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zoom RSS 箕輪初心★小和田哲男氏の執筆『井伊直政』:読売新聞

<<   作成日時 : 2012/12/13 06:22   >>

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平成24年(2012)10月25日の読売新聞に『捨て身の突進と
交渉術〜井伊直政(1561~1603』が掲載された。小和田哲男
(おわだ・てつお)氏の執筆である。箕輪城語り部の会会
長:岡田豊治氏がコピーを下さった。高崎市文化協会・箕
輪城井伊直政研究会の西原巌氏は、小和田先生に「群馬歴史
散歩」に掲載した「井伊直政」の研究論文を送り、小和田
氏からお礼状が届いていた。 執筆の小和田哲男氏は静岡
県生まれで、静岡大学名誉教授である。専門は日本史で、
今川氏家臣団の研究などで知られている。著書に「今川義元」
「戦国の城」などがある。私は「江史跡紀行」など何冊か持
っている。

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(★静岡県引佐町の井伊城)



◆小和田哲男氏の執筆『井伊直政』の読売新聞の原稿◆
 のちに徳川家康の股肱の臣として、「徳川四天王」の一人
に数えられた井伊直政は、不遇な幼年期、少年期を送った。
父直親は今川氏に仕えていたが謀反の疑いをかけられて殺され、
虎松といっていた直政はその時まだ2歳で、15歳まで遠江
(静岡県)や三河(愛知県)の各地を転々とした。
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 (★長野県飯田市の松尾城:小笠原氏
  の家臣:高森町の松岡氏の元に15歳まで)

 ようやく、天正3年(1575年)2月、浜松城下で家康に
見出され、仕えることになった。初陣は翌4年、武田勝頼勢と
戦った遠江芝原の戦いといわれる。以後、家康軍の先鋒となっ
て軍功をあげ、13歳年上だった本多忠勝・榊原康政と功を
争うようになった。

 家康もそうした直政に期待を寄せ、同10年、武田氏が滅
び、家臣団の多くが家康に付属させられたとき、旧山県昌景
隊の赤備えと称する一団を直政につけている。いわゆる
「井伊の赤備え」の誕生である。
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(★山梨県:新府城・・・武田勝頼60日の城
  徳川家康が本陣が置かれた。) 


 直政は、槍やり働きだけでなく、外交面でも活躍している。
交渉術にたけ、本能寺の変後、家康と北条氏直の軍勢が甲斐
(山梨県)で衝突した時、まだ22歳の直政が交渉の使者に
選ばれ、みごと講和を成立させた。この講和成立によって、
家康はそれまでの駿河(静岡県)・遠江・三河に、甲斐・
信濃(長野県)を加え、5か国の大大名になったのである。
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(★山梨県:若神子城)
  徳川家康 VS 北条氏家臣:大導寺政繁)
  獅子吼城に立て籠もった大導寺政繁の軍を
  服部半蔵が崖を登って攻略した。
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 (★山梨県:獅子吼城から大導寺撤退)
 この後、交渉が始まった。
 
 同18年、秀吉による小田原攻めの後、家康が関東に移封さ
れたとき、直政には上野(群馬県)箕輪12万石が与えられた。
年長で古参の本多忠勝・榊原康政がともに10万石なので、
ここで、直政は徳川軍団のトップに立ったのである。
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 (★豊臣秀吉の石垣山一夜城)
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 (★小田原攻撃)
 ★井伊直政が笹郭から一番槍・・・)
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 (★群馬県高崎市:箕輪城)
 
 慶長5年(1600年)、直政は本多忠勝とともに家康本隊
の一員として関ヶ原に向かい、家康の四男・忠吉を伴って先陣
を切ったことはよく知られている。しかし、勝利が確定した後、
敵中正面突破という奇策で戦場から離脱しようとする島津軍を
追い、鉄砲で負傷してしまった。
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 (★岐阜県:関ヶ原)
 
 直政のすごさは、わが身の危険を顧みず突進していくところ
にあった。そのために関ヶ原で負った傷がもとで2年後、命を
落とすことになってしまったわけである。

 
 家康は、その軍功に報いようと、直政に石田三成の居城だった
佐和山城(滋賀県彦根市)を与え、18万石に栄転させている。
これが、のち彦根藩35万石となる原点であった。
(★読売新聞より)
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(★滋賀県:佐和山城・・・彦根城からの眺め)
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(★滋賀県:彦根城)




難しい歴史や人物像を簡単に分かりやすく説明するのは
至難の技である。小和田氏は、難しいことを簡単に見事に
説明されていた。






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