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zoom RSS 箕輪初心▲源頼朝13【挙兵〜関東平定&坂東武者の思惑】素案

<<   作成日時 : 2015/01/25 20:42   >>

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★源頼朝は鎌倉に幕府を開いたが、通説は鎌倉幕府は源頼朝に
よって創られたと言われている。理由は@鎌倉は父:源義朝の
旧宅があったこと、A伊豆に20年過ごして、伊豆の武士&相
模の武士と密接な繋がりがあったことによるものだと考えられ
ている。しかし、本当にそうなのだろうか?私見であるが、実
際には伊豆・相模・房総の武士団が源頼朝を利用して、挙兵に
参加し、結果的に鎌倉幕府を創らせたのかもしれないと考えた。
平家方に味方しながらも、治承3年の政変で最初から平氏に反
感を持つ者や、源頼朝が「伊豆の目代:山木を殺害し、挙兵し
た。」という知らせが瞬く間に坂東の豪族に知れ渡り、途中か
ら源頼朝の恩賞にあずかれるかもしれないという思惑を持って
いる者もかなりいた。大庭一族や佐々木一族・藤原流工藤系の
狩野・宇佐美・伊東のように最初から源氏や平氏に味方してい
る坂東武士もいた。平氏系の梶原景時は椙山で源頼朝を発見し
た時の見逃し方も面白い。坂東8平氏の千葉氏・上総氏・畠山
氏・河越氏・江戸氏なども源頼朝に従った。源頼朝の挙兵から
鎌倉入城までの過程は坂東武者達の損得勘定が働いていて非常
に面白い。つまり、実際には伊豆・相模の武士団が源頼朝を利
用して鎌倉幕府を創らせたのかもしれない。

画像




河内源氏
@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→D新田義重
という系統が本流に近かった。B源義家→C源為義→
@源義朝→E源頼朝が本流となった。源義朝の身分が
高かったからである。
B源義家→義親→長男:為義&次男:義国

●長男:為義系・・・
長男:源義朝・・・
   義平・○・頼朝・○・○・範頼・○・義経
次男:源義賢・・・木曾義仲・・義高
3男:志田義広

●次男:義国系・・・・
長男:新田義重・・・里見義成・新田義兼・山名範頼など
次男・足利義康・・・足利義兼

当時・・誰が嫡流かは明確になっていない


〜〜〜河内源氏〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●【0】河内源氏@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→
D新田義重
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&
上野国:八幡荘』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

【1】源氏系図
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国
:八幡荘』前編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

河内源氏は@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→新田氏の始祖
:新田義重と続く。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
A源頼義
長男:義家
次男:義綱
3男:義光・・長男:佐竹義業
次男:義清→清光→次男:武田信義・・一条忠頼
3男:安田義定
※清和源氏流・河内源氏の一門:源義光を始祖とする甲斐源氏
の宗家である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
B源義家→義親→長男:為義&次男:義国
 長男:為義系・・・
長男:源義朝・・・義平・○・頼朝・○・○・範頼・○・義経
次男:源義賢・・・木曾義仲・・義高
3男:志田義広

 次男:義国系・・・・
 長男:新田義重・・・里見義成・新田義兼・山名範頼など
  次男・足利義康・・・足利義兼
 ★当時・・誰が嫡流かは明確になっていない。

箕輪初心★源義朝(源頼朝の父)の生涯
http://53922401.at.webry.info/201501/article_22.html

箕輪初心★平治の乱『源義朝&鎌田政清の最後』
=長田忠致の裏切り
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do



〜〜〜源頼朝&伊豆シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★源頼朝@伊豆「伊東→蛭ヶ小島へ」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_19.html

箕輪初心▼伊東ダイビング2回
http://53922401.at.webry.info/201307/article_29.html

箕輪初心★源頼朝A伊東祐親の娘:八重姫の悲話&
『伊東祐親の生涯』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_20.html

箕輪初心★源頼朝B【蛭ヶ小島3年北条政子との結婚】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_24.html

箕輪初心★源頼朝C「治承4年(1180)8月17日の挙兵
〜19日石橋山の合戦前」
http://53922401.at.webry.info/201412/article_25.html

神奈川▲源頼朝D【治承4年(1180)8月19日〜22日土肥館】&
土肥実平の生涯
http://53922401.at.webry.info/201412/article_26.html

箕輪初心▲源頼朝E【治承4年(1180)8月23日石橋山の戦い
&佐那田神社】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_27.html

箕輪初心▲源頼朝F治承4年(1180) 8月24日逃亡〜梶原景時
〜土肥城〜箱根神社
http://53922401.at.webry.info/201412/article_28.html

箕輪初心▲源頼朝G治承4年(1180)8月27日【荒井城】&
【詠い坂】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_29.html

箕輪初心▲源頼朝H【治承4年(1180)8月28日:岩からの源氏
再興の舟出】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_30.html

箕輪初心▲源頼朝10:埼玉【阿保氏館跡】&「阿保氏の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201501/article_6.html


箕輪初心◆源頼朝12:『治承4年(1180)8月29日房総
〜関東平定』
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心▲源頼朝13【挙兵〜関東平定&坂東武者の思惑】
素案
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newscaredisplay.do

箕輪初心★源頼朝14【乳母:比企尼(ひきのあま)】
http://53922401.at.webry.info/201501/article_29.html





源頼朝の挙兵〜石橋山の敗戦〜関東平定
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
※治承4年(1180)、800年程前に伊豆・相模で繰り広げられた。
源頼朝VS 大庭景親・・・武士の時代という新しい歴史の幕開け
であった。この頃からを中世と呼ぶ。

★歴史の本には源頼朝が挙兵し、それに関東の武士団が従って平家
を倒し、鎌倉幕府を創ったとある。
しかし、必ずしもそうは言い切れないない。
各武将の裏に隠れた思惑があったのだ。




1)新田義重&新田義兼
8月17日段階・・・
@新田義重 源頼朝が平家追討のため挙兵していた時、反抗的。

箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』後編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_12.html

 甥:足利義兼・子:新田山名義範・孫:里見義成らが
  早くに出陣。すでに、源頼朝の信任を獲得。
  源頼朝は新田義重へ参陣するようにとの要請を度々出願。 
 ※新田義重はこれに応じず、新田義重は寺尾に籠城し、挙兵に
  参加せず。そして、寺尾城で兵を集めた。 
 理由@・・源氏の最長老で八幡太郎義家に血統が近いので、
      源頼朝を格下に見ていた=★命令なんか聞けないさ?
      「われら新田氏こそが源氏の嫡流だ。」  
  ★新田義重は源義国の豊島氏の娘腹であるため、長男であるにも
   かかわらず、家柄の問題で、源氏姓を名乗れず、新田姓を名乗っ
  たのである。
  ★北関東での主導的地位にあったこと
  ★平氏や源頼朝一派でもない《新田義重を中心とした第三勢力》を
    築こうとしたのかもしれない。
 理由A・・新田荘が平家方の荘園であったこと 
 理由B・・木曾義仲(埼玉県嵐山→群馬県吉井多胡に進出)を牽制
  するため・・・(★久保田順一先生)
※群馬県史・2012年の久保田順一先生の説では、
 「木曾義仲の父は吉井→武蔵菅谷:大蔵に進出した。」
 新田義重の関係は、仲良し関係ではなく、敵対関係が、
 30年程続いたという説が有力のようである。
 ★既に、子ども時代に、源頼朝&頼朝兄:悪源太義平に大蔵
  館が攻撃され、木曾に逃げていたかもしれない。
○静観→独自の道 
  新田義重の八幡庄軍団・・新田義重&新田義兼
 →源頼朝に呼応せず、自立の道を歩もうとした。
9月30日 上野の新田義重(里見義俊の父)は源頼朝に呼応せず、     
    寺尾城(高崎市寺尾茶臼山城・・城山団地奥)の籠城。
   (理由@・・・足利俊綱が上野国府を焼き討ち。)
   (理由A・・・木曾義仲は上野:多胡庄に進出。
       かつて、木曾義仲の父:源義賢の所領だった。)
   (理由B・・・先祖源義国の3男で、俺は嫡流である。
           頼朝先祖:源為義は6男。)
→結果は、源頼朝が早々と関東を制圧。
  ★新田義重の野望が粉砕された。

12月 新田義重は鎌倉の源頼朝の元に駆けつけた。
  →源頼朝の不信感。安達盛長の取り成しで傘下へ。
  ※新田義重は頼朝の軍下に入るが、時すでに遅し、
  源頼朝が新田義重の未亡人となっていた娘:祥寿姫を側室への
   要望した。
  ★新田義重は拒否。
  →源頼朝の不興・不信感が増大(伝)。
  ※新田氏は冷遇された。〜〜〜〜。
  →足利氏は源頼朝の軍に参陣し、優遇。
   ○足利氏・・・鎌倉幕府での従4位の下
   ○新田氏・・・鎌倉幕府での従5位の下
  晩年は、嫡男の新田義兼とともに曾孫の政義の後見役を務めた。
 
2)新田義重の子ども:里見義成・山名義範
9月17日頃・・・
○源頼朝側・・里見義成・山名義範・足利義兼が参陣した。

箕輪初心★2代目:里見義成
http://53922401.at.webry.info/201309/article_30.html


3)木曾義仲
箕輪初心★木曾義仲:上野国多胡庄2ヶ月→信濃依田城で蜂起
http://53922401.at.webry.info/201310/article_3.html
箕輪初心●木曽義仲(1154〜1184)=征夷大将軍になった人物。
http://53922401.at.webry.info/201107/article_29.html
http://53922401.at.webry.info/201309/article_30.html

9月7日 信濃で木曾義仲が挙兵。
    長男:木曽義高5歳を源頼朝に人質に出した。
    ★なんと律儀な?源頼朝の娘:大姫と結婚
     木曽→糸魚川→(北陸道)→・・


10月13日 木曾義仲は亡父:源義賢の根拠地:上野国多胡庄に入り、
木曾義仲の多胡軍・・・・・
 多胡家包・富岡の瀬下四郎、藤岡の高山党、玉村の那波太郎弘澄
 伊勢崎の佐位七郎広助、境の木角六郎、榛東の桃井五郎、
(★平家物語)
 新田義重の猶子:矢田義清(現高崎吉井矢田郷)
たった2ヶ月ちょっとではあるが多胡庄にいたのだ。
12月24日、木曾義仲は信濃へ引き上げた。 
 東信濃の要衝にある 依田城(上田市丸子)を拠点とした。
 (★丸子城よりの依田氏の依田城・宗龍寺・宝蔵寺方面)     
  依田次郎は木曽義仲を依田城に迎えて旅のねぎらいやら
   接待でごったがえした。
  (★『吾妻鏡』)
※依田為実の子:依田次郎実信は木曾義仲と従兄弟同士だったのだ。
  ※初代:依田為実の母が源義賢(義仲の父)の娘だった。
※根井行親・・・佐久を支配。信濃武士を組織し、子:楯六郎親忠
   と共に最後まで従軍した。
※樋口兼遠・・・育ての親・・木曾義仲の擁立者。
父:樋口兼光・・・・長男:樋口兼遠・次男:今井兼平
※海野幸広・・・小県の海野郷の大豪族。望月・禰津・真田先祖
※矢田義清・・・新田義重の養子


4)佐竹義隆
 源義光の嫡男:源義業→佐竹氏初代:佐竹昌義→佐竹義隆
・嘉承元年(1106) 常陸合戦
祖父義光・義業、外祖父の大掾重幹  VS  従兄の源義国
源義国の勢力の常陸への浸透を防いだ。
  源義国は下野の足利氏・上野新田氏の祖

・天仁2年(1109) 義弟(妻の弟)鹿島三郎成幹が源従兄の源義忠を
暗殺した。
 佐竹昌義は久慈郡佐竹郷を中心に勢力を拡張した。
 奥常陸7郡の支配した。
 正室には奥州藤原氏の藤原清衡の娘である。
 隣国の有力者との婚姻も結び勢力基盤の確立に努めた。

・保延6年(1140) 佐竹寺伝説
  「一節の竹」を発見・・・吉兆と喜び姓を佐竹と称した。
  また、馬坂城・太田城を改修して拠点とした。

佐竹昌義の子。
長男:佐竹忠義(大掾忠幹)・外曾祖父:平清幹が棟梁:大掾氏を
      継いだ。
次男:国分義弘
3男:佐竹隆義・・・佐竹家を継いだ。
    常陸(茨城県)の奥七郡を領し、本拠を太田に移した。
4男:佐竹義宗
5男:岡田親義
6男:革島義季
7男:佐竹昌成
娘:・・・・・吉川経義室

・佐竹昌義・佐竹義隆は保元・平治の乱では平氏に属した。
・佐竹義隆は平清盛の執奏により従五位常陸介となった。
・治承4年(1180)佐竹隆義が大番役として上洛中に源頼朝が挙兵した。
 太田城には佐竹隆義の嫡男:太郎義政と4男:四郎秀義の兄弟が
 留守を守っていた。源頼朝の元に合流しなかった。
10月20日富士川の合戦
 10月22日? 上総介広常ら源頼朝軍の攻撃にされた。
 
 11月4日 常陸の国府へ侵攻された。
   佐竹太郎義政が謀殺、

 11月4日 金砂城の戦い
   佐竹隆義の弟:佐竹(革島)蔵人義季が寝返った。
   佐竹四郎秀義は奥州に敗走した。
   佐竹家の家臣:岩瀬与一太郎の懇願によって追討は回避された。
   所領は伊賀光季の一族や宇佐美氏などに与えられた。
・寿永2年(1183) 佐竹隆義は66歳で死去。



5)志田義広
 志田義広は源義朝・義賢・為朝、新宮十郎行家らの兄弟であった。
・仁平3年(1151) 常陸国に志田庄を立荘した。
   志田庄は藤原宗子(池禅尼)の息子:平頼盛を通じて立券した。
・治承4年(1180年)
 5月 以仁王の挙兵
  末弟:源行家が甥:源頼朝に以仁王の令旨を伝達した。
  さらに志田義広の元に向かったとする。
  8月 源頼朝が挙兵
  11月 金砂城の戦い
  その後も常陸南部を中心に独自の勢力を維持した。
・寿永2年(1183) 2月20日〜23日 野木宮合戦
志田義広+下野国の足利俊綱・忠綱父子と2万の兵を集めて
 頼朝討滅の兵を挙げた。
 常陸国より下野国へ進軍した。
 下野国の小山朝政は志田義広に同意の姿勢を見せて下野国野木宮
 (現栃木県野木町)に籠もっていた。
 23日 志田義広 VS 小山朝政
野木宮で、激しい戦いとなった。
 志田義広軍は源範頼・結城朝光・長沼宗政・佐野基綱らの援軍を
 得た小山朝政に敗れた。
 その後、兄:源義賢の子:木曾義仲軍に参加した。
 木曾義仲は志田義広を叔父として相応に遇した。


土地を奪われ同族の天下取りを願った近江源氏:佐々木一族
 4兄弟・・・所領が欲しかった。
佐々木秀義・・・妻:源為義の娘
 子ども・・定綱・経高・盛綱・高綱・義清・・・
佐々木秀義は平氏系渋谷重国の居候で、挙兵前に
  「平氏方につく」という知らせを持たせた。
 佐々木秀義の妻は渋谷重国の娘であった。
 佐々木5兄弟・・・定綱、経高、盛綱、高綱、義清、(僧:厳秀)
 
 ※渋谷重国の外孫:5男:佐々木義清は大庭景親の娘であった。
実は兄弟で別れた。
8月24日 石橋山の戦い
●源頼朝側 ・・・佐々木定綱、経高、盛綱、高綱
●大庭景親側・・・渋谷重国&外孫:佐々木5男:佐々木義清


【2】源頼朝の郎党
1)安達盛長・・・源頼朝への忠義の武士京から付き従ってきた。
安達盛長は源頼朝の乳母:比企尼の3女を妻としている。

2)小中太光家・・・源頼朝への忠義の武士京から付き従ってきた。


【3】平氏系北条一族
【権謀術数にたけた平氏系北条一族】
@北条時政・・・権謀術数にたけた北条 時政
伊東祐親の後、北条時政が監視役になった。
でも、京都に行っている間に、娘:北条政子と源頼朝の
間に大姫ができちゃった。
・・・とうしようと悩んだ。・・・
伊東祐親のように子どもを殺したくない。
源氏に懸けてみよう〜〜〜〜〜
 →全面協力となった。
A北条政子・・・
B北条宗時
C北条義時
D北条・・  

【4】藤原流工藤系
【平氏の横暴から領地を守ろうとした源頼朝にかけた】
藤原為憲→藤原時理→維永:宮藤太夫→藤原維景→藤原維職
→狩野維次→●狩野家次・・・?鹿野祐隆・・・
●工藤系図・狩野家次系図A
@長男:祐家→宇佐美祐親→長男:祐泰→曽我祐成
曽我時政
次男・祐清
|・・・・・
比企尼娘
A2男:伊東祐継=次→工藤祐経
             |
            万劫(宇佐美祐親の娘)
             |
            土肥実平

B3男:狩野茂光・・長男:狩野親光・・・狩野宗茂
                 外孫:田代信綱
次男:狩野宗茂・・・狩野宗時
3男:家茂
4男:これ光
長女??・初婚:源仲成の子:源信成
  再婚:曽我祐泰の子
次女??
 |・・・田代冠者信綱
源為綱
C長女:??

茂光妹:狩野景員→長男:加藤光員
       次男:加藤景廉

●源頼朝系・・・・・・・・・・・・・狩野一族・宇佐美一族
▲平清盛の味方:大庭景親の味方・・・伊東一族



【4】【源頼朝にかけた伊豆の武士】
 @天野遠景父子・天野光家・・狩野茂光遠祖
 A新田(仁田)忠常・・・藤原南家仁田氏
 B肥田宗直・・・・・・
C堀親家・助政・・・・
 D大見家秀・・・・・・
 E近藤七国平・・・・・
 F平佐古為重・・・・・
 G奈古谷頼時・・・・・
 H沢宗家・義勝房成尋・・
 I中惟重・惟平・・・
 J鎌田俊長・・・・・


【5】相模の武士・・源義朝の郎党:三浦氏&中村氏。
@三浦一族・・・源義朝の妾:三浦義明であった。
●三浦義継の子・・・妻:笠間常宗の娘
長男:三浦義明
長男:津久井義行
3男:蘆名為清
4男:岡崎義実・・・妻は
長女:大友経家室
次女:中村宗平室

●三浦義明・・・妻:秩父重綱の娘
長男:杉本義宗
次男:三浦義澄
3男:大多和義久
4男:佐原義連
5男:多々良義春
6男:長井義季
7男:杜重行
長女:源義朝の側室
次女:畠山重能室・・・埼玉県の横瀬:根小屋城→深谷川本
(畠山重忠・河越重頼・江戸重長・・・の母)
▲▲▲〜〜〜三浦義澄 VS 畠山重忠〜〜〜〜▲▲
治承4年(1180) 畠山重忠・ 河越重頼・江戸重長
8月25日 小坪の合戦・・・従兄弟同士の戦い
  三浦義澄 VS 畠山重忠・ 河越重頼・江戸重長
 
8月26日 三浦義澄は、衣笠城に籠城した。
 三浦一族の長老三浦介義明(89歳)を残して、
 船で安房に逃れた。北条時政らも安房に逃れた。
 ★三浦介義明は外孫達に殺されたのだ。
3女:金田頼次室
4女:長江義景室
5女:大河戸広行室

2)中村一族
●中村宗平・・・妻は三浦義明の娘: 
  長男:中村太郎重平
  次男:土肥次郎実平→長男:遠平
  3男:土屋三郎宗遠→養子:土屋義清(岡崎義実次男)
  娘・・岡崎義実(三浦義明の弟)の妻→長男:佐那田義忠

相模平野への進出を夢見た中村一族:中村景平・盛平(土肥同族)
 土肥実平一族5。岡崎義実&佐那田義忠父子、




【2】大庭方
大庭景宗の子ども
長男:大庭景義→大庭景兼・・源頼朝側   
次男:豊田景俊・・・・・・・源頼朝側:豊田氏(平塚市豊田)
 :建久元年(1190) 源頼朝上洛 随員15番手。
  豊田景俊の子孫は、和田合戦や承久の乱などで活躍した。
  宝治の乱で執権北条時頼と戦って敗戦し死罪に処せられた。   
3男:大庭景親・・・・・・・平清盛の源頼朝追討軍大将   
4男:俣野景久・・・・・・・平氏側
大庭一族
 梶原景時・・・平氏→源氏
 桐原氏などがいる。



1)大庭一族
@平清盛への忠節をつくした大庭景親
  大庭一族は源義朝に2度の領地を侵略され、ひどい目にあわされ
  やっと、伊勢神宮に寄進し安堵さたた。
 平治の乱では義朝に従っていた。
 源義朝が殺され敗北を喫した。本来なら斬首されるところを平清盛
 によって許された。大賀景親はこのとを終生忘れず、
 以後平氏のためにつくした。
 ・・・
 捕縛されたとき、源頼朝に命乞いをしたが、斬り殺された。

A俣野景久・・・大庭景親の弟
 横浜市戸塚区と藤沢市にまたがる俣野郷を領した
安元2年(1177) 源頼朝を慰めるための「狩猟」と
  余興の相撲が行われた。相撲の名手:俣野景久は21連勝
  であった。最後の挑戦者は力自慢の河津祐泰。
 河津祐泰は、連勝の俣野景久を「河津掛」と呼ばれる技で破った
 という。

●河村義秀・・相模国河村郷(現神奈川県山北町)を本拠としていた。


●渋谷重国・・武蔵国豊嶋郡(渋谷区・港区)から相模国高座郡渋谷
 荘(神奈川県綾瀬市・藤沢市・大和市)までを領して渋谷荘司と
 称した。
※佐々木秀義の妻は渋谷重国の娘であった。
 佐々木6兄弟・・・定綱、経高、盛綱、高綱、義清、(僧:厳秀)
 ※渋谷重国の外孫:5男:佐々木義清は大庭景親の娘であった。
実は兄弟で別れた。
8月24日 石橋山の戦い
源頼朝側 ・・・佐々木定綱、経高、盛綱、高綱
大庭景親側・・・渋谷重国&外孫:佐々木5男:佐々木義清
8月26日 大庭景親が渋谷重国のを訪れた。
 「源頼朝に従った佐々木兄弟の妻子を捕らえてくだされ。」
  と頼んだ。
 しかし、渋谷重国は
 「私は景親の要請に応じて、外孫:佐々木義清と石橋山に参じた
  のに、佐々木定綱らの妻子を捕らえよとの命を受けるのは
  はなはだ迷惑・・・?」
  と拒否した。
  大庭景親は戻っていった。
★外孫の佐々木義清・・妻は大庭景親の娘・・・」
 
 夜になって、佐々木4兄弟は。途中で行き会った源義朝の七男:阿野
 全成を伴って、渋谷重国の館へ帰着した。
 渋谷重国は喜んで、佐々木4兄弟&阿野全成を匿った。
 その後、渋谷重国は源頼朝に臣従して所領を安堵された。
 渋谷重国&子の渋谷高重は源頼朝の御家人となる。


●熊谷直実
箕輪初心★熊谷:熊谷次郎直実&熊谷寺
http://53922401.at.webry.info/201408/article_25.html


●山内首藤経俊・・・山内荘(鎌倉〜横浜の一部)
 8月17日 石橋山の戦い 
   山内首藤経俊は源頼朝に矢を放ち、鎧に当てた。
 10月23日 源頼朝軍に捕らえられた。
   山内荘を没収され、土肥実平に身柄を預けられた。
 11月26日 山内経俊は斬罪に処せられることが決まった。
   山内経俊の母:山内尼(山内尼頼朝の乳母)は源頼朝の元を
   訪れ、山内経俊の助命を求めた。
   源頼朝は山内尼の経俊が矢の刺さった鎧の袖を見せや
   山内尼はさすがにその場は引き下がった。
   結局、山内経俊は赦されて、源頼朝に臣従することになった。

【4】藤原流工藤系
【4】藤原流工藤系
【平氏の横暴から領地を守ろうとした源頼朝にかけた】
藤原為憲→藤原時理→維永:宮藤太夫→藤原維景→藤原維職
→狩野維次→●狩野家次・・・?鹿野祐隆・・・
●工藤系図・狩野家次系図A
@長男:祐家→宇佐美祐親→長男:祐泰→曽我祐成
曽我時政
次男・祐清
|・・・・・
比企尼娘
A2男:伊東祐継=次→工藤祐経
             |
            万劫(宇佐美祐親の娘)
             |
            土肥実平

B3男:狩野茂光・・長男:狩野親光・・・狩野宗茂
                 外孫:田代信綱
次男:狩野宗茂・・・狩野宗時
3男:家茂
4男:これ光
長女??・初婚:源仲成の子:源信成
  再婚:曽我祐泰の子
次女??
 |・・・田代冠者信綱
源為綱
C長女:??

茂光妹:狩野景員→長男:加藤光員
       次男:加藤景廉

●源頼朝系・・・・・・・・・・・・・狩野一族・宇佐美一族
▲平清盛の味方:大庭景親の味方・・・伊東一族
伊東一族
 頑固一徹:平氏への忠義を尽くす伊東祐親(いとうすけちか)
 伊東祐親石橋山の合戦で、300騎の兵で源頼朝の背後をおびや
 かした。伊東氏一族は中村氏一族や三浦氏一族さらに北条氏とも
 親戚関係にあったが、・・・源頼朝の挙兵に敵対した。
●伊東祐親の子ども
 長男:河津祐泰
 次男:河津祐清・・・源頼朝の乳母:比企尼の3女が妻。
    八重姫と源頼朝を結びつけた?
    源頼朝に父の怒りを知り、逃がした。
 八重姫・・・・伊東祐親は源頼朝を伊東館に招き7年間にわたり厚く
    もてなしした。大番役として京都に行っている2年間に源頼朝
   &娘八重姫と間に千鶴丸が生まれた。平氏から源頼朝を監視する
立場から平氏から疑われるのを恐れ・・?伊東一族を守る立場
として、父親として、許すことは出来なかったのであろう。
千鶴丸を川に遺棄した。そして八重姫を江間小四郎=北条泰時
に嫁がせた。・・しかし。八重姫は自殺した。

 長女:三浦義澄室
 次女:工藤祐経前妻
 3女:北条時政前妻

 伊東祐親が何故、源頼朝を討とうとしたかは不明である。
 伊東祐親は後に、捕虜となり、娘婿の三浦義澄に預けられた。
 伊東祐親は赦免されるやいなや自害して果てた。
 源頼朝を父の怒りを知り、逃がした次男:伊東祐清(妻:比企尼3女)
 もまた、源頼朝が「伊東を安堵しよう。」と言っていたにもかかわら
 ず、敗戦濃厚な平家に味方し、北陸:篠原の戦いで木曽義仲軍と戦い
 戦死してした。
 伊東一族は世渡りの下手で一本気に思える。
 伊東市では「忠義の士」として考えているのもうなづける。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
平家方にいながらも平氏に反感を持つ者
平家方にいながらも源頼朝の恩賞にあずかるかもしれないという思
惑を持っている者もかなりいたであろう。


@飯田家義
 桓武平氏秩父氏流飯田氏・・渋谷重国の5男。
 相模国高座郡長後(藤沢市)に生まれた。
 大庭御厨の管理を行っていた大庭景親との所領争い
 鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)を領土としていた。
 その後、大庭景親と和睦し。その娘を貰った。 
・治承4年(1180)石橋山の戦い
源頼朝に加勢する計画であった。
 しかし、平家方の総大将:大庭景親と大庭景親弟:俣野景久に
 諭され、一応表向きは平家方として参戦した。
 しかし、源頼朝家臣が少なくなると、源頼朝達7人を土肥の
 椙山(すぎやま)へと逃避させた。
石橋山での救援&富士川の戦いでの源氏軍として武勲で
 源頼朝の論功行賞において平氏側だった者では、飯田家義
 は飯田郷(横浜市泉区)を安堵され、地頭に任ぜられた。

A機を見るに敏感だった梶原景時
梶原景時に椙山で源頼朝は見逃した。
 梶原景時は未発見を装うことで景時も頼朝の窮状を救った。
・・・後に別当になる。

「状況をを見て強い方の味方をする」風潮が
武士の当たり前の生き方であったもしれないなあ。



箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:
八幡荘』前編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html
『源頼信→源頼義→源義家→源義国→新田義重→里見義俊&義成
&山名義範』・・・・・・・
源頼信が上野介任官時に摂関家領として「八幡荘」が立券された。
源頼義→源義家→源義国は「八幡荘」+「足利荘」+「新田荘」の
立券された→「八幡荘」+「新田荘」は長男:源(新田)義重が相続
した。「足利荘」 は次男:足利義兼が相続した・
新田義重の八幡城&新田荘が新田氏の根拠地となった。
新田氏一族の里見氏、山名氏は八幡荘内の里見郷、山名郷より
それぞれ発祥した。・・・
(新田義重→新田義兼・里見義俊・山名義範・豊岡??)




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★久保田順一先生によると、高校時代にならったけれど
1)「守」の位を豪族も官位を欲しがった。任期は4年。
 田畑の税金が免除されるからである。
2)地方豪族は「在庁官人」の位を欲しがった。
  「在庁官人」は権力を持つことができるので、坂東
 は新しく開拓された荘園の境界争いや跡継ぎの問題が多かった
 在庁官人になるかならないかは豪族にとって大きな死活問題
 であった。
 在庁官人・・国衙=天皇領行政の実務する地方官僚である。
  中央派遣の国司が現地で採用する実務官僚である。
  在庁官人は郡司を輩出していた地方豪族や昇進の見込みが
  なくなった国司の子孫が多かった。武士化していた。
●平良文の兄とされる平国香や平良兼を祖とする本来の桓武平氏の
 一族は、親王任国制度の下で、親王の代わりに実務を取り仕切る
 親王の血族で下級貴族として土着した。
 特に大掾氏・伊佐氏・鹿島氏などは有力な在庁官人であった。

3)坂東8平氏
●村岡五郎平良文を祖とする坂東8平氏などの一般の武士団であった。
桓武8平氏・・・一般的には大庭・梶原・長尾・三浦・土肥・秩父:
  ・上総・千葉である。
 平良茂流
  @大庭氏(高座郡大庭御厨)
  A梶原氏(鎌倉郡梶原郷)
  B長尾氏(鎌倉郡長尾村)
  C三浦氏(御浦郡)
 平良文流
  D中村氏(余綾郡中村荘)&息子土肥氏・土屋氏・二宮氏
  E秩父氏(秩父郡)・・分流:小山田氏・葛西氏:河越氏・豊島氏
   畠山氏など
  上総氏(埴生郡)・
   千葉氏(下総千葉郡千葉荘)

 目代・・京都在住の遥任国司が現地に行かないで私的に代官を
  派遣した家人など。目代は国司の家礼が任命されることが
  多かった。
遙任国司・・任命されたが現地に赴任せず京都にいる国司。
 例・・・目代:山木判官平兼隆

※群馬の石上(いそのかみ)=長野氏の例にとると
■天喜2年(1054)「上野権介正六位石上朝臣兼親」
   (★除目大成抄→★峰岸純夫先生) 
■建久3年(1190) 12月「上野国留守所下文」・・・
「目代左衞門尉藤原」
「惣検校石上」
「散位石上」・・・らが、榛名寺領への健児(こんでい)
 ・検非違使(けびいし)の入部を止める。」
 (★榛名神社文書)
*近藤義雄先生・・・藤原某の所領で・・・
  現地に、bQの石上&bRの石上が来た。
目代(もくだい:国司代理人)は藤原であった。
※在原業平の子孫である奈良の石上氏
(後の箕輪城・鷹留城・厩橋城=前橋城の長野氏先祖)が
 在地国司の惣検校(国の社寺点検)・散位(上級役人)として
 2名の石上(いそのかみ)の名と花押があった。
しかし、2年後の鎌倉幕府の成立に伴い、石上は無用の長物に
なった。(★近藤義雄先生)

★★★久保田先生の新説
@八幡庄・・・・・新田一族の私領=荘園
久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』
『源頼信→源頼義→源義家→源義国→新田義重→里見義俊&義成
&山名義範』・・・・・・・
源頼信が上野介任官時に摂関家領として「八幡荘」が立券された。
源頼義→源義家→源義国→源義重が相続した。
新田荘とともに新田氏の根拠地となった。
新田氏一族の里見氏、山名氏は八幡荘内の里見郷、山名郷より
それぞれ発祥した。・・・
 (新田義重→新田義兼・里見義俊・山名義範・豊岡??)
A長野郷・・摂関家:藤原氏の荘園で上野国最大の公領
 高崎の浜川・烏川の左岸〜倉渕〜榛名神社〜榛名山南部
〜箕郷町〜・・・
※「惣検校石上」・「散位石上」・・石上=長野氏は現地で年貢を
   徴収する役人だった。     
 
@守「かみ)」・・・国司。都から派遣された貴族や皇族であった。
上野国守 阿保親王
   承和元年834年月21日〜〔日本後紀〕
(★長野氏の先祖と考えられている。)
平安初期に上総、常陸、上野に限って、国司の長官には親王
  しかなれないという決まりができた。

A介「すけ」・・・国司を補佐する次官。助役クラス
源上野介頼信(源頼朝の6代前の河内源氏)
長保元年999年9月2日〜長保3年(1001)2月。従四位下
三浦介義澄・千葉介常胤・上総介広常

B掾「じょう」・・裁決する権限を持つ。部長クラス
上野掾源満頼(源経基の子)

C目「さかん」・・地域をまとめる権限を持つ。課長クラス 


 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】源義朝
 源頼朝の父:源義朝が関東に勢力を広げた。
・保安4年(1123) 源為義の長男として生まれた。
  母は白河院の近臣:藤原淡路守忠清の娘であった。
  河内源氏の為義は白河院の信頼を失い、伊豆大島に流された。
討ったのは伊豆の狩野茂光を大将に北条時政・加藤景員・
景廉らであった。
 源義朝は少年期に東国に下向し、安西氏・三浦氏・上総氏と
 後見を受けるようになった。上総氏の庇護を受けて成長した。
 父:為義が安房国の丸御厨を伝領していたことからである。 
源義朝は高祖父:源頼義ゆかりの鎌倉の亀ヶ谷に館を構えた。
 鎌倉を根拠地に独自に勢力を伸ばした。
  源義朝は河内源氏の基盤が東国として勢力を伸ばした。
  
  相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の
  争いに介入していった。

@相馬御厨は現在の茨城県取手市・守谷市・千葉県柏市
 流山市、我孫子市にあった寄進型荘園である。
 「御厨(みくりや)」は皇室や伊勢神宮や下鴨神社の領地を意味
  している。相馬御厨は伊勢神宮の荘園であった。千葉常重が
  寄進した。 
・康治2年(1143) 源義朝が介入した。
  源義朝は上総国の上総常澄のところにいた。
  上総常澄は父:平常晴と折り合いが悪かった。
  そのため、上総常澄は千葉常重が養子になった。
  相馬郡を譲られた。
  源義朝は千葉常重から相馬郡の圧状を責め取った。
・天養2年(1145) 源義朝は相馬郷を避状(さがりじょう)=下文
  を提出した。つまり、伊勢神宮に寄進した。
  子:千葉常胤は必死で取り戻そうとした。


Aそして、「大庭御厨の濫妨」・・・・
 大庭の御厨は鎌倉権五朗景政が現藤沢市〜茅ヶ崎市にかけて開発
 した農地であった。13の村があったという。
・永久4年(1116) 鎌倉権五朗景正が立荘したものを、一族が下司
 を継承した。大庭氏を称する。
 鎌倉景正→鎌倉 景経 →大庭景忠
 (★『尊卑分脈』)
 景村(景正の叔父) →景明 →大庭景宗
  (★『桓武平氏諸流系図』)
 源頼義が平直方の娘婿となって鎌倉に移住した。
 鎌倉景通、景正らは源頼義、子:八幡太郎義家の郎等となたt。
・永久5年(1117) 鎌倉景正は伊勢神宮に寄進した。
  大庭御厨となったらしい。

源義朝&源義朝の郎党三浦一族・中村一族は相模
 の有力な在庁官人であった。
 三浦義明&弟:和田太郎助弘・・・三浦半島
★既に、三浦義明の娘が源悪源太義平を産んでいた。
 中村宗平・・・・・駿河→相模小田原
 
 三浦一族も中村一族も丘陵部が多く,水田が少なかった。
 つまり、相模の中央に近く豊かな稲作地域への進出したかった。

・天養元年(1144)
 9月 鎌倉に拠点を置いていた源義朝が周囲の在庁官人:清原安行
  と字新藤太らを大庭御厨内鵠沼郷の伊介神社に派遣した。
  1人を殺害し,神官8人に傷を与えた。
  伊勢神宮への供祭料:魚・大豆や小豆を奪った。
  御厨廃止を宣言した。

 10月 源頼清、清原安行、三浦義継、三浦義明,和田助弘,
  中村宗平以下1000余騎を大庭御厨内に派兵した。
  源義朝軍が乱入した。
  大庭氏側は鎌倉景正の孫:大庭景宗が下司であった。
  御厨の大庭景宗の屋敷から私財を強奪した。
  さらに、伊介神社の神官6名を死傷させた。

  源義朝は大庭御厨の鵠沼を自分の領地であると主張し
  侵入し、農作物を奪い 御厨の農民を殺した。
 
 源義朝が三浦氏や中村氏を従えて大庭御厨に侵入した。
 大庭御厨は大庭氏が正式に伊勢神宮の領地ということにして
 貰うための努力をした。やがて国の御厨として認められた。
 大庭一族が伊勢神宮領に「不輸の権・不入の権」を手に入れ
 たからである。
 源義朝も手が出せなくなって侵入しなくなった。
 
 
 その後、三浦義明の弟:岡崎義実を大住郡(茅ヶ崎)岡崎
 に配した。
 さらにその子:佐那田与一義忠を岡崎の西方の真田(平塚市
 真田)に配した。
  (・久寿2年(1155) 岡崎義実の子として誕生。)


 中村宗平は長男:土肥実平を湯河原・真鶴・早川に配した。
 中村宗平は長男:土屋宗遠を土屋に配した。
 
  土屋と真田は距離も近く姻戚関係を結んだ。
  中村一族と三浦一族の結びつきが強くなった。
●中村宗平 
  長男:中村太郎重平
  次男:土肥次郎実平→長男:遠平
  3男:土屋三郎宗遠→養子:土屋義清(岡崎義実次男)
  娘・・岡崎義実(三浦義明の弟)の妻→長男:佐那田義忠
 
 つまり、平野部を取り囲む源義朝・三浦一族と中村一族の包囲網
  ができあがった。
 源義朝は相模国一帯に強い基盤を持つに至った。

 ★大庭氏は渋谷氏や糟屋氏と手を結んだが、結びつきは強くなか
 った。

●ライバルは、源義朝の伯父:源義国であった。
 源義国は上野国八幡荘&下野国の足利荘→上野国新田荘に
 本拠を置いていた。
 源義国と源義朝の武蔵国などで支配権で競合することとなり
 緊張を生んだ。
 
 しかし、源義国の指揮下にいた従兄・河内経国が仲介し、
 源義国と源義朝が同盟を締結し盟友となることで解消された。
 源義国の次男:足利義康と相婿となった。

 源義朝は20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し
 た。中央進出へのきっかけをつかんだ。

・平治元年(1159) 平治の乱
父:源義朝が尾張で戦死。
源頼朝は尾張の熱田神宮で平清盛の配下に捕えられた。
源頼朝は京の六波羅へ送られた。
  処罰は死刑が当然視されていた。・・・

【13】源頼朝上陸地(鋸南町)
@祖父:源為義が安房国の丸御厨を伝領していた。
A父:源義朝は少年期に東国に下向し、安西氏・三浦氏・上総氏と
 後見を受けるようになった。上総氏の庇護を受けて成長した。
B三浦氏は三浦半島に勢力を持っていた。
三浦氏は江戸湾の対岸:安房や下総や上総や下総(現千葉県)
の豪族とも深いつながりを持っていた。
特に安房地方は三浦氏の強い影響下にあった。
源頼朝一行が船で相模灘→江戸湾を横断して安房に逃げ込んだ
裏では三浦氏は中村氏と手を結んで、相模に勢力を拡大するため
に、立場の危うくなった源頼朝を担ぎ出したとも言える。

 頼朝「貧乏軍団」・・・丘陵地域の武士団で水田が少ない。
  
  大庭軍「お金持ち軍団」・・平野部で豊かな郷を持っていた。
  大庭景親・大庭景親・渋谷重国・熊谷直実・山内首藤経俊・
  伊東祐親(狩野茂光弟)・・・義理堅かった。
  一族の結束は弱かった。
  @戦いの最中から源頼朝側につこうとしていた武士

  A頼朝軍が有利になったと見るや源頼朝側についた武士
  
 何故、武士達は平氏方大庭軍なのに源頼朝側の行動をとったのか?
「頼朝軍勝利」の原因は何だったのだろうか?
 

A「本領安堵」・・武士の命は土地だった。
 源頼朝は武士団がそれまで持っていた領地を保障した。
B「新恩給与」・・「恩賞」:武功のあった武士の新しい領地を与えた。
  戦の時にいい働きをすれば、新しい領地を得ることができた。
 源頼朝は家来となった武士にしっかりと行った。
C「一所懸命」(いっしょけんめい)・・土地を守る武士たちの合い
 言葉である。武士は自分の土地を守ることに命を懸けた。
 →「一生懸命」となった。
D「ご恩と奉公」・・武士の領地を守る・増やす契約である。
源頼朝によって不安定だった武士団の生活は発展していった。
 武士は見返りとして「奉公」した。
E「いざ、鎌倉」・・・緊急時には大急ぎで駆けつける。
F「御家人」・・・家臣=御家人になれば自分の領地がおびやかされる
 ことはなかった.




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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
よく調べましたね、驚きました。コピ−させてもらいよく読んでみます。
 ところで2/7に小鹿野町周辺を(旧吉田町)を攻めます。
寺山砦・女部田城・鷹谷砦・皆野町 鐘掛城などです。
富岡武蔵
2015/01/26 22:40
12月28日はお世話になりました。
お誘いありがとうございます。
2月7日は土曜日・・・焼き物あるので、保留?
です。
富岡武蔵さんへ
2015/01/27 07:22

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箕輪初心▲源頼朝13【挙兵〜関東平定&坂東武者の思惑】素案 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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