城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心●箕輪城93【上泉伊勢守秀綱】箕輪城落城〜流浪の旅へ

<<   作成日時 : 2012/12/24 08:52   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 6

箕輪城主は、長野一族→武田信玄の家臣→織田信長家臣:
滝川一益→北条氏康の2男:北条氏邦→井伊直政である。

しかるに、箕輪城にたなびいている旗は、@「箕輪城」
@「長野業政」B『井伊直政』&C『井伊直政の家紋』
である。「上泉伊勢守信綱」の旗があるのに、何故、
武田信玄、滝川一益、北条氏康の旗はないだろうか?
疑問を感じるのは、私だけであろうか。

上泉伊勢守信綱は剣聖と呼ばれる達人で、私も大
ファンであることには変わらないが・・・。

画像

画像



【0】上泉伊勢守信綱に関する疑問 
謎@・・上泉伊勢守の妹は、箕輪城主長野業政の妾説?
    (★剣の天地:池波正太郎説)
謎A・・上泉伊勢守の祖父は大胡氏説(多数説)であるが、
    大胡右馬充は長野一族説であるという反対説。

     (★高崎市史説・・主に久保田順一先生)
 *次回の箕輪城は、久保田順一先生特集だ。
謎B・・上泉秀綱は箕輪城で武田軍と戦いと箕輪城落城時の
     場所と活躍した小説も多そうであるが・・?

謎C・・武田信玄が家臣にしようとしたが、家臣にならなかった
    ので、「信」の字だけを与えた。名を信綱に改名した。
『甲陽軍艦』だけ、信じてよいのだろうか?

謎D・・上泉秀綱は武田信玄の重臣内藤豊後守昌豊の家臣と
    なったと生島足島神社の起請文にはあるが、
    柳生の里にいつ行ったのであろうか?
    箕輪城落城後か? 武田氏滅亡後か?
    柳生など多くの武芸者に新陰流を伝えたらしい。


平成23年の某月にはいつのまにか上泉伊勢守信綱の旗が
立ててあった。平成20年の上泉伊勢守信綱生誕500年祭の
記念事業の一貫、あるいは延長であろう。
しかし、高崎市箕郷町の発展に寄与したのは、長野業政と
上泉伊勢守信綱と井伊直政だけではない。
玉村町や高崎市旧新町では、「滝川一益」の応援隊まで結
成し、頑張っているのだ。


【1】上泉伊勢守信綱
・永正5年(1508年)? 〜
  @天正5年(1577)1月16日没説
  A天正10年(1582)没説

◆◆ 箕輪初心●群馬【上泉城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_23.html


【2】上泉伊勢守秀綱の長野業政の同心時代
『箕郷町誌』P988・・永禄元年(1658)着到帳
=「上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録
(永禄元戊午年正月廿九日改軍評定到着帳)」
  「勢多郡上泉の住人:「上泉伊勢守時則」:
     下柴砦の主。
『箕輪軍記』『箕輪記』・・「上泉伊勢守」とだけ表記。
『上州治乱記』・・・・・・「上泉伊勢守豊成」と表記。

  (★近藤義雄氏)


【3】上泉伊勢守信綱の流浪の時代・・門弟と旅?
江戸時代の戦記物『箕輪軍記』『箕輪記』『上州治乱記』
『関八州古戦録』『甲陽軍鑑』などに記載された箕輪城
永禄6年落城説が通説であった。しかし、『長年寺古文書』
(高崎市榛名町)が発見され、、永禄9年(1566)落城
説が有力となった。今では、通説になった。

@永禄6年(1563)〜永禄10年説
『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』など
・永禄6年(1563箕輪落城後、新陰流を普及させるため門弟
 と旅に出た。
『本朝武芸小伝』・・神後伊豆守・疋田文五郎など、
永禄6年(1563) 上洛。
『柳生家文書』・・・疋田分五郎と鈴木意伯。
『甲陽軍鑑』・・・・古河公方・足利義氏に招かれた。
『兵法由来覚」・・・上泉信綱一行は伊勢神宮で柳生のことを
          聞き大和へ行った。
『正伝新陰流』・・・
  ・永禄6年(京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を
  訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いて大和に向か
  い、柳生宗厳と出会い、柳生宗厳を下した。
上泉信綱が永禄6年から諸国を巡った伝承や印可状・
目録がおかしいことになる。もし、正しいとするならば
箕輪城の落城には箕輪城にいなかったことになる。
・天文24年(1555) 上泉伊勢守秀綱は北条氏康に攻められ、
 上泉城&大胡城を開城降伏したという。
長尾景虎に協力して大胡城を奪回した。
・永禄元年(1558) 箕輪城主長野信濃守業正の麾下となっ
た。・・・(★箕輪町誌:箕輪城着到帳)
長野十六人槍に数えられた。上野一本槍の感状を受けた。
・永禄4年(1561)長野業政の死後、嫡子:右京進氏業=業
 盛が箕輪城主となったが、・・・どうなのであろうか?
・永禄5年(1562)長野氏業=業盛は、三夜沢の赤城神社に
 戦勝祈願に行った。ここは、永岡慶之介の小説では、
 上泉伊勢守秀綱の修行場であったという。
永禄6年(1563)の落城説後、
 永禄7年・永禄8年は武田信玄の侵攻に対して、上泉信綱が、
 箕輪城を離れるのは非常におかしい。

上泉伊勢守信綱は嫡子:上泉秀胤を北条氏康のもとに
 人質となり、小田原に送り圧力の緩和を策した。
 その後、上泉秀胤はそのまま後北条家に仕官した。
 永禄7年(1564)「国府台の戦い」で重傷を負い死去
 した。という説もある。
 ・・・上泉伊勢守信綱西林寺建立し、菩提を弔った。
 つまり、この時にはまだ旅に出ていない可能性も高い。


A永禄9年(1569)の流浪説
箕輪城落城後に諸国流浪をしたことになる。
 (★高崎市史など))

B永禄12年(1569)1月15日 〜元亀2年(1571)7月21日説
 『言継卿記』・・山科言継の日記では、上泉信綱の上洛期間
 は永禄12年(1569)1月15日 〜元亀2年7月21日までであ
 る。元亀2年(1571)7月21日に京を去り故郷へ向かった。
とういう確かな古文書もある。

C元亀元年(1570)以降の内藤昌豊家臣時代説
内藤昌豊の家臣になった元亀元年(1570)年以降の
 旅立ちとなる考えである。
 ★『甲陽軍艦』での旅立ちはここかもしれない。

これらをまとめると、
・永禄6年(1563) 旅に出た。
  京へ向かう途中で伊勢の北畠具教を
  訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いてそこへ向かい、
  胤栄と柳生宗厳と出会いこれを下した。

・永禄7年(1564)以前・・疋田文五郎景兼・神後
            鈴木意伯に印可状を与えた。
※「兵法由来覚」では疋田景兼・香坂要も免状を受けた。
・永禄8年(1565) 柳生石舟斎宗厳に印可状を与えた。
         宝蔵院胤栄に印可状を与えた。
・永禄9年(1566)※武田信玄の攻撃で箕輪城落城
・永禄10年(1567) 丸目蔵人佐に目録を与えた。
駒川国吉・奥山休賀斎にも印可状が与えられた。

上泉孫四郎(「兵法由来覚」によると信綱の孫)
 ★上泉泰綱が孫あるとすると、北条氏忠の娘が妻である。
後北条家家臣:上泉秀胤が「第二次国府台の戦い」で
 討死した後、上泉家督を相続した。
 ・天正18年(1590)「小田原の役」で後北条家が滅亡
し、浪人になった。
 ・慶長5年(1600) 越後上杉景勝の家臣となり、直江兼続
  の配下となった。「長谷堂城の戦い」で、最上家の
  志村光安と戦って討死した。
結局、いつ孫を認可したのであろうか?


【4】内藤昌豊の家臣時代
・永禄11年(1568) 工藤=内藤昌豊は武田家譜代内藤家を継ぐ
 ことを許されて内藤修理亮と名乗った。
・永禄12年(1569) 三増峠の戦い
内藤修理亮は小荷駄隊を率いて、津久井城に入った。
 そののち、厩橋城主・北条高広と共に、武田・上杉・北条による
 三国同盟の締結を画策し、跡部勝資(長男の妻は昌豊の娘)に
 援助要請するが、最終的に失敗した。

・元亀元年(1570)頃
9月10日 家老内藤豊後守昌秀(昌豊)が箕輪城現地統治。
 ★工藤姓→内藤姓
@内藤豊後守昌豊が上州7つの郡代・・・
  在地領主領国安堵状(★生島足島神社蔵)
 「安中・小幡一族・後閑・一宮・高田・高山・和田・松本
  ・馬庭・酒井・依田・桃井・富所・猿渡・荻原・須藤
  ・小沢・市川・神保・土屋・高橋・黒沢・高瀬・上条
  ・武河・南蛇井・伴野・尾崎・湯浅・」
 *内藤豊後守昌秀(昌豊)
  家臣50騎+長野氏の元家臣200余人=約250騎
★箕輪城落城後に、300騎になった説もある
 「美方民部左衛門勝業、道寺久助、町田兵衛義信、
  神尾図書兼、上泉伊勢守秀綱、寺尾豊後守長成、 
  長塩長八郎道方、八木原伴七家方、久保島重蔵時頼、
 矢島久左衛門定勝など。
 配属・・・大熊伊賀守(高浜砦)、新井筑後守(三ッ子沢砦)、
  内山播磨守(白岩砦)、
 清水太郎左衛門(松の沢砦?→和田山砦)、青柳治部(下芝砦)
 *内藤豊後守昌秀(昌豊)に、(保渡田組)
  大熊備前守・塚越半七・吉田伊豆守(豊岡砦→中里)
  は反攻。
     (★箕輪記→山崎一著「群馬の古城」)
  ★内藤豊後守昌豊の箕輪城の家臣一覧表    
◆◆ 箕輪初心●箕輪城:【内藤豊後守昌豊】◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_25.html

★『甲陽軍艦』での旅立ちはここかもしれない。

・元亀2年(1571) 北条氏康の死去。
・元亀3年(1572) 三方ヶ原の戦い
上泉伊勢守信綱は参戦? または、流浪の旅?
・元亀4年(1573)4月 武田信玄が死去。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
  ★上泉伊勢守信綱は参戦? または、流浪の旅?
 
@天正5年(1577)1月16日没説
A天正10年(1582)没説



◆◆ 箕輪初心か読んだ上泉信綱が登場する小説 ◆◆
@『上泉伊勢守』池波正太郎著(朝日新聞社)
A『信玄忍法帖』山田風太郎著
B『忍者武芸帳』白土三平著・・・漫画
C『剣の天地』池波正太郎著(新潮文庫版2002年)
画像

D『邪法剣』柴田錬三郎著(新潮文庫1985年)
E『秘剣・豪剣・魔剣』・・戸部新十郎:縄田一男編(新潮文庫)
画像

F『上泉伊勢守信綱』永岡慶之助著(叢文社1997年)
『上泉信綱 』永岡慶之助著(人物文庫2009年)
画像

G『バガボンド』井上雄彦(講談社、週刊モーニングコミック)
H『上泉伊勢守物語』生誕500年記念編集プロジェクト
画像

錯乱した男が赤ん坊を人質に取って農家に立てこもった。
上泉伊勢守は自らの髷を落とし、借り物の僧着を着て、
お坊さんに成りすました。ゆっくりと家に近づいて、手に
持っていたおむすびを食べるようにすすめ、中へ投げ
入れた。と、その瞬間には家の中へ飛び込みます。
上泉伊勢守は刀を押さえ、無刀取りを披露した。
やがて、上泉伊勢守はは赤ん坊を抱いて飄々とした
表情で出てきた。
・・結果的に、この無刀取りを柳生石洲斎に伝えた。

    ・・・(★この冊子の名場面)


I『業法滅法:小説箕輪城』(★野口先生の「箕輪城」より)
 上泉伊勢守は笠置山を守っていたが、業政の自刃の知らせ
  を聞き、・・・ 
画像

J『残月』:田村貞男著・・・上泉信綱は出てこない。
K『残雲』・


永禄9年(1566) 武田信玄が箕輪城を攻撃時、上泉伊勢守
秀綱は箕輪城在城し、活躍したのは本当だろうか?
上泉伊勢守信綱が本当に箕輪城での長野氏業=業業の自決後
に修行の旅に出たのだろうか?





★今日から、腰が痛いのにパラオにダイビングにいくのだ。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
結局、23日は余湖さんと同道しなかったようですね。
藤岡、鬼石町の山城を回ったようです。
富岡武蔵
2012/12/24 22:44
残念でした。去年・一昨年同様に海外旅行を12月24日からにした理由の一つは、富岡武蔵氏や余湖さんや埋もれた古城さん達と城回りに行きたかったからです。富岡氏も一緒ではなかったようですね。また、声をかけて下さい。
富岡武蔵さんへ
2012/12/31 18:21
初めまして。
群馬在住の野口と言います。ブログ拝見させて頂きました。伊勢守についていろいろな角度から調査されていてとても面白く読ませて頂きました。
私も伊勢守を調べているのですが、一線級の資料が少なく難儀しますよね。
特に群馬県内での活躍は、後世の軍記物によるところのみでしか伝わっていませんので、真実と言うよりも妄想が膨らむのみです。
ただ最近の久保田順一さんや黒田基樹さんなどの研究から、その妄想の幅が広がり、その結果、真実と上手くリンクしそうな妄想が出来るのではと考えています。
因みに私は、箕輪城落城時に伊勢守は箕輪城に在城していなかったと考えています。
理由は箕輪初心さんもまとめていらっしゃいますが、永禄9年前後には、柳生氏や丸目氏に新陰流の印可状を発行していますので、永禄9年に伊勢守が箕輪城にいた可能性は無いと思います。
ただ永禄6年に長野氏は、武田氏の猛攻にあっていますが、この時に長野氏に味方して戦い、武田方に捕らわれて⇒諸国修行の旅に出た可能性はあるかと思います。
もちろん上泉氏が長野氏に味方したという事が前提ですが、後世の軍記物で、伊勢守が箕輪城落城時に在城していたと言うのは、この時の戦いと取り違えた結果なのではないでしょうか?
また甲陽軍艦にある、信綱は信玄から信の字の偏諱を受けて信綱と名乗ったとありますが、これも少し怪しいのではと考えています。
信綱は資料上では、伊勢守秀綱と伊勢守信綱を名乗った事が知られていますが、新陰流の印可状(目録)では、永禄9年5月以前は伊勢守秀綱、永禄9年5月以降は伊勢守信綱となっています。この印可状が事実であれば、箕輪落城の永禄6年説or永禄9年(9月29日)説、どちらもリンクしません。
以上ですが、伊勢守に関わらず、今度お城巡りなど、どこかでご一緒する事もあるかも知れませんの、その時は宜しくお願い致します。
野口と言います
2013/06/30 11:22
野口さん、お立ち寄りありがとうございます。野口さんは「箕輪城落城時に伊勢守は箕輪城に在城していなかった。」とお考えのようですね。私はよく分からないので、結論を保留にしています。前橋市の上泉ファンもいますので・・・。月の第2・第4土曜日などに箕輪城でガイドの
ボランティアをしていることがあります。機会がありましたら、箕輪城にお越し下さい。
野口さんへ
2013/06/30 12:02
「新陰流の印可状(目録)では、永禄9年5月以前は伊勢守秀綱、永禄9年5月以降は伊勢守信綱となっています。この印可状が事実であれば、箕輪落城の永禄6年説or永禄9年(9月29日)説、どちらもリンクしません。」・・・新情報、ありがとうございます。
野口さんへ
2013/06/30 12:07
野口です。

何度も書き込み申し訳ありません。

5月18日(日)13時〜、前橋市上泉町にある信綱菩提寺の西林寺で、直神陰流の奉納演武があります。
当日は、演武だけでは無く、西林寺本堂内にある、信綱が正親町天皇の御前で剣術を披見して拝領したと言われる御前机、信綱の木造、袋竹刀なども見学出来るかと思いますので、お時間あればいらしてください
箕輪初心さんへ
2014/03/25 00:50

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心●箕輪城93【上泉伊勢守秀綱】箕輪城落城〜流浪の旅へ 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる