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zoom RSS 箕輪初心★井伊直政=井の国千年物語後編

<<   作成日時 : 2012/12/04 07:31   >>

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F井伊虎松誕生&父:井伊直親の死
・永禄4年(1561) 2月9日井伊直政(幼名虎松)だ生まれる。
・永禄5年(1562) 井伊直親が今川氏真により呼び出され、
         遠州掛川にて朝比奈泰朝に誅殺。
供18人も抹殺。
理由・・井伊直親が松平元康(徳川家康)と仲良し
画像

(★現掛川城)

◆◆ 箕輪初心★井伊家の歴史:井の国千年物語前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_3.html

◆◆ 箕輪初心★箕輪城54【井伊直政】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201011/article_25.html


G井伊直平の毒殺
・永禄6年(1563) 20代:井伊直平が飯尾備前守に毒殺された。
家臣の大石が川名の渓雲寺に埋葬。

H曳間城攻め
・永禄7年(1564) 新野左馬助・中野信濃守直由が
          曳馬城(現浜松城)攻めで討死。
新野左馬助は2歳の虎松を命に代えて守った。
 ※新野左馬助の妹は祖父:井伊直盛の妻である。

  →当時、府中(松本)の小笠原長時の支配下にあった
  信濃市田郷(現長野県伊那郡高森町)の松源寺に
  逃げた。松源寺は松岡貞利の松岡城の5の郭下に
  あった。松源寺は、井伊谷の龍譚寺の開祖が出た
  お寺であった。松岡貞利は井伊直政を2歳〜14
  歳まで、庇護し、学問や武士の心得を教えたの
  だった。

I女性地頭:次郎法師登場
・永禄8年(1565) 井伊直盛の娘:次郎法師祐圓尼が
        女性地頭になる。井伊家の男は
        5歳の虎松だけだった。
※虎松の母は、浜松の松下家に再婚していた。
・永禄11年(1568) 中野信濃守直由が井伊谷を支配。
家老:小野但馬、井伊領を横領。
井伊谷三人衆、井伊領を治める。
         小野但馬を追放。

J徳川家康の遠州進出
・永禄11年(1568) 12月15日、徳川家康が三河→奥山
    →遠州侵攻。
道案内は「井伊谷三人衆」だった。
近藤康用(やすもち)・鈴木重時・菅沼忠久だ。
多くの小野但馬は徳川家康配下になった。
    しかし、虎松は鳳来寺へ逃れた。
8歳〜14歳まで鳳来寺で過ごした。
    虎松の実母:井伊直親内室は松下源太郎と再婚。


K堀川城の合戦
・永禄12年(1569) 徳川家康が気賀の堀川城・掛川城を攻略。
         →今川氏滅亡。
L三方が原の合戦
武田信玄の遠州への侵攻
・元亀3年(1572) 10月 仏坂の戦い
山県昌景 VS 井平軍
    12月、三方原合戦。
徳川家康は大敗。
家康の脱糞伝説・・・
・天正元年(1573)武田信玄の野田城攻撃
菅沼忠久の敗戦
※武田信玄が死亡。

M虎松、徳川家に出仕
・天正3年(1575) 養母の直虎=次郎法師に育てられて
   いた直親遺児の井伊直政は、養母・実母などが
   相談して、今川氏を滅ぼした徳川家康を頼ることに
   した。
徳川家康の三方が原での鷹狩りの時、次郎法師に 
付き添われて謁見した。
徳川家康は、虎松の父:直親が家康に味方しようと
して今川に殺されたので、不憫に思い、家来にした。
徳川家康は虎松の300石を与えた。

◆◆ 箕輪初心●箕輪城シリーズ54「井伊直政」◆◆



第四章 「井伊直政の活躍」
・天正元年(1573)1月、武田軍井伊谷へ乱入。
龍潭寺が炎上。
・天正3年(1575) 虎松が徳川家康へ出任。
       徳川家康は万千代の名を与え、
        300石を与える。
井伊万千代の名で旧知行地の井伊谷を賜った。
※武田信玄が駒場で没。
※長篠の戦い

@万千代の初陣
・天正4年(1576) 高天神城の戦い
     徳川家康・信康 VS  武田勝頼
画像

万千代は徳川家康の寝所に忍び込んだ間者
      =スパイ=殺し屋を討ち取った。
     戦功・・・3000石に加増。

・天正6年(1578) 万千代が10000石に加増。
・天正9年(1581) 高天神城の戦いA 
   徳川家康は5000人の軍勢を率いて、高天神城を
     攻撃。兵糧攻め。
   武田勝頼は甲斐から援軍を送ることができず、
     城将は今川旧臣:岡部元信の城兵全員が討って
     出て、玉砕したと言われている。
   ●井伊直政は、高天神城の攻略の戦功
 
画像
A武田軍滅亡・・本能寺の変
・天正10年(1582) 22歳で元服。直政と名乗る。
   3月 新府城→天目山で武田勝頼が自害・
      武田氏が滅亡。
      甲州:若神子城・獅子吼城の戦い・・・・
服部半蔵の活躍。
      北条氏の大導寺政繁との交渉で徳川方の使者と
      して政治的手腕を発揮。
      徳川家康が武田氏の旧領:信濃国・甲斐国を支配。
     →武田家の旧臣達を多数与力に抜擢。            
   ●井伊直政は武田氏の旧臣達約120人と家康の旗本の
      一部が配属された。
     兜や鎧など使用する全ての装備品を赤色で統一。
    →「井伊の赤備え」と呼ばれる部隊の大将となった。
    理由・・山県昌景の意志を尊重し、朱色の軍装を復活
    赤は目立ちやすく、自分の部下達がどこにいるか分かる。    
     
   ●井伊谷4万石に加増。
   
     

B徳川家康の伊賀越えに井伊直政が活躍
6月2日 本能寺の変・・・家康の伊賀越えに従い、
   堺から帰還。
画像
   
  本能寺の変後、甲州平定において、北条との交渉
   →井伊直政が正使・木俣守勝がの副使になった。
  木俣守勝は井伊直政を補佐し、北条家との交渉を
   うまく進めた。
  この後、井伊直政付きになり、筆頭家老となった。
   万千代元服。井伊兵部少輔直政を名乗る。


C井伊直政の結婚&井伊家再興
天正11年(1583)徳川家康の養女で駿河沼津三枚橋城主
    :松平康親の娘である花後の唐梅院)と結婚。
 ●旗本先手役に任ぜられて、本多忠勝や榊原康政の
    同僚となる。→徳川四天王


D井伊の赤備え
・天正12年(1584) 徳川家康は井伊谷3人衆
 (近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)
  に対し、井伊直政に仕えるよう命じた。
・天正13年(1585) 小牧・長久手の戦い
  井伊直直政は短気で家臣に非常に厳しかったと
   言われている。
  徳川・織田連合軍の約10倍近くの兵の羽柴軍の
   総大将である羽柴秀吉(=豊臣秀吉)や配下の武将達も
  「井伊の赤備え」には大変手こずったという。
  井伊の赤備えは、「戦国屈指の精鋭部隊」「徳川家臣団最強
   の部隊」と見なされ、本人は「井伊の赤鬼」と称され、
   諸大名に恐れられるようになった。
  自ら先陣に立って戦うことを好んだため、筆頭家老:
   木俣守勝がその役目を果たしたと言われている。 
 →●井伊直政は井伊谷6万石の大名になった。

・天正13年(1585)井伊直政の実母、浜松松下源太郎宅で没。
・天正14年(1586)徳川家康は浜松より駿河へ移る。
         井伊直政も家康に従って駿河へ移る。

E大政所の警備
※豊臣秀吉は、徳川家康に上洛し、家来になるように
 迫った。
  →徳川家康は「NO/」
・天正16年(1588) 井伊直政は聚楽亭へ徳川家康に御供した。
    聚楽第→岡崎
  井伊直政は、岡崎→京都を警護。
  井伊直政は豊臣秀吉の計らいで侍従に昇格した。


・天正16年(1588) 井伊谷3人衆の近藤康用が井伊谷に
    おいて没(72歳)


F父の恩人:松岡氏を救う。
・天正10年(1582)織田信長の伊那侵攻。
 松岡頼貞は織田信長の家臣となり。本領を安堵された。
 6月、本能寺の変。・・・織田信長は急死。
・松岡貞利は徳川家康と豊臣秀吉のどちらに就くか去就を
 決めかねていた。徳川家康に誓詞を入れ服従を約することに
 した。でも、松本の小笠原貞慶が徳川方の保科氏の高遠
 城を攻めた際、松岡貞利は小笠原氏に味方して高遠の攻撃に
 加担した。それを家臣に密告され、
・天正14年(1586) 信州伊那の松岡家は、小笠原貞慶の
  命令で、、徳川家康の敵であった。
・天正16年(1588) 松岡貞利は徳川家康から改易を命ぜられ、
 所領を没収された。約500年続いた松岡氏の支配は終わり
 を遂げた。しかし、井伊直政の嘆願により、死罪は免れた。
 井伊直政が弁護し、松岡貞利は救われ、家臣になった。



完璧に、井伊直政が義理人情に厚かった
 人物像を描こうと、思わせようとする井伊谷の人々の
 意図が伺われると感じたのは私だけであろうか?
 ほとんどの人が井伊直政は自己中の我が儘タイプ
 と思っていると思うのであある。非常に曖昧な表現
 なので、・・・いつか井伊有識者に聞いてみようと思
 う次第である。



G箕輪12万石
画像


天正18年(1590) 
2月 井伊直政の長男:直継=直勝が浜松で誕生。
3月 井伊直政が小田原合戦で先手を勤める。
7月13日 豊臣秀吉の小田原城攻め
    ※写真は神奈川県教育委員会の看板より

 ※徳川家康が関東に入封。
 ●井伊直政が箕輪城に入封。徳川筆頭家老の最高
     石高12万石で入城
  井伊直政は小田原城落城のきっかけを作った
   篠曲輪攻めでの功績。
    (★高崎文化協会:西原巌氏)
・酒井忠次・下総国臼井(碓井)城3万7000石。家次が入城。
・本多忠勝・・・下総国大多喜城10万石・館山城里見対策
・榊原康政・・・上野国館林城10万石・・・・
・井伊直政・・・上野国箕輪城12万石・・・・上杉・真田対策
 ●井伊直政は豊臣秀吉の命令で上野国箕輪(群馬県)
   の12万石
 ※近藤秀用は箕輪城の南300mの富岡(車郷小学校南)に居を
構えた。
  2年後、井伊直政を離れ、井伊谷金指で1000石を賜った。
 ※木俣守勝は、箕輪城内の「木俣」に居住した。
★箕輪初心私見「箕輪城の改修工事や城下町の建築。
 連雀町・本町・紺屋町・田町・四ッ谷などは町作りの
名残である。」
 ※松下源太郎(井伊直政養父)は松下=稲荷曲輪に居住。
 →墓は鬼門「龍門寺」にある。
※龍門寺を建立・・・白庵和尚 
井伊直政の開基の寺は「龍」がつく。
浜松龍譚寺→箕輪龍門寺→高崎龍広寺→彦根龍譚寺

 ●井伊直政8年・・箕輪城は直政の居城跡説が有力。       
 {★箕輪城の歴史・・箕郷町教育委員会の冊子より} 
●城と城下町の整備・改築
  @東側を空堀→水堀。東を武家屋敷
  A大手門の丸戸張りという郭に鉄砲狭間付きの塀
   ・大手門(後の高碕城槻木門)設置。『上州高碕城大意』
   ・大手道・・・大手ことう門・・・三の丸
  B城下町の整備
   東・・・武家屋敷
   南・・・4つ通にの商人・工人の民家
    1)白銀町・紺屋町
    2)・本町・鍛冶町
    3)連雀町・田町・四ッ谷 
    秋本先生「宿は北条時代・町は徳川の呼び方」
    4)寺の分散配置・・・戦略上の城の出丸。
      龍門寺は城の鬼門に創建。
      井伊家の菩提寺。

・天正19年(1591) 井伊直政が九戸一揆の蒲生氏郷と鎮圧に
         出陣。   
・文禄元年(1592) 井伊直政が江戸留守居役に抜擢。
        江戸城普請。
・文禄5年(1596) 井伊直政が箕輪12万石の検地を実施。
・慶長3年(1598) 箕輪城廃城
 井伊直政は箕輪城の堀を半分程度、埋める。
 ★箕輪初心私見「箕輪城が前田・真田等の元外様大名に
      使われないように。」 
 ●井伊直政は箕輪城から高崎城に移り、城下町を造った。


H関ヶ原の合戦
・慶長5年(1600) 
 9月15日 関が原の戦い
  ●井伊直政の兵力5000で家康本軍に随行。
   山内一豊など諸大名を東軍工作を実行。
   本戦で家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)を補佐。
    西軍に一番槍の戦功。
画像

 関ヶ原の戦いの戦後処理と江戸幕府の基礎固めに奔走。
 10月10日 井伊直政は関が原の合戦の功
  ●井伊直政は近江佐和山18万石の大名となった。
    近藤季用は井伊谷3050石を賜った。
    松下常慶安綱は引佐郡の代官になった。

・慶長6年(1601) 近江国佐和山に18万石を与えられた。
   井伊直政は18万石の佐和山城主となる。

(★滋賀県彦根市の佐和山城)


I井伊直政の遺言
・井伊直政は叔母の「中野越後守の妻に代参をお願い
 します。」・・・
ここでも、井伊直政が義理堅い人間として
 世間に知らしめようとする意図が伺われる。
 地元は過大評価するのが当然である。
 頑張らなくても、いいのでは?
 とかく、地元は聖人君子に仕立てたがるものなんだろう。
 馬鹿みてえ。・・・

 




J井伊直政の死
・慶長6年(1601) 江戸幕府は代官頭伊奈備前守忠次に
        井伊谷筋の寺社領を安堵。
        *彦根城の築城開始。
  徳川家康は木俣守勝に「・・・がんばれ?」
・慶長7年(1602) ●2月1日過労と島津義弘軍の追撃で受けた
   鉄砲傷の破傷風が元で死去。(43歳)
       →井伊直政の次男:井伊直勝が継承。
・慶長8年(1603)  徳川家康、征夷大将軍となる
 飯田助右衛門が井伊谷筋の代官として井伊谷陣屋に勤めた。
 伊奈備前守忠次は上野玉村代官になり、滝川用水に尽力した。
・慶長9年(1604) 井伊直勝が近江:彦根城を築城。

・慶長9年(1604) 井伊直政の子:井伊直勝は
 近江国彦根に移り築城した
・元和元年(1615) 幕命により弟の掃部頭直孝に彦根藩主の
座を譲った。
井伊直孝の代には35万石の譜代大名となった。
井伊直勝は兵部少輔を世襲。3万石の安中藩藩主となった。

※彦根城は江戸幕府が諸大名に御手伝普請をさせた。
  幕府が大名に普請させたのは、京・大坂に備える必要
   あったといわれている。



K井伊直政の子供たち
分家・井伊兵部少輔家
  井伊直政の長男:直勝は病弱だったといわれる。
  安中藩→西尾藩→掛川藩と転封。
   直勝の曾孫で掛川藩主:直朝が改易。
  宗家・掃部頭家から直興(直該)の
   4男:直矩を迎えての家名再興存続。
  与板藩主2万石。・・・10代・井伊直朗が若年寄。
   城主格に昇格。
  維新後、子爵華族。
現当主は井伊達夫(旧姓中村、京都井伊博物館長)で、
  2007年に婿養子となって名跡を継いだ。
(★ウキペディアを参考に編集)


L大老:井伊直弼
◎井伊直弼は老中阿部正弘の死後に大老となった。
◎将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧で
 ある安政の大獄を行った。
◎日米修好通商条約に小栗上野介らを派遣した
×桜田門外の変で水戸浪士に暗殺された。
ピストルを渡したのは中居屋重兵衞だった。

直弼の死後、幕政の混乱の責任で10万石を没収された。
◎井伊氏年表
◎井伊氏家系図
◎井の国・・史跡地図
◎遠江・三河・信州の地図



※参考文献等・・
   ・井伊直政・高崎文化協会西原巌氏論文
  ・「箕輪城の歴史」関係の本・・・約30冊
  ・彦根城博物館の発刊の本やHP
  ・井伊谷歴史の会HP
   ・ウキペディアHP
・井の国千年物語


■江戸時代 宗家・井伊掃部頭家・・・彦根藩家
@直政 (病弱)→安中藩へ
A直孝  15万石→20万石→25万石→30万石
      →35万石格
B直澄〔大老〕
C直興〔大老〕
D直通〔侍従〕
E直恒
F直治→直該(なおもり)〔大老〕 4代・直興が再封
G直惟(なおのぶ)〔左少将〕
H直定
I直=iなおよし)
J直定 再封
K直幸(なおひで)〔大老〕
L直中〔侍従〕
M直亮(なおあき)〔大老〕
N直弼(なおすけ)〔侍従 大老〕
   直弼は将軍後継問題では南紀派を後援し
   一橋派や反対の弾圧した。
   安政の大獄を実行したが、桜田門外の変で暗殺された。
   ★箕輪初心「長野主膳は、伊勢出身。」
   (★彦根城博物館学芸員&博物館の系図調べ)
N直憲(なおのり)〔左近衛権中将〕 
    30万石→20万石→23万石
   大政奉還後には譜代筆頭にもかかわらず、
     新政府側に転向。
   鳥羽・伏見の戦いでは新政府側に属し、
     戊辰戦争にも転戦。
明治17年(1884)伯爵華族。
昭和28年(1954)〜 
   井伊直憲の孫:井伊直愛が彦根市の市長
現在  井伊直愛の孫娘:井伊裕子と婿養子として結婚した
    井伊岳夫=井伊直岳氏が彦根城博物館長。
 (★ウキペディアを参考に)
画像




★明日は、小和田哲夫氏の「井伊直政」かな?

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箕輪初心●静岡【井伊谷城】=井伊直政先祖発祥の居城
井伊谷城は静岡県浜松市北区の引佐町にある中世の山 城である。旧引佐町役場の北の井伊谷川と神宮寺川の 合流点の間にある標高114mの城山とその山麓一帯が井伊 氏の平時の居館であった。戦時の詰め城には東方約3km の山城:三岳城である。藤原=井伊共保〜井伊直政が今 川氏の難をさけ、三河国の鳳来寺に逃れるまで、約540 年余の井伊氏の居城であった。また、井伊氏以後、この 地は井伊谷三人衆の一人近藤氏が支配した。近藤氏陣 屋もこの一角にある。本丸、二の丸、三の丸などで構成さ れて... ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2012/12/05 07:19
箕輪初心■静岡【龍潭寺】=井伊家の菩提寺
現静岡県浜松市北区引佐町井伊谷は井伊氏発祥の地で ある。居城:井伊谷城の南4〜300m程の所には、龍潭 寺がある。天正5年(733)に行基によって開創されたと伝 わっているそうだ。井伊氏は、平安時代に、藤原鎌足の子 孫藤原共資が遠江守となって下向したのに始まる。子の藤 原共保が井伊谷に住み、井伊に改姓した。南北朝の時代に は井伊氏は南朝の宗良親王と北朝の足利尊氏の家臣と戦っ て負けた。室町時代末期、20代:井伊直平が黙宗瑞淵和 尚を迎え、臨済宗妙心寺派となった。22代:井伊... ...続きを見る
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2012/12/06 06:45
箕輪初心★箕輪城90【井伊直政の箕輪城時代の家臣団一覧】
★中村達夫氏=井伊岳夫氏は【井伊軍志】の中で、天正18年 (1590)年の箕輪城入城時〜慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い までの期間は、士(侍)大将&準(准)将クラスを17名、 足軽大将&準衆クラスを18名+3名〜4名としている。 ★井伊直政は250騎=1000人程の家臣しか持っていなか ったが、天正18年(1590)年の秋=旧暦の8月3日〜7日 の間に箕輪城に入封して井伊直政の家臣が増えていった。 ・慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い=高崎城時代には、 井伊直政の「赤備... ...続きを見る
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箕輪初心★箕輪城91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】
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2012/12/16 08:27
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★平成27年(2015)4月3日〜7日まで、高崎シティギャラリ ーにて、中嶋宏氏の主唱する【長野堰を語り継ぐ会】の長野堰 の絵図展が開催された。いくつかの新聞社の掲載記事、NHK 報道もあり、5日間で約2000人近くの来場者があった。慶長3 年(1598)に徳川四天王の「井伊直政」が本城を箕輪城→高 崎城に移した。高崎城の縄張りは早川幸豊がしたのであろう。 長野堰からの新井堰の取水口→高崎城への水堀&高崎の城下 町の用水路は秋元長朝、新井喜左衛門などに命じて作らせた のでな... ...続きを見る
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2015/04/09 08:04

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