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zoom RSS 箕輪初心●箕輪城105久保田順一先生「箕輪城と長野氏」

<<   作成日時 : 2013/05/25 06:26   >>

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平成25年(2013)5月19日、かみつけの里博物館で、久保田順一
先生の講演会「箕輪城と長野氏」があった。入場者数は139名だ
そうである。主催者席での拝聴になった。今回は拝聴後、久保田
先生とも1時間近く話せてとっても嬉しかった。 久保田先生・秋本
館長さん・青山副館長さん・元副館長志村さん・友の会の黒崎会
長さん、感謝申し上げます。そして、今日はこれから、かみつけの
里の旅行で、春日山城&高田城に行くのだ。少しでも、ご恩返しを
しないといけないのだ。群馬・長野の歴史を説明させていただこうと
思っている。
 
みつけのdiv align="center">画像
 (★写真掲載は久保田先生より許可済み)

【1】平成24年(2012)12月23日の講演会
400名の参加者があり、私は抽選にもれ、箕輪城元気隊事務局:
関口先生の計らいで、ステージ脇から久保田順一先生の講演会を聞
いた。久保田先生は非常に人気があるのだ。
※新説@長野宮内少輔系方業などの厩橋が本家ではないか?
・・・那智大社文書には長野3家
 「まえはし殿、箕輪殿、大こ殿」とある。
新説A箕輪長野氏は最初から、東山道よりではなく、板東の寺:長谷
 寺&水沢寺の間、すなわち、箕輪の東明屋に住んだのではないか? 
※新説B長野方業=業政は同一人花押から推測できる。
 群馬県埋蔵文化財:飯森康広氏も同じ考えである。

★実に素晴らしいのだ。資料が根拠なのだ。
新説が3つあり、楽しかったです。ありがとうございました。

【2】平成25年(2013)5月19日の講演会
司会・・・青山副館長=中学校の同級生
@秋本館長の挨拶&講師紹介
 久保田順一先生の略歴
 前橋市出身→渋川女子高など→県史・高崎市史編纂
 ★高崎市榛名町出身と以前に書いてしまった。

Aかみつけ塾の会長:黒崎さんの挨拶

〜〜〜久保田順一先生の講演会「箕輪城と長野氏」〜〜〜〜〜
ーーーー長野郷の中世史ーーーーーー

【1】長野郷の構造
0)はじめに
※中世の概念
「通説は武士の時代とされていたが、今は、院政期から
   中世と考えられている。」
※武士も貴族の一部である。
※荘園=私領・公領=郷の違い・・・院政期に成立
荘園・・・新田荘・桃井荘は私領である。
郷・・・・長野郷・甘楽郷などは国が支配した。

(1)中世長野郷を称する地域
@「・・長野郷内寺内」(熊野本宮大社文書)・・・応安7年
※久保田先生・・榛名町本郷にある地名である
★箕輪初心・・・高崎市浜川の寺内砦遺跡では?
A「・・長野郷内西芝村」(明月院文書)・・・応永10年
※久保田先生・・東芝があってもいい。
★箕輪初心・・・現在は上芝&下芝
B「・・長野郷内簸輪本郷村」(明月院文書)・・・応永23年
※久保田先生・・箕輪城周辺地区と旧榛名町本郷であろう。
★箕輪初心・・・高崎市沖町&高崎市箕郷町白川に隣接。
C「・・長野郷内東荒波村」(鶴ヶ岡八幡宮文書)・・・応永31年
★箕輪初心・・・現在は高崎市北新波&南新波がある。
   北新波には、北新波の砦&満勝寺砦がある。
D「・・長野本郷増長寺」(八幡宇佐宮御託宣集)・・・応永4年
※久保田先生・・東芝があってもいい。
★箕輪初心・・・現在は上芝&下芝
E「・・長野郷浜河村薬音寺」(鰐口銘文)・・・応永29年
 ★箕輪初心・・・高崎市沖町&高崎市箕郷町白川に隣接。
F「・・長野荘之内行力村中里村」(彦部文書)・・・戦国期
★箕輪初心・・彦部家は太田市にある古武家屋敷である。
 この頃になると、郷→荘=私領に変化している。
G「室田・三ノ蔵・権田」(頼院大僧正絵伝)

→※久保田先生・・榛名神社の神領は長野郷内の可能性がある。
 院政期の上野国の有力な郷であっただろう。
 長野郷・・広い範囲だったのであろう。
 ★東は箕郷町箕輪城周辺地区&旧群馬町中里〜井出〜保渡田。
南は東山道沿いの今の高崎北部:浜川町〜小塙町〜新波町〜
  沖町・我峰町〜
西は旧榛名町本郷〜榛名町室田〜旧倉渕村の三の倉・権田
北は榛名神社〜榛名湖南半分=旧榛名町・旧箕郷町唐松〜
  

(2)長野郷の支配
郷司・・・石上姓の豪族が長野郷の苗字と「長野氏」を名乗った。
しかも、在庁の構成員。
★箕輪初心・・・近藤義雄先生の説では、
「源頼朝の支配下では、国史は無用の長物になり、国府にいら
 れなくなり、東山道沿いの現高崎市浜川町の浜川運動公園内
 に屋敷を建て、住み始めた。浜川寺内遺跡は古い遺跡である。」
 また、近藤先生は
「青木荘に在原業平の子孫が住んだという伝説から、箕郷町の
 下芝:カインズホーム周辺・楽間町北・浜川町道場と考えて
 いる。」のである。
 もちろん、私などに長野郷の範囲を知るよしもない。
また、青木荘=長野氏の私領になっていることから、
久保田順一先生の説では、削除している。
近藤義雄先生の説では、成り上がりの説を採っている。
→もちろん、素人の私には分からない。

(3)宗教的な整地
@榛名神社
「正一位 榛名大明神 」(上野国神名帳)
 ※人間ランクは30ランクだった。
長野郷の鎮守だったかもしれない。
→榛名神社は現在の場所になかった。
 「長野地区にあった。」かもしれないとおっしゃった。
★久保田説はちょっと苦しいのでは?・・・かなり。危険な
 発言だった。

  ★現在の長野地区=浜川・北新波・南新波・菊地・
我峰・沖・楽間・行力の8地区には、3つの榛名神社が
存在するのだ。・・・久保田先生も知らなかった。
たぶん、私だけかも・・・。


A旧榛名町「長谷寺:白岩観音」・・板東33観音札所
※鎌倉時代に観音信仰が流行った。
★箕輪初心・・・
 「この時、秩父34観音・板東33観音ができた。」

B中世の街道&宿
 *府中街道・・・・鎌倉上道(うわつみち)。中道・下道
 *越後街道・・・・箕郷明屋〜〜榛東村〜渋川〜〜だろう。
*榛名巡礼道・・・箕郷明屋・・中善地・・唐松分岐・・ 
 →久保田説・・・今の榛名街道ではないのである。
本通りはこっちだった。
つまり、榛名神社に行くには、箕郷西明屋〜だった。
★箕輪初心・・・基本的には同感である。何故なら、
箕郷町:箕輪城西〜金敷平〜善地〜駒寄〜唐松分岐がある。
唐松分岐には、平安時代の「唐松廃寺」(★現救世新教)
があった。
西に行けば、天狗山経夕で、榛名神社に着くのだ。

C中世の宿・・・宿地名
浜川・・・本宿
西明屋・・上宿・内宿 ★矢原宿・裏宿
菅谷・・・中ノ宿・西宿
保渡田・・・田宿・新宿
※久保田先生・・・宿屋が数軒。50〜60人規模だったろう。
※久保田新説@・・・長野郷は、広かった。

【2】長野氏の成立と展開
※久保田先生・・・長野氏は滅んだので、資料が少ない。
※久保田先生・・・長野業盛=氏業である。

(1)平安時代の長野氏=石上(いそのかみ)姓&在原姓
 @「此別当(浜川並松別当」、俗長野、姓石上也」
    (★宗長『東路の津登』)
※久保田先生・・・別当は寺の管理の役人
俗姓・・・場所を表す。
姓・・・・物部氏→石上姓
 
長野氏は滅んだので、資料が少ない。
 A「上野国長野信濃守所望、利根川近き人在原氏の人になん」
(★体光句集『石苔』)
※久保田先生・・・在原と称したのは、自分を高く見せる
手段であったのでは、なかろうか?
在原業平は平城天皇の子孫だからである。
*近藤義雄先生・・在原姓と考えている。
  石上は、奈良の石上神宮の末裔である。
★箕輪初心・・・石上神宮には、上野国に子孫が行った
記録がない。と言われた。高崎の浜川運動公園には
布留という地名があるが、・・・
つまり、

B建久3年(1190)12月「上野国留守所下文」・・・
「目代左衞門尉藤原」
「惣検校石上」
「散位石上」・・・
らが、榛名寺領への健児(こんでい)・検非違使(けびいし)
 の入部を止める。」
 榛名神社文書
*近藤義雄先生・・・藤原某の所領で・・・
現地に、bQの石上&bRの石上が来た。
しかし、2年後の鎌倉幕府の成立に伴い、石上は無用の長物に
なった。

(2)鎌倉時代の御家人:長野氏・・・
 ※久保田先生・・・吾妻鏡に2回しか、登場しない。
 @正嘉2年(1256) 3月1日「永野刑部丞跡永野次郎太郎」・・
(★吾妻鏡)
※久保田先生・・・跡とは子孫の意味である。
*近藤先生は確か「出家し、坊主になった意味。」と言っていた。
 
 A健治元年(1275) 5月 「六条八幡宮造営注文」
「長野刑部丞跡 八貫 」
※久保田先生・・・8貫を寄付した。
※久保田先生・・・刑部丞は6位であり、下級貴族である。
しかし、寄進により、中央政府と結び着いている。

※久保田新説A・・・箕輪長野氏は最初から、東山道よりではなく、
 板東の寺:長谷寺&水沢寺の間、すなわち、箕輪の西明屋か
 東明屋に住んだのではないか?
 ★久保田先生には、近藤義雄先生や山崎一氏の説の
高崎市浜川定住説がでてこないのが特徴である。
しかし、高崎市来迎寺には35基〜36基の長野氏の累代の
墓がある。ちなみに、近藤先生は、無用の長物になったので、
東山道沿いの「寺内」=★高崎市浜川グランド南西200m
付近が一番先に済んだと、3回の講演会で聞いている。
この辺は、微妙なところであろう。


(3)室町時代初期のの長野氏=上州白旗一揆の有力構成員
 @永享13年(1441) 『結城戦場記』
「上州一揆分取頸・・・
   長野周防守・長野宮内小輔相討頸・・
   不知名字多賀谷彦太郎頸・臼井五郎頸、彼の二ッは、
   長野左馬助取之・・・」
※久保田先生・・・一揆は武士のものであり、「強い者に就く。」
というものである。百姓一揆は後のもので、命のやり取り
を意味していた。
★思わず、そうなのか?


(4)室町時代の「享徳の乱」時代の長野氏
 @文明3年(1472)9月17日の足利義政の文書
「足利義政御内書」・・
・・・・
小幡右衞門尉とのへ
長野左衞門尉とのへ
※久保田先生・・・長野氏は上州の代表になっていた。

 ★群馬県史のこの辺を書いていたのは確か、久保田先生
だった。もめたんでしょうね。たぶん?????
近藤義雄 VS 峰岸先生 VS 久保田先生
「たぶん、無茶苦茶で、喧々がくがくと想像できる。」

 A文明9年(1478)「長野左衞門為業」
武蔵針谷原の合戦で死亡。

B永正元年(1504) 武蔵立川原の戦い
  「長野孫太郎房業、上杉顕定に従い、戦死・・・」



(5)「享徳の乱後」の長野氏の分立
・???年、「実相院諸国旦那帳」
「上野国まえはし殿 名字なかのと御なのり候えども
  いその上氏也、箕輪殿・大こ殿・・」
(★那智大社文書)
※久保田先生・・・熊野神社が有力であった。伊勢神宮は
それから後の時代である。
まえはし殿・・・厩橋長野氏(宮内小輔の冠途・・)
みのわ殿・・・・箕輪長野氏、庶流に室田長野氏
大こ殿・・・・・大胡長野氏(左馬介の冠途、厩橋長野氏の連枝)
 ※久保田新説@長野宮内少輔系方業などの厩橋が本家ではないか?
  ・・・那智大社文書には長野3家
 「まえはし殿、箕輪殿、大こ殿」とあるからである。


【3】戦国時代・・・箕輪長野氏の歴代とその立場
 ※長野系図・・・長野稔氏系図を採用。
★長野氏系図は実は16〜17あるのだ。
17番目は「元総理大臣:羽田孜氏の関係の系図である。」

(1)長野乙業
 ※久保田先生・・・「長野氏の系図:長野稔系図・・・」
「伊勢国より来て上野国群馬郡長野郷箕輪に在住す、浜川村
  来迎寺に葬らる。」とある。
※久保田先生・・・※信憑性に欠ける。
 ★箕輪初心調べ・・・伊勢長野氏の末裔は戦国時代に織田信雄に
  滅ぼされ、伊勢の津付近を乗っ取られた。(★織田信雄の生涯)
その末裔が井伊直弼の側近:長野主膳である。
 (★彦根城博物館の学芸員より)

 *近藤義雄先生・・寺内館→隆業館(乙業父の館)→乙業館
→箕輪城を築城という説を採っている。
★伝乙業館は、かみつけの里の二子山古墳の井野川を挟んだ
  火薬工場の敷地内にあるのだ。しかし、砦跡はあるのだ。
  土塁がみえちゃうのである。・・・井野川の洪水で流れは変
  わっていても、一部に遺構が残っているのだ。


2)長野業尚=長野尚業
・文亀3年(1501) 長年寺(室田)を開基。伊予守、または信濃守
と称す。憲業の父。
長野氏系図には、鷹留城を築くとある。箕輪城も築くともある。
※久保田先生・・鷹留城→箕輪城に行った可能性もある。
信憑性が高い。

3)長野憲業
・永正9年(1512) 長野憲業壁書(長年寺文書)
  一、
  一、
  一、
前伊予守憲業(花押印)
 ※久保田先生・・信憑性が高い。制札のような物で、支配
者デビューを意味している。
伊予守・・・自称。自分で勝手に名乗っている。
  
・永正10年(1513) 長野憲業立願状写(榛名神社文書)
大戸要害令落舎、憲業属本意候者、百疋之下地お、・・・
・・(後略)・・・末代可奉寄進候
奉懸 巌殿院
※久保田先生・・・(現東吾妻の)大戸城を攻め落とし、
  憲業の本意に属しそうらえば、百疋=1000文の土地=お金
をあげます。・・・末代まで寄進奉りべくそうろう、
巌殿院・・・榛名神社も神仏習合である。


(4)長野方業
A,大永4年(1524)「徳雲軒性福状」(上杉文書)・・・
久保田先生・・・10年前に発見された文書
密書で10cm×15cm位の大きさ
総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書
 其夜可被仰付事
一、彼のくるわへ引入れ申時、らんはうの事、
※久保田先生・・総社城の曲輪に引き入れ申す時、
乱暴はしないでくれ。
一、其身討捕申時、おのおのたしなみの事、
※久保田先生・・総社城の誰かの身を討捕し申す時、
各自、たしなみ=武器をきをつけてくれ。
つまり、夜なので、長い槍などは使えない。
一、
 一、
 一、まやはし殿御人数いそき東口へ・・・
一、
12月2日
B、群馬県史の「徳雲軒性福宛長野方業書状」
・・・・略・・・

11月17日
左衞門太夫方業(花押)
徳雲軒

※久保田新説B・・・長野方業=業政は同一人花押から推測できる。
 と、おっしゃっていたが、今回は久保田先生は、言葉を濁している。
★群馬県埋蔵文化財:飯森康広氏の考えである。


(5)長野業政
A,「そう林寺伝記」・・・★子持の長尾一族
長尾孫四郎景誠は、長尾景英の嫡男である。母は長野信濃
守業正の姉である。・・・

B、天文4年(1535)「其制札写」(榛名神社文書)
一、喧嘩之事・・・・・・榛名神社・社家町で喧嘩をするな。
 一、相伝之事・・・・・・拐かし禁止
一、押買狼藉之事・・・・安く買うことを禁止する。
*久保田先生と近藤先生の解釈はABが違う。

C、武田晴信書状写(極楽院文書)・・★高崎市箕郷町和田山
笛吹峠=碓氷峠の戦いの時、上杉に付かなかったことを
小幡尾張守・真田弾正忠から聞いています。だから、
私の味方になりませんか?・・・と武田信玄が誘った。
11月15日


D、永禄4年(1561)「近衛前嗣書状」
・・・略・・・・
  ミのわハわつらい候よし申候・・・後略・・・
6月10日

E,永禄4年(1561)6月21日他界
「木彫背銘」(長純寺所蔵)・・・★高崎市箕郷町原山


(6)長野氏業
・永禄9年(1566)「長野氏業書状」(奈良原文書)
箕輪城落城により、氏業は討ち死に。
 ※久保田先生新説C・・・氏業の「氏」は北条氏から
貰ったものではないだろうか?


【5】箕輪城の築城
なぜ、西明屋が選ばれたのか?
@「宿」があった。
A安国寺利上塔の造営・・・足利尊氏の供養塔=上杉家との関係
★ちなみに、箕輪小学校東の椿山にあったが、高崎に移された。
 西明屋の徳田屋敷の伝承
 ★ちなみに、箕輪小学校の西
B中世の石造物の存在
箕輪城御前曲輪の井戸の石
康元元年(1252) など

箕輪城の沿革


【6】おわりに
画像




★久保田順一先生、ありがとうございました。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
箕輪初心さん

こんばんは。
一日に2回も連書き申し訳ありません。
5月19日の講演会は私も参加していました。
しかも主催者席の目の前の最前列に座り、聴講していました。
確かあの時、久保田さんの講義を聞きながら、一生懸命にメモを取られていた方がいましたが、まさかその方が箕輪初心さんだったとは・・。

講演会でもお話されていましたが、久保田さんの最近の研究成果である、宿地名論はとても興味深いですね。
長野郷だけでなく、大胡郷などでも、今まで点であった歴史が、宿地名で辿ると線で繋がって考えられるのでとても面白いです。

箕輪城には、冬場には月に2〜3回行くのですが、この時期は木々で遺構が見難いなどから訪城を控えているのですが、今度、箕輪初心さんがいらっしゃる時に、ぜひお伺いしたいと思います。
その時は宜しくお願い致します。
野口です
2013/06/30 23:01
「宿」の話は東山道の「宿駅」&北条の「宿」かどうか見分けにくいのです。箕輪城の内宿・裏宿は、完全に北条時代の町の名前を意味すると、発掘調査の秋本太郎先生が明言していました。しかし、久保田先生の「宿」は「宿駅」で、鎌倉時代です。どう解釈してよいのやら、解りません。しかし、城を交通の要所という観点から、大系づける
方法は素晴らしいと思います。一線級文書からの推察はかなり、説得力があります。埋蔵文化財の飯森康彦先生とは
違って面白いと思いました。・・春日山城に行って感じたことなのですが、戦略上の観点からの築城も重要ですが、衣食住の観点から、築城を考察すのも城の歴史を考える上で、結構大事な要素になり得るのだと思いました。
野口さんへ
2013/07/01 19:34

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