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zoom RSS 箕輪初心★那須一族の歴史=〜2代:那須与一宗隆〜31代

<<   作成日時 : 2014/01/19 07:37   >>

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藤原道長の6男:藤原長家の孫:須藤資家(=山内首藤貞信)を
祖とし、那須太郎資隆の時、那須氏初代を名乗ったされる。相模の
山内首藤氏系が古代豪族:那須国造の末裔と結びつき、那須一族
が生まれたとする説が有力のようである。
2代目は屋島の戦いで
「扇の的」を射落とした那須与一資隆=宗隆(資隆の子)で知られ
るが、吾妻鏡によって明確に存在が確認されるのは、5代目:那
須光資からである。
画像



***那須一族関係***********
箕輪初心★栃木:【那須与一伝承館】&与一の信憑性
http://53922401.at.webry.info/201401/article_15.html

箕輪初心●栃木【那須神田城】:那須氏初代〜4代の館跡
http://53922401.at.webry.info/201401/article_16.html

箕輪初心●栃木【稻積城】:那須烏山城の支城?
http://53922401.at.webry.info/201401/article_17.html

箕輪初心●栃木【那須烏山城】:下那須氏の居城
http://53922401.at.webry.info/201401/article_18.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


【0】那須氏の出自・・・明らかではない。
初代:那須資隆・2代目:那須与一宗隆・3代目:那須資之・
4代目:那須頼資までの系図や事跡・伝承には疑わしい部分も
多く、出自は必ずしも明らかではない。また、5代目:光資
以後の系譜についても問題があるとする見方がある。
★寛政年間の那須氏の系図を参考にしているからである。
@古代の那須国造の末裔説(★那須町史)
 阿倍一族で那須国造家:那須直の末裔とする説である。
A藤原秀郷の末裔説
B丈部益野の子孫説 
 奥州白河郡八溝山の鬼人「岩嶽丸」=八溝山の賊を退治した恩賞
 で下野国那須郡を賜り下向。入部した。
藤原資家(すけいえ)は、藤原北家道長→歌人:藤原長家の孫。
 父は下野守藤原道家。
 母は河内守源頼信の娘。
 須藤権守貞信と称し、神田城を築城。以後、代々土着した。
C藤原道長系(相模の)山内首藤氏の末裔説  
 那須氏の祖:首藤権守貞信
 首藤貞信・資通・資満・資清の四代に渡って
  那須氏の居城:神田城
  なったという説もある。
藤原資家(すけいえ)=山内首藤貞信であるらしい。



・天仁2年(1108)9月 須藤下野守資道が稻積城を築城した(伝)。
画像

・平安時代末期・・那須氏の祖:藤原資家によって神田城が
  築かれた。
  貞信・資通・資満・資清の四代に渡って那須氏の居城と
  なった。那須氏(藤原系須藤氏)の居城として使われた(伝)。


・永万元年(1165) 那須武者所:6代目須藤宗資(初代那須
   資隆の父)が神田城より稻積城に移った。
  神田城は廃城となった(伝)。
画像

  須藤宗資は平治の乱の時に源義朝に味方し敗れ、兄資房と
  甲斐、稲積庄に逃げ、許され帰国して神田城より根拠地を
  ここに移し、亡命時代に信仰していた甲斐の稲積明神を
  稻積城内に建てたという。
 この稲積神社は代々那須家の崇敬を受け、那須氏が没落
  した後も烏山藩歴代藩主の保護を受けた。
 


【1】那須資隆(すけたか)=那須氏初代当。
 須藤宗資(那須武者所)の子。
 藤原道長の曾孫藤原資家が、下野国那須郡に下向し、須藤貞信
 と称した。この資隆の代から初めて那須氏を称した。
祖父:藤原資家の母は河内守源頼信の娘であった。
 源氏方の武士であった那須(須藤氏)は、平治の乱において、
 須藤資満・須藤資清が、源義朝に従い、敗死した。

 ※須藤宗資の跡を継いだ初代:那須資隆は、現黒羽町の高館城に
 移った。
 那須資隆の時代には平氏寄りの立場をとった。
 長男〜9男の兄達は平氏に味方した。
 源義朝の遺児である源頼朝が関東で挙兵した時に従ったのは
 那須資隆の子のうち、10男千本十郎為隆と11男那須与一
 (宗隆→資隆)のみである。

@森田光隆
A佐久山泰隆
B芋淵幹隆
C福原久隆
D那須資之
E滝田実隆
F沢村満隆
G堅田義隆
H稗田朝隆
I千本為隆
D那須資隆(那須与一宗隆)  
K那須頼資



【2】那須資隆=那須与一宗高→宗隆
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箕輪初心★那須与一の「扇の的」&栃木:【那須与一伝承館】
何故、那須与一は伝承かというと、鎌倉時代の『吾妻鏡』などの
史料には那須与一の名は存在しない。那須与一は軍記物:『平家
物語』・『源平盛衰記』に伝えられているだけである。
★★ 那須与一
・嘉応元年(1169)?初代:那須資隆の11男?として、
  那須神田城(現栃木県那須郡那珂川町)?に生まれた(伝)。
父は那須太郎資隆。
  母は新田義重の娘。
★『平家物語』の記述から逆算すると、1169年頃に誕生した。
   与一は十あまる一=十一男を意味する。
・幼少時代  
   弓達者で、父の資隆や兄達を驚嘆させた(伝)。

※治承4年(1180)〜元暦2年(1185) 治承・寿永の乱
※6年間にわたる中世最初の内乱である。
 平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、
   最終的には、反乱勢力同士の対立があった。
  平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から
  構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。

 一般的には「源平合戦」「源平の戦い」と呼ばれている。

・治承4年(1180) 後白河法皇の皇子:以仁王の挙兵。
  平家追討の以仁王令旨を受け、源頼朝の挙兵。
  源頼政の挙兵によって、下野武士団は複雑な対応に迫られる
  ことになった。
 @平氏側・・・足利氏・那須太郎資隆&長男〜9男
 A源氏側・・・小山氏・宇都宮氏・那須太郎資隆&10男&11男
★那須与一は源頼朝に加わり、源義経に従軍した。
 9人の兄達が平氏に味方した。

  那須与一は信濃など各地に逃亡していた兄達を赦免した。
  領土を分け与えて下野国における那須氏発展の基礎を築いた
  とされる。
10男:那須為隆も罪を得たので、那須与一が那須氏の家督
  を継ぐことになった。

・元暦元年(1184) 那須与一は、日光二荒山神社・宇都宮二荒山神
  社、那須温泉神社に祈願した。

【那須与一伝説@】那須与一&源義経との出会い(伝)
那須与一が那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝
 祈願に来た源義経に出会った。
 父:那須資隆が10男:十郎為隆と1男:与一を源義経に従軍さ
 せる約束を交わした(伝)。(★『平家物語』)

【那須与一伝説A】那須与一の扇の的伝説
@平家物語・・・・・元暦元年(1184)2月18日
A吾妻鏡・・・・・・文治元年(1185)2月19日
※元暦2年(1185)8月14日改元。
B源平盛衰記・・・・元暦2年(1185)2月20日
B那須記・・・・・・元暦2年(1185)2月20日
C那須与一霊和讃・・元暦2年(1185)2月20日
D長門本平家物語・・元暦2年(1185)2月21日
E長嶋壇浦源平合戦縁起 元暦2年(1185)3月20日
  (★参考:馬頭町教育委員会『武茂一族の興亡』)

******第12景「那須与一、扇の的を射る」(★平家物語)********
・寿永4年(1185)
2月、源義経は讃岐屋島へ逃れた平家を追って、海路阿波に上陸
    した。阿波より屋島に迫った。
  背後から平家を急襲した。
  ★源義経の隣は甲斐の安田であった。
  平家軍は、船に乗って海へ逃げたが、源氏軍が案外少数と知
  って応戦し始めた。
  
  日が暮れ始めた。〜〜〜〜両軍が兵を引きかけた。
  沖の平家軍から年若い美女を乗せた小舟が一艘漕ぎ寄せてきた。
  美女は、紅地に金の日輪が描かれた扇を竿の先にはさんで船
  べりに立て、陸の源氏に向かって手招きをしている。
  源義経は、弓の名手:那須与一宗高に扇を射抜くよう命じた。
那須与一は断った。・・・しかし、断り切れなかった。
「・・・・」
びびりまくる那須与一。

 那須与一は、馬を海に乗り入れた。
  しかし、扇の的までは、まだ40間余り=約70m?
7段〜8段=70m〜80mもある。(★平家物語)
  しかも北風が激しく吹いている。
  扇の的は小舟と共に揺れているのだ。
  
  那須与一「南無八幡」と心に念じた。
  那須与一が渾身の力で鏑矢を放った。
  矢はうなりを立てて飛んだ。
「カ〜ン」
  放たれた矢は見事に扇の要近くに命中した。
  扇は空へ舞い上がり、ひらひらと海へ落ちた。
〜〜〜〜「ポチャ。」
  
  固唾を飲んで見守っていた源平両軍は、どっと歓声を
  上げて那須与一を褒め讃えたのであった。
(★漫画「源義経の那須与一の場面から)

・元暦2年(1185) 屋島の戦い等の戦功
  那須宗高は源頼朝より丹波・信濃など5カ国に荘園を賜った
  @丹後国五賀荘
  A若狭国東宮荘
  A武蔵国太田荘
  B信濃国角豆荘
  D備中国後月郡荏原荘

・元暦元年(1184) 那須与一は、日光・宇都宮二荒山神、那須温泉神
   に祈願して見事武門の誉れを得た。
「那須郡の内武茂12郷を宇都宮明神に寄進した。」とある。
   (★『那須記』)

・文治5年(1189) 源頼朝の奥州遠征
  源頼朝が帰途、那須郡の内5ヶ郷を寄進した。
  ※武茂郷は社務職を兼ねていた宇都宮氏の所領となった。

※系図上は那須氏2代当主となった(伝)。

  一般的には那須宗高宗隆(★『平家物語』)
   父:那須太郎資隆と名乗った(伝)。)

 那須与一が子がないまま出家した。

・建久元年(1190) 10月 那須与一が死去。
   家督は兄の那須五郎資之(之隆)が継承した。




【3】那須資之(之隆→五郎資之)
 初代当主那須資隆の五男。
・治承4年(1180)〜治承・寿永の乱
  那須2代目:弟の那須与一宗隆(後に資隆)が那須資之ら兄達は
  帰順して那須与一から所領を与えられた。
・文治5年(1189) 8月8日死去説(★『続群書類従』)
弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが
  変わってしまった(伝)。

・建久元年(1190) 10月 那須与一が死去説。
  那須氏3代当主として家督は那須五郎資之(之隆)が継承した。

  息子資広は兄の福原久隆の養子となっていたため跡継ぎがなく、
  那須頼資(宇都宮朝綱の子説・初代資隆と宇都宮朝綱娘との庶子説)
  に娘を娶わせて跡を継がせている。
@長男:福原資広
○養子:那須頼資



【4】那須資頼→頼資(宇都宮朝綱の関係者)
  源頼朝から一字を与えられて那須頼資と名乗った(伝)。
  当主として活動した時期は短期間であったと推測される。
@那須光資
A伊王野資長・・・那須七騎伊王野氏の祖である。
  那須氏の家督は光資の弟:那須資長との系統が継承した説もある。
B荏原朝資
C味岡広資
D稲沢資家
E河田資氏
F矢田治資
○娘の一人・・・小栗頼重に嫁いだ。
 侍女と小栗一族との間に生まれた子の末裔が那須七騎大関氏となった。



【5】那須光資
・建久4年(1193) 源頼朝から下野国内に領地を拝領した。
  源頼朝の那須の巻狩に那須光資が加わった。
  ★既に当主は子の那須光資となっていた。
  那須の巻狩の接待役を務めた。(★『吾妻鏡』)
  ★文献上に初めて載った。
  ※鎌倉幕府の御家人としての那須氏の地位向上に努めた。
・建久4年(1193) 源頼朝の那須巻狩
饗応役を務めたのは那須光資である。

・正治元年(1199) 天性寺を創建。(代々の墓)

@那須資村
A那須光村
B那須光晴



【6】那須資村
5代当主:那須光資の子。下野那須氏6代当主。
※6代目は那須光資の弟:那須資長との系統が継承した説もある。 
・親鸞上人の弟子となった。
・貞応2年(1223) 慈願寺を創設。
@那須資家
A沢村資祗



【7】那須資家
※北条得宗家との関係から家督を回復したとする説もある。
@那須資忠
A那須忠重


【8】那須資忠
@那須資藤
A那須資旨
B那須資宗
C芦野資方・・・・芦野氏の祖。


【9】那須資藤
・南北朝の騒乱・・・北朝に味方した。
・観応の擾乱・・・・足利尊氏方に味方した。
・文和4年(1355) 足利直冬との戦いで弟:蘆野資方
(蘆野氏の祖)達とともに戦死した。家督は子の資世が継いだ。
@那須資世
A金丸資国・・金枝氏、小滝氏などが派生している。
B南条義藤


【10】那須資世
@:那須資之       
A下那須家:沢村資重
B那須資朝


【11】那須資氏
@上那須家:那須資氏・・・・宗家。
A下那須家:沢村資重。


【12】那須資之  
那須資之(すけゆき)・・・十二代当主
那須資氏の子。妻は上杉禅秀の娘。
@那須氏資。
A岩松満純、
B千葉兼胤は娘婿。

・応永21年(1414)頃〜
  兄:那須資之 VS 弟の沢村資重
・・・那須家の分裂を招いた。
・応永23年(1416)上杉禅秀の乱
義理の父舅:上杉禅秀につき、鎌倉公方足利持氏の討伐を受けた。
  沢村資重は足利持氏を頼った。
  那須資之は那須家の統一を果たすことはできなかった。
  那須資之の上那須家・・・福原城が本拠。
  沢村資重の下那須家・・・沢村城→稻積城→烏山城
画像

 
※以後、約100年、2家が併存することになった。
・永正13年(1516) 上那須家滅亡まで続くことになる。

*******上那須家************
【12】那須資之
【13】那須氏資
那須氏12代当主那須資之の子。
下那須氏の那須資持との抗争に明け暮れた。
分裂した那須家の統一は果たせなかった。
・享徳2年(1441)享徳の乱
 沢村資持が足利成氏に味方し、結城氏と協力して足利成氏の
 古河城入城を支援した。
 那須氏資は反足利成氏の上杉氏や宇都宮氏に味方した。
 
@那須明資
A那須資親
B娘・・・・・宇都宮等綱の妻


【14】那須明資
 下那須氏の沢村資実と長く抗争を続けた。
・享徳3年(1455) 享徳の乱
  那須明資は関東管領上杉氏と結んで、古河公方側:足利氏
  の沢村資実を攻めた
・文明4年(1472) 結城直朝の仲介で和解。
  沢村資実に娘を嫁がせた。
 〜〜〜〜これを機に古河公方側に寝返った。
 ※那須資房、那須政資の那須家統一のきっかけとなった。

その後、足利成氏+長尾景春や千葉孝胤と組んだ。
・文明11年(1477) 長尾景春の乱を支援した。



【15】那須資親
 15代目を那須明資の弟:那須資親が継いだ。
 ○長女は宇都宮成綱の妻・・・
 ○次女は那須資永の妻・・白河結城政朝の子:資永を養子に迎えた。
 @那須資久・・・晩年の子
 ※上那須家の地位の安泰化を図った。
 


【16】那須資永・・・那須資親の養子。実父は結城義永。
養子:那須資永 VS 実子:那須資久
 後継者争いが勃発。
 那須資親の死・・・上那須家は断絶、滅亡。

*******下那須家***********
【1】那須資重(沢村五郎資重)12代:那須資之の弟
【2】那須資持(

【3】那須資実
【4】那須資房(修理大夫、上那須家滅亡後は統一那須家初代)


****統一那須家**********
17【1】那須資房
18【2】那須政資
19【3】那須高資
20【4】那須資胤
21【5】那須資晴・・・豊臣秀吉の小田原征伐に遅参して改易
22【6】那須資景・・・那須藩立藩
23【7】那須資重
24【8】那須資弥・・・実父は青木利長、烏山藩
25【9】那須資徳・・・実父は津軽信政。烏山藩改易
26【10】那須資隣・・
27【11】那須資虎・・
28【12】那須資明・・
29【13】那須資礼・・実父は佐竹義方
30【14】那須資興・・実父は本庄宗秀
31【15】那須資穀








◆◆ 那須烏山城&下那須氏の歴史 ◆◆
★参考文献
・那須烏山町史P36〜P115
・「栃木の城」(下野新聞社)
★参考Hp
・ウキペディア

※築城説・・・2説
@応永25年(1418) 下那須家初代那須資重=沢村資重の築城説
A※明応年間(1492〜1501) 那須資実(那須資重の孫)築城説。


・応永24年(1417)・・下那須家初代那須資重=沢村五郎資重
          (那須与一子孫)が築城開始。 
・応永25年(1418)・・現地案内板
●那須資氏の次男:那須資重は沢村城の沢村氏継承。
    弟:沢村資重=那須資重 VS 兄:那須資之と対立。
    下那須が資重 上那須が資之
    
 ※福原城の兄:那須資之を上那須氏・・・
 稲積城の弟:沢村資重を下那須氏・・・
 抗争が繰り返された。
  那須一族の沢村五郎資重が那須宗家兄:那須資之に
 沢村城を追われ、稻積城に逃れた。
 稻積城を修築した。
 〜〜〜これが下那須氏の始まりであった。
   
沢村資重は@沢村城→A稲積城→B烏山城へ。
しかし、沢村資重は堅固な烏山城に拠点を移した。
※烏山城のカラスの伝説
 那須資重は最初、那珂川東に平群山頂に築城しようとしていた。
 しかし、一羽のカラスが幣束をくわえて、対岸の八高山に飛んで
 いった。「熊の権現様のお告げだ。」と喜び、早速、八高山に
 築城することにした。「烏山城伝説」である。

 下那須家初代那須資重=沢村五郎資重(那須与一子孫)
  が築城・・・本庄三河守&輿野弥左衞門に命じて、築城した。
 


 以後、稻積城が烏山城の南を守る支城として存続していた。

・永享6年(1434)沢村資持は2代目を継承し、那須氏を名乗った。

享徳2年(1441)享徳の乱
 沢村資持が足利成氏に味方し、結城氏と協力して足利成氏の
 古河城入城を支援した。
 那須氏資は反足利成氏の上杉氏や宇都宮氏に味方した。

・応仁元年(1467)那須資実は3代目を継承した。
二の丸を造った。

・明応3年(1494)那須資房が4代目を継承した。

・永正13年(1516) 上那須氏が滅亡。
 

〜〜〜〜▲▲ 統一那須家 ▲▲〜〜〜〜〜〜〜
【17】那須資房
 下那須氏の那須資房(烏山城4代目城主)が那須家を統一。
 ★烏山城は8代にわたって繁栄したのだ。

・永正15年(1518) 大田原資清は大関宗増の讒言を受けて失脚
   出家した。兄の縁をたよって永平寺に潜み、越前朝倉氏
   の保護を受けた。(★ウキペディア)  

・永正17年(1520) 白河の結城義永(顕頼?)&岩城常隆の
  連合軍1500騎が那須に侵入。
  那須資房500騎は山田城で籠城した。稲沢・伊王野の
援軍120騎が来た。さらに、烏山から150騎・茂木200騎
など合計1800騎?が合流した。
  縄釣台の戦い・・・
  那須資房を中心とした那須軍が連合軍を打ち破った。

・永正18年(1521)岩城常隆+結城+宇都宮+小田+喜連川
  連合軍が那須に再侵入。 
  大田原資房は上川井城で籠城した説
上川井氏300騎の籠城説
  那須資房&政資が上川井城に援軍に行った。

  大田原資房は争い敗れて、越前に逃れた。
那須資房は佐竹氏義の調停で岩城常隆と和睦した。
  那須政資の妻に岩城常隆の娘がなったのである。

【18】那須政資
・??? 那須政資は5代目を継承した。
  山田城主(黒羽)となった。

・天文11年(1542) 大田原資清は家老に復帰した。

・天文12年(1543) 大田原資清は宇都宮尚綱の助けを借りて
    大関宗増の嫡男:大関増次に復讐・・・謀殺。
    大田原資清は次男・3男を2家に入れた。
    大関家には、長男:高増を養嗣子に入れ、大関高増。
    福原家には、資孝を養嗣子に入れ、福原家を再興。
大田原資清は那須七騎の内の大田原・大関・福原の
三家を支配し、那須家中でも最有力者にのし上がった。
  那須資房の子:那須政資に自分の娘を娶わせた。
 
・天文14年(1545) 大田原資清が大田原城を築城。
水口城から大田原城へと居城を移した。
       


【19】那須高資
・天文??年那須政資の子:那須高資が家督を継いだ。
※那須政資の嫡子で母が岩城常隆の娘である。

・天文17年(1548)
後北条氏側・・・那須高資
  後北条氏と敵対する宇都宮尚綱が進攻。
  宇都宮尚綱は古河公方足利晴氏と組んでいた。
   
・天文20年(1549) 五月女(そうとめ)坂の戦い
  那須氏領西端の喜連川五月女坂に攻め入ったのである。
 宇都宮尚綱+足利晴氏2000余騎 VS 那須高資300余騎
那須軍の奇襲を受けて前線に出た時、宇都宮尚綱は那須家臣
 :鮎ヶ瀬実光に射抜かれて絶命した(伝)。享年37歳。
 那須高資は宇都宮尚綱を討ち取って大勝利した。
  那須高資は所領は塩谷郡の東部:沢村城にまで拡大した。

 宇都宮尚綱が敗死。・・・・・
 5歳の宇都宮広綱は芳賀高定に守られて真岡城に落ち延びた。
  那須高資側の芳賀高経の子:芳賀高照を宇都宮城に入城した。 
(★芳賀高照の母は那須高資の娘だった。)
  宇都宮氏本流は一時宇都宮城を失った形となった。


※大田原資清 VS 那須高資
  @那須政資の1番目の妻が岩城常隆の娘である。
・・・兄:那須高資
A那須政資の2番目の妻が大田原資清の娘であった。
 ・・・弟:那須資胤
那須政資が大田原資清の言いなりであった。

  大田原資清は異母兄で嫡子:那須高資を廃着することを
  計画するようになった。
  大田原資清は外孫の那須資胤の家督相続を図ったのだ。
  那須政資の嫡子:那須高資と対立した。

・天文20年(1551 ) 那須高資の殺害
  大田原綱清は陰謀を千本資俊に持ちかけ、那須資胤を擁立し
 ようと図った。
 一方、大田原綱清から家督相続の策略を聞かされた那須資胤は
  これを拒んだ。
 しかし、那須高資の耳に陰謀が入った。
 那須高資は異母兄弟:那須資胤を討とうとした。
 
 那須氏家中の内部分裂の危機〜〜〜〜〜
 那須氏の重臣興野氏(烏山城の対岸)らは那須資胤を熊野参詣
 ・高野山に行かせる算段をした。
 
 兄:那須高資は弟:那須資胤の高野山の帰路、国外追放した。
  →那須資胤は千本城主:千本資俊を頼ったのである。
 
 宇都宮広綱は那須氏家中の内紛を嗅ぎ付けた。
 ★大田原綱清が宇都宮広綱と通じた可能性もある。
 宇都宮広綱は五月女坂で討たれた父:宇都宮尚綱の
 仇を討つため、千本城主:千本資俊とともに那須高資を
 討つ策をめぐらした。
宇都宮広綱の育ての親:芳賀高定の調略に加担した。
 
 ※千本資俊は那須高資は千本城に招いた。
  那須高資は、酒を呑んで酔いつぶれた。
  千本資俊は那須高資を切り殺されたのである。
 
 那須高資暗殺事件後、那須氏の重臣達が相談の結果、
 大田原綱清の外孫:那須資胤が家督を継いだ。
 

【20】那須資胤
大田原綱清は娘が生んだ那須高資の弟:那須資胤に那須宗家
 を継がせ、外戚の地位を得たことに成功した。
 ★戦国乱世下剋上が烏山にも横行していたことを示している。
  以後、那須家は大田原氏を中心に動くようになった。
  →大田原資清は外孫:那須資胤を当主に据えて、外戚となり
  権力をふるった。
 千本資俊討伐の声もあったが、実行されなかった。 
 

 那須資胤は古河公方義氏に血判を据えた誓詞を差し出し、
 太刀・馬・銭を献上して千本十郎資俊が那須高資を謀殺
 したことを謝罪した。

・弘治2年(1556)足利義氏は赦免の書状と那須資胤を修理大夫
 に任ずる官途状ならびに太刀を那須資胤に届けた。

 結果・・那須資胤と千本十郎資俊は、古河公方:足利義氏の
 権威を借りて、那須高資謀殺事件による家中の混乱を収
 拾したのであった。

・永禄3年(1560) 大田原資清の死去。
  大田原綱清も姉の子=従兄弟:那須資胤をバックに那須家の
  権力を振るった。

★戦国時代・・・那須氏は佐竹氏により度々攻撃された。
・永禄6年(1563) 大海の戦い
・永禄9年(1566) 治部内山の戦い
・永禄10年(1567)大崖山の戦い、霧ヶ沢の戦い
 那須氏は城下まで攻め込まれたが、佐竹氏を退けた。

・永禄6年(1563) 大海の戦い

那須氏 vs 佐竹氏
那須氏は
  
  那須資胤は、従兄弟の大田原3兄弟
  (長男:大関高増、次男:福原資孝、3男:大田原綱清)の
  専制政治を憎むようになった。

  大田原3兄弟も
  「那須氏は不要である。」
  と考えるようになった。

  大田原3兄弟は佐竹氏と連合して、那須資胤を排斥しようと
  図った。
  那須資胤と大田原三兄弟は合戦に及ぶなど緊迫した。

  那須資胤の老臣:興野氏や伊王野氏の老臣稲沢氏が
間に入って、和平にこぎつけた。
 

【21】那須資晴
 那須資晴が那須家8代目を継いだ。

・永禄9年(1566) 治部内山の戦い
上那須氏+佐竹+宇都宮3000騎が治部内山(烏山城
   西1km程?)に侵攻。
那須資晴はしのいだ。

・永禄10年(1567) 大崖山の戦い
 佐竹勢の侵攻。
那須資晴は茂木三郎とともに迎え撃った。
 佐竹勢を打ち破った。

・元亀3年(1572) 千本常陸介資俊は和睦を成立させた。
結果、佐竹義重の嫡子・佐竹義宣の正室に那須資胤の娘が
  迎えらた。

・天正2年(1574) 佐竹・宇都宮・結城氏らの反後北条連合軍が
   壬生城を攻撃。
   千本常陸介は那須資胤の代官として参戦した。

・天正11年(1583) 那須資晴は7代目を継承した。


・天正13年(1585) 太田3兄弟の千本資俊と資政父子の殺害
 千本資俊に男子がなく養子:茂木義政が入った。
 千本資俊に実子:千本資政が生まれると不和となっていた。
 実家の茂木家に戻され実質的に廃嫡された立場となった。 
 
 千本氏当主:千本資俊と資政父子が大田原長男:大関高
  増の謀略で、次男:福原資孝、3男:大田原綱清の三兄弟
  により殺害されて断絶した。
  
 そして、養子:茂木=千本義政が謀略に加担して名跡を継いだ。
  千本大和守義隆と名乗った。


・天正13年(1585) 沢村城の戦い
塩谷由綱の継嗣問題で対立。
※塩谷孝綱の嫡男:由綱 VS 喜連川塩谷氏を継いだ弟:孝信
   
   宇都宮・佐竹・那須氏も巻き込んで沢村城をめぐって攻防。 
   薄葉ヶ原の合い
   宇都宮氏 VS 那須資晴・大田原
   塩谷義綱・宇都宮国綱連合軍を打ち破った。
   那須氏が勝利。・・・沢村城は那須氏が完全に掌握した。

・同年 
 大田原綱清は那須資晴の許しを得て、大関高増・福原資孝の
  兄2人と図り、千本資俊・資政父子を謀殺した。
  その千本家の遺領を那須資晴の許しを得て、大関三兄弟に分け、
  残りは千本義隆の領地とした。

・天正14年(1586) 〜那須資晴は佐竹領や宇都宮領にも侵攻。

那須資晴は佐竹氏や結城氏、宇都宮氏と敵対した。
 那須資晴は北条氏政や伊達政宗などと手を結んだ。
 那須軍は700騎の寡兵ながらも奮戦した。

 ・那須資晴と佐竹義重は和睦した。
 ・・・佐竹義重の反北条勢力の仲間になった。
 
 しかし、豊臣秀吉の勢力が東に伸びてくると、敵対?
 した。★迷っていたのかもしれない。




・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城攻撃
  3月27日那須七騎の2家:大関氏・大田原氏は沼津まで
  豊臣秀吉を迎えに行き従軍した。

  那須七騎の福家資高(大関弟)&伊王野資信は、主家:
  烏山城主那須資晴には従わず、那須衆として豊臣秀吉の
  小田原城攻めに少し遅れて参陣した。

  那須宗家はさらに遅れて小田原に参陣しただけであった。
  豊臣秀吉の怒りを買った。
  伊王野氏の所領は本領のみ安堵(1万3000石→700石余)
となった。


・天正18年(1590) 豊臣秀吉による小田原攻撃
 大田原綱清は病に倒れたために嫡男:晴清に家督を譲って
 豊臣秀吉の小田原征伐に参加させた。大田原晴清は豊臣秀
 吉に従った。3月27日のことだった。
※沼津まで、豊臣秀吉を迎えに行ったのである。
 ★小田原攻めの3ヶ月前だった。
 
 8代目:那須資晴は「時期尚早。」として豊臣秀吉に従わな
 かった。・・・那須資晴は小田原攻めに遅刻した。
那須資晴の遅参理由(★那須烏山町史)
@状況判断の甘さ・・
  北条氏に組した安心感や過信
豊臣秀吉の実力を理解していなかった。
A戦争に明け暮れた半生への疑心暗記
家臣団との意思統一ができなかったこと
大田原綱清を信用していない・・・頑固一徹?
 A那須烏山を離れられなかったこと
佐竹や宇都宮の反撃からの怖さ・・・

 
※豊臣秀吉の仕置き&裁断 
大田原一族3兄弟
@長男・・大関高増
  豊臣秀吉の小田原征伐に参陣
  大関資増は東軍に与して下野小山に参陣した。
豊臣秀吉から大田原晴清は7,115石の本領を安堵された。


黒羽に戻って会津の上杉氏(西軍)の動きに備えた。
  戦功により、徳川家康から7000石を加増され
  10,000石の所領を安堵+息子:晴増が3,000石が
  与えられた。大関氏は13,000石・・合計2万石の
  大名となった。
※大田原晴清は那須氏から認められていた領土をそのままに
  近世大名へと脱皮を果たした。

A次男・・福家資孝
  兄:大関高増&弟:大田原綱清より、豊臣秀吉に謁見す
  るのが遅かった。所領安堵の石高は2,610石に留まった。

B3男:大田原綱清は病に倒れたために嫡男:晴清に家督を
  譲って豊臣秀吉の小田原征伐に参加させた。大田原晴清は
  豊臣秀吉に従った。3月27日のことだった。
  ★小田原攻めの3ヶ月前だった。
 結果・・・1万3000石の所領を安堵された。

C甥:8代目:那須資晴は「時期尚早。」として豊臣秀吉に従
  わなかった。・・・那須資晴は小田原攻めに遅刻した。
画像

 豊臣秀吉の怒りを買って、那須家は所領没収=改易。
 8月4日 豊臣秀吉は宇都宮→大田原泊
 8月5日 大田原泊
   重臣:大田原晴清の陳謝により、旧領福原左良土
   5000石が資晴の子:那須資景に所領が与えられ、那須氏の
   存続は許された。
   この日、那須資景は豊臣秀吉に初謁見したのだ。

8月6日 大田原→黒羽→芦野 


 奥州における一揆勢力と那須氏再興の動きが連携することを
 恐れたからだとも言われている。(★ウキペディア)
→那須家は没落。
その後、豊臣秀吉より罪を許され、那須資晴は5000石が
 与えられた。

D伊王野氏の所領は本領のみ安堵(1万3000石→700石余)
となった。
 
 
※織田信雄(織田信長次男)は豊臣秀吉から徳川家康の旧領
 駿河を拒否。
 →豊臣秀吉の怒りで清洲120万石
   +伊勢、伊賀=170万石から、
  2万石の烏山城主として転封となった。
  織田信雄は出家して「常真」を名乗った。
  織田信雄は2ヶ月烏山いたが、秋田へと移封。
   そして、上野国:福島→小幡陣屋へ
群馬が出て来ちゃった。


・文禄元年(1592) 文禄の役
那須資晴は名護屋城を守備した。


【22】那須資景
・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
那須資景が東軍:徳川家康に属して加増を受けた。

・慶長7年(1602) 那須資晴も徳川家康の御伽衆に抜粋され1000石を
   加増された。所領は6000石となった。


江戸時代
 烏山藩の政庁となり短期間に城主が交代した。

・天正19年(1591 ) 成田長泰嫡子:氏長が会津福井城から
転封。


・松下氏・堀氏
画像



【22】那須資景
・慶長15年(1610) 那須資晴は死去した。
    子の那須資景は、父:那須資晴の遺領も合わせて石高が
    1万4000石に達し、那須藩を立藩した。

【23】那須資重

・万治2年(1659) 堀親昌が城山の麓に三の丸=御館を築いた。
 (★『現地案内板』)。

・〜〜〜烏山藩:板倉氏

【27】須資資弥(すけみつ)
  那須資弥・・・実父は青木利長・・・烏山藩
・天和元年(1681) 養子:那須資祗が2万石で旧領:
  烏山城に復帰した。



【25】那須資徳
  実父は津軽信政。
・貞享4年(1687) 那須資徳が相続問題「烏山騒動」
  により、改易。
・元禄13年(1700) 旗本して復帰。
 
【26】那須資隣
・宝永5年(1708)家督を継いだ。

【27】那須資虎
【28】那須資明

【29】那須資礼
   実父は佐竹義方
   津軽直記順朝の娘を養女とした。

【30】那須資興
   実父は宮津藩本庄宗秀

【31】那須資穀(すけよし)
・廃藩置県
 東京の津軽屋敷に同居した。
 →後、那須一家は弘前へ移住した。
・明治10年(1877) 死亡。






・以後、烏山藩は永井氏・幕府代官・稲垣氏と続く。

・享保10年(1725) 大久保常春の入封。
   以後、大久保氏が城主を140年、務めた。

・明治2年(1869) 版籍奉還と共に廃城となった。

・明治5年(1872) 三ノ丸御殿が積雪によって倒壊.

・明治6年(1873) 古本丸、二ノ丸、中城、北城などを焼失した。
古本丸、本丸(俗称二の丸)、北城、中城、西城と若狭曲輪、
  常盤曲輪、大野曲輪の五城三郭があったが焼失した。
  (★『現地案内板』)。

・現在・・・城跡は老杉が鬱蒼と茂り、五城三郭はなくなっているが、
 石垣、土塁、空壕などが昔の面影を偲ばせている
  (★『現地案内板』)

★遺構は良好に残るが、藪化が激しかった。
 土塁・曲輪跡など・・・もったいない状況であった。


★参考文献
・現地案内板
・パンフレット・・コピー代80円
・那須烏山町史P35〜115・・・コピー代400円


★参考サイト
・ウキペディア等


★明日は大田原の陰謀かな?

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箕輪初心★那須一族の歴史=〜2代:那須与一宗隆〜31代 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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