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zoom RSS 箕輪初心▲源頼朝18【治承3年の政変〜以仁王&源頼政の思惑〜源頼朝の挙兵】

<<   作成日時 : 2015/02/01 07:50   >>

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歴史の本には源頼朝が挙兵し、関東の武士団が源頼朝に従って平家
を倒し、鎌倉幕府を創ったとある。しかし、必ずしもそうは言い切れ
ない。源頼朝と関東の武士団を結び付けた背景には治承3年(1179)の
政変が大きく関わっている。治承3年の政変=平清盛が後白河法皇の
院政を停止させた。そして、66ヶ国のうち、32ヶ国が平家の所領、
そして平氏の専制政治。ついには平清盛の義弟:平時忠が「平家にあ
らずんば人にあらず」と言ったとか、・・平家は権勢を誇った。
天皇への望みを失った後白河法皇の第3子:以仁王、関わってしまっ
た源頼政→源頼朝の挙兵→石橋山の戦いでの敗戦→阿波での再挙・・
源頼朝と関東の武士団を結び付きに発展した。関東の武士団に隠れた
思惑があったのだ。
 ※治承3年の政変がなければ、おそらく千葉常胤
600や上総介広常の2万の軍勢は源頼朝軍に服従はしなかったであろ
う。三浦義明や狩野茂光や北条時政にもそれぞれの思惑も感じられる。
秩父平氏:畠山重忠・河越重頼・江戸重長なども微妙であった。
画像



・治承3年(1179)
11月14日 豊明節会の日
 平清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入った。
 平清盛が京都を制圧した。

11月15日 近衛基房&松殿師家が解官された。
  正二位に叙された藤原基通が関白・内大臣に任命された。
  後白河法皇は、静賢(信西の子)を使者として「政務に介入し
  ない。」ことを申し入れた。しかし、

11月16日 天台座主:覚快法親王が罷免となった。
   親平氏派の明雲が復帰した。

11月17日 臨時除目で39名が解官された。
    (★『玉葉』『山槐記』)
  太政大臣:藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非
  違使など31名)が解官された。
 
11月18日 近衛基房は大宰権帥に左遷の上で配流、松殿師長・源資賢
 の追放も決まった。平清盛は高倉天皇に宣命・詔書が発給させた。

11月20日 平清盛は後白河法皇を鳥羽殿に移させた。
  鳥羽殿には信西の子(成範・脩範・静憲)と女房以外は出入りを許
  されず幽閉状態となり、後白河院政は停止された。
  平清盛は平宗盛に託して、福原に引き上げた。

11月21日〜
 次々と後白河法皇の近臣の逮捕・所領の没収が始まった。
諸国の受領地の大幅な交替も行われた。
 平氏の知行国は政変前前の17ヶ国から32ヶ国になった。
 
 「日本秋津島は僅かに66ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、
  既に半国に及べり」
  (★『平家物語』)
 後白河の第3皇子:以仁王も所領没収された。このことが以仁王の
 挙兵の直接的な原因となった。

【後白河法皇を幽閉の影響】
平清盛が政治の実権を握ったことで反対勢力を生み出した。
 1)関白:近衛基房の配流に反発する興福寺
 2)後白河と密接なつながりをもつ園城寺
 3)新しく平氏の知行国となった国での国司と国内武士の対立
   平氏の目代の横暴な振る舞いから在庁官人が圧迫を受けた。
在地豪族の代々引き継がれて来た領地を新たに派遣された国司
   や目代が我が物顔で奪い去っていく理不尽な平家方への義憤と
   不安は大きく、表面上平家方に追随していた地元豪族と平家方
   との対立は激化していった。
 @上総・・・有力在庁官人:上総介広常と平家目代の対立
A下総・・・有力在庁官人:下総介千葉常胤と平家目代の対立
 B相模・・・有力在庁:三浦義明と平家目代の対立
C伊豆・・・狩野茂光や北条時政VS 伊豆目代:山木(平)兼隆

12月〜
 源頼朝の挙兵に積極的に加わる要因となった。
 
・治承4年(1180)
2月 高倉天皇は言仁親王=安徳天皇に譲位した。
 ★要するに、平家は高倉天皇を譲位させて、高倉天皇と平清盛の娘
 :徳子の間にできた子:言仁を第81代天皇:安徳天皇として即位
 させたのだ。
 
 ※結果・・・平清盛は安徳天皇の外祖父として絶大な権勢を振った。
 高倉上皇の院政を傀儡化することにより、国政を平家が動かすことと
 なった。


◆参考図書資料
 平清盛の本など多数
★参考サイト
 ウィキペディア:治承3年の政変


◆◆ 以仁王&源頼政の思惑 ◆◆
源頼政は「保元の乱」「平治の乱」勝利側のいたが、平家一門のよう
にたいした出世はできず、今まで通り、検非違使(内裏の警備)を
していた。

・ 永暦元年(1160) 美福門院が死亡。
・永万元年(1165) 自分の主君として仕えた二条天皇が死亡。
  源頼政はバックボーンがいなくなった。しかし、鳥羽法皇や美福門
  院の娘:ワ子(しょうし)内親王=八条院や二条天皇の息子:六条
  天皇に仕えた。
・仁安3年(1168) 六条天皇が後白河上皇によって譲位させられた。
  平氏系の天皇:高倉天皇が即位した。高倉天皇は後白河天皇の
  第7皇子である。母は平滋子は平清盛の妻:平時子の異母妹で
  あった。
  そして、平家が時代の波に乗って権勢を高めていった。
・治承4年(1180)
2月21日  高倉天皇は言仁親王(安徳天皇)に譲位した。
  平清盛の傀儡としての高倉院政が開始された。

 源頼政が仕えている八条院の母:美福門院には自分の子ではないが
 大切に育てている子=後白河法皇の第3皇子:以仁王がいた。
 以仁王は父:後白河法皇からは親王(天皇の嫡子)の称号を与えら
 れずにいた。不遇な者同士、以仁王と源頼政と親しい間柄であった。

・安元3年(1177) 6月 鹿ヶ谷事件・・・平家打倒の陰謀事件。
  静賢法印(信西の子)の山荘で謀りごとの相談が行われた。
 平家へ対する不満は徐々に高まっていった。

・治承3年(1179) 「治承3年の政変」
 平清盛が京都を大軍でもって制圧。そして後白河法皇の院政を完全
 に停止させた。また、後白河の側近、摂関家藤原氏、朝廷の要職に
 ある人物の39名の職を解任して一掃した。
 平家はほぼ完全に朝廷の政治の主導権を握った。

.・治承4年(1180) 2月 81代天皇:安徳天皇として即位させた。
  

 そして、高まる反平家の気運に目を付けた人物がいた。
 源頼政の主人:八条院と源頼政の仲良し:以仁王であった。
八条院には下河辺
 以仁王は「治承3年の政変」で自分の荘園を平家に没収された。
 その上、異母弟:高倉天皇→高倉の子:安徳天皇となった。
 自分が天皇になる可能性はほぼ途絶えた。
 当然、平家に恨みを持った。


4月 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 八条院の家臣:下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

伊豆国は平時忠の知行国になった。
 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。

 伊豆国では目代:山木(平)兼隆は急速に伊豆で勢力を振る
 うようになっていった。
 また、目代であるが故、旧知行国主系の工藤系狩野茂光や
 北条時政から反感を持たれた。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。



6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
   胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 
 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
@反対派
 山内首藤経俊は
  「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
  鼠が猫をとるようなものだ。」
  と嘲笑した。
A迷った派
  波多野義常は返答を渋った。
B賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
 ※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。
佐伯一族も永江一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。
風雲急を告げた。・・・・・

源頼朝は北条時政に相談した。
  平家打倒の挙兵の打ち合わせに大日堂=現願成就院の地が
  使われたらしい。北条館の100m東は八幡神社で、その
東隣が現願成就院〜旧願成就院である。

  源頼朝は8月17日をもって挙兵することを決めた。
  まず手始めに、伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
  源頼朝は最初の標的は伊豆国目代:山木兼隆と定めた。


8月4日 源頼朝は祐筆:大和判官邦通に山木邸付近の
見取り図を書かせた。

8月6日〜□□日? 源頼朝の挙兵裏工作開始
 源頼朝は工藤系狩野茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐美祐茂
 (すけもち)・天野遠景・佐々木盛綱、加藤景廉らを招集し、
 一人ずつ私室に呼び、個別にそれぞれと密談を行い、意見
 を聞き、賛同を得た。
 「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって
 話す。」
 と言い、自分だけが特別に頼りにされていると錯覚させた。

8月11日 源頼朝は岡崎義実&子:佐奈田義忠に使いを送
 った。
 「8月17日、土肥実平と参上せよ。」

8月16日
 挙兵の前日に至るが、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら
 佐々木兄弟が参じなかった。
 源頼朝は佐々木盛綱に計画を漏らしたことに疑心暗記に
 なり、後悔した。
 
8月17日
 山木館の襲撃は朝駈けを図っていたが、佐々木兄弟の遅参
 によって計画がくるってしまった。
 源頼朝は
 「明朝を待たずに直ちに山木館を襲撃すべし。
  山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。
山木の館を放火すべし。・・・
 と決意を述べた。
 襲撃の成否を確認したいと配下に相談した。。

 北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が
  満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道の蛭
 島通を通ってはどうか。」
 と進言した。
 源頼朝は
 「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用
 いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。
 大道を通るべし」
 と命じた。

 源頼朝は三島神社祭礼に安達盛長を名代として参列させ
 ていた。

 挙兵当日の8月17日(新暦9月8日)佐々木兄弟が
 急ぎ疲れた体で参着した。
「洪水により遅れた。」
 源頼朝は涙を流してねぎらった(伝)。


夜、・・・・
 山木兼隆の雑色男=召使いが源頼朝の家の下女と恋仲で、
 北条館に来た。
 源頼朝は「多くの武者の集まっている。」
 と告げ口される恐れがあるので用心のため生け捕った。


源頼朝の命で進軍した。
深夜一行は進発。
北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
「山木兼隆の後見役:堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けて
これを討て。」
と命じた。
@仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かい、子の刻に佐々木
経高が館に矢を放った。
「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一男乗り・・。(伝)
  新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
  堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、佐々木経高は矢を
  捨てて太刀を取って突入。
  堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
  佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
  高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
  
A北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ
 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。
  その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
  出払たっていて、さらに黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。
  山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  
  堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も加わり、激戦と
  なった。・・・容易に勝敗は決しなかった。

  源頼朝は山木館から火の手は上がらないのいで、
  焦った。
  源頼朝は警護に残っていた加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家
  を山木館へ向かわせた。
  加藤景廉には長刀を与え、
 「これで兼隆の首を取り持参せよ。」
  と命じた。
  加藤景廉、佐々木盛綱は山木館に乗り込んでいった。
  遂に山木兼隆を討ち取った。
  山木館に火が放たれた。〜〜〜悉く燃え尽きた。
  襲撃隊は暁に帰還した。
  源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。

8月19日 
  源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚で
  の非法を停止させる命令を発給した。
 『吾妻鏡』はこれを「関東御施政の始まりである」
 と特記している。

 山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。

※目代:山木兼隆を倒しても源頼朝の兵力のみで伊豆1国を
  掌握するにはほど遠かった。
  平家方の攻撃は時間の問題であった。

  三浦義澄・和田義盛らの三浦一族が源頼朝に参じる
  べく三浦を発した。
  途中、弟の大庭景親の党類の館に火を放った。 
  三浦義澄一族は台風のために合流が遅れた。
  源頼朝は相模の三浦一族を頼みとしていたがなかなか参着
  してこなかった。

  大庭景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、夜戦
  を仕掛けることにした。
  闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかった。

  北条時政 VS 大庭景親
「言葉戦い」をした。
大庭景親は
  「後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である。」
  と名乗った。
  北条時政が
  「かつて、源義家に従った鎌倉景正の子孫ならば、
   なぜ源頼朝公に弓を引くのか。」
   と言い返した。
  大庭景親は
  「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、
   海よりも深い。」
  と応じた。
 (★『平家物語』)
★北条時政は先陣だった。


8月20日 源頼朝は相模へ〜〜〜〜 
  しかし、来援を約束していた三浦勢がなかなか来なかった。

  源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、
  相模国土肥郷(神奈川県湯河原)を目指した。
  従った者は
  北条義時・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・
  佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らである。 
  ★新田四郎忠常
  (★吾妻鏡)
 
  三浦軍との合流前・・・

  これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、
  海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向か
  った。
 
8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い 
 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。

 源頼朝の挙兵を知った大将大庭景親を先頭に、熊谷直実など
 3000余騎が各地から駆けつけた。
 大庭景親軍は谷ひとつ隔てて石橋山の麓に陣を構えた。布
 伊豆国の伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで
 進出して、源頼朝の背後を塞いだ。

 夜、雨が激しく降りだした。
 三浦義澄軍250騎が遅参した。

大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、夜討ちを
決行した。
源頼朝軍が衆寡敵せず、分散して、退却することにした。
 頼朝主従5人は、やっと朽木の洞に身を潜めることができた。
 

  この日は大雨となった。
  三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされた。
 源頼朝軍への合流ができなかった。

 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・
  
源頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子:
  佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
  ・・源頼朝は大敗北した。
  (★『平家物語』、『源平盛衰記』)
  大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝に心を寄せる大庭軍の
  飯田家義の手引きによって辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
 
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。

  源頼朝は数日間の山中逃亡・・・死を逃れた。

8月24日 大庭軍は追撃の手を緩めなかった。
  頼朝軍の残党は山中で逃げ回って激しく抵抗した。
  源頼朝も弓矢をもって戦った。
  源頼朝軍の武士達はおいおい頼朝の元に集まった。
  土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。源頼朝一人ならば
   命をかけて隠し通すので、皆はここで別れよう。」
   と雪辱の機会を期すよう進言した。
   皆これに従って涙を流して別れた。
 北条時政と2男の:義時は甲斐国武田に向かった。
 しかし、嫡男:北条宗時は別路を向かったが、伊東祐親の
  軍勢に囲まれて討ち死にした。

  大庭軍は山中をくまなく捜索した。
  大庭軍の梶原景時が源頼朝の居場所を突き止めた。
 


 しかし、梶原景時は
  「・・・・・・・」
  が知って知らぬふりをした。梶原景時は
 「人跡なく、向こうの山が怪しい。」
  と大庭景親を導き、源頼朝の命を救ったのである。
●土肥の椙山の「しとどの窟」
  ・・エピソード=伝説の地として伝わっている。
★先頭にいた梶原景時に見つかってしまった。
 この時、梶原景時が
「源頼朝を見つけたぞー!」
と言えば、歴史は大きく変わった。
しかし、梶原景時洞穴に身を隠している源頼朝の目と会った瞬間、
梶原景時は
「ここにはいない、別な山だ。」
と言って、追っ手を率いて、その場を立ち去った。

「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無しと
 称し、景親の手を曳いて傍峯に登る。」
 (★『吾妻鏡』)
★梶原景時は平氏での自分の出世を棒に振った。源頼朝と会った
 瞬間、助けてしまった。しかしこれが縁で後に梶原景時は源頼
 朝から重用されることになった。

 源頼朝&土肥実平の一行は箱根権現社別当:行実に匿われ
 た後に箱根山から真鶴半島へ逃れた。

8月28日 真鶴岬の北の付け根:岩から船で安房国へ
  脱出した。
  真鶴岬の岩(神奈川県真鶴町)から出航・・・・。
  北条時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と
 合流し、安房国を目指して落ち延びた。

〜〜〜三浦義澄 VS 畠山重忠〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月25日 小坪の合戦
  三浦義澄 VS 畠山重忠
 
8月26日 三浦義澄は、衣笠城に籠城した。
  三浦一族の長老三浦介義明(89歳)を残して、船で
  安房に逃れた。北条時政らも安房に逃れた。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月28日 源頼朝らも土肥の真鶴岬から小舟に乗って安房に
  向かった。
 
◆◆源頼朝の関東平定 ◆◆
8月29日
 源頼朝は安房国の平北郡猟島(現勝山付近)へ上陸した。
  北条時政・和田義盛・三浦義澄らの出迎えを受けた。
 
 源頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請
 すべく使者を派遣した。
 源頼朝は江戸湾に沿って南下し洲崎明神に参詣した。

9月3日 源頼朝は勝山から使者を送り、味方の参陣を待つこと
  にした。
  上総介広常の元には和田義盛が派遣された。  
  千葉介常胤の元には安達盛長が派遣された。

  小山朝政ら下野・下総・武蔵の有力豪族にも使いを
  送った。
  甲斐・信濃の豪族にも北条時政を派遣した。

9月9日、千葉介常胤から
  「先祖以来の故地で、要害の地鎌倉にお入りを」
  という使者が来た。


9月13日 源頼朝は安房国を出て上総国に向かった。

9月17日 源頼朝は下総国府で千葉介常胤と合流した。
箕輪初心●千葉:猪鼻城→千葉城
http://53922401.at.webry.info/201404/article_10.html

9月18日
千葉常胤は
  「仏の御加護がなければ、利はないであろう。」
  と千葉寺に参詣し、武運を祈った。

 
9月19日 源頼朝は上総広常と会見した。
  上総広常は大軍を率いて参上したのだった。
  
 
9月19日 源頼朝は下総と武蔵の境の隅田川で、上総介広常
  の2万騎を迎えた。
  しかし、頼朝は広常の遅参を厳しく責めました。
  頼朝の「許容の気無し」の態度に、広常は「害心を変じ、和順」
  (日和見を改め、頼朝に服属)しました。
  傲慢な千葉介常胤をしかった。
安房においては頼朝は再挙した。
  安西氏、千葉氏、上総氏などに迎えられた。
  房総半島を進軍して武蔵国へ入った。
  平氏方の目代に圧迫されていた千葉氏、上総氏などの東国武士
  が平氏方目代や平氏方豪族を打ち破りながら続々と参集した。
  
  源頼朝は千葉千葉介常胤・千葉上総権介広常ら房総の軍勢を
  率いて武蔵国へ入った。
  

10月2日 上総・千葉両氏の支持を受けた源頼朝は、
  太井川・隅田川の両河を渡った。
  武蔵国に入った。
  源義経の傘下に葛西清重、足立遠元が入った。


10月4日 江戸城の江戸重長も源頼朝の傘下に入った。
  源頼朝は三浦義澄の敵:畠山重忠の参陣を許した。
一度は敵対した秩父平氏氏系畠山重忠・河越重頼・
  江戸重長らも従えることになった。
  
★源頼朝は度量の大きさでもリーダーとしての風格を持って
  いると言える。
武蔵の諸豪族も味方につけて鎌倉に本拠を定めた。

  1か月かけて数万騎の大軍に膨れ上がった。

10月6日 源頼朝は「凡そ扈従の軍士幾千万を知らず」
  という大軍を率いて、鎌倉に入った。

源頼朝はかつて父:源義朝と兄:義平の住んだ
  鎌倉(★浄智寺)へ入った。
  大倉の地に大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。
  また、先祖の源頼義が京都石清水八幡宮を勧請した鶴岡
  八幡宮を移した。
  父:源義朝の菩提を弔うための勝長寿院の建立を行った。

10月20日 富士川の戦い
 源頼朝+武田信義ら VS 京 平維盛軍
源頼朝は平氏勢を撃破した。
 
※この後、佐竹氏、新田義重などの源頼朝に従わぬ豪族達と
 の対立を制して、源頼朝は坂東での覇権を徐々に確立して
 いくことになる。

10月21日 源義経が平泉から駆けつけてきて、兄源頼朝と
  劇的な再会をした。
 ★多くの文献は感動のシーンであった。
 ★普通は「弟よ」・「兄さん」と言って感激の対面を期待し
 たでしょうが・・。しかし、源頼朝は源義経を馬から降ろし、
 片膝ついて座ることを命じた。
 そして、馬上から源義経の肩に土足を置いた姿を、多くの
 従者に見せた(伝)。 
 源義経はこのことを恨んで、後に兄:源頼朝に背くことに
 なった(伝)。
  源頼朝の再会場面は、徳川家康が「武士の世で、主人は1人」
 ということを宣言した現れである。
 兄弟であれ、「自分が一番。」と例外なく伝えたかった。
 為政者って我が儘ですね。・・・何をか言わんや・・・・。

〜〜〜源頼朝&伊豆シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★源頼朝@伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心▼伊東ダイビング2回
http://53922401.at.webry.info/201307/article_29.html

箕輪初心★源頼朝A伊東祐親の娘:八重姫の悲話&
『伊東祐親の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_20.html

箕輪初心★源頼朝B【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_24.html

箕輪初心★源頼朝C「治承4年(1180)8月17日の挙兵
〜19日石橋山の合戦前」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_25.html

神奈川▲源頼朝D【治承4年(1180)8月19日〜22日土肥館】&
土肥実平の生涯
http://53922401.at.webry.info/201412/article_26.html

箕輪初心▲源頼朝E【治承4年(1180)8月23日石橋山の戦い
&佐那田神社】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_27.html

箕輪初心▲源頼朝F治承4年(1180) 8月24日逃亡〜梶原景時
〜土肥城〜箱根神社
http://53922401.at.webry.info/201412/article_28.html

箕輪初心▲源頼朝G治承4年(1180)8月27日【荒井城】&
【詠い坂】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_29.html

箕輪初心▲源頼朝H【治承4年(1180)8月28日:岩からの源氏
再興の舟出】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_30.html

箕輪初心▲源頼朝10:埼玉【阿保氏館跡】&「阿保氏の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201501/article_6.html

箕輪初心★源義朝(源頼朝の父)の生涯
http://53922401.at.webry.info/201501/article_22.html

箕輪初心★平治の乱『源義朝&鎌田政清の最後』=長田忠致の
裏切り
http://53922401.at.webry.info/201501/article_23.html

箕輪初心◆源頼朝12:『治承4年(1180)8月29日房総
〜関東平定』
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心▲源頼朝13【挙兵〜関東平定&坂東武者の思惑】
素案
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心★源頼朝14【乳母:比企尼(ひきのあま)】
http://53922401.at.webry.info/201501/article_29.html

箕輪初心★源頼朝15【愛のキューピッド:安達盛長】
:鴻巣放光寺→伊豆→甘縄→高崎八幡
http://53922401.at.webry.info/201501/article_30.html

箕輪初心▲源頼朝16【仁田忠常】&伊豆函南【仁田館】
http://53922401.at.webry.info/201501/article_31.html


〜〜〜源頼朝の一族〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



〜〜〜源頼朝の準一族【新田一族】〜〜〜〜〜〜〜
●【1】新田義重の関係〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

●【2】里見氏関係:里見義俊〜
箕輪初心★「2代目里見義成」=源頼朝の側近
http://3922401.at.webry.info/201309/article_30.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_30.html

●【3】山名氏関係:山名義範〜
箕輪初心●群馬:高崎「山名義範館」=子孫は山名宗全
http://53922401.at.webry.info/201102/article_31.html

箕輪初心★「上野国:山名義範〜応仁の乱:山名宗全」
http://53922401.at.webry.info/201309/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_26.html

箕輪初心●兵庫『出石:有子山城』=山名一族の古城
http://53922401.at.webry.info/201304/article_20.html

箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城@「吉井陣屋他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_11.html
※矢田館が入っている。


****源義賢&木曾義仲公の関係************
箕輪初心●埼玉嵐山町【大蔵館】&源義賢の生涯
http://53922401.at.webry.info/201406/article_15.html

箕輪初心★埼玉熊谷市【斎藤実盛館】=実盛と義仲の因縁
http://53922401.at.webry.info/201406/article_18.html

箕輪初心★【木曾義仲B】ゆかりの地:埼玉&群馬&長野
  &富山&石川
http://53922401.at.webry.info/201406/article_16.html

箕輪初心★木曾義仲ゆかりの地:埼玉→信濃→上野→
信濃→北陸へ
http://53922401.at.webry.info/201406/article_17.html

箕輪初心★木曾義仲:上野国多胡庄2ヶ月→信濃依田城で蜂起
http://53922401.at.webry.info/201310/article_3.html

箕輪初心▲埼玉北本『石戸堀ノ内館=伝:源範頼館館』
http://53922401.at.webry.info/201408/article_17.html

箕輪初心★板東11番巌殿山【安楽寺】&源範頼
http://53922401.at.webry.info/201406/article_22.html



〜〜〜源頼朝の乳母&側近〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★源頼朝14【乳母:比企尼(ひきのあま)】
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心▲坂東9番:都幾山慈光寺&比企能員館
http://53922401.at.webry.info/201406/article_20.html

箕輪初心●坂東10番巌殿山:正法寺&比企能員
http://53922401.at.webry.info/201406/article_21.html

箕輪初心●栃木【白旗城】&源頼義/源義経/松尾芭蕉
も余瀬に滞在
http://53922401.at.webry.info/201401/article_21.html



〜〜〜源頼朝の御家人〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

箕輪初心■埼玉川本【畠山重忠公史跡公園】
:畠山重忠公生誕の地
http://53922401.at.webry.info/201407/article_16.html

箕輪初心●埼玉嵐山町『菅谷城1回目』=畠山重忠の館跡
http://53922401.at.webry.info/201406/article_12.html

箕輪初心●埼玉嵐山町【菅谷城2回目】&畠山氏→北条氏
http://53922401.at.webry.info/201406/article_14.html

箕輪初心★熊谷:熊谷次郎直実&熊谷寺
http://53922401.at.webry.info/201408/article_25.html

箕輪初心▲熊谷:【中条氏館】:常光寺&中条家長&子孫
http://53922401.at.webry.info/201409/article_1.html

箕輪初心▲源頼朝10:埼玉【阿保氏館跡】&「阿保氏の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201501/article_6.html



*****那須一族関係*********************************

箕輪初心★那須一族の歴史=〜2代:那須与一宗隆〜31代
http://53922401.at.webry.info/201401/article_19.html

箕輪初心★栃木:【那須与一伝承館】&与一の信憑性
http://53922401.at.webry.info/201401/article_15.html







★明日も源頼朝関係かな?

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