録:久保田順一訳)
 ★藤岡市史では、鵜呑みにはできないが・・・。
C天文21年(1552)1月〜2月(建明寺住職・水上町史)
D弘治3年(1557) 7月13日以前説(群馬町誌)
上杉憲政の越後:御館入城説では上杉憲政は長尾景虎を
 養子とする。
(★「上杉家文書」)
E永禄元年(1558)説(★高崎市史)
 ★榛名町誌:久保田順一先生)



●逃亡経路説4説ある。
@は三国峠→越後上田庄→国府説(かつての通説)平井落城後に
 すぐに越後へ向かった。
A群馬中之条→越後説(新潟の十日町市史)説
B群馬の沼田・水上→清水峠→越後説(建明寺・水上町史)
C群馬の沼田・水上→越後説(★高崎市史)
理由@上の建明寺に上杉憲政の木造がある。
理由A「上杉家御年譜」には、永禄元年(1558)に上杉憲政が越後入り
した。とある。越後へは永禄元年(1558)説が最近は有力視とされている。
(★高崎市史)
(★榛名町誌:久保田順一先生執筆)


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★明日は平井金山城かな?

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