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zoom RSS 箕輪初心★足利8代目:足利尊氏=室町幕府を開幕

<<   作成日時 : 2013/12/07 10:26   >>

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足利氏は2代〜7代貞氏まで、北条一門と結びついていた。
足利貞氏の次男として生まれた足利尊氏は得宗:北条高時の一字
をもらって高氏と名乗っていた。後醍醐天皇から鎌倉幕府滅亡の
勲功第一と認められ、尊治の一字をもらって、名を尊氏に改めた。
「八重の桜」に出て来る山本覚馬の次女」山本みねは横井小楠の
嫡男:横井時雄と結婚した。この横井家は北条得宗家の末裔であ
ると横井小楠が言っている。つまり、北条高時の子孫ということ
になるのかもしれない。北条高時を東勝寺で自刃に追い込んだの
は、新田義貞であった。

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 (★足利市の足利尊氏像)
画像

 (★足利:太平記の里)


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箕輪初心◆【足利初代〜8代足利尊氏】&栃木:足利氏館3回目
http://53922401.at.webry.info/201312/article_6.html

++++++++++++++++++++++++++
箕輪初心●新田義貞@「誕生〜楠木攻め」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_40.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞2「新田〜鎌倉進軍」  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_41.html

箕輪初心●新田義貞B「2度の鎌倉攻撃」
http://53922401.at.webry.info/201102/article_42.html

箕輪初心★新田義貞「生品神社挙兵〜鎌倉進軍コース」
http://53922401.at.webry.info/201303/article_18.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞4「足利尊氏との対立」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_43.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞5「福井:金ヶ崎城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞6「福井:そま山城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_30.html

◆◆ 箕輪初心★新田義貞7「福井:新田義貞の最後」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_44.html

◆◆ 箕輪初心★新田一族「千利休」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_27.html

箕輪初心★新田岩松の歴史&男爵:新田俊純
http://53922401.at.webry.info/201311/article_9.html

箕輪初心★新田義貞の弟:脇屋義助&子孫の動向
http://53922401.at.webry.info/201303/article_22.html



★★ 足利高氏=尊氏の生涯 ★★
【0】足利6代:家時〜足利7代:貞氏
・建長8年(1256)北条常盤時茂の同母兄北条長時が評定衆に任
  じられ、六波羅探題北方にとなった。
・文永7年(1270) 14年間に渡って探題職を務めた。
 ★後に六波羅を滅ぼす足利尊氏は曾孫にあたる。
・文永9年(1272)足利家時は常盤時茂の娘と結婚した。
  北条常盤時茂は北条重時の3男で母は正室の平基親の娘であった。
  執権:北条時頼の命を受けて摂津と若狭の守護職を務めた。

・文永10年(1273) 14歳。足利6代:家時は嫡男:足利貞氏を
  もうけた。

・弘安7年(1284) 足利家時が死亡。
※弘安8年没説・・・霜月騒動に関連して自害した。
 安達泰盛の北条時国(義理の外叔父)の失脚に
 関連して自害した説もある。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・弘安7年(1284)か弘安8年(1285)
父:足利家時の死去→
第9代執権:北条貞時の一字を賜り、「貞氏」を名乗った。
 足利貞氏が第7代当主に10歳?でなった。
 足利貞氏の補佐は執事北条高氏であった。
 
・弘安8年(1285) 霜月騒動
執権:北条時宗の公文所執事:平頼綱
    VS
上野国:板鼻や玉村の有力:御家人:安達泰盛
  (★安達泰盛の妻は足利家時の妻の姉妹)
足利家時や足利系吉良氏の足利上総三郎が安達泰盛に参陣。
 結果・・安達泰盛は敗北。

 第7代当主・足利貞氏は北条一族の北条
  金沢顕時の娘:清子(釈迦堂殿)を正室に迎え、北条氏との
 関係を保持した。

 正室との間に長男・足利高義をもうけた。

・正安3年(1301) 執権:北条貞時が出家。
  長男:足利高義は早世した。
足利貞氏が家政機関の活動を充実させた。
  足利氏被官に数多くの足利貞氏発給文書が残されている。
  
・嘉元3年(1305) 嘉元の乱
足利貞氏は北条時方を討った罪人の預かりを務めた。


【1】誕生から鎌倉幕府滅亡まで
・嘉元3年(1305) 7月27日 足利貞氏の次男として生まれた。
父・・・鎌倉幕府の有力御家人:足利貞氏
 母・・・側室:上杉重房の子:上杉頼重の娘:上杉清子
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 (★峰岸先生のサイン付)  
   
@正室の北条金沢顕時の娘:清子が産んだ足利高義がいる。
正安3年(1301) ?早死に・・・。
A側室:上杉重房の子:上杉頼重の娘:上杉清子
  との間にもうけた足利高氏(尊氏)をもうけた。

生誕地は、京都綾部説(有力説)、鎌倉大蔵説(峰岸純夫先生説)、
足利説があるが、不明である。
★上杉家は後に、関東管領家となった。
B足利貞氏の正室:金沢清子との間に足利直義を
   もうけた。


★この二人が骨肉の争いを誰が予想できたであろうか?


・応長元年(1311) 足利貞氏は出家した。(★『尊卑分脈』)

・元応元年(1319) 10月10日。15歳
  足利高氏は元服して従五位下に叙した。
  治部大輔に任ずるとともに、得宗:北条高時の一字を賜り
  高氏と名乗った。
  そして北条氏一族の有力者:赤橋流北条氏の赤橋守時の妹
  :赤橋登子を正室に迎えた。


・嘉暦元年(1326) 嘉暦の騒動
北条一門に執権のなり手がいない中、引付衆一番頭人:北条
   赤橋守時が16代執権となった。
  しかし実権は北条得宗家:北条高時や内管領:長崎高資ら
  に握られていた。

・元弘元年/元徳3年(1331) 足利貞氏が59歳で死去。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・元弘元年(1331) 元弘の乱
1)後醍醐天皇が1度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した。
 河内の楠木正成、播磨の赤松円心らが天皇に味方した。
 
 →鎌倉幕府は大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏に派兵を命じた。
 結果・・元弘の乱は失敗。
  倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流
  などの厳罰に処された。
  後醍醐天皇も廃位され、持明院統の光厳天皇となった。

・元弘2年(1332)3月 後醍醐天皇は隠岐島に配流された。

2)後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した。
 河内の楠木正成、播磨の赤松円心らが天皇に味方した。


 8月5日 上洛。
 9月5日 足利高氏の父:足利貞氏が死去。
・元弘元年/元徳3年(1331) 9月5日
 足利高氏(尊氏)が足利氏第8代当主を継いだ。

9月27日 父:貞氏の喪中であることを理由に出兵を辞退した
  が許されなかった。(★『太平記』)
  ★足利高氏が幕府に反感を持つようになった?
 足利高氏は後醍醐天皇の笠置と楠木正成の下赤坂城の攻撃に参加
 した。

・正慶2年/元弘3年(1333) 後醍醐天皇の挙兵
 後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。
 足利高氏は再び幕命を受けた。
 足利高氏は妻:登子&嫡男千寿王(義詮)を同行しようとしたが、
 鎌倉幕府は人質として鎌倉に残留させた。

3月27日 鎌倉発
総大将は名越高家であった。
4月16日 京都着


【2】鎌倉幕府への反逆→倒幕へ

4月27日 山城の戦い
名越高家 VS 赤松円心・千種忠顕など
   名越高家が戦死。
 足利高氏は京都丹波篠山の篠村八幡宮で、後醍醐天皇方につく
 ことを決意した。



4月29日 所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府
 の挙兵した。神前に旗を掲げた。
 諸国に多数の軍勢催促状を発した。
 播磨の赤松円心、近江の佐々木導誉らの反幕府勢力に呼びかけ
 入洛した。

5月7日 六波羅探題を滅亡させた。

※関東では、〜〜〜〜〜〜〜

5月2日 千寿王(高氏の嫡男)が鎌倉から脱出した。
 紀五政綱の手引きによるものであった。
しかし、足利高氏の庶長子:竹若丸は伯父に連れ出され
 鎌倉を出たが、途中で北条の家臣に殺害された。
 
 御家人筆頭:足利高氏の義理の父、執権:赤橋守時は
 六波羅探題を攻め落とし、登子と甥千寿王丸(足利義詮)も鎌倉を
 脱した責任を取らされ、北条高時から謹慎を申し付けられた。

5月8日 新田義貞は上野国:新田の生品神社で挙兵した。

5月12日 千寿王は新田一族の世良田義政と第二次蜂起をした。
・・・合流した。

5月18日 赤橋守時は新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊と
 して出撃した。鎌倉の巨福呂坂にで新田勢と激戦を繰り広げた。
 最期は洲崎(現鎌倉市深沢)で自刃した。

5月21日 北条鎌倉を制圧してた。
 北条高時は東勝寺で自刃した。
 新田義貞が幕府を滅亡に追い込んだ。

足利高氏(尊氏)は新田義貞ともに、鎌倉幕府を倒した。


【3】建武の新政から南北朝の動乱へ
・元弘3年(1333)
1)建武の新政
  足利高氏は六波羅探題を滅ぼした。
  鎌倉幕府の滅亡後、足利高氏は後醍醐天皇から勲功第一と
  され、従四位下に叙し、鎮守府将軍・左兵衛督に任じられた。
  また、武蔵・上総など30箇所の所領を与えられた。
  さらに天皇の「尊治」から一字を賜り、「足利尊氏」と改名
  した。
 足利尊氏は建武政権では、要職には就かなかった。
「尊氏なし」(★梅松論)
 しかし、足利家の執事:高師直、弟:師泰をはじめとする家臣を
 多数建武の政権に送り込んだ。

12月  足利尊氏は、成良親王を上野太守に擁立した。
 相模守となった弟:足利直義に鎌倉に成良親王を駐屯させた。
 ※足利幕府の小型版の形成・・・(★峰岸純夫先生)
恩賞について、足利尊氏か新田義貞か迷っていたが。
 鎌倉は足利の気運になっていった。
★すでに、足利 VS 新田 の芽が出始めていた。

・建武元年(1334) 父:後醍醐天皇の命令で護良親王は逮捕され、
   鎌倉の足利直義のもとで幽閉の身となった。

2)中先代の乱
・建武2年(1335) 
7月14日 北条高時の遺児:北条時行を擁立した北条氏
  残党の反乱が信濃国で起こった。
足利直義(ただよし)は北条時行の軍に負けた。
足利直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良を殺害している。
反足利勢力に護良親王を擁立されると困るからであった。
(★峰岸純夫先生)
7月25日 北条時行の軍勢は鎌倉を一時占拠した。
8月2日 足利尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが
     許されなかった。既に、成良親王が征夷大将軍だった
からである。
     足利尊氏は後醍醐天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて
    鎌倉に向かった。
    後醍醐天皇は後追いで征東将軍の号を与えた。
8月3日 台風
     足利尊氏は足利直義の軍勢と合流した。
8月9日〜各地で戦いが始まった。
    
    相模川の戦い
    北条時行を破った。
8月19日 足利尊氏は鎌倉を回復した。
  足利尊氏・直義はそのまま鎌倉に本拠を置いた。
  「鎌倉殿」として、独自に恩賞を与えはじめた。
新田義貞の所領を分け与え始めた。
  京都からの上洛命令も拒んで、独自の武家政権創始の動きを
  見せはじめた。
新田義貞も足利領を分け与えた。
10月 建武の新政府では、
    新田義貞は足利尊氏は君側の奸である。
足利尊氏は新田義貞を君側の奸である。
    後醍醐天皇に討伐を要請・・・・
白熱した議論になった。
・・・足利尊氏側が不利になった。

11月 足利尊氏は赦免を求め、隠居を宣言した。
鎌倉建長寺に入った。
足利直義が総大将にならざるを得なかった。
11月21日  後醍醐天皇は新田義貞に尊良親王をともなわせて
  「足利尊氏討伐」を命じた。
   奥州からは北畠顕家も南下を始めてきた。 
三河:矢作川の戦い
駿河・手越川原の戦い
   足利直義・高師直などの足利方が各地で劣勢となった。

   足利直義・高師直は一計を案じ、足利尊氏を戦の場に
   引き戻した。
   足利尊氏は後醍醐天皇に叛旗を翻すことを決意した。
   「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する。
12月21日 箱根・竹ノ下の戦い
足利尊氏は新田軍を破り、京都へ進軍を始めた。

   足利尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を
   得る工作をした。

・建武3年(1336)
1月1日〜9日 足利尊氏は入京した。
京都での市街戦・・・
    後醍醐天皇・新田義貞は比叡山へ退いた。
1月14日 奥州から上洛した北畠顕家は到着。
      北畠顕家:楠木正成・新田義貞の優勢勝ち。
1月30日 足利尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。
2月4日  九州の大友近江次郎(★上野国沼田一族)に出兵と
      上洛を命じた。
      (軍勢催促状:「筑後大友文書」)
2月11日 摂津豊島河原の戦い
      新田軍に大敗を喫した。

   足利尊氏は兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を
   容れて京都を放棄して九州に下った。

後醍醐天皇が京都入りを果たした。

   足利尊氏は九州への途中、
   長門国赤間関(下関市)で少弐頼尚を味方にした。
   筑前国宗像大社の宗像氏範の支援を受けた。

3月初旬 筑前多々良浜の戦い
足利尊氏は天皇方の肥後の菊池武敏らを破った。
足利尊氏は豊後の大友貞順(近江次郎)らの協力で
勢力を立て直した。
尊氏は、京に向かう途中の鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、
西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。
5月25日 湊川の戦い
  新田義貞・楠木正成の軍を破った。
楠木正成は戦死。・・・
 堀口貞満が総大将であった。
★新田義貞は後醍醐天皇のおそば付きの「こうとうの内待」
 に惚れ込んで、いちゃいちゃしていたのだ。

5月27日 後醍醐天皇&新田義貞は比叡山に退去した。
さらに、近江・京で合戦が続いた。

6月14日 足利尊氏は光厳上皇を奉じ、京都を再び制圧した。


8月17日 足利尊氏は「この世は夢であるから遁世したい。」
 という趣旨の願文を清水寺に納めている。
 
10月10日 足利直義は比叡山の後醍醐天皇に和議を申し入れ、
  後醍醐天皇は京都に戻った。

11月2日 後醍醐天皇は光厳上皇の弟:光明天皇に神器を譲
  った。

11月7日 建武式目17条を定めた。
★簡単にいうと、
 @ばさらの禁止 A飲む打つ買うの禁止 B強盗などの禁止 
 C家の差し押さえ禁止 D空き地はもとの地主へ
 E金融業の再開 F能力ある者の採用 G口入れ禁止
H職務専念義務 I賄賂禁止 J進物返却 K近習の厳選
 L礼節の尊重 M名誉の重視 N貧者の救済 O寺社の訴訟拒否
P御無沙汰の日時連絡
 ・・・・★新たな武家政権の成立を宣言した。
 ●室町幕府の発足とする。
 足利尊氏は権大納言に任じられた。


【4】南北朝の動乱
12月21日 後醍醐天皇は京を脱出して奈良の吉野へ逃れた。
  光明に譲った三種の神器は偽物である。
  南朝を樹立した。
京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が
 始まった。
 後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ
 向かわせた。
 懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、
 宗良親王を東国へ、
 義良親王を奥州へと、
 北朝方に対抗させようとした。


・暦応元年/延元3年(1338)
足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられた。
 室町幕府が名実ともに成立した。


・延元4年 / 暦応2年(1339)
8月15日、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位した。
8月16日 吉野金輪王寺で朝敵討滅&京都奪回を遺言して崩御した。
   後村上天皇は、住吉大社の宮司:津守氏の荘厳浄土寺で後醍醐
   天皇の大法要を行った。

翌年、足利尊氏は後醍醐天皇の慰霊のために天龍寺造営を開始した。
南朝との戦い


・暦応元年(1338)
5月  南朝:北畠顕家が戦死。
7月  南朝・新田義貞が戦死。(越前藤島)
8月  後醍醐天皇は病死
    
     楠木正成の遺児正行などが次々に戦死した。

・貞和4年/正平3年(1348) 足利尊氏は吉野全山を焼き払った。



【5】観応の擾乱=兄弟対決
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足利幕府の組織
足利尊氏は軍事指揮権と侍大将・守護・恩賞権を握り武士の棟梁と
して君臨した。
足利直義に政務を任せた。侍所・恩賞方・政所・安堵方・など
足利直義の発給文書は92件にも及ぶとあった。(★峰岸純夫先生)
これは足利尊氏と足利直義との両頭政治で二元的な構造である。
しかし、二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こして
いった。
足利直義派 VS 反直義派:高師直ら。
観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。
足利尊氏は当初、中立的立場を取っていた。

・貞和5年/正平4年(1349)
8月13日 足利直義が高師直を襲撃。
   高師直が察知しての反撃。」
   足利直義は女装して足利尊氏邸に逃げ込んだ。
   高師直の兵が尊氏邸包囲し、・・・直義の引退を求めた。
首謀者:上杉重能・畠山直宗などの引き渡しも求めた。
8月15日 
   結果・・・足利直義は出家し政務を退くこととなった。

9月5日 高師直は、足利尊氏の嫡男:義詮を政務を担当させるため
   鎌倉から呼び戻した。
   足利尊氏は次男:足利基氏を鎌倉公方とした。

・観応元年/正平5年(1350) 足利尊氏は直義の引退後、尊氏庶子
  :直冬が九州で直義派として勢力を拡大していた。
6月 足利直冬討伐のために中国地方へ遠征した。

10月27日  足利直義は京都を脱出して南朝に降伏し、
   桃井直常、畠山国清ら直義派の武将たちもこれに従った。
   足利直義の勢力が強大になった。


・観応2年/正平6年(1351)
1月 足利義あきらは京を脱出した。

  光明寺合戦
2月17日  打出浜の戦い
  足利尊氏は敗れた。
足利直義に丹後の山名時氏・越前の斯波高経、近江の佐々木
氏頼などが味方したからである

足利尊氏は高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に
 足利直義と和睦を願い出た。、
尊氏は饗庭(あえば)氏直を代理人に立てたが、氏直には
 直義に「師直の殺害を許可する」旨を伝えるように命じた?
和議が成立した。
 足利尊氏は護送中に離れてあるいたという。
 高師直ら高一族は護送中に、上杉重憲を越前で殺したとして
 恨んでいた上杉能憲により武庫川鷲林寺前で殺害された。
★しかし、足利尊氏は高一族を守れなかったことから
 足利直義にもっと敵意を抱くようになった。
 
 足利直義は、足利義詮の補佐として政務に復帰した。



【6】足利尊氏の逆襲→晩年
 戦闘の勝者は直義であり敗者は尊氏であった。
上杉能憲の処遇問題が浮上した。
 足利尊氏派は上杉能憲を死罪にするをと主張・・
 足利直義派は上杉能憲を流罪にすると主張・・  
  足利直義派の細川顕氏を太刀を抜いて脅したという。
 結果・・・上杉能憲を流罪に決定した。
 足利尊氏はこの件を譲歩したかわりに、他のことには
 譲歩しなかった。

足利直義派の武将:斉藤利泰が殺害されたり、桃井直常は襲撃された
りするなど事件が洛中で続発した。
足利尊氏&義詮は挟み撃ち作戦にでた。
足利尊氏・義詮は佐々木導誉や赤松則祐の謀反を名目として
近江・播磨へ出陣した・
本当のねらいは、足利直義&足利直冬の追討であった。
南朝方と和睦交渉を行なった。

8月1日 足利直義は政務から再び引退することを決意した。
足利直義は桃井・斯波・畠山・山名・吉良・上杉朝定を従えて
退去した。北陸の金ヶ崎城を経由して・・・
8月12日 近江の姉川近くの八相山で戦った。
鎌倉へ逃亡した。
9月21日 足利直義は東山道?北陸道?・・・

10月24日 足利尊氏と南朝の和睦が成立した。
足利尊氏は足利直義を追って東海道を進んだ。
 
11月26日〜 駿河薩捶山(静岡市清水区)
尊氏派宇都宮氏綱 VS 足利直義軍


・観応3年/正平7年(1352年)
1月1日 相模早川尻(神奈川県小田原市)の戦い
  足利尊氏軍は戦闘で撃ち破った。
  足利直義を捕らえて鎌倉に幽閉した

2月 足利直義は急死した。浄明寺であった。
   (★『太平記』足利尊氏による毒殺の疑い)。
 足利尊氏は直義の死後、病気がちになった。

2月20日足利尊氏が京不在の間に南朝方との和睦は破られた。
 宗良親王を奉じて新田義宗、従兄弟脇屋義治と挙兵。
関戸(東京府中市)に新田義興は陣した。
人見原の合戦・・・
 足利尊氏が敗北
 宗良親王・新田義興・義宗・北条時行などの南朝方が足利
 尊氏を襲撃した。鎌倉を一時占拠した。
 足利尊氏は武蔵国へ退却した。しかしすぐ反撃し南朝勢力を制圧
 した。
 南朝方は足利尊氏の反撃にあって鎌倉を追われる。

  小手指原の戦い(入間市)・笛吹峠(檜原村)の戦い
 →新田義宗は信濃へ逃亡、上杉憲顕は越後へ
 
 新田義興は相模の河村城(神奈川県川北町)に籠城した。
来年、紹介予定。



〜〜〜〜京都では〜〜〜〜〜
 南朝勢力・北畠・千種・楠木正儀が洛中に侵攻し、足利義詮を
 破った。北朝の天皇や上皇を拉致し、北朝が消滅した。
 足利政権の危機が発生した。
 しかし、佐々木導誉が後光厳天皇擁立に成功したし、北朝が復活
 した。
 足利尊氏は京へ戻り、足利義詮とともに京を奪還した。

・文和3年/正平9年(1354)
  足利直冬を奉じた旧直義派は京への大攻勢をかけた。

・文和4年/正平10年(1355)
足利尊氏は京を放棄した。
 ・・・結局、足利直冬を撃退した。

 最終的には東寺の足利直冬の本陣に足利尊氏の軍が突撃して
 直冬を敗走させたことで、決着がついた。

・延文3年/正平13年(1358)4月30日 合戦で受けた矢傷が
  もとで、京都二条万里小路第で死去した。享年54歳。

 墓は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。
足利尊氏の墓:等持院
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・群馬県下仁田出身:関牧翁画
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 (★足利尊氏の墓:京都の等持院)

足利尊氏邸跡・・・・京都市中京区高倉通御池上ル東側


新田義興は足利尊氏が亡くなったことを聞くと、
兵を挙げて鎌倉をめざした。
鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は阻止しようとした
江戸一族:竹沢右京亮は少将局という美女を義興に与えて謀殺
しようとしたが果せず、江戸遠江守とその甥下野守の協力を求
めた。竹沢右京亮と遠江守江戸高重により、新田義興と主従
13人は、多摩川の矢口渡で殺された。



★参考文献
「足利尊氏と直義」:峰岸純夫著
画像

・新田義貞の本多数
・漫画「新田義貞」学研


★参考サイト
 ウキペディア等



★明日は栃木:唐沢山城かな?

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