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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【水上:建明寺】&上杉憲政は水上での逃亡生活7年間?

<<   作成日時 : 2015/05/11 07:27   >>

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私見では、【上杉憲政公は天文20年(1551)10月〜
永禄元年(1558)の7年間、水上にいた。推論の域を出ないが。】

上杉憲政公の像のある水上の「健明寺」の和尚様の話や私との
会話&高崎市史&榛名町誌&「上杉家御年譜」から、推論した。
「天文20年(1551)10月、藤岡の平井城から常光寺の秀龍和尚と
逃げた。11月か12月頃、水上の粟沢に隠れた。しかし、和尚は
高齢のため、本尊の延命地蔵を持って、多雪の清水峠越えはで
きないと考えた。そこで、建明寺を建てることにした。上杉憲政公
は・・・越後に行った・」
上杉憲政公の藤岡平井城の落城説は5つある。@天文20年(1551)
A2月・B3月説・ C天文20年(1551)10月説・D天文21年(1552)説

越後に逃亡説は6説ある。@天文20年(1551)年3月説・
A10月説・B天文21年(1552)説。天文21年(1552)7月13日以前説(群馬町誌)
C弘治3年(1557) 上杉憲政の越後:御館入城説では上杉憲政は長尾景虎を
養子とする。(★「上杉家文書」)D永禄元年(1558)説(高崎市史・榛名町誌)

逃亡経路説4説ある@は三国峠→越後上田庄→国府説(かつての通
説)平井落城後にすぐに越後へ向かった。A群馬中之条→越後説(新
潟十日町市史)説、Bは群馬の沼田・水上→越後説(★高崎市史)
理由@上の建明寺に上杉憲政の木造がある。理由A
「上杉家御年譜」には、永禄元年(1558)に上杉憲政が越後入りした。
とある。越後へは永禄元年(1558)説が最近は有力視とされている。
(★高崎市史・榛名町誌)

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 (★水上「建明寺の上杉憲政公の像)


〜〜〜上杉憲政〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●群馬「平井城」=関東管領:上杉憲政の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html

箕輪初心●群馬【平井城前編】:関東管領8代上杉憲実〜16代上杉謙信
http://53922401.at.webry.info/201405/article_29.html

箕輪初心●群馬【平井城後編】関東管領:【15代:上杉憲政 】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_31.html

箕輪初心●群馬藤岡編:平井城の城郭群=「金井城」など
http://53922401.at.webry.info/201107/article_8.html
★額金山城は平井城の詰め城である

箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家墓所・林泉寺・照陽寺
http://53922401.at.webry.info/201307/article_5.html
 ★照陽寺境内の上杉憲政の墓がある。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


◆訪問日・・・平成27年(2015)5月6日


【1】水上の【建明寺】

●保育園

●梵鐘

●本堂の外観
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●現23世:湛(つちへん)山泰学和尚で、「かつやま」さん
 が撮影の許可をしてくださった。★感謝申しあげます。
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●初代:秀翁龍樹大和尚・・真ん中
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●2代目: 海翁文寿大和尚・・・向かって右
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【上杉憲政公木像】・・向かって左
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●本尊・・・延命地蔵
★ 和尚様が案内してくださり、写真と掲載も許可してくださった。
  ありがとうございました。
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●「建明寺のパンフレット」

●和尚様の話@開山の話&「建明寺のパンフレット」

「天文20年(1551)、上杉憲政公は北条氏綱との戦いに敗れ、越後
の長尾景虎(上杉謙信)を頼って逃げ落ちることにした。11月か
12月、「越後落ち」の途中、谷川岳を越える清水峠を前にした水
上の粟沢で、上杉憲政公は護持してきた伽羅陀仙延命地蔵を、高
齢のため、この地に留まることになった秀翁龍樹和尚に託した。
上杉憲政公は翌年、雪の降り積もった清水峠を越えた。おそらく
水上には2〜3ヶ月しかいなかった。
画像

一人残った秀翁龍樹和尚が庵を造り、像を安置した。これが、「建
明寺」の開山である。天文22年(1553)、庵が野火にあい、全焼し
た。湯原上の平元寺に再建された。しかし、2年後、秀翁龍樹和尚
は遷化された。下牧(現みなかみ町)の玉泉寺第9代住職:海翁
文寿大和尚が兼務となった。永禄元年(1558)、海翁文寿大和尚が
本堂を現在の地に建立して伝法開山となった。



●和尚様の話A「2代目:海翁和尚の水上温泉の開湯」
「湯原の健明寺の2代目:海翁和尚は水上温泉の発見者として名を
残している。利根川沿いの洞窟より湯煙出ているのを発見した。湯
を崖の上の村まで引くため、岩の裂け目に粘土を埋める工事をした。
しかし、失敗の連続だった。「仏の力を借りる以外に方法はない!」
と思った海翁和尚は小石に「経文の文字を書いた石」を粘土に混ぜ
た。工事は順調にに進み、温泉を村まで引くことができた。そして、
頑丈な湯舟を発案した。」
〜〜〜最近、新しい湯口を掘るために壊した粘土の中から「経文の文
字が書かかれた小石」が大量に発見されたそうである。


私説=結論上杉憲政公の像のある水上の「健明寺」の和尚様
の話や私との会話&高崎市史&「上杉家御年譜」から、推論した。
「弘治3年(1557)11月か12月頃、藤岡の平井城から常光院?
の秀龍和尚と逃げた。水上の粟沢に隠れた。しかし、和尚は高齢
のため、本尊の延命地蔵を持って、1〜2月の多雪の清水峠越え
はできないと考えた。そこで、建明寺を建てることにした。
開基は上杉憲政公で、開山は秀翁龍樹大和尚である。
その後、上杉憲政公が越後に逃れた。
2代目:海翁文寿大和尚が近くの下牧:玉泉寺から兼務で建明寺
を引き継いだ。海翁和尚は水上温泉を発見したという言い伝えが
ある。」



平井城はG上杉憲実→(清方)→H憲忠→I房顕→J顕定→
K顕実→L憲房→M憲寛 →N憲政まで平井城が本拠に城に
なった。→ O長尾景虎(上杉謙信)で、山内上杉家の歴史は
16代:上杉謙信まで続いた。※平井城跡は、西平井地区の
鮎川左岸の断崖上にある。平井城と平井金山城は総社城主
:長尾忠房に命じて築城させた説と上杉顕定が築城した説が
ある。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●群馬「平井城」=関東管領:上杉憲政の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html

箕輪初心●群馬【平井城前編】:8代上杉憲実〜16代上杉謙信
http://53922401.at.webry.info/201405/article_30.html
http://53922401.at.webry.info/201405/article_29.html

*******関東管領:上杉家関係***************************

箕輪初心★山内上杉16代@「初代〜7代」=足利尊氏の母方系
http://53922401.at.webry.info/201405/article_23.html

箕輪初心★埼玉【庁鼻和城】&4代上杉憲顕の子:庁鼻和上杉
憲英〜
http://53922401.at.webry.info/201405/article_25.html

箕輪初心★上杉家A『8代:憲実〜9代:憲忠〜10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html


*********上杉顕定の関係****************************
箕輪初心★太田道灌の生涯:長尾景春のライバル
http://53922401.at.webry.info/201312/article_1.html

箕輪初心★長尾景春:関東下克上で従兄弟:太田道灌と交戦
http://53922401.at.webry.info/201311/article_31.html

箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

*********上杉顕定の死********************************
箕輪初心★本間家の歴史;佐渡本間一族→酒田本間家
 日本一の地主へ
http://53922401.at.webry.info/201307/article_20.html
★長尾為景の協力者:佐渡本間家が上杉顕定を倒した。

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・
雲洞庵・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
★上杉顕定の管領塚=戦死した場所

******************************************************






【15】15代上杉憲政の生涯

・大永3年(1523) 関東管領:山内上杉憲房の子として生まれた。

・大永5年(1525) 3歳。
  父:上杉憲房が死去した。
  父の養子:上杉憲寛・・・古河公方:足利高基の子
   が家督を継いで当主となった。
   家臣の古幡良家=畑将監の娘を養女とした。

・享禄4年(1531) 上杉憲政は山内上杉家の家督を継ぎ、
   関東管領となった。
  上杉氏15代当主である。
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・天文年間(1532〜1555) 上杉憲政は小田原北条氏と
   度々戦った。


・天文10年(1541) 海野平の戦い
  信濃の村上義清・諏訪頼重、甲斐の武田信虎は
  信濃小県郡:海野へ侵攻した。
   5月23日の海野平の戦い(★長野県東御市)
   信濃の村上義清・諏訪頼重、甲斐の武田信虎
      VS
海野棟綱・真田幸隆
結果・・・海野棟綱・真田幸隆は上野国の長野原:
 羽尾幸全(元は海野一族)の羽尾城に逃れた。
★羽尾幸全の正妻は箕輪城主:長野業政の娘であった。
 後に、岩櫃城主:齋藤憲広の娘を貰っている。
★真田幸隆は
 羽尾幸全→長野業政→上杉憲政に救援を求めた。

7月4日 上杉憲政は救援のため信濃佐久郡への出兵した。

   上杉憲政は諏訪頼重に話を持ちかけた。
   諏訪頼重は盟約関係にある武田・村上に無断で、
   上杉憲政と和睦し、所領を分割した。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※北条氏が伊豆・相模を支配した。
 →武蔵へ進出して、上杉憲政の軍をたびたび破った。
上杉憲政は北条の勢力拡大を危惧していた。

・天文14年(1545) 上杉憲政の契約
  @扇谷上杉朝定と結んだ。
  A古河公方:足利晴氏を上杉憲房側に引き込んだ
  B駿河の今川義元とも和睦した。

  そして古河公方&関東管領の威光により周辺武士を
  味方に引き入れた。

  今川義元の挙兵〜〜〜
  北条氏康が駿河へ出陣した隙に、足利晴氏&上杉朝定
  と共に北条綱成が守る河越城を大軍で包囲した。

・天文15年(1457) 河越の夜戦
  天文14年(1456)説・天文15年(1457) 説がある。
北条氏康  VS 上杉憲政+足利晴氏&上杉朝定
  北条氏康に大敗を喫した。
  3000人余の将兵を失って上野平井城に逃れた
  本陣を命がけで守り、逃走を手助けしたのは
  本間近江守と本庄藤三郎と本庄実忠とされる。
大導寺政繁が本間の首を刎ねた。
(★小田原北条記)
  
 その後は上杉憲政は勢力の立て直しを図った。

・天文15年(1457) 河越の夜戦の後〜〜〜〜
  南多摩の滝山城:大石定久が北条氏康2男:北条氏照を
  養子を迎えた。・・・滝山城主→八王子城主。

  北多摩の勝沼城:三田氏が北条氏康の配下になった。
  

  武蔵の天神山城:藤田重利は北条の傘下。
 北条氏康の3男新太郎(氏邦)が長女:大福御前の娘婿
  となった。
   北条氏邦に天神山城と花園城を譲渡。
   北条氏邦は、天神山城は居城に、花園城を支城に。
   北条氏邦は「藤田晋太郎」と名乗り、秩父衆を掌握した。

  
  武蔵の忍城:成田親安・長泰などの山内上杉家家臣も
  離反していった。
 
  上野は伊勢崎の那波氏と国峰城の小幡氏、館林の赤井氏が
  北条氏康方についてしまった。
河東での戦い
  那波無理之助の父 
   VS
  上杉憲政配下:足利長尾氏・横瀬氏・桐生氏・厩橋長野氏
  ・大胡氏

 
※上杉憲政は次第に上野の平井城に押し込められていった。


・天文16年(1547) 小田井原の戦い
武田晴信は信濃国佐久郡に侵攻し、志賀城(長野県佐久市)
 を包囲した。

 長野業政は「敵を作るから行かない方がいい。」
 と上杉憲政を諫めたが出兵した。
 長野業政は箕輪城に帰った。
   (★甲陽軍鑑・天文14年(1456)説 )
信濃:志賀城:笠原清繁の救援に出兵した。
 金井秀景を大将とする倉賀野党16騎を先陣に西上野衆の
 大軍を派遣したという。
   (★関東古戦録:久保田順一訳)

小田井原の戦い
 武田晴信 VS  上杉憲政
 実際は
 板垣信方、甘利虎泰軍 VS 西上州軍

 
結果・・武田軍に迎撃され潰走した。
 武田晴信(信玄)に大敗を喫した。
 武田晴信は上杉軍3000人をさらし首にして威嚇した
 という。大河TVでは山本勘助がその役を受けた。
 救援の望みを失った志賀城は落城した。

 
 救援の望みを失った志賀城は落城した。

 
 親戚の上野国旧妙義町の高田憲頼も戦死した。
 捕虜は武田の24将などの奴隷?
 女子供は売り払われた。笠原清繁夫人は岩殿城の
 小山田信有に与えられ妾とされた。
 (★TV:風林火山・ウキペディア)


※武田晴信は長野業政に「配下にならないか?」
 という手紙を出した。でも、長野業政は断った。
(★箕郷町誌:近藤義雄著)
 
 ※武田晴信は佐久郡の制圧を完了する。
 次は村上義清と対戦となった。
    

・天文18年(1559) 三寺尾(高崎寺尾)の戦い
武田晴信 VS 和田信景・倉賀野の金井秀景+9城主
上野軍527の首が討ち取られた。

  (★富原文庫より)


9月 武田晴信は平井城を攻撃した。
(★平井城:上杉氏一族の碑)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天文21年(1552)
 北条氏康は2万の軍勢を率いて平井城攻めのために
 小田原城を出発した。

 山内家同族の深谷上杉家当主:上杉憲盛などが
 後北条氏康の降伏していた。

 2月 北条氏邦の御嶽山城の攻撃
  武蔵の最前線御嶽城:安保氏が落城した。
  
 ★御嶽山城は阿保しが足利長尾氏からの養子であった。
  

〜〜〜平井城落城説@〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※天文20年(1551)説・ 天文21年(1552)説がある。
  3月説&10月説〜〜〜〜〜

1)天文20年(1551)2月説:NHK大河ドラマ説
  2月10日、上杉憲政は50名の家臣を従えて平井城を脱出した。
 春日山城の長尾景虎を頼り、越後に逃れた。
 平井城には嫡子:龍若丸を残し、後見として目加田新介・
 長三郎兄弟と九里采女正を配した。

 

2)天文20年(1551)3月説
 3月・4月 北条氏康の上州平井城侵攻@ 
 @北条綱成の嫡子:善九郎康成は、福島一郎ら2万余
  の兵を率いて・・・・(中略)・・・・。  
 太田美濃守・長野信濃守・曽我兵部頭・金井小源太
 ・安中越前守・小幡・白倉・沼田・厩橋・新田
  ・赤井(館林城)・佐野・足利(=長尾氏)・桐生
  ・渋川・大胡・山上・後閑・長野などの諸将が先陣
  と後陣に別れて、出陣した。
 
神流川合戦
上杉憲政 VS 北条氏康
   武蔵・上野国境の神流川を挟んで対陣した。
   激戦・・・
  結果・・北条北条綱成、康成(氏繁)らの活躍で
  北条が勝利した。
  北条氏康は深追いせずに一旦兵を退かせた。
  3月10日の一戦では、上杉方が勝利したが、・・・
   北条康成は18歳であるが、・・13人を切り倒した。
   ・・・深追いは禁物と引き上げた。
   (★参考文献・・・関東古戦録:久保田訳)

 上杉憲政は平井城に立て籠った。
※平井城が北条軍の脅威にさらされた。
   
    
 A北条氏康20000 VS 関東管領上杉憲政4000
  *長野業政2000の軍勢で応援→落城せず。
  *上泉伊勢守1500で箕輪城の留守番。
 (★参考資料:野口先生=雨情先生子息の箕輪城の本)
 

3)天文20年(1551)10月説:関東古戦録・ウィキペディア説
10月 平井城落城北条氏康の上州平井城侵攻A
 @北条氏康は再び、上州平井城を決めた。・・・。
 上杉憲政は、お触れを出したが500騎しか集まらな
 かった。
 上杉憲政は岩槻城(太田道灌の子)か箕輪城(長野)
  に籠もるか迷ったが、
 曽我・三田・本庄らが「越後の長尾景虎が若輩ながら、
  知勇に優れているという噂がある。父:長尾為景は
  上杉顕定公を討った逆臣ですが、元は上杉の家臣・・。」
 春日山城の長尾景虎は温かく迎えてくれた。
  (★参考文献・・・関東古戦録 久保田順一訳)
 
 平井落城の際に平井城に留まった嫡男:龍若丸が
 上杉憲政により置き去りにされ、厩橋の家臣:長野??
 に預けられたが、長野が北条へと裏切ってしまい、
 龍若丸は北条氏康に捕らえられ処刑された。
  (★参考文献・・・関東古戦録 久保田順一訳)
 
 処刑の話は後世の創作である可能性も高い。
(★ウキペディア)
 


A平井城の上杉憲政に長野業政が「長尾為景を頼れ。」
  倉賀野氏に依頼。龍若丸を目方に依頼。
  北条が平井城に進撃。長野は箕輪城に戻る。
  真田幸隆は昔の恩義で心配。
  山本勘助は北条に使者に「嫡男を北条に。」
  (後の3国同盟へ)」
  上杉憲政が越後に逃亡。長尾影虎は丁寧に迎えた。
  目方は憲政の竜王丸を北条に差し出す。
 (★参考資料・・大河ドラマ「風林火山」9/18)
 
B長野業政は上杉憲政を箕輪城に呼ぼうとした。
  →上杉憲政は越後の長尾景虎(上杉謙信)の元に逃亡。
 
C河西(利根川の西)の箕輪長野氏・安中氏など西上野の衆
  が那波氏に通じ後北条に服属した。
  上杉憲政の馬廻衆も離反した。
(★群馬県史・ウキペディアなど)


いずれにしても、
4)天文21年(1552)説
 北条氏康が平井城を攻略。 
 
 目加田、九里らは北條氏康に龍若丸を差し出して降伏・開城
 した。平井城は落城した。龍若丸は小田原の一色松原海岸
 で斬られ、目加田、九里らも「不義不忠の逆賊」として
 磔刑に処された。

北条氏康は叔父:北条幻庵長綱を平井城に置いた。
 
平井城主:上杉憲実は長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃亡。
 

===逃亡経路============
上杉憲政は居城:平井城を失うと越後へ向かった。
 元は家臣筋で、外戚の越後長尾景虎を頼った。

説@・・越後上田庄→国府説(かつての通説?)
 上杉憲政は家宰:足利長尾氏や太田金山城:横瀬国繁
  居城へ入れず、利根吾妻の上野北部へと向かった。
  そのまま越後の長尾景虎(上杉謙信)の元に逃れた。
通説では平井落城後にすぐに越後へ向かった。

説A・・群馬中之条〜十日町〜御館説(新潟の十日町市史?)

説B・・・建明寺の和尚様の話によると、天文20年(1551)10月説を採っ
 ている。「水上町史」も建明寺に建てた。」とあるそうだ。

 説C・・群馬の沼田・水上説(★高崎市史)
理由@・・水上の建明寺に上杉憲政の木造がある。
理由A・・「上杉家御年譜」に永禄元年(1558)に上杉憲政が
 越後入りした。
※越後へは永禄元年(1558)説が最近は有力視とされて
 いる。(★高崎市史・榛名町誌)
 ★御館は行ったが、写真喪失のため添付できない。


・弘治2年(1557) 赤尾・横瀬・足利長尾氏
も後北条氏に降伏することになった。

弘治3年(1557) 上杉憲政の越後:御館入城説
  上杉憲政は長尾景虎を養子とする。
  (★「上杉家文書」)


永禄元年(1558)上杉憲政の越後:御館入城説
(★高崎市史)

 厩橋長野氏北条氏康に従属した。 
 吾妻の岩下城(岩櫃城)主:斉藤憲弘が北条に降伏した。、
 沼田氏も北条氏康に従属した。
 
 ★上野国内の上杉勢力が壊滅したため、越後長尾氏を
  頼ることになった。 
  上杉憲政の越後入りは前古河公方:足利晴氏と重臣:
  簗田晴助が仲介した説もある。
  上杉憲政は白井長尾氏・総社長尾氏・安中忠成などの
  上野国人を率いた。

  白井長尾氏・総社長尾氏はすぐ上野へ帰国したが、
 永禄3年(1560)までには北条に服属した。


・永禄3年(1560)長尾景虎の第一次関東出兵
   足利長尾氏と安房の里見義堯の要請があった。
     (★里見義堯の一族:正木家文書)
   長尾景虎は上杉憲政を奉じて関東へ進攻した。

※長尾景虎の第一次関東出兵
  
@宮野城(猿ヶ京)→A沼田城
→沼田城に侵攻。北条孫次郎らは撤退した。
  北条孫次郎康元の沼田城をまず落とした。
  沼田顕泰氏を復権させた。
 白井長尾氏・総社長尾氏・箕輪長野氏はすぐに
 長尾景虎に呼応し参陣したと考えられる。
→B岩下城(岩島)あるいは岩櫃城で北条側の
 齋藤憲広が交戦?
 真田幸隆との争いのためすぐ傘下。
→C明間城・・・★私見:吾妻川戸城秋間氏
→D厩橋城(=前橋城)北条側の厩橋長野氏は交戦
 後、傘下になった。
→D那波城:那波氏(伊勢崎)
  北条方として活躍した那波氏は逃走。武田氏へ
 赤石(伊勢崎)で集結・・・交戦し、滅亡。
→E国峯城(富岡):???
(千葉県里見一族正木家文書=里見義弘家臣:正木時茂)
 
・・館林城・赤井氏は長尾景虎に滅ぼされた。

 上杉憲政は、長尾景虎に上杉の名跡と関東管領職を譲る
 ことを約束し????、平井城の回復を促した。
 長尾景虎は配下:平子孫三郎、本庄繁長らを平井城に
 送り、平井城を奪還した。
 北条幻庵長綱らは一旦は武蔵松山城に逃れた。

永禄3(1560)長尾景虎は厩橋城を関東における駐屯地と
して整備し、平井城は廃城にした。


 (★富原文庫より・・許可済み) 


●関東幕注文
小田原城攻撃までの間に長尾景虎は関東諸国の諸将を
 集めて大軍を編成した。「関東幕注文」がある。
 長尾景虎は上杉憲政の名代であるため、関東管領:上杉
 憲政の名の下に集った
 ★箕輪初心私見「庇護していた上杉憲政の権力の回復。
    +上杉姓のブランドが欲しかった。」
 →長尾景虎の関東への越山。
  (+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣)
長尾景虎は「関東幕注文」を作成したが、
 箕輪衆、厩橋衆は22で、最大規模。
 箕輪衆(箕輪一族:親戚)・・・同じ旗印
   長野業政(箕郷) 長野新五郎  南与太郎(榛東村) 
   小熊源六郎(保渡田砦)長野左衛門  浜川左衛門尉(高崎) 
   羽田彦太郎 八木原与十郎(渋川市)
   須賀谷筑後守(旧群馬町)
家臣・同心衆
 長塩左衛門四郎(吉岡町) 大戸中務少輔(東吾妻町)
 下田大膳(高崎箕郷支所) 漆原(吉岡町)内山(富岡市)
 高田小次郎(妙義町)   和田八郎(高崎市和田城) 
 倉賀野左衛門五郎(高崎市倉賀野城)  
 依田新八郎(安中市板鼻城)  羽尾修理亮(吾妻)
 厩橋衆・・・長野藤九郎・大胡・引田(旧富士見村)
     (★群馬県史)
※関東幕注文(★上杉氏文書)
@長野業政の同心として、海野一族の羽尾修理亮・大戸中務小輔
が業政の娘婿として出陣
A岩下衆・・・斉藤憲弘・山田某(山田城)
   (北条氏→長尾へ転換か)
    あとは破けているので岩下衆の残りの武将が不明。
※上野国内で北条方として反攻したのちに服属した武将も
 多かった。
※下野の宇都宮氏・小山氏・古河公方勢など反北条の諸勢力
※武蔵の藤田重利の子ども・多摩の三田氏など一度は北条の
傘下にした国人衆も多い。

※武田信玄は上杉政虎のいない間に西上州の高田城:高田
 氏(妙義町)・松井田城:安中忠政を攻撃した。

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箕輪初心★箕輪城135長野業政&長尾景虎の「関東幕注文」
http://53922401.at.webry.info/201405/article_9.html


***********最近の箕輪城シリーズ*************************
箕輪初心★箕輪城134長野業政の直属家臣【長野信濃守在原
業政家臣録=着到帳】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_8.html

箕輪初心★箕輪城133【長野業政の政略結婚&有力同心衆・家臣】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_7.html

箕輪初心★箕輪城132『長野業政の系図&長野一族
http://53922401.at.webry.info/201405/article_4.html


箕輪初心●箕輪城130「長野業正の生涯」=武田信玄を
悩ませた人物
http://53922401.at.webry.info/201405/article_2.html


箕輪初心★箕輪城128【築城年代7説】:私見は長野業尚1477年説
http://53922401.at.webry.info/201404/article_31.html

箕輪初心●箕輪城127【富原道晴氏の縄張り図4種&
My鳥瞰図】
http://53922401.at.webry.info/201404/article_30.html

箕輪初心★箕輪城126【奈佐勝皐「山吹日記」の中の箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201404/article_28.html

箕輪初心★箕輪城125【最新パンフレット】&近くのお薦め
レストラン
http://53922401.at.webry.info/201404/article_27.html

箕輪初心●箕輪城124【桜満開の二の丸〜大手丸戸張】
&『箕輪亭ランチ』
http://53922401.at.webry.info/201404/article_26.html

箕輪初心★箕輪城123【秋本太郎先生現地説明会】20140326
http://53922401.at.webry.info/201403/article_29.html

箕輪初心★箕輪城120『箕輪城稲荷曲輪堀』と箕郷梅公園
http://53922401.at.webry.info/201403/article_26.html

箕輪初心★箕輪城118【2014年3月の雪解けの箕輪城】
http://53922401.at.webry.info/201403/article_17.html

箕輪初心★箕輪城117【長野家侍大将:安藤九郎左衞門】
http://53922401.at.webry.info/201402/article_12.html

箕輪初心●箕輪城116【12月新状況&2014年1月1日初登城】
&井伊直政手作り甲冑A
http://53922401.at.webry.info/201401/article_1.html

箕輪初心●箕輪城115【赤備え】&北条三鱗会の井伊直政
手作り甲冑@」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心●箕輪城114『2013年第11回箕輪城祭り』写真集
http://53922401.at.webry.info/201310/article_28.html

箕輪初心★箕輪城113川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

箕輪初心●箕輪城110 :秋本太郎先生@
「本丸西虎口&郭馬出」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_22.html

箕輪初心●箕輪城107【郭馬出】=城門復元2018年度完成予定
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201306/article_9.html

箕輪初心●箕輪城105久保田順一先生「箕輪城と長野氏」
http://53922401.at.webry.info/201305/article_26.html

箕輪初心:箕輪城102「2013箕郷狐の嫁入り&農大二高」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_7.html

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎
・飯森・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html

*************************************************
  


・永禄4年(1561)  
 2月 上杉謙信は小田原城攻め
北条氏康が小田原城へと籠城したため長期戦となった。
 
 長尾景虎は小田原攻めに失敗。  
 
 3月 
  @上杉憲政は鎌倉鶴岡八幡宮で長尾景虎に
    関東管領職を譲渡した。
   ※永禄元年(1558)養子にした時点で管領職を譲っていた説
   や永禄2年(1559)説もある。

  A長尾景虎に上杉姓と「政」の字を下賜して上杉政虎
   と名乗らせた。
  
  B山内上杉家の家督&系図、上杉家のお宝を譲渡した。
系図は「上杉系図」・「上杉系図大概」の2種であった。
   越後守護家「御当方御系図(長尾系図)」の3種類の
   上杉氏系図しか持っていなかった。

  いずれにしても、上杉謙信は関東管領の地位を獲得した。
これに北条氏を討つ名目が成り立った。
   以後、12回の関東出兵が行われた。
 
  上杉政虎は帰路途中、松山城(東松山市)
    上田氏を攻略・・上杉憲勝が城主。

6月21日*長野業政が死去
@説・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
A説・・長野氏業(群馬県史近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。


上杉憲政はその後は隠居して剃髪し、「光徹」と号した。
 以後は上杉謙信が関東経営に携わった。

・天正6年(1578) 上杉謙信が死去。
   御館の乱が勃発。
  養子:上杉景虎(北条氏康6男) VS
養子:上杉景勝(謙信姉&長尾政景の子ども)
  ・・・家督をめぐる争いとなった。
 旧山内上杉家臣に北条氏との関係を重視する意見もあって、
 上杉憲政は上杉景虎を支持したと云われている。

 次第に上杉景勝が有利になった。
 上杉景虎は上杉憲政の居館:御館に立て籠もり抵抗を続けた。
 
・天正7年(1579) 上杉憲政は上杉景虎の嫡男:道満丸と
  和睦の交渉のため、上杉景勝の春日山城に向かったが、
  上杉憲政は上杉景勝方の武士によって陣所で討たれた。
  ※四ツ屋付近で自刃した説もある。享年57歳。
  


※墓は上杉景勝が転封された建てられた米沢の照陽寺にある。
  






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