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zoom RSS 箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」

<<   作成日時 : 2013/10/14 05:44   >>

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松平右京太夫輝貞は徳川綱吉の「生類憐れみの令」を推進し、鳥
獣の肉を食べなかった。「右京の泣き堀=馬鹿堀」でも有名である。

永禄8年(1695)高崎藩7代目:安藤重博が備中松山城に加増移封
されると、下野壬生より8代目:松平長沢大河内輝貞が52000石で
入封した。5代将軍:徳川綱吉に仕えた。15年高崎城主を務めた。
6代:徳川家宣の代になると、宝永7年(1710)に越後村上に転封さ
せられた。間部詮房が高崎藩主になった。8代将軍:徳川吉宗の代
になると、享保2年(1717) 間部詮房が村上城主を交代し、松平輝貞
が高崎城主に返り咲いた。30年間の城主であった。トータル45
年間である。

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【8】高崎城主1回目:松平(長沢・大河内)輝貞・・15年
・寛文5年(1665)松平(長沢・大河内)輝綱の6男として生まれた。
  祖父:松平伊豆守信綱=「知恵伊豆」   
  父:武蔵川越藩主:松平輝綱の六男。
  母:板倉重宗の11女→龍泉院
・延宝2年(1674) 松平武綱と名乗った。
・延宝3年(1675) 元服。
・天和2年(1682) 6月23日松平輝貞と改名。
  (★高崎市史&ウキペディアでは年が違う。)
・元禄元年(1688) 徳川綱吉の中奥小姓。
・元禄2年(1689) 徳川綱吉の側衆・・初代側用人に昇った。
・元禄4年(1691) 松平輝貞が家督を相続。
常陸国:土浦城主3万2,000石を相続。
 (★高崎市史)
徳川綱吉の紹介で、柳沢吉保の娘を妻にした。
  (★高崎市史)
    松平輝貞は叔父:松平斐章の弟である輝規を
         養子とした。
・元禄5年(1692) 松平輝貞が下野国:壬生に転封。
・元禄6年(1693) 松平輝貞が徳川綱吉の側用人となった。
●元禄8年(1695)5月10日 高崎に転封。
・宝永元年(1704) 加増でトータル7万2,000石
武蔵の野火止も所領となった。
・宝永6年(1709) 側用人を免職
・宝永7年(1710) ※徳川家宣が6代将軍になった。
 徳川家宣は綱吉側近を排除した。
 当然、松平輝貞も側用人を免職され
 越後国村上に転封された。つまり、左遷された。
※徳川綱吉は20数回、松平輝貞宅に行ったという。
時には、徳川綱吉は「論語」、松平輝貞は「論語」を
講義したという。
(★高崎人物伝:吉永哲朗著)
 


→村上に転封で高崎は不在。
※間部詮房が高崎藩の城主になった。



【10】高崎城主2回目:松平(長沢・大河内)輝貞・・15年
※徳川吉宗が8代将軍になった。
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・享保2年(1717) 再び高崎に復帰した。
   同時に家格も溜詰格に昇格した。
・享保15年(1730) 老中に任命された。

・*** 渡辺武左衞門を長崎に派遣。

・延享2年(1745) 隠居
・延享4年(1747) 死去。享年83
墓地は東叡山明王院(東京都台東区)
→平林寺に改葬された。






箕輪初心●高崎8代松平輝貞&右京の泣き堀
★宝永5年(1708)松平右京輝貞は榛名湖からの引水計画を開始。
★享保8年(1723)松平右京輝貞は引水計画を再開。徳川吉宗の許可。
でも、高崎の村同士の争いがあり、未完成に終わった。・・失敗し、
「右京の馬鹿堀」と呼ばれた。(榛名湖の自然観察センター→する
す岩直下のトンネル水路約400m→箕郷松の沢→高崎長野→高崎)
17〜20km?もある壮大な計画だった。


▲右京の泣き堀 20100815

※群馬:榛名するす岩の「右京の泣堀」
@村の仲間3人と榛名の「右京の泣堀」に向かった。
 榛名沼の原に車を停めた。
 沼の原・・・ユウスゲの最盛期。
  ヨツバヒヨドリ・こうりんか・オミナエシ
    ススキ・ゴマナ・マツムシソウを見ながら〜〜
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相馬山方面に向かった。
まわりに、榛名富士、かもんが岳1449m、相馬山1411mが見えた。
相馬山のするす岩は修行場であった。
A相馬山とするす岩の中間のするす峠に出た。
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するす峠を南に雨が降ると沢になる所を150m程下る。
右に尾根が見える。
尾根の切れた所を右に回り込む。遊歩道がある。
といっても、人はめったに来ない。

Bするす岩直下の塩ビパイプのある水飲み場で水を飲んだ。
 冷たかった。
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Cこの5m上が目的地だった。水は泣堀から流れ出ているものだった。
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D看板はチョーさんが親戚の元高崎市史編纂委員の中村先生に聞いて、
鉄板に書いた物だった。
チョーさんは4回目でやっと、この冬探したという。
「享保年間・・1723年徳川吉宗の許可を得た)高崎藩主:松平右京
輝貞は引水計画を再開。でも、高崎の村同士の争いで未完成に終わ
った。」
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「右京の泣堀」・・・高さ1m20cm。幅1m20cm。の穴。
空気がひんやりしている。どこまで続いているのだろうか?
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「冬、来たときは、懐中電灯をもって、膝上までの洞窟水路を途中
まで行った。」
と、チョーさん・マーちゃんは話していた。
道のない坂道を200m程登って、するす峠に戻った。
薄暗くなった沼の原には、曇っている三日月がほほえんでいた。
満足だった。
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●▲■ 右京の泣き堀=右京の馬鹿堀 ■▲●
・宝永4年(1707)
10月30日
松平右京輝貞は榛名湖からの引水計画を開始。
(榛名湖の自然観察センター→沼の原→するす岩直下のトンネル水路
約400m→箕郷松の沢→東明屋・・・高崎藩領@上芝村・A下芝村
(高崎市箕郷町)・B井出村・C保渡田村(旧群馬町)、
→D楽間村・E行力村・F北新波村・G浜川村・H南新波村・I上
小鳥村・J上小塙村(高崎市)の11ヶ村の水不足を解決しようと
する計画であった。
するす岩隊道=するす岩直下のトンネル水路約400m・高さ1m
・横3m・深さ4m50mと記録されている。

松平右京輝貞は榛名山社=榛名神社に申し込んだ。
「吾妻郡東村岡崎新田のように榛名湖の水を利用したい。」という
ものである。」
榛名神社は天領の吾妻郡東村岡崎新田の代官:岡上景能に願い書を
提出した。
が、岡上景能は断った。
岡崎新田は飲水に使っていて余水はない。
榛名湖の水を分水されては人馬に差し支える
・田畑が枯れてしまう等々・・・である。

11ヶ村は幕府に訴訟が出した。

11月 幕府評定所より裁決書(★群馬県史)
@拾壱ヶ村へ余水を引く分には岡崎新田の障りとはならない
A新たに堤を築く。岡崎新田村の取水口は一ッ岩頭より九丈壱尺二寸
 五分とし、・・・・岡崎側の取水が困らないようにする
B普請はすべて11ヶ村側、岡崎新田側の立ち会いだけとする。
C負担は自分たちが負担する。
以上のような裁決が下された。

宝永5年(1708) 工事開始?

・宝永7年(1710) 5月 
大河内右京太夫輝貞は、越後の村上藩へ転封。
  工事は中止された。


・享保22年(1717) 2月 松平大河内右京は再び高崎藩主に復帰。
松平大河内右京は工事の再開を考えた。
 @藩領11ヶ村の内、上芝村、下芝村、保渡田村、行力村の4ヶ
 村が天領となっていた。・・・再開は断念したようである。
 A祭戸用水は、保渡田村(★私の先祖達)・井出村が使用していた。
榛名白川→箕輪城の西で3つに分水→かつての箕輪城下町→
井野川を横切り→大清水川を横切り→保渡田村・井出村へ
B早瀬川=12堰は9村の用水路だった。
 ※上手くいかなかったのだ。
 ★この付近の水争いが、戦争後まで続いていた。〜〜〜〜
 (★高崎市史)
  かつて、私の実家は保渡田で1町5反の田んぼ、畑・桑畑を持っ
 ていた。 

★松平右京太夫輝貞は「右京の泣き堀」「馬鹿堀」と言われながらも、
関東平野の北西隅に広がる高崎で、広大な水田を持ちながら、水
不足に苦しむ農民を大事にしたのだ。名君であったと思われる。




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