城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心★箕輪城90【井伊直政の箕輪城時代の家臣団一覧】

<<   作成日時 : 2012/12/15 10:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0

中村達夫氏=井伊岳夫氏は【井伊軍志】の中で、天正18年
(1590)年の箕輪城入城時〜慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い
までの期間は、士(侍)大将&準(准)将クラスを17名、
足軽大将&準衆クラスを18名+3名〜4名としている。

井伊直政は250騎=1000人程の家臣しか持っていなか
ったと思われるが、天正18年(1590)年の秋=旧暦の8月
3日〜7日の間に箕輪城に入封して井伊直政の家臣が増
えた。・慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い=高崎城時代
には、井伊直政の精鋭部隊800人を先峰とした3600人
が出陣した。秋山太郎先生は、「総数1250騎5000
人の大部隊になっていった。」と話された。

画像

 (★箕輪城の井伊の旗)
画像


※名前の訂正について・・・失礼しました。
@旧与板藩主・・・中村達夫→井伊達夫(甲冑博物館長)
A旧彦根藩主・・・井伊岳夫(彦根城博物館長)



◆◆ 家臣団の増加 ◆◆
【1】第1期・・・井伊家先祖代々の家臣
   井伊家宗家+家臣+親戚衆家臣
        

【2】第2期・・天正3年(1575) 虎松(=井伊直政)が
   松平元康(=徳川家康)へ出任時。
   松平は万千代の名+300石を与えた。
+井伊直政付与力など

【3】第3期・・天正10年(1582) 武田氏滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付きになった者
    250騎=1000人程の家臣ではないだろうか?

  ※山県昌景の家臣は75人が含まれている。(★高崎市史)
    箕郷に山県昌景の子孫もいるという。
    井伊直政は井伊谷4万石に加増。  
    ※小牧長久手の戦い後、6万石に加増。

【4】第4期 ・・天正18年(1590)北条氏滅亡後、
   箕輪城12万石の加増。 
   徳川家康の命により井伊直政付きになった者  
  +庵原朝昌(今川家老家→武田勝頼→・・)


【5】第5期・・・天正18年(1590)以降〜
井伊直政家臣団の増強で加入した者
@旧長野業政・業盛の関係者・旧家臣団
   侍大将:安藤重勝など・・
     墓は松下家同様、高崎箕郷の龍門寺
 A旧後北条家家臣であった者


【6】第6期・・・慶長5年・・慶長5年(1600)以降
  高崎城時代には、1250騎5000人の大部隊になっていた。




●● 井伊直政の箕輪城時代の家臣団 ●●
画像

数字・・・中村達夫氏は掲載した代表的な家臣
印・・・Hpなどで、私が調べた家臣
画像



@木俣土佐守守勝 (?〜?)
◆◆ 箕輪初心★【木俣守勝】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_1.html
画像

・天正10年(1582) 徳川家康の命により
  井伊直政付家老。筆頭家老。
  木俣守勝の妻は、新野左馬之助の再婚の娘。
画像

 ★近藤義雄先生は木の又のような場所と
  説明しているが、西原巌氏のご指摘のように、
  木俣守勝の屋敷跡である。
 西原巌氏・大悍猿=E岡田豊治氏は、井伊家26代当主:
 井伊岳夫氏を案内して、木俣をご覧になった。
 井伊岳夫氏の本にも、「木俣は木俣守勝の屋敷である
 ことを確信した。」と書いておられる。

画像
 

A松下源太郎=松下豊前守・志摩守清景
井伊直政の母の再婚相手=井伊直政の養父
画像

 ○松下源太郎の養子:松下一定 
   中野直之の子(中野三孝の弟)。
   松下清景の養子。志摩守。 
  墓は上州箕輪龍門寺。
 ○松下源太郎の実子:松下高冬 (?〜1640年)
    松下一定の子。
  墓は上州箕輪(高崎市箕郷町)龍門寺。
   3代で断絶。
 ★高崎市箕郷町西明屋に子孫がいる。
  松下染め物店・・・家紋が同じ。(★西原巌氏調べ)

 ★「松下稲荷曲輪」は大正14年の「箕輪城興廃史」:
  斉藤平治カ著に見られるが、回りの郷土史家が
  山崎さんの発見と言い張っているようだ。
  これに、たいして、西原巌氏や大悍猿≠ヘ反発して
  いる。
画像

 浅野家文書には広さが見られる。

画像


◆◆ 箕輪初心★【松下源太郎】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_24.html
◆◆ 箕輪初心★【きつねの嫁入り&稲荷曲輪】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201209/article_29.html



B鈴木石見守重好=井伊三人衆:鈴木重時の子
★鈴木重時の妹は、父:直親の母。
  井伊直政にとっては、実のおばあちゃんの兄である。
★鈴木重時も井伊直親もともに奥山朝利の娘は
 妻である。
★鈴木重好の次男は、井伊直政の娘:采女の養子である。
画像
  


C近藤秀用=井伊谷三人衆:近藤康用の嫡子
 小牧・長久手合戦後?
 徳川家康の命により、井伊直政付家老。 
  
  井伊直政と仲はすっきりしないのだ。
  箕輪城移封直後、ただ一人、
  「江戸へ帰る。」と言い張ったが、青森九戸
  出陣で、たちぎれた。(★中村達夫氏)

 ※高橋さんの話
 「おそらく、箕輪城南500mの車郷小学校の南=箕輪町富岡
 の高橋家の場所に屋敷を持っていた。元は長野業政の
 従兄弟:長野直業の城で、車郷小学校やJAはぐくみをも
 含めた広大な城であったと考えている。
 この意見には、私も賛成している。




D菅沼忠久 (????〜????) 井伊三人衆。
 ★菅沼忠久の妻は、鈴木重時の娘である。 
 小牧・長久手合戦後、
 徳川家康の命により、井伊直政付家老。
 ★高崎市にも子孫がいる。


E椋原(むくはら)次郎左衞門政直(????〜????)
 ・天正10年(1582) 徳川家康の命により
木俣守勝とともに井伊直政付家老。
 

F西郷伊代守正員=正友・市十郎・藤左衛門(????〜1604)
・先祖の西郷稠頼が岡崎城築城。
・永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が戦死
 松平元康(=徳川家康)が岡崎城に入城。松平氏を再興。
 西郷正勝は次男:清員を人質に出して徳川家康に従属。
・永禄5年(1562)浜松の朝比奈の侵攻を受けて、正勝と
  嫡男:元正が戦死。こ西郷元正の子:義勝が継ぎ、
  叔父:西郷清員が後見した。
・天正3年(1575) 武田氏の秋山信友が三河設楽郡に侵攻
西郷義勝が戦死。徳川家康は清員の嫡男:家員に西郷
 宗家を継がせた。西郷義勝の妻は西郷清員の養女として
 徳川家康の側室:西郷局となり、徳川秀忠と松平忠吉を
 産んでいる。(★ウキペディアより)
・天正15年(1587) 徳川家康の命により井伊直政付家老
 2000石。
・天正18年(1590) 関ヶ原合戦
 西郷正友が箕輪城留守居城代となった。
2代:西郷重員が参戦し戦功をあげた。
 井伊家筆頭家老:鈴木重安と並ぶ勢力を誇った。
○西郷重員 (????〜1609) 3000石。
   重員が早世
○西郷員吉 (????〜????)
3代員吉は大坂の陣では戦功をあげることができず、
  他の家老たちのような加増はわずかであった。3500石。
第4席家老に甘んじた。妻は椋原正長の娘。
 

G中野助太夫=中野越前守三信   
※井伊直氏の弟:中野直房を祖とする親戚衆。
  

H河出主水良則 
 三河の河手城主:河手主水助景隆の嫡子。
 武田家家臣山県隊に所属。
・天正10年(1582)徳川家康の命により井伊直政に仕官
◆長篠戦い→武田軍の敗戦。徳川家康・井伊直政の配下
※井伊直政姉:春光院の嫁ぎ先。


I広瀬美濃守景房 (????・・????)
  武田家の板垣衆→山県衆へ。
 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付家老。
  井伊直政付大将になり、三科形幸・早川幸豊らと
  赤備えを作った。
  彦根城築城にも功があった。


K三科肥前守形幸 (みしななりひで) (????・・????)
 武田家家臣:山県衆
 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家に仕え井伊直政付家老。
  長篠の敗戦を体験し、井伊直政の一騎駆けを諫めた。
 徳川家康は石川数正が徳川家を出奔し信濃松本城主になった
 ため、徳川家の戦略が筒抜けになることを恐れて、
 井伊直政に広瀬や三科より山県昌景の兵法戦術を学ばせた。


石黒将監  
 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付足軽大将。
高崎市に子孫がいる。



今福求馬介  
・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付足軽大将。


辻弥兵衛盛昌 
  ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
   40騎の部下を引き連れて徳川家康に出仕。
  徳川家康の命により井伊直政付き侍大将。
  
越石(輿石)主水  
  ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付きお供衆?
  

小幡孫次郎・・・小幡重貞=信貞の「赤備え」
  武田24将の一人:小幡信貞(上野国甘楽出身)の子。
 小幡光重の子孫:小幡正俊は徳川家康に仕えた。


画像





◆◆天正18年(1590)の小田原城攻撃以降か?
L石原主膳吉次(????〜????)
武田家家臣:山県昌景の鉄砲衆。
 ・天正10年(1582)武田氏滅亡後
  後北条家家臣?(★中村達夫氏の研究では)
   山県家臣鉄砲奉行→北条鉄砲奉行
 ・天正18年(1590)北条氏滅亡。
 徳川家康に旧領を賜り、井伊直政付家老。
   井伊直政の旗奉行
 ★高崎市に子孫がいるらしい。


M孕石備前守泰時
 旧武田家家臣。駿河出身。
 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家に仕え井伊直政付家老。 
  井伊直政に仕えて1500石。旗奉行。
  彦根城築城にも功があった。


N三浦与三郎元貞 ・天正18年(1590)北条氏滅亡。
  井伊直政付家老

O横地与三郎吉晴 (????〜????)
 ・母:源頼朝妹&父藤原鎌足系工藤→遠州二階堂家→
  横地一族の本家。分家は戸塚左太夫正次
  1000石→加増。
 
P奥原六左衛門朝忠
甘利昌忠の娘婿で家臣:安中景繁=
   安中忠成の家老????

 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付御供衆


Q長野伝蔵業実
★後日、紹介
高崎市箕郷町に子孫がいるらしい。
 

内藤昌月(まさあき)
 内藤昌豊の養子=保科正俊の子&保科正直弟説
 ・天正10年(1582)
  3月、武田勝頼自刃。
箕輪城代:内藤昌月は、織田家家臣:滝川一益の
 家臣になった。父のいた保渡田城に移った。 
6月、本能寺の変→神流川の戦い。
北条氏邦の家臣
  兄:保科正直は武田信玄家臣→北条家家臣になった。
 ・天正18年(1590)内藤昌月が死亡。
   (★久保田順一先生)
   長男・次男は甲州若神子で帰農。
   →3男:内藤信矩が継いだ。
・天正18年(1590)の豊臣秀吉の北条攻めの北国軍
  前田利家&上杉景勝軍の真田昌幸3000に箕輪城
  塀和伯耆守と兄:保科正直が明け渡した。
  北条家滅亡。
井伊家家臣となった。

  ★長篠城祉保存館の元館長:丸山先生は、
「長野県旧八千穂村に内藤昌豊の子孫がいる。」
と書いている。
 

    
  @保科正直は、徳川家康とは異父兄弟の間柄であり、
  孫は保科正之で、後に会津藩主となった。
内藤昌月のB男系も会津藩家老になった。
  家は西郷頼母の家の西隣。
  A幕末の会津藩家老:西郷頼母は、井伊家家老:西郷
  家の分家である。
  B遠い先祖の分流には薩摩西郷氏の西郷隆盛がいる。
 





【3】井伊直政の足軽大将クラス
19 脇又市豊久
※旧武田家家臣。足軽大将本郷八郎左衛門の甥。
  土屋昌恒の物頭。長篠の役で鉄砲傷を受け退却
・天正10年(1582)武田家滅亡後、
土屋惣蔵昌恒の妻子を守り駿河に落ち延び、
徳川家に仕官・徳川家康の命により、
  井伊直政付家老職720 石。

20戸塚左太夫正次(横地家分流)
母:源頼朝妹&父藤原鎌足系工藤→遠州二階堂家→
  横地一族の分家:戸塚家
徳川家の血縁閑係で徳川家重臣や井伊直政の重臣へ
  @徳川家康&戸塚忠春娘:於愛との血縁 
  A徳川家康義弟:松平定勝の筆頭家老:戸塚政輝
  B井伊直改の家老職:戸塚正次&同族:横地吉晴
  C井伊貫名家と戸塚左太夫家子孫(正紹・正札)養子縁組
高崎市箕郷町西明屋・原中にも子孫がいる。
  友達のマーちゃんも。




21 長坂十左衞門(武田氏家臣) 
・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付お供衆?
高崎市浜川?にも子孫がいるらしい。
 


22 岡本半介宣就(武田24将:小幡信貞の家老)
★群馬県富岡市サファリパークが城だった。
・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付軍監役
高崎市箕郷町柏木沢にも子孫がいるらしい。



23松居武太夫清易


24長田権右衞門


25小野田小一郎為祐


26川(河)手 新左衛門
※河出一族


27安居東右衞門


28海老江庄右衞門里勝


29宇津木治部右衛門泰繁 (????〜????)
 北条家臣:宇津木氏久(上野国玉村)の子。
  砲術稲富流を学ぶ。
・天正18年(1590)北条氏滅亡。
  宇津木氏久は小田原城に籠城しなかった。
  父:氏久に代わりに井伊直政付 御鉄炮吟味役。
 九戸の乱に出陣し、戦功功により上野福島(高崎市吉井)
 に600石を賜った。家康より拝領した具足と脇差も賜った。
・天正20年(1592) 父の258石を継ぐ。
慶長5年(1600) 関ヶ原合戦で物頭。
・慶長7年(1602) 井伊直政の遺言により200石を加増。
・慶長17年(1612)11月3日、大坂の陣で物頭。
 長距離狙撃用鉄炮86挺の試し撃ちを敢行。
・元和元年徳川秀忠に鉄炮の腕を上覧。
計2200石の家老に昇進。
高崎・玉村・前橋にも子孫がいるらしい。
 

30早川弥惣左衞門幸豊
 旧武田家家臣。武田信玄→武田勝頼に仕えた。
  馬場美濃守信房流・山本勘介流(甲州流)の築城法を
  山県昌景より伝授された。
 ・天正10年(1582)徳川家康の命により井伊直政付
  足軽大将になった。
 ★その後、甲州流の他・徳川流・後北条流をマスター
 @箕輪城の改修工事・・・
     二の丸と本丸の間の堀、新曲輪、水堀か?
 A高崎城の築城(北条流畝堀が残存。盗んだ=学んだ)
画像
 
画像

 (★高崎城本丸の畝堀
    発掘調査平成21年1月6日)
 B彦根城の築城(一城別郭構造)
 ★築城術は早川弥惣左衞門幸豊が東日本bPであろう。

画像



西山内蔵丞
 旧武田家家臣。武田滅亡後、井伊直政の家臣となる。
 ★子孫は、高崎市箕郷町原山にいる。

齋藤半兵衛 (????〜????)
 旧武田家家臣。武田滅亡後、井伊直政の家臣となる。
 

飯島半右衛門 (????〜????)
 旧武田家臣。武田滅亡後、井伊直政の家臣となる。
 
成嶋勘五郎 (????〜????)
 旧武田家臣。武田滅亡後、井伊直政の家臣となる。

曲淵正左衛門吉景 (1518-94)
 信濃境の曲淵村の生まれ。
 旧武田家家臣・・板垣信方板垣同心→山県隊に入り百貫。
 井伊直政の家臣


庵原朝昌(いわらともまさ)
父は今川家家老。今川義元の軍師:太原雪斎も一族。
  武田信玄→戸田勝隆→井伊直政1500石
  井伊直政と喧嘩して出奔→水野勝成200石
→井伊家に再仕官。井伊家家老
  大坂夏の陣では筆頭家老:木俣守勝の代わりに兵を指揮。
  庵原朝昌は後に4000石の家老。
  いわら・・・中村達夫氏のふりがな。
  いはら・・・多くのHpのふりがな。
  

31三浦十左衞門安久
旧北条家家臣
・天正18年(1590)北条氏滅亡後に仕官か?
・文禄元年(1592) 文禄の役
  井伊直政は挑戦に出兵しなかった。三浦十左衞門安久が
  使者として戦いに加わり、人質を捕らえて帰国した。
  井伊直政から褒賞された。
(★元禄4年1691 彦根藩士由緒書記:彦根博物館)

 ・慶長19年(1614)大阪冬の陣
真田丸の攻防戦で、松平忠直軍と先を争って攻撃し、
  井伊軍が敵の砦の塀下に攻めよっていた。
  徳川家康から命が下され、井伊直孝から三浦安久と岡本
  半介宣就に兵の引き上げが命令が下された。
  三浦は、「自分が言っても引き上げることはできないの
  で、(直接)井伊直孝様の采配=指示を下さるようにお
  願いいたししまする。」申し上げたので、引き下がった。
(★中村達夫氏=井伊岳夫氏「井伊年譜」)



32沢村角左衞門全道・・・★不明


33大久保新右衞門定秀
・天正3年(1785) 井伊直政が徳川家康に出仕。
そのまま、徳川家臣から井伊直政付同心衆。

34大鳥居玄蕃満経・・・★不明


35今村源右衞門正盛
★古くからの家臣・・井伊直政の
幼少時代に、鳳来寺から、伊那(長野県飯田)
松岡城に送り届けた。

36今村小兵衛正□
今村源右衞門正盛の子。

37熊井戸半右衛門 (????〜????)
 井伊家家臣。足軽鉄炮隊隊長。
 小牧長久手の戦い・・「3000挺の足軽頭」
 
 
38八股甚左衛門 (????〜????)
 ・天正3年(1575) 井伊直政が徳川家康に出仕。
同時に井伊直政付同心衆。


柏原総左衞門
 武田家の原隼人衆→井伊家
 ・天正18年(1590)上州箕輪で井伊家に仕官。
  井伊家の赤備え。
 ・慶長7年(1602) 800 石。

犬塚求之介正長
武田家臣:小幡信貞の家臣で、小幡孫次郎の相棒。
・天正10年(1592)武田氏滅亡後、
徳川家臣から、井伊直政付同心衆。

 
野呂助惣・・(★中村達夫氏は宇津木家文書では)
★小牧山の戦いで死去した野呂助豊の一族。

萩原図書 (????〜????)
 上州群馬県:後閑の武将。旧安中景繁=忠成の家臣。
 ・文禄4年以降、井伊直孝を養育。
 (★西原巌氏の「箕輪城考」で掲載)
 ★安中市にも子孫がいる。


加藤新左衛門 (1559〜1591)
 ・天正19年(1591) 青森県の九戸征伐に従軍。
  井伊直政の命で、自刃。
 

長野無楽斎 (????~1649)
 上州群馬県の長野業政叔父:長野業通の子。
★後日、紹介
 
長野常陸介主善・・・★不明  
 姉川の合戦で朝倉家臣:真柄十郎左衛門直澄を
 討ち取った。
 上野箕輪の長野業盛の息子と(伝)・・・★不明。
 徳川家康の関東移封。
 井伊直政付き家老:高崎で国家老。
画像






◆◆ 井伊直孝〜の元禄時代の井伊家家臣 ◆◆
 1659年(万治2年)井伊直政が死去。享年70歳。
画像


 ○井伊直継・・・直政の長男。彦根藩2代当主。
  幼少の頃より病弱で直孝に当主の座をすぐに譲る。
  後に直継は直勝と改名して、上野国安中3万石。
 ○井伊直孝・・・井伊直政の次男。彦根藩3代当主。
画像
  


元禄4年(1691)の【彦根藩士由緒書記:彦根博物館】
@筆頭家老・・木俣家10000石。
   ※徳川譜代。強制的に井伊直政の家臣に配属
画像

 (★彦根城通用門枡形の右の木俣家)
 木俣守勝は月20日は、本丸西の櫓台に詰めていた。
  (★中村達夫氏の著書)




A次席家老・・・庵原(いわら)家5000石
  ※旧北条氏照家臣:狩野一庵の子:庵原主膳説
     ★新野左馬之助の6女は狩野一庵の妻。
      新野左馬之助の娘は庵原主膳を連れて、
      木俣守勝と再婚。
     ★新野左馬之助の7女は
※北条氏照落胤説?
   ※旧今川家家老:庵原之政の子孫説? 
  ・慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣
豊臣軍・・・木村重成。長宗我部盛親
  徳川軍・・・・井伊軍
   井伊家家臣:安藤重勝(元長野家重臣)か庵原朝昌
  が木村重成を討った。庵原朝昌が戦攻を譲ったらしい。
・・・400石加増。4000石

B3席家老・・・長野家4000石 
   ※箕輪城の長野業政業盛の子孫。養子:業親子孫。
★後日、紹介? 


C河手家4000石
  ※井伊直政姉:春光院の嫁ぎ先の家系。(側室)

D西郷家3500石
  ※徳川家康臣:西郷元正の子。西郷局の従兄弟。

E中野家3500石  
  ※井伊直氏の弟:中野直房を祖とする家系。
  
F小野田家3000石
  ※旧後北条家家臣
  
G横地家2600石
  ※旧後北条家家臣
  
H三浦家2500石
  ※旧後北条家家臣
  
I宇津木家2500石
  ※上野国の玉村の領主。
  北条氏滅亡の時、玉村にいた。→井伊家へ
  
J貫名家2300石
  ※井伊良直の弟:貫名政直を祖とする家系。
  
K新野家2000石
  ※井伊直政を助けた譜代重臣の家系。
  
L脇家2000石  
  ※旧武田家家臣。足軽大将本郷八郎左衛門の甥。
   土屋昌恒の物頭。長篠の役で鉄砲傷を受け退却。
  


M岡本家1950石
  ※武田24将の一人:小幡重貞の家老。
  上野国富岡(サファリパーク)の領主。
 ★上野群馬の長野家と親戚の家系という説も系図にはある。
    
  
N松下家200石
   ※井伊直政の実母の再婚相手
   養父・継父の松下清景の家系。3代で断絶。
   墓は高崎市箕郷町西明屋の龍門寺。


◆その他の有力家臣・・・足軽大将クラス
沢村角右衛門家 2,000石
増田次右衛門家 2,000石

内藤五郎左衛門家 1,500石
 

内藤昌豊の養子=保科正俊の子&保科正直弟説
→内藤信矩・・・

印具徳右衛門家 1,500石(井伊直孝の母生家)

西山内蔵丞家 1,300石

犬塚求之介家 1,200石
椋原治右衛門家1,200石
松平倉之介家 1,200石

勝平次右衛門家 1,000石
広瀬郷左衛門家 1,000石
吉用隼之丞家 1,000石
(★ウキペディア等を参考に編集)





★明日は、井伊直政の第3家老:長野氏関係かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
箕輪初心★箕輪城91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】
★井伊直政の第3家老は長野業実である。 では、長野業実とは一体誰なのであろうか? ★永禄9年(1566)武田信玄に攻められ、箕輪城で自刃した 長野業盛=氏業の遺児:亀寿丸=鎮良は、高崎市箕郷町の 極楽院に逃れた。武田信玄は極楽院に安堵状を発給した。 ★天正18年(1590)の8月3〜7日に箕輪城には井伊直政が 入城した。天正20年(1592)1月23日には「徳川家康→ 極楽院」への徳川家康の安堵状が発給された。慶長5年 (1600)9月11日には、極楽院→徳川家康への「関ヶ... ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2012/12/16 08:26

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心★箕輪城90【井伊直政の箕輪城時代の家臣団一覧】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる