★長篠城&長篠の戦いがメインの旅で設楽原歴史資料館で 岩瀬忠震(ただなり)に興味を持った。幕末の外交官= 阿部正弘時代の外国奉行として、アメリカ領事:ハリスと 日米修好通商条約に調印した。続いてオランダ・フランス と安政の五ヶ国条約をすべての調印者となった。しかし、 井伊直弼の安政の大獄で免職させられた。岩瀬忠震が外交 官として活躍した時期はわずか5年であるが、日本にとっ て外国の植民地支配を回避した最も大切な5年であった。 ★う^ん、その後、井伊直弼は小栗上野介を登用したのか。 日米修好通商条約に批准にワシントンにbRとして行った 小栗のファンの私が「岩瀬忠震」に興味を持つのは、当然 だった。学芸員とも「岩瀬」について話した。「横浜の本覚 寺に岩瀬忠震のレリーフがある。」と言った言葉に反応した。 「北条重臣の多米氏の青木城があるところですね。神奈川宿 前の開港を止め、横浜開港にしたンでしたっけ。・・・」 もちろん冊子を買った。島崎藤村が「夜明け前」で、大絶賛 した人物だった。福地源一郎も賞賛した人物だ。 ◆◆ 箕輪初心◆青木城=本覚寺の岩瀬とハリス ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201210/article_10.html ◆◆ 箕輪初心◆横浜開港物語 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201210/article_8.html ◆◆ 箕輪初心★『小栗上野介とボーハタン号』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201106/article_29.html ◆◆ 箕輪初心★『ボーハタン号&咸臨丸』 ◆◆ http://53922401.at.webry.info/201108/article_17.html ◆◆ 箕輪初心★『小栗上野介の功績&提唱』 ◆◆ ★大隈重信・大久保利通・東郷平八郎などは 「日本の近代化の父」と思っているようだ。 http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html <<★★岩瀬忠震の年譜★★>> ・文政元年(1818) 設楽貞丈の3男として新城に生まれる @父・・「設楽貞丈」設楽6ヶ村(現新城市東郷地区) の1400石の旗本。小普請組徒頭。 歌道・本草学の長けていた。 旗本設楽貞丈は伊達政宗の子孫説もある。 A母・・大学頭をつとめる11代:林述齋の娘の「純」 母の叔父・・鳥居耀蔵・・南町奉行 ★遠山の金さんは北町奉行 林復斎・・・海外通だった。 母の従兄弟・・・堀利煕 ・天保11年(1840)23才 岩瀬市兵衛忠正の養嗣子。 養父・・・岩瀬市兵衛忠正は三河出身の旗本書院番 800石 岩瀬市兵衛忠正の長女と結婚 ※先祖は奥州岩瀬城主→岩瀬氏俊が長篠の戦いで戦死。 ・天保13年(1842)25才 江戸の昌平坂学問所に入門。 大試験乙科。 同期・・・永井尚志・木村喜毅(咸臨丸館長)・ 堀利煕(義理の従兄弟) ・天保14年(1843) 26才 幕吏登用試験に合格。 ・嘉永2年(1849) 甲府に赴き、徽典館の学頭 ・嘉永4年(1851) 任期を終え、江戸で昌平黌の教授。 ・嘉永6年(1853) ペリーが黒船で来航 世界最大のさすけはな号やボーハタン号(後に 小栗上野介は日米修好通商条約に批准のため乗船) など4隻・ 「蒸気船=上き煎 たった4杯で 夜も寝られず」 ★黒船の来航により、日本は幕末という混乱の時代を 迎えた。 一般的には「ペリーの黒船」=「開国」である。 でも、ペリーは日本を開国させられなかったのである。 ・小姓組番頭:白須甲斐守政x組の学問所出役から 徒頭(二番組)に移動。 ・嘉永6年(1853) アメリカ合衆国の国書を携えたペリー 提督の艦隊が沖縄北谷付近 →小笠原父島 →浦賀に来航した。 ペリーは脅迫するように幕府に開国を迫ったらしい。 しかし、江戸幕府は回答を保留した。 ・安政元年(1854) ペリーは再び来航して幕府に開港を 迫った。 日米和親条約は横浜開港資料館の中庭にある玉楠の木 の下で行われた。 日米和親条約で下田と函館の2港を開港したのだ。 条約締結後、ペリーは伊豆半島の下田で、「下田条約」 と呼ばれる日米和親条約の細則を取り決めた。 吉田松陰がアメリカに渡ろうとして小舟で米軍艦に乗り 付け、幕府の役人に捕らえられた。 ・嘉永7年(1854) 老中首座:阿部正弘が徒頭に任命。 ※日米和親条約・追加条約 ※日英和親条約 ・安政元年(1854) ※日露和親条約 阿部正弘が4ヶ月後、 岩瀬を目付→勝手掛・海防掛に任命。 下田などで、対外交渉に当たらせた。 ★岩瀬忠震は、外交官として第一線で活躍をし始めた。 歴史の表舞台へと駆け上ったのだった。 そして、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設。 →岩瀬忠震は、外国奉行に昇進。 ・安政2年(1855) 1月18日、下田へ出張。 37歳 ロシアのプチャーチンと全権の一人。 ●日露和親条約追加締結。 ロシア船「ディアナ号」は伊豆戸田(へた)村沖で沈没。 →戸田村民がロシア人を助けた。 ●岩瀬忠震は、新造船の建設に立ち会い、技術を習得。 「君沢形」小型船など、洋式機帆船を10隻建造。 ●岩瀬忠震は、品川の砲台の築造に尽力した。 江川太郎左衛門の登用 ・ハリスが下田に着任。 ★最も重要なアメリカとの修好通商条約の締結には 多くの困難がつきまとった。 12月16日、岩瀬は従五位下伊賀守に叙任。 ・安政3年(1856)下田が開港後、アメリカ合衆国総領事と してハリスが下田に着任した。日本で最初の領事館と なった。ハリスは下田の玉泉寺に暮らすことになった。 日米和親条約は条約は貿易を承諾したものではなかった ので、ハリスは日米間の貿易開始の交渉の任を負ってい たのだ。 ・安政4年(1857) ハリスはようやく将軍:徳川家定への拝 謁が許された。ハリスは合衆国大統領の親書を手渡し、 貿易交渉を開始した。 しかし、江戸幕府は交渉の返答に困ってしまった。 ハリスは下田で3年間過ごすことになった。 4月15日、長崎へ出張。 岩瀬は次々に条約を締結した ●日蘭和親条約 ●日米和親修正条約の交渉 ●日蘭和親追加条約の調印 ●日露和親条約追加締結の調印 9月13日、老中に松平忠固が就任。 岩瀬伊賀守から岩瀬肥後守に改名。 11月6日 長崎の帰路で 12月 下田奉行:井上清直と・・ハリスと交渉開始。 「下田閉港・・横浜開港。」 ※治外法権&関税自主権がない。 ・安政5年(1857)遣米使節団が出航した。 ・安政5年(1588) 老中:堀田正睦の上洛に伴い、 副役に勘定奉行:川路聖謨とともに選出。 5月1日 堀田正睦は勅許を得られなかった。 5月16日 琉球使節江戸参府に伴い、御用取扱兼帯。 井伊直弼は勅許を主張 植民地化されるよりかは、多少の不平等はしかたない という腹積もりだったのである。 →岩瀬・井上がボーハタン号に乗船。 アメリカの総領事タウンゼント・ハリス と交渉して条約締結に臨んだ。 6月19日 @日米修好通商条約の調印。井上清直と共に署名。 条約調印にこぎつけたことは岩瀬忠震を始めとする 優れた幕府外交官の尽力によるものである。 ★岩瀬忠震は開国に積極的な外交官であった。 ハリスは、 「井上、岩瀬の諸全権は綿密に逐条の是非を論究して 余を閉口せしめることありき。・・・(中略)・・・ 懸かる全権を得たりしは日本の幸福なりき。彼の全権等 は日本の為に偉功ある人々なりき」 と、当時の交渉のことを書き残している。 幕府は条約で決められた神奈川に代わり、対岸の横浜村 に開港場を設けることとした。 岩瀬忠震は条約の文言を重視して神奈川開港を主張した。 ★私の理解していたこととは逆だった。 ★日本が植民地化を免れたのは、土壇場で日米修好通 商条約が成立したからとも言われている。 7月8日 目付から外国奉行に異動。 A日蘭修好通商条約の調印。 B日露修好通商条約の調印。 C日英修好通商条約の調印。 D日仏修好通商条約の調印。 ★5ヶ国との条約のお陰で日本は世界の列強から植民地 支配から護られたのである。 ★岩瀬忠震は米蘭露英仏の五ヶ国全ての条約調印にただ一人 で参加。 ※2日後、13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題 一橋派・・・徳川慶喜(一橋徳川家当主)を支持。 松平慶永(福井藩主) ・阿部正弘(福山藩主) ・堀田正睦(佐倉藩主) 岩瀬忠震も属す。 南紀派・・・徳川家茂を推薦。 大老となった井伊直弼+家老:長野主膳 間部間部詮勝(鯖江藩主) 譜代大名など ※井伊直弼は安政の大獄を断行。 反対派や一橋派の排斥を行った。 9月5日 外国奉行から作事奉行に異動。 12月20日 宗門改を加役。 →岩瀬忠震が作事奉行に左遷 大老井伊直弼の怒りを買ったのだった。 ・安政6年(1859) 井伊直弼の安政の大獄により免職蟄居 築地から移動。 江戸向島岐雲園で書画の生活に専念した。 幽居生活・・・ ・安政6年(1859)陰暦6月2日(太陽暦暦7月1日) 日本とアメリカ合衆国の間に日米修交通商条約が締結された。 ※条約は関税自主権がない不平等条約だった。 この条約によって下田、函館に加えて、兵庫(神戸)、新潟、 長崎、神奈川(横浜)の4港の開港が約束された。 アメリカ総領事:ハリスは神奈川宿(現在の京急神奈川駅・ 東神奈川駅付近)前の港の開港を想定して、神奈川宿の 本覚寺にアメリカ領事館(青木城=本覚寺)領事館を置いた。 (★岩瀬のレリーフ) 普門寺には、フランス領事館があった。 江戸幕府は神奈川宿での外国人と日本人とのトラブルを恐れ、 当時小さな漁村であった横浜を「横浜も神奈川の一部である。」 として強引に推し通した。 当時の横浜の沖合は水深が深いので港に適していた。 横浜開港に当たって運上所(=現神奈川県庁)先の海岸 にふたつの石組み突堤が造られた。 東側突堤の名残が大桟橋の「象の鼻」である。 横浜が開港した。 その後の横浜港は一大国際貿易港として発展してした。 横浜の街は国際都市として発展したのである。 現在も6月2日は横浜の開港記念日として祝われ、 横浜開港祭が盛大に実施されている。 ★昔、大学吹奏楽部で、パレードのも参加したのだ。 ・文久元年(1861)年 44歳で病没 ★失意のうちに病死したのであろう。 【2】岩瀬忠震の見学のポイント @勝楽寺の「岩瀬忠震の顕彰の碑」 A設楽原歴史資料館 岩瀬忠震の書画等が展示 岩瀬忠震の生涯のパネル紹介 ◆◆ 設楽原歴史資料館 ◆◆ 0536-22-0673 http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/1,3106,118,662,html B墓所・・・東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園。 C横浜ほ本覚寺のレリーフ 【3】感想 明治政府は薩長史観にたち、自分たちが官軍であり、 江戸幕府が軟弱であったかを強調し歴史を曲げた。 この方が明治新体制確立のためには都合がよいのだ。 それ故、開国の歴史においては、アメリカの「ペリーと ハリス」ばかり強調し、外国に対して「開国論者:岩瀬 忠震」「攘夷論者:小栗上野介」らが語られず、勝海舟や 坂本龍馬ばかりが歴史の立て役者であると強調されてい る。日本人として歴史を幅広く捉えて行くことも必要で あろう。 <参考資料・Hp> @「岩瀬忠震」・・新城市設楽原歴史資料館発行 A設楽原歴史資料館発行企画展 『日本開国の立役者ー岩瀬忠震』 B「ペリー来航と横浜」・・・横浜開港資料館発行 イギリスで発見された日英修好通商条約の交渉の際 の岩瀬の写真が2008年に横浜開港資料館に公開された。 Cウキペディア等 ★明日は愛知県の城・・岡崎城かな? |
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箕輪初心★小栗上野介M童門氏VS村上泰賢先生TV討論
★平成24年(2012)12月12日(水)の22:00〜23:00の BSーTBSの『ライバルの光芒』で、勝海舟=童門冬二 氏 VS 小栗上野介=村上泰賢先生の対談のTV放映が あった。司会:高橋英樹氏&アシスタント:加藤シルビア氏 であった。村上泰賢先生って、全国レベルだ。★凄えな。 私は小栗上野介ファンである。できれば、小栗上野介が 造った横須賀造船所が世界遺産になって欲しいと考えて いる一人である。なぜなら、日本の重工業の発展の元に なった場所だからである。 ...続きを見る |
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー... 2012/12/18 07:52 |
箕輪初心◆群馬『水戸天狗党&下仁田戦争』
★平成25年(2013)年3月初旬、里見哲夫先生の御孫様には、大変 嫌な思い、御迷惑をおかけしてしまいました。改めてお詫び申し上 げます。知識不足の「下仁田戦争」を調べることにしました。 ★里見哲夫先生と御孫様、御先祖本当に大変だったのですね。 「元治元年(1864) 11月16日、高崎藩一番隊は里見治兵衛宅前 に陣を構え討つことにした。」(★「上州の明治維新」:中島明著) そして、「水戸天狗党と下仁田戦争150話」大塚政義著、 「水戸天狗党と下仁田戦争」群馬県立歴史博物館第... ...続きを見る |
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー... 2013/03/24 09:55 |
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