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zoom RSS 箕輪初心▲神奈川【河村城】:河村氏→上杉氏→北条氏

<<   作成日時 : 2014/12/01 06:39   >>

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河村城跡は山北町にある。城山約225mの山である。酒匂川との比高
差は約130mである。独立丘陵城の地形で、大井松田ICで降り、西に
向かうと正面に見える山である。河村城は北は旧皆瀬川、南は酒匂
川によって囲まれた自然の地形を利用した中世の山城である。
文和元年(1352)河村秀国・秀経は新田義興・脇屋義助らとともに河
村城に籠城して、足利尊氏の軍:畠山国清と2年間に渡って闘った。 
戦国時代が小田原北条氏の城郭となった。北条氏の特徴を色濃く
残している素晴らしい大規模な城郭である。




■訪問記・・・平成25年(2013)8月26日
○神奈川県の大井松田ICを降り、河村城に向かった。

○国道246号線を御殿場・沼津方面に進む。
 正面に河村城が見える。
 河村城を山北駅の跨線橋から見上げる。
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○10km先の山北駅近くの信号を右折した。

○山北駅・・・
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東西に長い丘の全景は写真に収まらない。
 独立丘の尾根全体を城郭化した大城郭なのだ。

○案内所の方が見えた。
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・パンフレットをいただいた。
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○宮地の信号を斜め右折し、山北役場前を越え、温泉施設
に行った

○山北駅前を越えて200m先を鋭角に左折し、国道246号線の
ガードをくぐった。

○先に見える寺が盛翁寺である。

○左手を過ぎて200m登った場所が河村城址公園の駐車場である。

○駐車場には車も5〜6台留められるようになっている。
まず、トイレ・・・

@城址公園の入り口。
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A案内板
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Bここから5分ほどで城址である。

C本郭&茶臼郭との間の堀切にある畝堀。
 夏場で草が茂っているためにいまいちよく分からない。
 冬場ならば明瞭に確認できると思うが・・・。

D 茶臼郭
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畝堀がよく見えた。
 河村城の畝は水を溜めようとしていたという意図がうか
 がえる。
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D茶臼郭から馬出し状の小郭。

●戻った。

E主郭北側の堀切。
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先ほど畝が掘られている。
草ぼうぼうでよく分からない。

F畝堀の端にある「姫井戸」。
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  井戸とあるが、畝堀の一部にしかみえない。
  湧水なんだろうか?


G主郭
○模擬木戸
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○解説
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○トイレ

○整備されている城址公園である。
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 主郭内部は芝生の手入れがよく行き届いていた。

○大きな城址碑。
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○神社
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 さっきの反対から、主郭と北の尾根筋の小曲輪の間の堀を見た。
 美しいな畝堀である。
 ★写真ではやや分りづらいが、・・・・。
 近くで写真を撮ろうとして、畝堀の中におちると怖いので躊躇した。
 小曲輪と茶臼曲輪の間の畝堀は水が溜まっている。
 本来畝堀は、水や泥が入り、のろ状(群馬の方言かな)ヘドロ状に
 泥が溜まることでさらに防御力が増す。しかも、夏場は蛇の巣に
 なる可能性もある。
 それなので、箕輪城の大堀切の畝堀:8つの畝・7つの溝は日本
 の最大級なのに復元はしない。4m、埋まっていて、2mの石垣が
 畝堀に隠れているのだ。高崎市教委の秋本太郎先生にお願いしたが
 「箕輪城の畝堀は落ちたら、上がれない。蛇もいる。コンクリに
 しても、泥が流れ込む。排水溝の管理ができない。とにかく、危険
 ということなのだ。・・・」

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F馬出郭・・・藪がひどい。
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 馬出郭は山林化していて遺構の全体像は掴めまない。
 「馬出」なのかどうか疑問が残ったが、・・・
馬洗場が近いので、そうなのだろう。
主郭にくっついているし、・・・

G・・・この先が滝らしい。搦め手口か?
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・切り崖になっていた。

▼主郭に戻った。

○西郭
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○北郭
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○土橋?
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H馬洗場・・・主郭西側のちょっとした谷津である。
 山の頂上に近い場所ながら、湿地のような場所である。

I主郭&蔵郭
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・間の堀切
  コンクリートで加工され、保存されているのだろう?うっ。

▼主郭に戻った。
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○地区の方が軽トラックで来た。なにやら、鉄パイプを
 持っている。
「河村城祭りが一週間後にある。」
 とのことだった。
箕輪城の話もした。
駿河との国境方面を望む。
 河村城は武田氏の侵攻に備えるための重要な城だった。
 「富士山はあっち。」と教えてくれた。
 「ちょっとガスってますね〜。」
 「向こうの■■城は武田信玄の城です。」
主郭は木々に遮られ、あまり眺望が良くなかった。


I近藤郭との間の堀切と橋。
  幅20mほどのかなり幅の広いの堀切である。
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J大庭郭・・・改変著しい。
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  一見巨大な土塁に見えるのだが、ただの土盛である。
 工事を行う予定なのであろうか。

K南側の西の沢橋の方に下っていく道路があった。
  郭構造はほとんど分からなくなってしまっている。
  ここが大手口なのだろうか?
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L蜜柑畑に出た。
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  南麓の谷津にあった「土佐屋敷」であるらしい。
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しかし、藪で下れない。

▼戻った。・・・藪漕ぎをしながら、進んだ。
 今日も長靴なのだ。
○大庭郭の山際を通った。

○蔵郭と近藤郭の間の大堀切。
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  深さ4m、幅24m。・・・下から見ると迫力ある。
  湿地の面影を残していている。

○もう一度、土佐郭に挑戦しようとしたが、通行止め
 になっていた。

○主郭で、地元の方に挨拶してから、下った。

○駐車場

○寺に寄った。
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M車で、足柄城に向かう西の橋の上から河村城を見た。
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 蛇行する酒匂川が天然の外堀として、堅固な城をさらに
 堅固にしている様子が感じとれた。



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箕輪初心●新田義貞C「足利尊氏との対立」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_43.html
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箕輪初心★新田義貞の弟:脇屋義助&子孫の動向
http://53922401.at.webry.info/201303/article_22.html
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箕輪初心◆群馬:沼田会津街道=4コース〜鎌田〜尾瀬
★新田義宗の墓
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箕輪初心★山内上杉16代@「初代〜7代」=足利尊氏の母方系
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箕輪初心★上杉家A『8代:上杉憲実〜9代:憲忠〜
10代:房顕』
http://53922401.at.webry.info/201405/article_26.html

箕輪初心★埼玉【足利基氏館】&『足利基氏&上杉4代:憲顕』
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箕輪初心●群馬【平井城前編】:関東管領8代上杉憲実〜
16代上杉謙信
http://53922401.at.webry.info/201405/article_29.html

箕輪初心▲神奈川平塚 紫雲寺【大森氏頼の居館跡=矢崎城】
http://53922401.at.webry.info/201411/article_22.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

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◆◆ 河村城の歴史 ◆◆
・平安末期・・・藤原秀郷流の一族:波多野遠義の二男:河村秀高
 が築城した(伝)。

・治承4年(1180) 石橋山の合戦・・・
  河村秀高の子:河村義秀は、源頼朝の挙兵の際に平氏方に属し
  たため領地を没収された。

・建久元年(1190) 鎌倉での流鏑馬で本領:河村郷に復帰した。


・南北朝時代・・・・
・正平7年(1352)  南朝の一斉蜂起。
@畿内
 北畠顕信・千種顕経・楠木正儀+足利直義派残党
A上野国
 新田義宗、義興と義治は宗良親王を奉じて上野国で挙兵した。
B信濃国 
 征夷大将軍:宗良親王も挙兵。
C北条時行の残党 
D足利直義派残党
E上杉憲顕
→鎌倉に進撃。鎌倉を一時的に占拠。


・文和元年(1352)北朝の足利尊氏が鎌倉を押さえた。
 河村氏は松田氏とともに南朝側の新田義興に味方して戦った。

 河村秀国・秀経らは、新田義興・脇屋義助らとともに河村城に
  籠城して、足利尊氏の軍勢、特に畠山国清と2年間に渡って
 闘った。 
 「山嶮にして苔滑らかに、人馬に足の立つべき処もなし」
 とある。・・・★当時もこの山城に籠城していたのであろう。
  (★「管領記」)
 最終結果・・足利尊氏軍が勝利。新田義宗・脇屋軍が敗れた。
・南朝:正平7年・北朝:文和元年(1352)から2年間
 相模:河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治ととも河村城に
 籠城し、新田一族同族:畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃
 をしのいだ(伝)。
※南原の戦い  
 足利尊氏軍の畠山国清に敗れた。  
 
結局、河村城は落城し、河村一族の多くが討ち死にし、河村氏
 は没落していった。
@宗良親王は信濃に逃亡。
A新田義宗&義興、脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れた。
 その後。越後で再蜂起した。
B北条時行は捕縛されて処刑された。

・応永23年(1416) 上杉禅秀の乱
 前関東管領:上杉禅秀(氏憲)が関東公方足利持氏に反旗を翻した。
鎌倉を逃れた鎌倉公方持氏は小田原で上杉禅秀方の土肥・土屋の
 攻撃を受け、箱根に逃げ、箱根権現別当証實(大森頼春の弟)の
 助けで、駿河国の大森頼春の大森館に落ち延びた。
 ※大森館説&生土城説がある。
 その後、足利持氏は今川氏の保護下に入った。
 足利幕府は足利持氏を救援し、今川範政を上杉禅秀討伐に向かわせ
 た。今川範政は葛山・大森・朝比奈などと小田原で曽我・中村・土
 肥・土屋を討った。
 上杉禅秀は鎌倉で自害した。
 大森頼春は土肥・土屋の没収地を与えられ、小田原に移った。
  (★鎌倉大草紙)。
 

・応永25年(1418) 関東管領・上杉憲基(山内上杉家)が死去。
・応永26年(1419) 上杉憲実が関東管領の後継者に選ばれた。
   上野・武蔵・伊豆の守護になった。
  →関東管領:上杉憲実の所領になった。

・応永35年(1428) 室町幕府4代将軍:足利義持が死去。 
   足利義教が6代将軍に就任した。
  鎌倉公方:足利持氏は将軍後継の候補に選ばれなかった。
  足利持氏は兵を率いて上洛しようとするが、上杉憲実が諫止
  した。
  上杉憲実は鎌倉府と足利幕府との調停に努めた。
  足利持氏は足利義教への対抗姿勢を続けた。
  強攻派:足利持氏と穏健派:上杉憲実は確執が生じるようになった

・永享3年(1431) 大森頼春没。大森憲頼が跡を継いだ。

・永享4年(1432) 大森氏一族は箱根山水飲関所、箱根山葦河関所
に加え、小田原関所を預かった。
大森憲頼は関東公方:足利持氏と強い結びつきを持った。
  鎌倉府奉公衆として足柄道と箱根一円を支配した
  鎌倉公方にとって大森氏の駿東郡も、鎌倉府の影響下に
  組み込まれた。

・永享9年(1437) 足利持氏の信濃再出兵が企画。
  足利持氏は上杉憲実を訪れて会談した。
  しかし、上杉憲実は相模へ下り、嫡子を領国の上野に逃した。
  上杉憲実は管領職を辞任した。
 永享の乱の直前も鎌倉公方:足利持氏との確執が続いた。
 上杉憲実に対して、長尾実景・大石重仲らは
 「河村城に難を避ける。」
  ように進言した。
 しかし、上杉憲実が河村城に籠らず、鎌倉を脱出し、上野の平井城
 (群馬県藤岡市)に逃れた。

・永享9年(1437) 永享の乱
小田原城(小田原市)の大森氏頼の弟:大森憲頼が河村城を
 を攻め、奪い取った。 
 大森氏頼の弟:大森憲頼は鎌倉公方:足利持氏に属していたのだ
→河村城には足利持氏の家臣:大森憲頼が入った。 
 

●〜〜〜大森氏→後北条氏の小田原城奪取4説あり。〜〜〜〜〜〜〜〜〜●
・15世紀後半・・・
  大森氏頼が小田原城を築城。

・明応3年(1494) 大森氏頼没。
  家督は次男:大森藤頼が継いだ。


  
@明応4年(1495)か明応5年(1496)説
 伊勢宗瑞が大森藤頼をだまし討ちにして小田原城を
 奪取したと言われていた。・・・従来の通説

 北条早雲が大森藤頼を急襲し小田原城を奪った。
  それ以後、河村城は北条氏の属城となった。

・明応7年(1497) 満39歳
   北条早雲は南伊豆(下田市堀の内)深根城で茶々丸を殺害した。
(★下田市教育委員会)

・明応8年(1498) 北条早雲は甲斐で茶々丸を殺害した。
(★ウキペディア)

 
 北条早雲は「茶々丸討伐」の大義名分がなくなった。
 相模方面への制圧に乗り出した。

   
・永正元年(1504) 立河原の戦い(立川市)
  山内上杉顕定・足利政氏連合軍 
   VS
  扇ヶ谷上杉朝良・今川氏親・伊勢宗瑞連合軍
  上杉顕定側は2000人以上の戦死者を出して潰走した。

・永正2年(1505) 上杉顕定軍に河越城を包囲した。
  上杉朝良が降伏して終結した。

・永正4年(1507) 上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹の
   婚姻が成立し、両家は和解した。
   しかし、両家の勢力は弱体化した。

・永正6年(1509)説・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  その間隙をぬうように伊勢宗瑞が勢力をつけてくる。
  伊勢宗瑞が大森氏が小田原城を奪取したのは、この頃のことで
 あったと推定されるようになった。・・・有力説
 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄11年(1568) 甲相駿三国同盟が破られた。

・永禄12年(1569) 武田信玄が小田原城攻撃した。

・元亀元年(1570) 武田信玄が深沢城を奪取した。

・元亀年間(1570〜73) 武田信玄 VS 北条氏康
  河村城た周辺の諸城は北条氏康と武田信玄の争奪の場と
  なった。
  
  北条氏康は緊張状態の中で、河村城を整備させた。
田名の百姓中に河村城の普請を命ずる北条氏の文書
(虎の朱印状)が発給されている。
  主郭と茶臼郭との間にある堀切や畝堀などが整備された。  


・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
  豊臣秀吉の軍勢に攻められて落城した。
  その後、廃城となったと考えられている。

・現在 城跡は河村城址歴史公園として整備されている。
  本丸や多くの郭、畝堀などの遺構が現存している。






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