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zoom RSS 箕輪初心■山上碑・多胡碑・金井沢碑+山上多重塔

<<   作成日時 : 2013/10/04 07:20   >>

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★上毛3古碑を年代順に追うと、以下のようになる。
@681年の高崎市山名:山上碑・・・放光寺の僧:長利が、自分
  の系譜を記し、母の黒売刀自を供養したものである。

A711年の高崎市吉井:多胡碑・・羊(ひつじ)という渡来人が
東国移住し、 多胡郡を建郡・・・朝廷は羊に支配を任せる。

B726年の高崎市山名:金井沢碑・・・・石碑を建てて神仏に誓った。
 =先祖供養の仏教碑なのである。群馬への仏教の伝来が東大寺・
 国分寺建立以前にあったことを意味している。

C801年の山上多重塔(群馬県みどり市山上)
 道輪という僧が、朝廷や衆生の安楽のために法華経を安置する塔を
 建てたものである。平安時代初期の東毛ねの仏教文化伝来を知る
 上で、重要である。

★今回は4碑を1ヶ所にまとめてみた。
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 (★高崎市旧吉井町の多胡碑)


※地図の中に@多胡碑、A山上碑、B金井沢碑が載っている。

★関東ふれあいの道「石碑の路」=高崎散策路山名編へGo〜〜。
「金井沢の碑〜根小屋城址〜山名城址〜山ノ上の碑〜山名八幡宮〜
(光台寺=山名義範館)〜(木部館)〜(北館=玄頂寺)・多胡碑」
 新しい発見があるかもしれないよ。
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■日本3古碑
1)700年の栃木県の那須国造碑。
2)711年の 群馬県の多胡碑。
3)762年の宮城県の多賀城碑。









箕輪初心●群馬の城「山名城&山上の碑」(高崎編)
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201012/article_21.html

【1】●▲■ 山上碑 ■▲●
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【銘文】
辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧


【現代語訳】
辛巳年10月3日に記す。
佐野三家(さののみやけ)をお定めになった健守命(たけもりのみこと)
の子孫の黒売刀自(くろめとじ)。これが、新川臣(にっかわのおみ)
の子の斯多々弥足尼(したたみのすくね)の子孫である大児臣
(おおごのおみ)に嫁いで生まれた子である長利僧(ちょうりのほ
うし)が、母の為に記し定めた文である。放光寺の僧。


【解説】
@「辛已歳」は天武天皇10年(681)に建碑と考えられている。
 上野三碑の中で一番古い碑である。
A佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(現佐野・山名一帯)に
 またがっていたとみられている。
 三家(みやけ、屯倉)は、6世紀〜7世紀前半のヤマト政権の
 直轄領で、経営拠点である。
(★)
B健守命が佐野三家の始祖に位置づけられている。
C健守命の子孫の「黒売刀自「(現前橋市富士見?)
 「新川臣」(現桐生市の新川?)の子孫の「大児臣」(現前橋市の
 大胡?)と結婚して生まれた子が僧:「長利」である。
B僧:「長利」放光寺に務めていた。
  「放光寺」の文字瓦は山王廃寺(前橋市総社町)から出土した
  ので、山王廃寺と推定されている。
画像


【山上古墳】
山上碑は隣接する山上古墳の墓誌であると考えられている。
放光寺の僧侶長利(ちょうり)が母の黒売刀自(くろめとじ)のた
めに墓を建てたことがわかる。
直径約15mの円墳で、精緻な切石積みの横穴式石室を持っている。
古墳としては終末期古墳の7世紀後半の築造と考えられている。
築造時期は、山上碑よりも20〜30年古いため、黒売刀自の父の
墓として造られ、後に黒売刀自を追葬したものと考えられている。
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大正10年(1921) 国の指定史跡。
昭和29年(1954)国の特別史跡「山上碑および古墳」に指定された。









【2】●▲■ 『多胡碑』 ■▲●
箕輪初心■群馬「多胡碑シンポジウム」
上毛三碑(@多胡碑、A山上碑、B金井沢碑)+C山上多重塔には、
見学に行っている。しかし、内容は未だに把握していない。多胡碑
シンポジウムは、4人の大先生が講演会をした
★結果的には「5C〜8Cにかけて、群馬は韓国・中国からの
渡来人の宝庫で、朝廷の東国支配の拠点であることが分かった。」
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多胡碑・・・シンポジウムの冊子P48より
【銘文】
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弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊


【読み方】
弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘
良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
多胡郡と成せ。
和銅四年三月九日甲寅に宣る。
左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣正二
位藤原尊。

【現代語訳】
朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡(かむらぐん)
の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊(ひつじ)という
人に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡としなさい。
和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日に宣(の)
べられた。
左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。
 
 (★多胡碑博物館の説明書き)

●『東国における渡来人の位相と多胡郡の建郡』 
土生田純之(はぶた よしゆき)氏・・・大阪出身で、専修大学教授。
 @はじめに・・・シンポジウムの意図。パネラー紹介。
 A東国における渡来人の位相・・・古墳の種類
 B西毛におけるその後の倭人・・・高崎剣崎西遺跡
 C欽明〜推古朝期における西毛の威信財・・・
      古墳出土品は朝鮮・中国製。
 D考古学からみた多胡碑建碑の問題・・
      甘良(かむら)=加羅=加那
・西毛&東毛 ・多胡は多くの渡来人の意味。
       ・新羅人は「吉井」姓

●『多胡碑の輝き』
平川南氏・・山梨県出身。多賀城発掘→国立歴史民俗資料館館長。
@上野国の広域行政・・・14郡102郷で、大国。
A西部6郡の特質・・・・多胡(多い外国人)
胡麻(ごま)・胡椒(こしょう)・胡桃(くるみ)=呉桃:中国語
胡(ご)・呉(くれ)・漢(かん)・韓(から)で表記。
先進的技能が多胡郡に集中。
B多胡郡建郡・・・3郡6郷の異例の措置。
C日本古代の古碑・・・東山道で北上。
D多胡碑の輝き・・・・・東国の拠点。

●『渡来人の東国移住と多胡郡建郡』
亀田修一氏・・・福岡県出身で、岡山理科大学教授。
@はじめに・・・屯倉と渡来人
A西国における渡来人の移住・・・日本最大:造山古墳
B上野地域における渡来人の移住と多胡郡建部」
○おわりに・・・・大和以外では吉備(岡山)、
     上毛野国(群馬)最先端の国。
★岡山県の吉備の古墳の説明が85%。でも、3位の造山古墳近辺
 を散策したことがあるので、全然抵抗がなかった。

●『多胡郡成立前夜ー古墳時代の多胡郡域』
右島和夫氏・・群馬県境町→太田高校→群大→県文化財審議委員。
@はじめに・・7Cの日本  西毛&東毛は古利根川が境。
A群馬の古墳時代の概観・・・★長すぎ。3分の2が古墳紹介。
3鏑川の古墳・・・東山道との関わり
C多胡郡の古墳・・山名古墳・矢田古墳・神保古墳など
Dまとめ・・・・・多胡碑は古墳の渡来人の技術の結晶。 

右島先生は群馬の古墳の説明が80%であった。
★群馬の古墳に関わる渡来人の力は毛野国にずっとあったらしい。

●「高崎千年物語」(若狭徹著)1000円・・★分かりやすい。
 「羊」は、「羊太夫藤原宗勝」のことで、秩父で和銅を発見
 した功績が認められたことから、多胡郡を賜ったそうだ。
    (★若狭先生の「高崎千年物語などより)

・多胡碑博物館の写真集 400円・・・★安い。

●シンポジウム  
司会:土生田 パネラー:平井・右島・亀田
1時間半の内、1時間聞いた。
ここでは、多胡碑の歴史的価値や意義などの検討が行れた。
★やっとテーマの話が話し合われて、よかった。

●高橋道斎・・・江戸中期、多胡碑を世間に広めた人物
享保3年(1718)下仁田で生まれた。
陽明学者、書道家、俳人である。
陽明学を中根東里・井上蘭台に学んだ。
書は唐様の書家:高頤斎に学んだ。
俳人・・西毛俳壇の中心人物。芭蕉句碑を建てた。
高橋道斎が興味を持ったのは多胡碑の書体=丸みを帯びた楷書である。
六朝?中国北魏?ではないかと考えたそうだ。そして、上野国に何故
こんな文字を書く人がいたかという疑問を持った。道斎は帰化人の文化
ではないかと考えた。多胡碑(高崎市吉井町)の歴史的・書的価値を
見出し広く世に紹介し、多胡碑研究の出発点となった。道斎の功績は
大きい。   (★下仁田町教育委員会)
★高橋道斎の墓下仁田町下仁田の西山常住寺境内にある。
  昭和38年群馬県指定文化財
高橋道斎の弟子の市河寛斎は南牧出身で、「幕末三筆」と呼ばれた。
陽明学は王陽明の「知行合一」などを説く儒教の一派である。
有名な陽明学者として中江藤樹、熊沢蕃山、大塩平八郎、吉田松陰、
高杉晋作、佐久間象山が有名である。   

箕輪初心■群馬【下仁田町の特産品&山&名所・観光地】  
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html









【3】●▲■ 『金井沢碑』 ■▲●
箕輪初心●群馬金井沢の碑=群馬の地名の由来
古碑は群馬県に4つある。
@山ノ上碑 A金井沢碑 B多胡碑 C山上多重塔である。
金井沢碑の碑文には、『神亀3年(726年)』に建立の銘がある
ので、奈良時代のことである。
また、『上野國群馬郡』とあるので、初の文字による「群馬」とい
うことになる。そして、『下賛』(しもさぬ:現高崎市下佐野町)
の朝廷の屯倉の関係者が先祖・両親を供養する為に建碑した』
とあるので、群馬への仏教の伝来が東大寺建立以前にあったこ
とを意味している。→貴重な文化財なのである。 
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    石碑(ガラス越しに撮影)
■訪問記・・・平成20年7月? 
金井沢の碑の場所は現高崎市山名町金井沢2334である。
・高崎駅方面から南西部の寺尾散策に出かけた。
 新田義重の築城の茶臼山城(伝)見学後、金井沢の碑に向かった。
 寺尾〜藤岡線の金井沢川手前を右折した。
 金井沢川にかかる小橋を渡り、さらに金井沢川上流へ向かう。
 再び金井沢碑入口の案内がある。
 金井沢碑入口の案内と道が分岐する。
 トータルで、川伝いに500m程進むと、駐車場があった。
 10台ってとこかな?
 金井沢碑の覆屋があった。
 金井沢碑は覆屋の中にあり、ガラス窓越しに見ることが出来る。
画像
 
【碑文】の写し・・・多胡碑博物館のパンフレット&高崎カルタ   
上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子■為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次蹄※刀自次乙蹄※
刀自合六口又知識所結人三家毛人 
次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月廿九日 
  
  (■は欠字  蹄の元の文字は「馬+爪」)  

■「3月6日
【銘文】・・・多胡碑シンポジウムP48より
上野國群馬郡下賛郷高田里
三家子■為七世父母現在父母
現在侍家刀自■■(他田力=他男)君目■(=頬)刀自又児加(=加力)
那刀自孫物部君午足次日 馬爪 刀自次乙■ 馬爪
               (※馬爪=ひづめ・・・で一字)
刀自合六■又知識所結人三家毛人
次知万呂鍛師礒ア君身麻呂合三■
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月廿九日


【読み方】
上野国群馬郡(くるまごおり)下賛郷(しもさぬきごう)
高田里(たかだのさと)の三家子孫(みやけのしそん)が、七世の父母
現在の父母の為に、現在、侍(はべ)る家刀自(いえとじ)の他田君
目頬刀自(めすらとじ)・又児加那刀自(かなとじ)・孫の物部君午足
(もののべのきみうまたり)、次に馬爪刀自(ひずめとじ)・次に
馬爪刀自(おとめひずめとじ)の合わせて
六■(ろくにん)、又知識(またちしき)結びし所の人、
=三家毛人(えみし)、
次に知万呂(ちまろ)・鍛師礒ア君身麻呂(かぬちいそべきみみまろ)、
合せて三口、是(こ)の如く知識を結びて、しこうして
天地に誓願し仕え奉る石文(いしぶみ)。
神亀3年丙寅(ひのえとら)二月廿九日


【現代文訳・・シンポジウム&多胡碑博物館】
上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子■と他田君目頬刀自と
その娘加那刀自が、孫の物部君午足ら3名を加えた計6名が行
なう先祖供養のための請願に、願主と同族3名の寄進者を加え
て合計9人の人々が、神亀3年(726)2月29日に石碑を
建てて神仏に誓った。


■金井沢の碑の価値
 @では、なぜ特別史跡なのだろうか?
 奈良時代の開始710年以前に建碑された石碑は日本中に
  約10例しかない。
 山上碑・多胡碑はそれに該当するのである。
 飛鳥時代に中国大陸の思想を取り入れ石碑を建て始めた頃の石碑
  なのである。
 でも、金井沢碑・・・神亀3年(=726年)2月29日である。
 しかし、石碑を建てて神仏に誓った。=先祖供養の仏教碑なのである。
『知識』(造寺・造仏に協力する人々)を結び、天地に誓願して建てた。  
 715年から740年頃までの郷里制の制度下にあったのである。
 754年、日本中に国分寺を建設する詔が発せられて、
  →仏教文化が日本中に行き渡たった。→仏教思想が浸透したのである。
  →石碑を建碑する文化が定着した。
 ★従って、東大寺や国分寺以前の仏教文化の信仰が伺えるのである。  

A9人の人物
○→○→@三家子■
     =三家(=屯倉)の娘:B加那刀自
    A他田君目頬刀自  ↓ ・・・C物部君午足
              ↓ ・・・D(物部君):ひづめ刀自
               ↓ ・・・E(物部君):若ひづめ刀自
   
   F三家毛人
   G(三家)知麻呂
   H鍛師:礒部君身麻呂・・・安中市磯部       

  碑文中の9名のうち5名(ABCDE)が女性である。
  ★当時の家族が女系社会であったことが分かる。

 
B上野国群馬郡下賛郷高田里
  ★「群馬(くるま)」の地名の発祥=一番はじめを意味する。

■参考文献
 @多胡碑シンポジウムの冊子
 C「高崎千年物語」(2011年3月1日の発刊)・・・
  ★若狭徹氏の本が最高だ。
  こんな分かりやすい高崎の古墳や史跡の説明書があるのか
   ?と思った。
  →難しい内容をさらりと簡単に説明している。
   私は若狭先生の信奉者になった。
  若狭先生を群馬町教育委員会時代から顔は見ている。
そして、話の何回かしている。箕輪城説明会・
かみつけの里の「大王の祭り」でも話した。
ブログの許可もえた。
  でも、こんなロマンのある凄い人だったのかと思った。








【4】●▲■ 『山上多重塔』 ■▲●
箕輪初心●群馬【山上城】&『山上多重塔』
http://53922401.at.webry.info/201205/article_20.html

山上多重塔(国重文)=塔婆(石造三層塔)
桐生市新里町山上2555
画像


○「塔婆(石造三層塔)」
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○解説文の内容
【銘文】
碑文が45字で刻まれている。・・・★書けない。 
 
【訳】
「絶えることのない地獄の苦しみから、全てのものを救い、永く安らぎ
の地へ往くことができるように、ここに如法経を安置する塔を建てた。
・・・・(省略)・・・
これは小師である道輪が関わった。」

(★現地説明板)
画像

【現地解説板】 
延暦20年( 801)、道輪という僧侶が法華経を安置するた
 めに建立した石製の塔である。塔の四面には、朝廷・神祇
・父母・衆生の供養のために建てたとする旨の碑文が45
 字で刻まれている。
 塔は高さ1.85m、安山岩製の三層構造で朱塗りの痕跡が
 ある。塔身上部には経典を収めたとされる深さ20pほど
 の窪みがある。・・・・


★赤城山を望む。・・・「裾野は長し赤城山」
 雄大なビューポイントである。
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★明日は長野氏かな

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