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zoom RSS 箕輪初心▲源頼朝16【仁田忠常】&伊豆函南【仁田館】

<<   作成日時 : 2015/01/30 07:06   >>

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・治承4年(1180)源頼朝の挙兵で仁田(新田)忠常が登場する。
仁田忠常は武闘派で、富士の巻狩りでのイノシシ退治や兄:曽我
十郎祐成を斬り殺した話が有名である。仁田忠常館跡は来光川の
氾濫や改修工事により遺構の多くが失われているが、現在も仁田
家と慶音寺の間に土塁やと堀が100m程残っている。仁田館の
規模は約150m×150m四方、北と西に堀と土塁を巡らし、
南と東は来光川を天然の堀とした構造である。末裔の仁田家の屋
敷内には仁田四郎忠常・忠正・忠時3兄弟の五輪塔(墓)が3基
ある。
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■訪問日・・・平成26年(2014)7月20日
○11:00 群馬高崎発となってしまった。
前橋IC・・・関越道・・圏央道・・厚木JA・・東名・・
・・沼津IC・・・三島・・・
○7〜8のHpやブログは
 「慶音寺の南」
 「仁田駅北500m。」
 と説明している。
 この多くの説明では、仁田館には行けない。

○交番に立ち寄り、行き方を聞いた。
スマホで、「慶音寺」と表示しても
難しかった。

●「函南小学校の南隣の慶音寺(表示はない。)の南隣
  と、Hpやブログを書いて下されば、すぐに行ける
  のに・・・・探すのに30分もかかった。
 皆さん、『函南小学校の門の南50m〜100m先で
 すよ。』

●仁田家の家の前に駐車させていただいた。


@仁田家隣の案内板&付近
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 仁田家の南側の川の高くなった土手脇に案内板が
 設置されていた。
・縄張り図・史蹟発掘の全体図
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 ※堤防工事に伴って屋敷跡の南東半分は失われているが、
  北側の空堀と土塁は保存されているらしい。

・発掘の資料写真。
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  堀の跡、出土した「こけら経」の状態などが記録されて
  いる。
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「現在の仁田邸の北側には、堀と内側に土塁が一部残っています
 が、2001年の発掘調査により屋敷を囲むように堀と土塁
 が築かれていたことが判明しました。
同年7月18日 屋敷の北東から昔の川の跡が発見されました。
 川の跡からは多くの土器や陶器とともに、室町時代の物とみ
 られる「こけら経」850枚が出土しています。」
※出土品「こけら経」
 薄い木の板にお経を書いたもので、亡くなった人を供養する
 時などに書かれたものです。1枚の長さ約22cm、幅約
 1.5cm、厚さ約0.5mmの木片が20〜40枚ずつ束
 となり、まとまって土中に埋まっていました。今回出土した
 分は1〜4巻目(約1500行)の一部で法華経が写経して
 ありました。残り具合も非常に良く、、当時の写経を知る上
 で全国的に見ても大変貴重な史料と言えます。」
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・おじさんの話
「本来は、来光川に館がでっぱっていたそうですよ。」
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 ★来光川の洪水?治水工事によって当時の流路は変って
  いるのであろう。
  
 
   
A仁田家・・・約800年も続く家系である。
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・門を入った。左手に進んだ。
 隣のお宅のおじいさまに断って仁田家に入った。
・庭の左手の土塁
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仁田忠常の墓所がある。
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 ・合掌
 
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 「仁田忠常墓」と掲載されていた。
・仁田忠常の墓・・・宝きょう印塔
  ・中央に四郎忠常
  ・左に五郎忠正
  ・右に六郎忠時の墓石。
仁田忠常は源頼朝に従った武将の一人である。
  『吾妻鑑』では、新田忠常と記載されている。
従って、仁田は「にった」と読む。
新田義重の子孫なのかな?いや違う。

 
 一般に公開されていた。


・土塁
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 慶音寺境内と仁田家の境には土塁が保存されていた。

  
B仁田家菩提寺:慶音寺
・函南小学校体育館でフェンシングをやっていた。
・本堂
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・墓地・・・寺の東〜来光川まで続く。
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 南東が仁田家の敷地である。
 南を見ると、はっきりとした土塁と堀がある。
 慶音寺のお堂の左に堀があった。
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 お堂は堀をまたぐような形で建てられているので、
 ここで堀は埋められたのであろう。

仁田家子孫の方が建てたと思われる看板が3つあった。
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 慶音寺境内と仁田家敷地の境には町の文化財として、
 空堀と土塁の跡がそのまま保存されているのだ。
長さは100m程であろうか?
堀は深さ3m〜4m、幅4〜5m程である。
 東に進むにつれて段々深くなっていく。

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だが、明瞭なのは北側部分&隣の民家の西の一部だけである。
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◆◆ 仁田四郎忠常 ◆◆  

【1】仁田氏の出自
・仁田忠常の出自・・・藤原南家とされる。


【2】仁田四郎忠常
「仁安3年(1168)〜建仁3年(1203)9月6日
・仁安3年(1168)4月10日 仁田四郎忠常が生まれた。
父:仁田七郎忠行
  母:不明。

兄弟・・
長男:不明
次男:?
3男:?
4男:仁田四郎忠常
5男:仁田五郎忠正
6男:仁田六郎忠時



★★ 源頼朝の挙兵 ★★

・治承4年(1180) 源頼朝が挙兵
   12〜13歳で源頼朝の家臣となった。
   

・治承4年(1180)
4月 後白河法皇の子:以仁王の令旨
後白河法皇の皇子:以仁王が平氏追討を命ずる令旨を
   諸国の源氏に発した。

4月27日 源頼朝の叔父:源行家は蛭ヶ小島を訪れた。
   伊豆国の源頼朝に叔父:源行家より令旨が 
     届けられた。
 
     源頼朝は事態を静観していた。

5月10日 下河辺行平は
「源頼政の挙兵がある。」
と伝えた。

5月下旬 以仁王の挙兵
 しかし、挙兵計画が平氏に発覚してしまった。
 以仁王と源頼政は準備不足のため、
 以仁王は一端、近江の園城寺に逃れた。
 そして、平氏の追討を受けて宇治で戦死した。

伊豆国は平時忠の知行国になった。
 平時忠の子:平時兼は伊豆守になった。
山木(平)兼隆が目代になった。


6月2日 平清盛の福原遷都

平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企てた。

6月19日 京の三善康信(源頼朝の乳母の妹の子)が
「平家が諸国の源氏を追討しようとしているので、直ち
 に奥州藤原氏の元へ逃れるように・・。」
 と急報を送ってきた。



6月24日 源頼朝は挙兵を決意した。
 函南の桑原・大竹の安達盛長・小中太光家が
相模・武蔵に出向いた。
源頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向
  を探らせた。

 
6月27日 大番役を終え、京より下った三浦義澄、千葉
   胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告した。
  「5月から、拘留されていた。」
 
 安達盛長・小中太光家が使者として、源義朝の時代
 から縁のある坂東の武者に挙兵の協力を呼びかけた。 

7月10日 安達盛長・小中太光家が戻った。
@反対派
 山内首藤経俊は
  「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、
  鼠が猫をとるようなものだ。」
  と嘲笑した。
A迷った派
  波多野義常は返答を渋った。
B賛成派
  大庭景義(大庭景親の兄)は快諾した。
  三浦義明は一族を集めて御教書を披露して同心を確約
  した。
土肥実平も快諾した。
  千葉常胤、上総広常も承諾した。
渋谷重国の居候:佐々木4兄弟も味方に付いた。
 ※賛成派は平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
(★ 『源平盛衰記』)
 

7月23日 伊豆に流されていた佐伯昌長や永江頼隆
を呼んで祈祷した。
佐伯一族も永江一族も同心となった。


8月2日 大庭景親が本領:藤沢に下向した。
  源頼政の孫:源有綱が伊豆国にいた。
   大庭景親が源有綱追捕を平清盛から命を受けていた
  のだ。
  源頼朝らの緊張が高まった。
風雲急を告げた。・・・・・

源頼朝は北条時政に相談した。
  平家打倒の挙兵の打ち合わせに大日堂=現願成就院の地が
  使われたらしい。北条館の100m東は八幡神社で、その
東隣が現願成就院〜旧願成就院である。

  源頼朝は8月17日をもって挙兵することを決めた。
  まず手始めに、伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。
  源頼朝は最初の標的は伊豆国目代:山木兼隆と定めた。


8月4日 源頼朝は祐筆:大和判官邦通に山木邸付近の
見取り図を書かせた。

8月6日〜□□日? 源頼朝の挙兵裏工作開始
 源頼朝は工藤系狩野茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐美祐茂
 (すけもち)・天野遠景・佐々木盛綱、加藤景廉らを招集し、
 一人ずつ私室に呼び、個別にそれぞれと密談を行い、意見
 を聞き、賛同を得た。
 「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって
 話す。」
 と言い、自分だけが特別に頼りにされていると錯覚させた。

8月11日 源頼朝は岡崎義実&子:佐奈田義忠に使いを送
 った。
 「8月17日、土肥実平と参上せよ。」

8月16日
 挙兵の前日に至るが、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら
 佐々木兄弟が参じなかった。
 源頼朝は佐々木盛綱に計画を漏らしたことに疑心暗記に
 なり、後悔した。
 
8月17日
 山木館の襲撃は朝駈けを図っていたが、佐々木兄弟の遅参
 によって計画がくるってしまった。
 源頼朝は
 「明朝を待たずに直ちに山木館を襲撃すべし。
  山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん。
山木の館を放火すべし。・・・
 と決意を述べた。
 襲撃の成否を確認したいと配下に相談した。。

 北条時政は
 「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が
  満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道の蛭
 島通を通ってはどうか。」
 と進言した。
 源頼朝は
 「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用
 いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。
 大道を通るべし」
 と命じた。

 源頼朝は三島神社祭礼に安達盛長を名代として参列させ
 ていた。

 挙兵当日の8月17日(新暦9月8日)佐々木兄弟が
 急ぎ疲れた体で参着した。
「洪水により遅れた。」
 源頼朝は涙を流してねぎらった(伝)。


夜、・・・・
 山木兼隆の雑色男=召使いが源頼朝の家の下女と恋仲で、
 北条館に来た。
 源頼朝は「多くの武者の集まっている。」
 と告げ口される恐れがあるので用心のため生け捕った。
 
 
源頼朝の命で進軍した。
深夜一行は進発。
北条時政は、途中の肥田原で、佐々木定綱に
「山木兼隆の後見役:堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けて
これを討て。」
と命じた。
@仁田兄弟&佐々木兄弟・・後見人:堤信遠邸へ 
佐々木兄弟は堤信遠の館に向かい、子の刻に佐々木
経高が館に矢を放った。
「源家が平家を征する最前の一箭なり」
 (★『吾妻鏡』)
  新田(仁田・日田)忠常は満13歳。
  新田忠常は筏を組んで、堀を渡って一男乗り。(伝)
  堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、佐々木経高は矢を
  捨てて太刀を取って突入。
  堤信遠も太刀を取って組み合いになった。
  佐々木経高が矢を受けて倒れるが、佐々木定綱、佐々木
  高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取った。
  
A北条時政本隊・・・山木判官(目代)平兼隆邸へ
 北条時政らが韮山にある平兼隆の目代屋敷を襲撃。
 北条時政の本隊は山木館の前に到着すると矢を放った。
  その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に
  出払たっていて、さらに黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。
  山木館に残っていた兵は激しく抵抗した。
  
  堤信遠を討った佐々木兄弟や仁田忠常も加わり、激戦と
  なった。・・・容易に勝敗は決しなかった。

  源頼朝は山木館から火の手は上がらないのいで、
  焦った。
  源頼朝は警護に残っていた加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家
  を山木館へ向かわせた。
  加藤景廉には長刀を与え、
 「これで兼隆の首を取り持参せよ。」
  と命じた。
  加藤景廉、佐々木盛綱は山木館に乗り込んでいった。
  遂に山木兼隆を討ち取った。
  山木館に火が放たれた。〜〜〜悉く燃え尽きた。
  襲撃隊は暁に帰還した。
  源頼朝は庭先で山木兼隆&堤信遠の首を検分した。

8月19日 
  源頼朝は山木兼隆の親戚:史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚で
  の非法を停止させる命令を発給した。
 「関東御施政の始まりである。」
    (★『吾妻鏡』)

 山木兼隆を討ち取って韮山一帯を制圧した。

※目代:山木兼隆を倒しても源頼朝の兵力のみで伊豆国を
  掌握するにはほど遠かった。
  平家方の攻撃は時間の問題であった。

  
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 三浦義澄・和田義盛らの三浦一族が源頼朝に参じる
  べく三浦を発した。
  
  途中、藤沢の弟:大庭景親の党類の館に火を放った。 
  
  三浦義澄一族は台風のために合流が遅れた。
  源頼朝は相模の三浦一族を頼みとしていたがなかなか参着
  してこなかった。

  大庭景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしとし、
  夜戦を仕掛けることにした。
  闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲いかかった。

  北条時政 VS 大庭景親
「言葉戦い」をした。
大庭景親は
  「後三年の役で奮戦した鎌倉景政の子孫である。」
  と名乗った。
  北条時政が
  「かつて、源義家に従った鎌倉景正の子孫ならば、
   なぜ源頼朝公に弓を引くのか。」
   と言い返した。
  大庭景親は
  「昔の主でも今は敵である。平家の御恩は山よりも高く、
   海よりも深い。」
  と応じた。
 (★『平家物語』)
★北条時政は先陣だった。


8月20日 源頼朝は相模へ〜〜〜〜 
  しかし、来援を約束していた三浦勢がなかなか来なかった。

  源頼朝は、伊豆韮山から北条時政以下46騎を従えて、
  相模国土肥郷(神奈川県湯河原)を目指した。
  従った者は
  北条義時・工藤茂光・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・
  佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らである。 
  ★新田四郎忠常・・ほかに新田(仁田)の名が見られ
   ないので単独参加なのだろうか?
  (★吾妻鏡)
 
三浦軍との合流前・・・

  平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、
  海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向か
  った。
 

8月23日 石橋山(神奈川県小田原市)の戦い 
 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。
源頼朝の郎党・・・安達盛長、小中太光家
伊豆の武士・・・・北条一族4・狩野茂光父子・
 土肥実平一族5、天野遠景父子・
 宇佐美政光・実政、新田忠常
加藤景員・景廉父子、堀親家・助政、天野光家、
 大見家秀、近藤七国平、平佐古為重、奈古谷頼時
 沢宗家・義勝房成尋、中惟重・惟平、鎌田俊長
近江源氏・・佐々木一族4兄弟
相模の武士・・中村景平・盛平(土肥同族)
       岡崎義実&佐那田義忠父子、
駿河の武士・・・鮫島宗家・宣親父子
敵将の兄・・・大庭景親、豊田景俊、


 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎+伊東300騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
   山内首藤経俊・
   伊東祐親(狩野茂光弟)300ら・・・

 @大将:大庭景親を先頭に、熊谷直実など3000余騎が
  谷ひとつ隔てて石橋山の麓に陣を構えた。
 (★現米神付近であろう。)
 A伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで来た。
 そして、源頼朝の背後を塞いだ。
つまり、源頼朝軍は挟まれてしまった。
  三浦義澄と挟み撃ちのはずが・・・


 源頼朝は300騎で石橋山の山上に本陣を構えた。
  そして、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせた。

 源頼朝の挙兵を知った大将大庭景親を先頭に、熊谷直実など
 3000余騎が各地から駆けつけた。
 大庭景親軍は谷ひとつ隔てて石橋山の麓に陣を構えた。布
 伊豆国の伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで
 進出して、源頼朝の背後を塞いだ。

 夜、雨が激しく降りだした。
 三浦義澄軍250騎が遅参した。

大庭景親は、源頼朝と三浦軍が合流するのを恐れ、夜討ちを
決行した。
源頼朝軍が衆寡敵せず、分散して、退却することにした。
 頼朝主従5人は、やっと朽木の洞に身を潜めることができた。
 

  この日は大雨となった。
  三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされた。
 源頼朝軍への合流ができなかった。

 源頼朝軍300騎 VS 平氏軍3000騎
   平氏・・・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・
    山内首藤経俊・伊東祐親ら・・・
  
源頼朝軍は力戦するが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子:
  佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗した。
  ・・源頼朝は大敗北した。
  (★『平家物語』、『源平盛衰記』)
  大庭軍は勢いに乗って追撃し、源頼朝に心を寄せる大庭軍の
  飯田家義の手引きによって辛くも土肥の椙山に逃げ込んだ。
 
  源頼朝は土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。

  源頼朝は数日間の山中逃亡・・・死を逃れた。

8月24日 大庭軍は追撃の手を緩めなかった。
  頼朝軍の残党は山中で逃げ回って激しく抵抗した。
  源頼朝も弓矢をもって戦った。
  源頼朝軍の武士達はおいおい頼朝の元に集まった。
  土肥実平は
  「人数が多くてはとても逃れられない。源頼朝一人ならば
   命をかけて隠し通すので、皆はここで別れよう。」
   と雪辱の機会を期すよう進言した。
   皆これに従って涙を流して別れた。
 北条時政と2男の:義時は甲斐国武田に向かった。
 しかし、嫡男:北条宗時は別路を向かったが、伊東祐親の
  軍勢に囲まれて討ち死にした。

  大庭軍は山中をくまなく捜索した。
  大庭軍の梶原景時が源頼朝の居場所を突き止めた。
 


 しかし、梶原景時は
  「・・・・・・・」
  が知って知らぬふりをした。梶原景時は
 「人跡なく、向こうの山が怪しい。」
  と大庭景親を導き、源頼朝の命を救ったのである。

●土肥の椙山の「しとどの窟」
  ・・エピソード=伝説の地として伝わっている。

「慥かに御在所を知ると雖も、有情の慮を存し、此山人跡無しと
 称し、景親の手を曳いて傍峯に登る。」
 (★『吾妻鏡』)

 源頼朝&土肥実平の一行は箱根権現社別当:行実に匿われ
 た後に箱根山から真鶴半島へ逃れた。

8月25日 箱根神社泊

8月26日 しとど窟泊
 ※土肥実平の妻が夕飯を届けたと言われてている。

8月27日 岩海岸の洞窟泊


8月28日 真鶴岬の北の付け根:岩から船で安房国へ
  脱出した。
  真鶴岬の岩(神奈川県真鶴町)から出航・・・・。
 ※後に助けた岩の漁師には年貢がかからなかった。 


北条時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と
 合流し、安房国を目指して落ち延びた。

〜〜〜三浦義澄 VS 畠山重忠〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月25日 小坪の合戦
  三浦義澄 VS 畠山重忠
 
8月26日 三浦義澄は、衣笠城に籠城した。
  三浦一族の長老三浦介義明(89歳)を残して、船で
  安房に逃れた。北条時政らも安房に逃れた。
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8月28日 源頼朝らも土肥の真鶴岬から小舟に乗って安房に
  向かった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 源頼朝は千葉氏、上総氏らの参陣をえて反攻。
畠山重忠・江戸…足立遠元の参陣。

 関東から大庭景親ら平家勢力を駆逐しすることに成功した。

●富士川の戦い

  富士川の合戦後に源頼朝&源義経兄弟が対面した。
  土肥実平は取次ぎをした。
(★『吾妻鏡』治承4年10月21日条)

●常陸への参陣
  土肥実平は常陸国の志田義広討伐などに従軍した。

・治承5年(1181)
  土肥実平は源頼朝に降った梶原景時を取り成した。
 (★『吾妻鏡』治承5年正月11日条)。



・寿永3年(1184)1月 「宇治川の合戦」
  土肥実平は源範頼軍の副将として2000余騎で参陣した。
仁田忠常は源範頼に従った。
  源義仲 VS 源範頼、源義経

平家討伐に活躍した。


・建久3年(1184)「一ノ谷の合戦」
2月 土肥実平は平家追討軍として摂津に在陣した。
 
三草山の戦い
 源義経は一万騎を二手に分けた。
源義経軍の副将として7000余騎を率いた。
 土肥実平は7,000余騎を引きつれ、一の谷の西の手に進んだ。
 平家追討の戦いでは源義経を補佐して功を立てた。
 土肥実平は中国総追捕使となった。
  ・・・吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)。
 
 山陽道を守り、源範頼の進軍を支援した。
 土肥実平嫡男:土肥遠平に安芸国の地頭職が与えられた。
 土肥氏と西国との関わりが始まった。小早川家の祖である。
梶原景時と共に源頼朝代官:源範頼・源義経の奉行として
 遠征軍に派遣された。

  
・寿永4年(1185)3月 壇ノ浦の戦い
平家滅亡。

 
・文治5年(1189) 忠常20歳
1月18日 新田四郎忠常が重病に苦しみ生死の淵にあった。
     源頼朝は見舞いのために屋敷を訪れた。


 奥州合戦に参加。
新田四郎忠常かつて補佐していた源義経追討や奥州合戦に
  も加わった。


・建久元年(1190) 源頼朝の上洛
 
・建久2年(1191) 7月18日 厩の上棟奉行をした。
岡崎義実と土肥実平が奉行だった。
(★『吾妻鏡』)


・建久4年(1193)  
5月 源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。
仁田四郎忠常は富士の巻狩りでの猪退治で活躍した。

 巻狩には工藤祐経も参加していた。
 
5月28日 曽我兄弟の仇討ちに遭遇
 曾我兄弟は工藤祐経の寝所に押し入った。
  兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果
  たした。工藤祐経と王籐内が兄弟に討ち取られた。
同宿していた手越の少将や黄瀬河の亀鶴が叫び声を上げた。
  さらに曽我兄弟が
  「父の仇を討ったり〜〜。」
  と大声で名乗ったため大騒ぎになった。
  騒ぎを聞きつけて集まってきた武士達が兄弟を
  取り囲んだ。曽我兄弟は10人斬りの働きした。
兄曽我祐成により、平子平右馬允、愛甲三郎、吉香小次郎、
  加藤太、海野小太郎、岡部彌三郎、原三郎、堀籐太、
  臼杵八郎が負傷した。
  宇田五郎らが殺された。
  ついに兄:曽我十郎祐成が新田(仁田)四郎忠常と斬り合った。
  新田(仁田)四郎忠常に討たれた。

  弟:曽我五郎時致は源頼朝の狩宿を目指して走った。
  源頼朝の館に押し入ったところを、女装した
  五郎丸によって取り押さえられた。

 5月29日 曽我時致は源頼朝の面前で仇討ちに至った心底を
  述べた。
  源頼朝は助命を考えた。しかし、工藤祐経の遺児に請われて
  斬首を申し渡した。曽我時致は斬られた。
(★吾妻鏡)



・正治元年(1199)
 1月 源頼朝の死。
仁田忠常は2代将軍:源頼家の側近として
 仕えることになった。




・建仁3年(1203) 比企能員の変 忠常37歳 
8月 源頼家が重病に陥った。
    

9月2日 北条時政は天野遠景と仁田忠常と謀り、
 源頼家の外戚:比企能員を討ち取った。


  比企能員は招きに応じて、北条時政の館に入った。玄関を通って
  北の客間に向う所を襖の陰に隠れていた加藤景廉と仁田忠常が左右
  の腕を捉え横の竹薮に引き据えて刺し殺した。
  北条時政は縁先に出てこれを眺めていた。
  (★吾妻鏡)

9月?日
  源頼家が病気から回復した。
源頼家は、妻子と共に外戚:比企能員が北条時政によって
  殺されたことを知った。源頼家は激怒した。
 
  
  源頼家は北条時政の追討の命令(御教書)を発した。
  御教書は仁田忠常の元にも届いた。
  源頼家からの信任も厚かったことが逆に災いした。
  仁田忠常は源頼家の命令に従うべきか、北条時政に
  就くべきか悩んだ。・・
仁田忠常は源頼家から北条討伐を命ぜられ、板挟みとなった。


9月6日   
  北条時政は比企能員追討の恩賞を与えるため、仁田忠常を名越邸
 に呼んだ。
 仁田忠常が夜になっても出て来なかった。
 仁田の舎人が北条時政の名越邸に入った仁田忠常
 の退出が遅いため、不審に思い馬を引いて屋敷に戻り、弟の五郎と六郎に
 報告した。
(★吾妻鏡)

 弟:仁田五郎と仁田六郎の2人は比企能員追討の前に将軍:頼家が
 北条時政追討を命じたのが漏れ疑われて罪に問われたと勘違いし
 たのだ。
 
 弟:仁田五郎忠正と仁田六郎忠時の2人は北条義時邸に駆け付け、
 戦って討ち取られた。
 
 仁田忠常は北条時政の名越邸を出て、帰宅の途中で
 事件を知った。
 「こうなっては命を捨てるしかない。」
 と御所に参上し、加藤景廉に討ち取られた。


 ★意外にも短い一生だった。
比企能員謀殺の4日後、だった。北条時政の謀略か?

 
 比企の乱直後、
  堀親家も加藤景廉と工藤行光に討たれた。





 


★明日は肥田宗直かな?

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