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zoom RSS 箕輪初心★多胡碑&「多胡碑研究の歴史」

<<   作成日時 : 2014/03/19 06:51   >>

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和銅4年(711)多胡碑が多胡郡が設置された。羊(ひつじ)とい
う渡来人が東国移住し、多胡郡を建郡。朝廷は羊に支配を任せ
る。弁官局からの命令を記述した内容となっている。700年後、
建久6年(1509) 連歌師:宗長の「東路の津登」で多胡碑を紹
介した。約900年後から、研究が急速に発展した。参考文献は
「多胡碑の江戸時代」:多胡碑博物館著である。実に素晴らし
い研究であった。400円って、安すぎる。十分、楽しめた。3月
9日、16日は3碑は覆堂の中に入って、直接碑文が見られる
日のであった。
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箕輪初心■群馬「多胡碑シンポジウム」3月6日
http://53922401.at.webry.info/201103/article_8.html

箕輪初心■山上碑・多胡碑・金井沢碑+山上多重塔
http://53922401.at.webry.info/201310/article_4.html
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◆◆ 上毛4碑の歴史 ◆◆
★上毛3古碑を年代順に追うと、以下のようになる。
@681年の高崎市山名:山上碑・・・放光寺の僧:長利が、
 自分の系譜を記し、母の黒売刀自を供養したものである。
A711年の高崎市吉井:多胡碑・・羊(ひつじ)という渡
 来人が東国移住し、多胡郡を建郡。朝廷は羊に支配を任せる。
B726年の高崎市山名:金井沢碑・・石碑を建てて神仏に誓
 った。=先祖供養の仏教碑なのである。群馬への仏教の伝来
 が東大寺・国分寺建立以前にあったことを意味している。
C801年の山上多重塔(群馬県みどり市山上)
道輪という僧が、朝廷や衆生の安楽のために法華経を安置す
 る塔を建てたものである。平安時代初期の東毛への仏教文化
伝来を知る上で、重要である。


◆◆ 多胡碑 ◆◆
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【1】多胡碑
【銘文】
弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

【読み方】
弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅
に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左太臣正二
位石上尊、右太臣正二位藤原尊。

【現代語訳】
朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡
(かむらぐん)の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡を
つくり、羊(ひつじ)という人に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡としなさい。
和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日
に宣(の)べられた。
左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。

  (★多胡碑博物館の説明書き)
【2】周辺遺跡


【3】多胡碑博物館
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※高句麗の広開土王の碑文の拓本がある。
 撮影禁止であった。



【4】 「多胡碑の江戸時代」
・和銅4年(711)多胡碑が多胡郡が設置された。
・8C後半 多胡碑が建碑されたと考えられる。
・9C後半 郡衙の衰退・・・律令制の崩壊
   多胡碑も忘れ去られた。


連歌師:島田宗長
・建久6年(1509) 連歌師:宗長の「東路の津登」で
  紹介された。約700年後のことである。
  約700年間、多胡碑が残在したのかを伝える資料は
  ない。

「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。
 又発句、
神無月 里やふりにし 花の春

此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡
 弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣
 正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり
布留今道
ひの光や ふしわかねは 石上 ふりにし里に
花咲にけり。
当月異名小春にそよへて過にし花の春に
 やと申計也。武州成田下総守顕泰亭にして
あしかもの みきはゝ雁の 常世かな 
水郷也。舘のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の露
枯れ廿余町四方へかけて水鳥おほく見えわたり
 たるさまなるべし。同千句興行第一句発句に・・・
 ・・・(略)・・・
近日、宗長を紹介予定



伊藤東涯:伊藤仁斎の子ども
・享保元年(1716)〜元文元年(1736)
 京都の儒学者:伊藤東涯が執筆した随筆、「ゆう軒小録
 (ゆうけん)」の二書に多胡碑のことが書かれている。
@「盍簪録」・・碑の図説&解説
石上・・石上麻呂、藤原・・藤原不比等
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A「輶軒小録」・・「壺碑」について
 約200年の間を空けた後・・・
 多胡碑は全国に知れ渡っていく。


青木昆陽
・延享2年(1745) 「夜話小録」
・明和3年(1766) 「続昆陽漫録」
碑文が載っている。
小幡羊太夫勝宗の墓と伝えられている。


高橋道斎・・・江戸中期、多胡碑を世間に広めた人物
享保3年(1718)下仁田で生まれた。
陽明学者、書道家、俳人である。
陽明学を中根東里・井上蘭台に学んだ。
書は唐様の書家:高頤斎に学んだ。
俳人・・西毛俳壇の中心人物。芭蕉句碑を建てた。
高橋道斎が興味を持ったのは多胡碑の書体=丸みを帯びた
楷書である。 六朝?中国北魏?ではないかと考えたそうだ。
そして、上野国に何故こんな文字を書く人がいたかという
疑問を持った。道斎は帰化人の文化ではないかと考えた。
多胡碑(高崎市吉井町)の歴史的・書的価値を見出し広く世
に紹介し、多胡碑研究の出発点となった。道斎の功績は
大きい。   (★下仁田町教育委員会)
★高橋道斎の墓下仁田町下仁田の西山常住寺境内にある。
高橋道斎の弟子の市河寛斎は南牧出身で、
子の市河米庵は「幕末三筆」と呼ばれた。
  

●沢田東江
・享保17年(1732)生まれ。
・宝暦3年(1753)〜4年(1754) 多胡碑の拓本を配った。
・宝暦7年(1757)「上毛多胡碑碑帳」を師:高橋道斎と
出版した
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岡村良通(林子平の実父)は「上毛多胡碑碑帳」を読んで
 ・・・・仙台の多賀城碑を調べた・

山岡まつ明・・・碑の重要さを説いた。

滝沢馬琴・・・「兎園小説外集」
伊勢平蔵貞丈説を採った。「羊太夫説を否定。」

大田南畝・・・沢田東江と親しかった。
    「半日閑話」で多胡碑の寸法を書き表した。


高桑蘭更
・安永2年(1773)多胡碑を訪れ、吉井連の入集句「俳諧
  多胡碑集」を編集し、翌年出版した。
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羽鳥一紅(下仁田から高崎に嫁にきた。高橋道斎弟子)
・宝暦5年(1758) 「あやにしき」を著した。
  『くさまくら』(1764〜72)がある。
・天明3年(1783)『文月浅間記』浅間の大噴火の惨状を描いた。
・多胡碑の句を詠んだ。  
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箕輪初心★「高崎の文化人19+α」江戸時代編
http://53922401.at.webry.info/201310/article_19.html
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●高山彦九郎
 ・安永4年(1775)太田細谷から多胡碑を実際に見た。
  「乙末の春旅」に多胡碑を記した。
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箕輪初心★★群馬の偉人:高山彦九郎C現代版「旅日記」
http://53922401.at.webry.info/201106/article_23.html

箕輪初心■大分:【日田豆田町】&【高山彦九郎&広瀬淡窓】
http://53922401.at.webry.info/201110/article_15.html
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富岡正美1774~1859
「上野国名跡考」=地名研究
小泉城主:富岡秀高の8代の孫・・・
 高崎藩主大河内氏に70余年、仕えた。
 ※宮部義正の弟子である。
・文化6年(1809)「上野国名跡考」を著した。 
 @安蘇・・の地名とは
  万葉集には「上野の安蘇の・・・」
 箕輪軍記「北は安蘇山相摩の麓・・・箕輪・・」
 高崎市赤坂の「恵徳寺」に墓がある。


●作者不詳
  ■「上野誌」
池村にあり。・・・


●作者不詳
■「上州風土記」
多胡碑池田村にあり。


神沢杜口
・明和年間(1772〜) 〜「翁草」
の中で、多胡碑を紹介している。
箕郷町誌か安中市史で、
 「高崎市箕郷町出身で、安中藩剣術指南役→
   京都奉行所与力。」とあった気がするが・・・
記憶違いかなあ?



鹿沼政み(まさきみ)
・天正期の宇都宮城主:宇都宮国綱の家臣で
鹿沼城主の子孫・・・川越藩→前橋藩:酒井家側近
「閑窓秘話」で上毛3碑を記述した。

奈佐勝皐(かつたか)
・天明6年(1787)「山吹日記」
江戸〜旧鎌倉上道〜〜高崎・・吉岡の華蔵寺滞在
多胡碑に行った。

清水浜臣
・文政2年(1819) 「上信日記」
木部白満(つくもまろ)に聞いて、3碑に行った。
拓本をとった。

木部白満(つくもまろ)( 1775~1841 )上毛三碑の研究
・ 高崎山名の葉タバコの豪農:木部善蔵の子として生まれた
・文政2年(1819)「 上野三碑考」を出版した。
上野三碑として有名な多胡碑、山上碑、金井沢碑
の研究論文集で、三碑の研究書としては最初のものである。
本居宣長門下で常陸の古学者:岡庭真垣と木部白満の
共著である。
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箕輪初心★「高崎の文化人19+α」江戸時代編
http://53922401.at.webry.info/201310/article_19.html
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市河寛斎
・下仁田出身。高橋道斎に学んで、江戸林家門下・・
・文化8年(1811)「金石私誌」
   多胡碑を調査した。・・石材が粗い。

狩谷棭斎(かりやえきさい)
・考証学者である。『倭名類聚抄箋注』を著した。
・文政8年(1818)『古京遺文』
多胡碑などの金石文を集めた。

伴信友
・天保7年(1836)「上野三碑考」
 宗長の「東路の津登」&拓本?からの考察が出て来る。


小島成斎
・市河寛斎の子:市河米庵(下仁田の幕末三筆)&狩谷棭斎
  の弟子→老中:阿波正弘の右筆
・『酣中清話』・・・多胡碑が出て来る。

栗原信充(のぶみつ)
・柴野栗山&屋代弘賢の弟子→島津久光の家臣
・文政2年(1819)『柳庵随筆』
宗長の「東路の津登」から多胡碑を説明した。

飯塚久敏
・高崎倉賀野→橘守部に師事。
・文久2年(1862)「上野國古碑考」

富田永世
・埼玉吉田村→清水浜臣の友達→飛脚屋藤岡支店長
・嘉永6年(1853)「上野国名跡考」
上州の地誌研究

楫取素彦
・明治9年(1876) 熊谷県→群馬県が新設された。
楫取素彦が初代県令として就任した。
 楫取素彦は多胡碑を訪れ保護の重要さを政府に訴え、多胡碑周辺
 の土地を買い上げた。
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箕輪初心★吉田松陰=高杉晋作・桂小五郎・楫取素彦などを育てた男
http://53922401.at.webry.info/201402/article_1.html
箕輪初心★梶取素彦=群馬県令。吉田松陰の2人の妹:寿&文が妻。
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201401/article_31.html
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・明治27年(1995)『上野史談』
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・昭和20年(1945) 文部省通達により多胡碑は桑畑に
埋められた。アメリカ軍からの隠匿であった?

・昭和29年(1954) 国の特別史跡に指定。
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・昭和時代・・・群馬県の元総理大臣:福田赳夫、
  福田康夫の訪問
  
  ノーベル賞受賞者の湯川秀樹の訪問。

・昭和50年(1975) 皇太子:徳仁親王の訪問。

・平成8年(1996) 多胡碑記念館が設立。
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・平成時代・・・多胡碑研究の進展
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・平成23年(2011) 2月 多胡碑シンポジウム


・平成23年(2011)?? 多胡碑周辺遺跡の発掘調査



★参考文献
・多胡碑の江戸時代:多胡碑博物館
 ★実に素晴らしい研究であった。

山上の碑
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◆金井沢の碑
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★明日は多胡碑&周辺遺跡かな?

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