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zoom RSS 箕輪初心●静岡【井伊谷城】=井伊直政先祖発祥の居城

<<   作成日時 : 2012/12/05 07:19   >>

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井伊谷城は静岡県浜松市北区の引佐町にある中世の山
城である。旧引佐町役場の北の井伊谷川と神宮寺川の
合流点の間にある標高114mの城山とその山麓一帯が井伊
氏の平時の居館であった。戦時の詰め城には東方約3km
の山城:三岳城である。藤原=井伊共保〜井伊直政が今
川氏の難をさけ、三河国の鳳来寺に逃れるまで、約540
年余の井伊氏の居城であった。また、井伊氏以後、この
地は井伊谷三人衆の一人近藤氏が支配した。近藤氏陣
屋もこの一角にある。本丸、二の丸、三の丸などで構成さ
れていた。

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◆◆ 箕輪初心★井伊家の歴史:井の国千年物語前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_3.html

◆◆ 箕輪初心★井伊家の歴史:井の国千年物語後編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_4.html

◆◆ 箕輪初心●箕輪城シリーズ54「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201011/article_25.html




■訪問日・・・平成24年(2012)10月10日
○長篠城から引佐に向かった。引佐ICから7〜8分程で
  引佐の市街地に出た。
○引佐の龍譚寺に詣で、お巡りさんに聞いた道を北に登った。
 井伊谷の集落の北側・・・現在の引佐町役場に隣接した
 北に、こんもりと松がおおった城山が見えた。
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@福祉施設に車をおいた。
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A途中に郭らしき場所があった。
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B神社も元は郭であろう。
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C腰郭らしき郭もあった。
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○かいだん
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○武者走り?
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D15分程で、大手門跡に出る。
土塁が残っている。

E本丸に着いた
○展望・・・絶景かな?
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○山頂は、南北約40×東西50m位である。
南半分は低い削平地になっている。
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北半分は御座丸で、3〜4m高い削平地である。
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周囲を「高さ約3m、幅5mの土塁がめぐっていた。」
 (昭和9年沼館愛三氏調査)と言われている。
 (★井伊谷のHpより)
 現在も南〜東にかけて、土塁の遺構が見られる。

○案内板
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 延元元年(1337)遠江介井伊道政が後醍醐天皇の皇子吉宗
親王をお迎えしてより、元中2年(1385)8月10日吉宗親王
がこの地で甍去し給うまで約50年、親王は京都と鎌倉の中
間であるこの井伊城を本拠として、駿河、甲斐、信濃、越中、
越後、上野の国々を転戦された。
 平時にこの城山の御所の丸に居られ
   夕暮れは 湊もそこと しらすげの
       入海かけて かすむ松原
   はるばると 朝みつしおの 湊船
       こぎ出るかたは 猶かすみつつ
の御歌が残されている。
 この城山の一段高い所が御所丸跡で井の宮石陵があり、宮
入御表門跡、搦手門跡等がある。また東山麓には吉宗親王を
祭る二宮神社、親王の御念持仏を祭る足切観音堂がある。
(★現地案内板より)


○西・・・搦手門跡がある。トイレもあった。
 西から見ると、
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○北・・・
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○東・・・「井ノ宮石陵」の自然石。
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東から見ると
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○東〜南下・・二ノ丸・三ノ丸があったらしい。

▼下山




◆◆ 井伊谷城の歴史 ◆◆
・平安時代の9C中頃・・遠江国司:藤原共資の子?:藤原
 共保が井伊谷に入って井伊氏を名乗った。
・寛弘7年(1010) 井伊谷城を築城?(伝)
    築城年代・経緯は不明。
・南北朝時代・・・南朝方の井伊道政は遠江の南朝方の宗良
 親王(後醍醐天皇の皇子)を奉じて、井伊谷城の詰の城で
 あった三岳城に籠もり、北朝方(足利尊氏派)と戦った。
 井伊谷城は北朝方の高師泰&仁木義長に攻められて落城。
・戦国時代・・・井伊氏は、駿河の今川氏の家臣になった。
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦いで今川方の井伊直盛が討死。
・永禄5年(1562) 井伊直親は今川氏真に謀叛の疑いをかけ
   られて朝比奈泰能によって討たれた。
  →遺児の虎松(=井伊直政)は鳳来寺に逃げ、15歳まで
  過ごした。
  井伊直虎(直親の妹=祐圓尼)が女城主となった。
・永禄11年(1568) 井伊家家老:小野但馬=道好に井伊谷城
 を横領された。徳川家康が井伊谷城を取り戻した。
  井伊氏は徳川家康に属するようになった。
・元亀3年(1572) 武田信玄の家臣:山県昌景に敗れた。  
・天正元年(1573)1月、武田軍井伊谷へ乱入。
   井伊谷城を明け渡した。龍潭寺が炎上した。
・天正元年(1573) 4月に武田勢が撤退した。
 井伊直虎は養母として直親の嫡子:虎松(=井伊直政)
 を養子として育てた。
 実母は松下源太郎の妻として再婚していた。
・天正3年(1575) 養母の直虎=次郎法師・実母などが
   相談して、井伊直政を今川氏を滅ぼした徳川家康
   に頼ることにした。
徳川家康の三方が原での鷹狩りの時、次郎法師に 
付き添われて謁見した。
徳川家康は、虎松の父:直親が家康に味方しようと
して今川に殺されたので、不憫に思い、家来にした。
徳川家康は虎松の300石を与えた。
井伊万千代の名で旧知行地の井伊谷を賜った。
・天正12年(1584) 徳川家康は井伊谷3人衆
 (近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)
  に対し、井伊直政に仕えるよう命じた。
・天正13年(1585) 小牧・長久手の戦い
  井伊直直政は短気で家臣に非常に厳しかったと
   言われている。
  徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵の羽柴軍の
   総大将である羽柴秀吉(=豊臣秀吉)や配下の武将達も
  「井伊の赤備え」には大変手こずったという。
  井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」「徳川家臣団最強
   の部隊」と見なされ、本人は「井伊の赤鬼」と称され、
   諸大名に恐れられるようになった。
  自ら先陣に立って戦うことを好んだため、筆頭家老:
   木俣守勝がその役目を果たしたと言われている。 
 →●井伊直政は井伊谷6万石の大名になった。

・天正13年(1585)井伊直政の実母、浜松松下源太郎宅で没。
・天正14年(1586)徳川家康は浜松より駿河へ移る。
         井伊直政も家康に従って駿河へ移る。
・天正16年(1588) 井伊谷3人衆の近藤康用が井伊谷に
    おいて没(72歳)
天正18年(1590) 
2月 井伊直政の長男:直継=直勝が浜松で誕生。
3月 井伊直政が小田原合戦で先手を勤める。
7月13日 豊臣秀吉の小田原城攻め
 ※徳川家康が関東に入封。
 ●井伊直政が箕輪城に入封。徳川筆頭家老の最高
     石高12万石で入城
※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)に居を
構えた。
 2年後、井伊直政を離れ、井伊谷金指で1000石を賜った。
※木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。
※松下源太郎(井伊直政養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は鬼門「龍門寺」にある。
※龍門寺を建立・・・白庵和尚 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
浜松龍譚寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺

・慶長3年(1598) 箕輪城廃城 
 ●井伊直政は高崎城に移り、城下町を造った。

・慶長5年(1600) 
9月15日 関が原の戦い
  ●井伊直政の兵力5000で家康本軍に随行。
   山内一豊など諸大名を東軍工作を実行。
   本戦で家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐。
    西軍に一番槍の戦功。
関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走。
 10月10日 井伊直政は関が原の合戦の功
  ●井伊直政は近江佐和山18万石の大名となった。
    近藤季用は井伊谷3050石を賜った。
    松下常慶安綱は引佐郡の代官になった。

・慶長6年(1601) 近江国佐和山に18万石を与えられた。
   井伊直政は18万石の佐和山城主となる。
(滋賀県彦根市)
・慶長6年(1601) 江戸幕府は代官頭伊奈備前守忠次に
        井伊谷筋の寺社領を安堵。
        *彦根城の築城開始。

・慶長7年(1602) ●2月1日過労と島津義弘軍の追撃で受けた
   鉄砲傷の破傷風が元で死去。(43歳)
       →井伊直政の次男:井伊直勝が継承。
・慶長8年(1603)  徳川家康、征夷大将軍となる
 飯田助右衛門が井伊谷筋の代官として井伊谷陣屋に勤めた。
 伊奈備前守忠次は上野玉村代官になり、滝川用水に尽力した。
・慶長9年(1604) 井伊直勝が近江:彦根城を築城。


・現在、井伊谷城跡城山公園として整備されている。
 しかし、土塁状の遺構がわずかに残るのみである。
 龍譚寺は井伊家ゆかりの寺院で、境内には井伊家歴代墓所
 や近藤家:鈴木家の墓もある。



★明日は、引佐の龍譚寺かな?

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