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zoom RSS 箕輪初心★【黒田官兵衛孝高=黒田如水の生涯】前編

<<   作成日時 : 2014/01/06 07:20   >>

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平成26年(2014)のNHK大河ドラマ53「軍師官兵衛」は織田信
長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の天下人に重用され厚い信頼を
得た軍師である。「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしま
まに食らうは徳川。」「国盗り→天下盗り」に明け暮れた戦国時
代、黒田官ちゃんは50数回の合戦で一度も負けたことがない。
まるで楽天イーグルスの田中マー君である。姫路の小大名の
家老から福岡藩52万石の藩祖の礎となった。「戦の天才:官
兵衛」「智将:官兵衛」「キリシタン大名:官兵衛」の良い評価
のある一方、「狡猾な策略家:官兵衛」「四国・九州で数千人を
磔にした鬼官兵衛」という良くない評価もある。どちらが黒田
官兵衛の実像だろうか? 三英傑の「軍師:黒田官兵衛」は
V6の岡田准一が演ずる。豊臣秀吉に天下を取らせた名軍師
ぶりを脚本家の前川洋一氏が、どのように描くのか楽しみで
ある。そして、虐殺の鬼の一面をどう隠すのであろうか?

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 (★数年前の姫路城)


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箕輪初心★【黒田官兵衛孝高=黒田如水の生涯】後編
http://53922401.at.webry.info/201401/article_7.html

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【0】黒田一族の出自
1)佐々木源氏系の京極一族:黒田宗清の子孫説
 @黒田一族は、近江国伊香郡黒田村の出身とされる。
 A永享年間・・・足利幕府の奉公衆:黒田備前守高光
 B康正2年(1576)黒田伊豆守信秀が伺候。
2)赤松円光の子孫説(★「荘厳寺本黒田家系図)
兵庫県西脇市黒田庄町
赤松系図にない。
3)播磨の土豪説・・・系図の捏造説
  有力では?(★歴史読本:黒田官兵衛)
 
4)黒田官兵衛孝高の曽祖父:黒田高政の代に、主君から
叱責を受けて備前国邑久(おく)郡福岡村に逃げた。

5)黒田官兵衛孝高の祖父:黒田重隆の代に播磨国に移り、
 播磨守護:赤松晴政の重臣:小寺政職(まさもと)に仕えた。
・天文14年(1545) 小寺政職は黒田重隆を姫路城代に任じた。
小寺政職は黒田重隆の子:黒田職隆には養女を嫁がせ、小寺の
 名字を名乗らせた。

※大永21年(1521) 小寺政職の祖父が幼少の赤松晴政を
 助け、赤松氏を復興させた。・・・
 小寺氏は主君:赤松家を凌ぐ勢いだった。


★★★ 黒田官兵衛の生涯 ★★★
【1】生〜少年〜青春時代・・播磨小寺政職の家老時代
・天文15年(1546) 黒田職隆の嫡男として姫路に生まれた。
父:黒田職隆(もとたか)
母:明石宗和(正風)の娘→小寺政職(まさもと)の養女

・永禄2年(1559) 母死亡。

※少年時代
 和歌・連歌・茶を極めようと思っていた。
小寺政職や叔父:黒田高友が和歌を好んだ。
(★歴史読本:黒田官兵衛)


NHK大河ドラマ53「軍師官兵衛」1回目〜〜〜〜〜
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官兵衛は万吉が名乗っていた幼少期&黒田家の置かれ
た状況が語られる。
父:黒田職隆(もとたか)は播磨の御着城主:小寺政職の
家老である。嫡男:万吉は好奇心の旺盛であった。
もり役:母里(もり)小兵衛を悩ませていた。ある日、病弱
な母のために、薬草を求めて赤松政秀領龍野に入ってし
まった。母は万吉をはたいて、諫めた。★心優しい官兵衛
を描いて、上手に視聴者の心を捕らえようとする。
そして、剣術に励む姿を写す。
父は赤松との誘いがあったが、断った。・・
・・孫子の兵法を学ぶ。
ここから、はいきなり、桶狭間の戦いになる。
織田信長に興味を抱いた。
16歳で元服した。
〜〜〜〜続く。


・永禄5年(1562) 小寺政職の近習
小寺政職 VS 浦上宗景
  数え17歳で初陣。

・永禄7年(1564) 龍野城主:赤松政秀(宇野政秀)が室津城を攻撃。
  浦上清宗と黒田職隆の娘(官兵衛妹)との婚礼当日に室津城に
  夜襲を仕掛け浦上親子&妹を討った。
  赤松政秀は浦上政宗領:室津近辺を奪取し領土を拡大した。

・永禄10年(1567)?黒田孝高は家督と家老職を継いだ。
  小寺政職の姪の櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、
  姫路城代となった。

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・永禄11年(1568) 放浪中の足利義昭が織田信長と美濃で会見。
   足利義昭が織田信長上洛を要請し、三好三人衆を退けて
  室町幕府15代将軍となる。

・永禄12年(1569) 青山・土器山の戦い
 足利義昭の命で、赤松政秀が、池田勝正、別所安治、宇喜多直家
 らの支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んできた。
 黒田孝高は奇襲攻撃を仕掛け、300の兵で2度にわたり戦った。
 三木通秋(黒田官兵衛の姉妹の婿)の援軍などもあって撃退した。
 赤松政秀は浦上宗景に攻められ降伏した。
 この後、三好三人衆が勢力を立て直した。
 
 織田信長包囲網が引かれ、足利義昭と織田信長の関係が
 崩れた



・元亀元年(1570)
織田信長 VS 大坂本願寺・・・10年間続く

・元亀4年(1573) 武田信玄の病
織田信長包囲網は 弱体化し、織田信長が勢力を盛り返した。
 4月、印南野の戦い
  東播磨の三木城主:別所長治が姫路に攻めこんできた。
 7月 三好氏の篠原長房が討死。
 9月 織田信長が浅井長政を討ち、足利義昭を追放。
 12月 浦上宗景が織田信長と和睦。

・天正2年(1574) 足利義昭は毛利輝元領:鞆の浦へ逃れた。



【2】織田信長の家臣時代=羽柴秀吉の中国攻め参謀
・天正3年(1575)
6月長篠の戦い
  武田勝頼 VS 徳川家康・織田信長
  徳川家康・織田信長の大勝利
 
  
 黒田官兵衛は主君:小寺政職に織田信長への臣従を進言した。
(★黒田家譜)
7月 黒田官兵衛は羽柴秀吉の取次により岐阜城で織田信長に謁見。
羽柴秀吉に謁見→織田信長への謁見。
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羽柴秀吉が黒田官兵衛を気に入って、中国攻めに
    乗り出した話もあるが、できすぎ・・・


9月 浦上宗景が宇喜多直家に敗れて、小寺政職の元に落ち延びた。
10月 黒田官兵衛は小寺政職・赤松広秀、別所長治らを京で
   織田信長に謁見させた。

     (★信長公記)

・天正4年(1576)  
  丹波の波多野秀治が明智光秀を攻撃して織田信長
  より離反した。

7月 第一次木津川口の戦い
毛利水軍は織田水軍を破り、大勝利を収めた。

・天正5年(1577)
5月、英賀合戦
毛利軍小早川隆景の水軍:浦宗勝・三木通秋 VS 黒田官兵衛
  黒田官兵衛は500の兵で毛利軍&三木軍5,000の兵を退けた。

織田信長は羽柴秀吉に中国攻めの命じた。
 
6月 黒田官兵衛は長男:松寿丸(黒田長政)を人質として
    織田信長の元へ送った。

羽柴秀吉は
「今後はいかなることがあっても・・・相談したい。」
  と書状を送った。
羽柴秀吉は黒田官兵衛の才能を見抜き、ラブコールを
送ったのであった。


10月 信貴山城の戦い
   織田信長は松永久秀を討伐した。
   
   織田信長は羽柴秀吉を播磨に進駐させた。
   黒田官兵衛は妻鹿・国府山城:甲山98mに移らせ、
   姫路城を羽柴秀吉に提供した。
   黒田官兵衛は二の丸に住み、参謀となった。

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@羽柴秀吉の福原城攻撃

  A羽柴秀吉の竹田城攻撃
   羽柴秀吉は弟:羽柴秀長を生野銀山を管轄する太田垣景近の
   竹田城攻めに向かわせた。黒田官兵衛も同行した。
   11月4日に落城させた。
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  ★石垣は羽柴秀吉の時代の建造物・・・

 箕輪初心◎兵庫:『竹田城』前編=天空の城
 http://53922401.at.webry.info/201304/article_17.html
箕輪初心◎兵庫:『竹田城』後編=日本のマチュピチュ
http://53922401.at.webry.info/201304/article_18.html
  
  B佐用城(福原城)攻撃・・
黒田官兵衛は竹中半兵衛重治と先陣を務めた。
   11月27日落城させた。
   ★宮本武蔵がいたところである。

 C羽柴秀吉本隊の上月城攻撃
   黒田官兵衛は赤松政範の上月城攻めに従った。
  羽柴秀吉は柵を囲み、上月城の兵を殺した。
 ★磔・串刺しの残虐非道な武田信玄の志賀城攻めの
  ようなこともやったらしい。
 
 ※黒田官兵衛は織田信長から感状が送られた。
   
 ★羽柴秀吉の中心課題は、播磨の諸将から人質をとることで
 あった。竹中半兵衛&黒田官兵衛の2人の活躍が大きかった。


・天正6年(1578) 
3月 上杉謙信が死去。

3月 三木合戦
  別所長治=波多野秀治の娘婿が東播磨周辺の豪族
  梶原氏・明石氏などを引き込んで反旗を翻した。
  これに毛利元成が呼応した。
  (★本願寺文書)
足利義昭の離反工作であった。

4月 敵方の宇喜多直家の軍7,000と雑賀衆の兵が、別府の阿閉
    城を攻撃。
    黒田官兵衛は1,000の兵で防ぎ退けた。

黒田官兵衛は三木城の支城を落としていった。

7月 上月城の戦い
毛利輝元・尼子氏連合軍 VS 羽柴秀吉

   羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれること
を恐れて転進した。
上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、
織田氏に対して優位に立った。
   
  羽柴秀吉本隊は織田信長の指示に従い、山中幸盛らを残して
  上月城を放棄し、書写山まで撤退した。

  
9月 黒田官兵衛は西の宇喜多直家を調略することに成功した。
毛利輝元の傘下にあった備前国の宇喜多直家が織田信長に
   通じて、毛利輝元から離反したのだ。
 
10月  有岡城(兵庫県摂津伊丹)の戦い1年〜〜〜〜〜〜〜
   織田家の重臣:荒木村重が摂津で織田信長に対して謀反を
   起こし、有岡城に籠城した。
   主君:小寺政職も呼応しようとした。
 
   蜂須賀正勝が荒木村重を説得したが失敗。続いて
   黒田官兵衛は荒木村重を織田信長方にさせるために
   有岡城に乗り込んだが、逆に幽閉されてしまった。
これには、主君:小寺政職の官兵衛暗殺命令も
出ていた。


織田信長は竹中半兵衛に命じて、黒田官兵衛の
嫡男:松寿丸を殺すように命じた。
竹中半兵衛は松寿丸を殺さないように進言した。


 
11月 第二次木津川口の戦い
   毛利輝元は鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫した。
   淡路島以西の制海権は保持したままであったが、次第に戦況は
   毛利側の不利となっていった。

・天正7年(1579)
2月 竹中半兵衛が死亡。(★三木合戦継続中)
 
 羽柴秀吉・滝川一益の有岡城攻撃〜〜〜〜〜〜〜〜
 有岡城は開城し、黒田官兵衛は母里や栗山利安らに救出
 された。

長期に渡って土牢に押し込められていたため、足腰が立たず、
  背負われて城を脱出した(伝)。左脚の関節に障害が残り、歩行
  や騎行がやや不自由になった。
  有岡城に投獄されていた時に頭部に瘡ができたらしい。
   そして、はげ頭になってしまった。


 ※黒田官兵衛の不在の時は、叔父:黒田高友が活躍した。  

荒木村重は単身有岡城を抜け出していた。
妻:だしなどは京の六条が原で処刑された。
荒木村重は織田信長の亡き後、豊臣秀吉に仕え、
 千利休の弟子になり「利休七哲」となった。

箕輪初心◆東京「京都−洛中洛外図と障壁画の美」鑑賞
http://53922401.at.webry.info/201312/article_2.html
岩佐又兵衛は摂津国河辺郡伊丹(現兵庫県伊丹市伊丹)の有岡
城主:荒木村重の子として生まれた。誕生の翌年・天正7年
(1579)、荒木村重は織田信長に反逆を企て、失敗した。落城に
際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されたが、2歳の又兵衛
は乳母に救い出され、石山本願寺に保護された。又兵衛は母方
の岩佐姓を名乗り、織田信雄に近習小姓役として仕えたという。
織田信雄が改易後、浪人となった又兵衛は京都で絵師として活
動を始めたようである。大坂の陣の直後、福井藩主松平忠直に
招かれて、北庄(現福井市)に移住した。20余年を北庄で過ごし
た。寛永14年(1637)2代将軍:徳川秀忠の招きで、3代将軍:
徳川家光の娘:千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を
命じられ、江戸に移り住んだ。20年余り江戸で活躍した後、
波乱に満ちた生涯を終えた。」





・天正8年(1580)
 1月 織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉は2年間かかり、
    三木城を包囲した。60もの付城を造った。
羽柴秀吉30000 VS 別所長治7000

  ◆黒田官兵衛の策略@「三木の日殺し」=兵糧攻め
   三木城の城内の兵糧は底をつき、糠や飼い葉(馬の餌)
を食べた。・・・数千人が餓死したという。

黒田官兵衛はやっぱ、悪辣非道な男であった。
NHKはどう描くのであろうか?

  三木城は開城、別所長治は自害した。
    別所長治の三木城をやっと陥とした。
    
  主君:小寺政職は信長の嫡男:織田信忠によって討伐され
  小寺氏は滅んだ。
  
  黒田官兵衛は織田信長の家臣:羽柴秀吉の与力となった。
  羽柴秀吉は三木城を拠点とし、姫路城を黒田官兵衛に返そうと
  したが、黒田官兵衛は「姫路城は播州統治の適地である」と
  進言した。
 

閏3月 織田信長は人質:松寿丸(黒田長政)を返した。 
 
4月 長水城主:宇野氏を滅亡させた。
羽柴秀吉は破城を推進した。
小寺家の御着城も壊された。
※小寺の子孫は黒田長政の家臣になった。
黒田官兵衛は小寺姓→黒田姓に再び戻した。

織田信長から恩賞が与えられた。

6月 羽柴秀吉の第一次鳥取城攻撃
鳥取城主:山名豊国は降伏し追放されたが、
石見の吉川氏に秘密に応援依頼をしていた。
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 (★鳥取城の手前の城)

7月 羽柴秀吉が姫路城普請を黒田官兵衛に命じた。
   三層の天守閣の城へと・・・
箕輪初心●兵庫「姫路城」=世界遺産の城 
http://53922401.at.webry.info/201101/article_36.html

9月 黒田官兵衛は播磨揖東郡福井庄網干に1万石
   を与えられた。
福井庄6200石+石見庄2700石+伊勢村1100石




・天正9年(1581)
3月 羽柴秀吉の第2次鳥取城攻撃
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鳥取城主:山名豊国を追放したが、
  吉川経家の鳥取城へ入った。
  羽柴秀吉は再び出兵した。黒田官兵衛も加わった。
 
黒田官兵衛の策略A『鳥取の渇え殺し(かつえごろし)』
  黒田官兵衛は若狭国などの商人に米を買い占めさせた上で
  鳥取城を完全に包囲して補給路を絶ち、兵糧攻めを行った。
  鳥取城内は飢餓状況に追い込まれた。3ヶ月で降伏した。
  城中の備蓄米が少ないの見抜いたのは黒田官兵衛であった。


  因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城し、毛利氏の名将:吉川経家
  が自害した。
  これに対して毛利輝元も叔父たちと共に出陣した。
  
  ※織田信長と通じた豊後国:大友宗麟が西から、山陰からも織田
  信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、毛利輝元は次第
  に追い込まれていく。

・天正8〜10年(1582)
黒田官兵衛は淡路島の由良城主:安宅清康攻めの参加。
 黒田官兵衛は阿波国の三好氏の志知城の支援に参加
 ※小西行長とも親交を結んだ。



・天正10年(1582) 備中高松城攻略
3月 織田信長の命をうけた羽柴秀吉は、中国の毛利氏を討つべく、
   備中高松城(岡山県)に向かった。
4月 羽柴秀吉は毛利氏の忠臣:清水宗治が籠もる備中高松城を
  攻撃した。
黒田官兵衛の策略B「水攻め」〜〜〜〜〜
羽柴秀吉は巨大な堤防を築いて水攻めにしたが上手く水をせき止め
られなかった。
黒田官兵衛は船に土嚢を積んで底に穴を開けて沈めるように献策し
成功させた(伝)。・・・

クイズ1月4日・・・石を積んだ船を一気に爆発させて沈め
  て、堤防を造った。

毛利輝元は、毛利元春・小早川隆景らと共に総勢4万
 の軍勢を率い、羽柴秀吉と対峙した。
 前代未聞の黒田官兵衛の奇策「水攻め」で、落城寸前・・・・・。
 
しかし、堤防策は蜂須賀正勝の説が正しいのではという。
(★歴史読本:黒田官兵衛)


※明智光秀50歳説・67歳説・・★迷っていた。
 @大胆策・・井田田信長にこけにされながら・・・
A現実策・・織田信長に逃げられたら・・・
B慎重策・・織田信長を討つ時期を待つ・・・・
(★TV20140103・・・斉藤利三:春日局父)

6月2日 京都にて本能寺の変が発生。=織田信長の死。
そこに「信長横死」の一報が入った。
説@:黒田官兵衛の家臣が明智光秀から毛利輝元への密書を
 持って行く密偵を捕らえた。

 (★「黒田官兵衛:童門冬二著)
説A:2人が知らせに来た。
  (★ヒストリア新春sp)

明智光秀の裏切りによる「本能寺の変」である。
うろたえて、茫然自失の羽柴秀吉〜〜〜〜〜。
黒田官兵衛の策謀C=魔法の言葉
黒田官兵衛が
「これで天下が見えてきましたな。羽柴様の物ですな。」
という一言・・・。
「今こそ、天下を取るべきではないか?」

(★ヒストリア新春sp:黒田家文書)

私には「黒田官兵衛=狡猾な策謀家」のイメージを払拭できない。
以前、TVで西田敏行のおろおろした羽柴秀吉役ででていて、
黒田官兵衛の悪辣な策士のゆがんだ表情を対比したドラマから
抜けられない。・・・羽柴秀吉のびっくりした顔→不信の眼差し
が印象的であった。


織田信長が横死したことを知った黒田官兵衛は羽柴秀吉に対して、
「毛利輝元と和睦して明智光秀を討つべし。」と進言した。
羽柴秀吉は、明智光秀の謀反による織田信長の死を秘密にした
まま毛利輝元との和睦を模索し、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊に
働きかけた。

羽柴秀吉から「毛利家の武将のほとんどが調略を受け
ている。」と知らされた毛利輝元は疑心暗鬼に陥り、和睦を
受諾せざるを得なかった。
結果・・・備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。
結果・・・羽柴秀吉は中国大返しを成功させた(伝)。
結果・・・ある意味では、毛利輝元は危機を脱した。



【3】豊臣秀吉の家臣時代
・天正10年(1582)
6月 羽柴秀吉は毛利輝元と和議を結び、明智光秀を倒す
   ため猛スピードで京へ引き返した。
備中高松城〜京は81km。一昼夜とあるが、あり得
ない。

6月3日 備中高松城〜野殿(岡山市)
6月4日 野殿〜沼城
6月5日 沼城〜姫路城
6月6日 姫路城〜京
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 (★歴史読本:黒田官兵衛の推測)

6月13日 山崎の戦い〜〜〜〜〜〜〜〜〜
羽柴秀吉は天王山を抑え、裾野から射撃する明智軍と激しい戦闘を
繰り広げた。
この「中国大返し」に虚をつかれた明智光秀は、羽柴秀吉軍に大敗
を喫し、勝龍寺城にたてこもった。

黒田官兵衛の秘策D「逃げ道を作って一網打尽」
豊臣秀吉は「勝龍寺城に四方から兵を送り込めば、多少の犠牲が出
ても明智光秀の首をとれる。」と考えた・
黒田官兵衛は「あえて北側の丹波:亀岡道を開け、逃げ道を作って
一網打尽にしましょう。」
と羽柴秀吉に進言したのである。
最小の被害で実を上げるためだと承諾した。

   (★黒田家譜)
思った通り、明智光秀の家臣は、黒田官兵衛が用意した逃げ道へと
出ていった。罠をかけて待ち伏せた羽柴秀吉の兵が一網打尽にする
のは簡単だった。
黒田官兵衛は、やっぱり「智将」なのだ。

6月27日 清洲会議 

羽柴秀吉は織田信長の嫡男:信忠の遺児:吉法師
 を推薦し、自分は後見人になっていった。

→羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興 VS 柴田勝家の対立

9月 黒田官兵衛&蜂須賀正勝は毛利輝元に対し、宇喜多氏との
   国境線確定の交渉に入った。

 
12月 羽柴秀吉は柴田勝家の甥:勝豊の長浜城を攻略した。
   羽柴秀吉は織田信孝の岐阜城を攻略した。
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・天正11年(1583)
 黒田官兵衛は大坂城の縄張りに当たった。
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黒田官兵衛は城の縄張りの名人でもあった。 

 ※黒田長政は河内に所領を貰った。


4月 賤ヶ岳の戦い〜〜〜〜〜
  
  羽柴秀吉約5万 VS 柴田勝家約3万
羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興 VS 柴田勝家

  柴田勝家軍の佐久間盛政の猛攻に遭って中川清秀の部隊が
  壊滅した。中川清秀が戦死した。
  黒田官兵衛も攻撃を受けたが、奮戦した。
羽柴秀吉の「美濃大返し」・・・半日で戻った。
前田利家が手を引いた
柴田勝家は北の庄城に退却した。
・・・柴田勝家は自刃した。

9月 大阪城普請
天下普請・・・30の大名が普請した。
黒田官兵衛が普請曽奉行であった。


【4】天下人:豊臣秀吉の軍師時代
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・天正12年(1584)
3月 小牧・長久手の戦い
 豊臣秀吉 VS 徳川家康
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黒田官兵衛は大坂城で留守居役を務めていた。
  岸和田の戦い
  黒田官兵衛・黒田長政VS根来盛重、鈴木重意、長宗我部元親
破った。
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7月 黒田官兵衛は毛利輝元との講和交渉に出向いた。
  
 播磨国宍粟郡山崎 篠の丸城5万石の大名となった。

黒田長政は蜂須賀正勝の娘と結婚した。





・天正13年(1585)
5月四国攻撃
  黒田官兵衛は宇喜多秀家の軍監として加わった。
  讃岐国から攻め込み、諸城を陥落させていった。

6月 羽柴秀長が大将で、羽柴秀次は副将になった。
 豊臣秀吉は病気であった。
@羽柴秀長&羽柴秀次隊30000 阿波へ
A宇喜多秀家+蜂須賀正勝+黒田官兵衛23000 讃岐へ
B小早川隆景+吉川元春30000 伊予へ

7月 敵将:長宗我部軍は撤退、降伏させた。
  豊臣秀吉は関白太政大臣になった。
 
8月 父:黒田職隆が死亡。

黒田官兵衛は高山右近や蒲生氏郷等の勧めによってキリスト教に
 入信していた
。(★『フロイス日本史』)
 天正11年(1583)頃から室津の小西行長に影響され、明石城の高山
右近や蒲生氏郷らに勧められ、天正13年(1585)に洗礼を受け、
 三木城の前野長康とともに、播磨の布教をした。



・天正14年(1586)
  黒田官兵衛は従五位下・勘解由次官に叙任された。

4月 大友宗麟が島津の助力を嘆願した。

7月 九州征伐の開始
黒田官兵衛は従軍した。軍目付であった。


10月 九州征伐
大友宗麟からの九州征伐要請・・・
  毛利輝元・小早川隆景・吉川元春などは派遣された。
  軍勢の軍監として小倉(福岡県)に上陸し
  九州豊前に進んだ。
黒田官兵衛は九州北部の城主の味方への
調略を推進した。

  
11月 宇留津城、香春岳城などを陥落させた。
黒田官兵衛は城主:賀来千香子の先祖?など
   約1000人の首を刎ねた。残った男女も磔にした。
   これ、どう描くのかな?


12月 戸次川(中津)の戦い
  豊臣軍の敗退・・・
   


・天正15年(1587)

3月 豊臣秀吉の出陣
 豊臣秀長 VS  島津義久

 @豊臣秀吉軍・・・秋月→熊本→八代→川内
 A羽柴秀次軍・・・延岡→高城→根城坂・・
  黒田官兵衛は豊臣秀長の日向方面陣営の先鋒を務めた。
 根白坂の戦い〜〜〜〜〜〜〜〜
 
4月 島津が降伏した。   
  黒田官兵衛は戦勝に貢献していた。

  

★明日に続く。

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箕輪初心★【黒田官兵衛孝高=黒田如水の生涯】前編 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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