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zoom RSS 箕輪初心●埼玉『忍城』=城代:成田長親【のぼうの城】

<<   作成日時 : 2012/11/10 06:46   >>

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@平成19年(2007)7月29日・・忍城見物
私の興味は、箕輪城主:長野業政が成田家に
 娘を嫁がせたかどうかであった。結果・・不明。

A平成24年(2012)6月25日〜『のぼうの城』
和田竜の歴史小説を読んだ。
B平成24年(2012)10月28日・・箕輪城祭り
行田市のボランティアガイド:秋池氏と話した。秋池氏から、
「秋池氏の先祖は、忍城主:成田氏長の客分家老で、
小田原城に参陣。」など興味ある話をいただいた。

C平成24年(2012)11月10日・・映画「のぼうの城」
でくの坊が面白かった。圧巻だった。
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(★もちろん、のぼうの城の時代は
  天守閣のない城である。)

【1】忍城訪問
■訪問記・・平成19年(2007)7月29日
●さきたま古墳群を見学後、忍城に行った。
★忍城は関東7名城の一つとして有名である。忍城は
石田三成の水攻めでも落ちなかった堅固な城である。
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●藩校入り口   
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●鐘楼
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学芸員に質問
@長野業政は、成田顕泰?長泰?に自分の娘をくれたの
  か?  →系図や成田文書にはなかった。

A北条氏照が忍城・騎西城・唐沢山城・太平山城と侵攻
 して行ったが、成田氏はどう対応したか?
     →北条氏にうまく取り入って対応した。

★説明不十分だが、学芸員は若く優秀だった。

■見所・・・復元3層櫓(行田市博物館)

・この後、岩槻城に向かった。




【2】和田竜『のぼうの城』
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★マンガの『のぼうの城』を電車の中で読んでいる
人がいた。
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【3】箕輪城祭りでの秋池出羽守義勝の子孫
秋池氏の甲冑・・・★かっこいい。
@古い甲冑
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A新しい甲冑
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また、秋池氏は映画「のぼうの城」の野村萬斎氏・
芦田まなちゃんなどとの記念撮影を見せて下さった。



◆◆ 秋池氏の仲間のHp ◆◆
http://nobou-movie.jp/sp/sp_cast.html




【4】映画「のぼうの城」
◆(1)戦力分析
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 平成24年(2012)11月2日封切りである。楽しみである。
映画「のぼうの城」とウキペディアなどでは、人数が
違うのだ。
 @小説「のぼうの城」では、 
  成田氏長500人 VS 石田三成23000人
 A映画「のぼうの城」では、
成田氏長500人 VS 石田三成20000人
Bウキペディアでは
成田氏親約3000人 VS 石田三成23000人
C成田氏長の客分家老:秋池出羽守の子孫様の調べ
成田氏親 3200人 VS 石田三成28000人
 成田側・・武士2230人+町人・百姓で約1000人で
  3200人・・名前を確認済。根拠は、
 【成田記】&【北条記】である。・・そうである。

人数的なものでは、和田竜氏より秋池出羽守の子孫様の
方が正確であるかもしれない。行田市のボランティア
ガイドだからである。小説家は歴史学者ではないからだ。
成田長親の史実としてはあまり詳しく残っていないので、
創作したことは多いかもしれない。

★箕輪城関係の小説なんかも全くの空想の産物に近い小
説が多い。10月28日大悍猿≠ェ「箕輪軍記」を発表した。



◆(2) 映画『のぼうの城』のキャッチコピー 
★豊臣軍にケンカを売った、でくのぼうがいた。
この男の奇策、とんでもないッ!
忍城軍500人、豊臣軍2万人激突!
圧倒的戦力差!20,000 VS 500.
強くないが、“人気”だけはある男が立ち上がる時、
仲間たちの想いが溢れ出す。
天才か?ただの“でくのぼう”か?
“のぼう様”の突飛な奇策に、敵も味方も驚き…笑う!?
「この城、敵に回したが、間違いか」
天下統一目前の秀吉が唯一、落とせなかった城があった。
驚天動地の戦いが今、始まる!


◆(3)あらすじ
○羽柴秀吉は備中高松城の水攻めを敢行した。
  石田光成は壮大な城攻めに感動した。
○8年後。天下統一目前の豊臣秀吉は残された敵、
 北条勢を圧倒的軍勢で攻めようとしていた。
○周囲を湖で囲まれ「浮き城」の異名をもち、人々が
 平穏に暮らす「忍城」もその一つ・・・。
 忍城では、その不思議な人柄から農民たちから
 “のぼう様(でくのぼうの意)”と呼ばれる成田長親が
 下忍村で、麦踏み見物をしている。手伝うが使い物に
 ならない。・・・田植え歌を歌いながら、田植えをする
 農民を眺めている。・・・
○豊臣秀吉は、小田原城攻撃のために、(石垣山)に
 城を築き始まる。
○事態を知った北条氏政は、成田氏長に小田原城への
 籠城を促してきた。
○成田氏長は、しかたなく、小田原城に行くことにする。
 裏で、豊臣秀吉への服属を連絡していた。
○豊臣秀吉は、石田三成に、既に成田氏長が従属する
 ことを隠して、2万の兵を貸与し、館林城・忍城攻めを
 命じた。長束正家・大谷吉継を参謀につけた。
○忍城では成田氏長の実弟:成田泰季が城代となって
 いたが、倅の長親が暢気なので、ショックで寝込んだ。
 介護は、成田氏長の妻:珠&娘:甲斐姫であった。
○長馴染みの正木丹波守は、城代として忠誠誓う。
 でも、いつでも、呼び捨てなのだ。
○成田長親は城を治める事になった。
●成田氏長の娘:甲斐姫・・
  成田長親に密かに想いを寄せている。きっかけは
 ぞうの妻:ちよが家臣に犯されたので、甲斐姫は
 追いかけて、その家臣を殺した。その始末を平穏に
 処理したのが成田長親だった。甲斐姫は、従兄弟の
 成田長親を好きになってしまったのだ。
@実質的な大参謀=軍師&連戦錬磨の正木丹波守
 成田長親の幼馴染・・・ずうっと呼び捨てだ。
 戦に強く「漆黒の魔人」と恐れられる丹波。
A豪傑・豪腕の柴崎和泉守
 正木丹波をライバル視する。
B戦の経験は無いが“戦略の天才”
 「靭負も実質的な大参謀兼。・・・


●豊臣秀吉軍の迫りくる猛攻。
○成田長親は緊迫する仲間たちを前に、
「北条にも、豊臣にもつかず、皆で今までと同じように
暮らせないかなぁ?」
と呑気なことを言って皆を唖然とさせる。

○石田三成は、武将として名を挙げる事
 に闘志を燃やす秀吉より預かった2万の兵を進
 め、忍城に迫る。
○成田長親は
 やむなく降伏することを覚悟する忍城軍。
○長束正家が使者
 
○成田長親は「多勢に無勢」と三成軍のなめきった態度に、
「甲斐姫を秀吉の妾に・・・」
・・・宣戦布告。・・・
 成田長親が思いもよらない言葉を発する。
 「戦いまする」

○そして、誰の目
にも絶対不利な、たった500人の軍勢対2万の大軍の戦い
の火ぶたが切って落とされた…!
(★映画のパンフレット700円より )

○長野口の戦い
   正木丹波守の活躍

○佐?口
      


◆(4)映画『のぼうの城』キャスト
★写真はパンフレットより・・・
1)忍城側
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@成田長親=「(でく)のぼう様」で、忍城城代
   成田氏長の実弟:成田泰季の長男
   ・・・野村萬斎
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A酒巻靱負=自称“軍略の天才”・・・成宮寛貴
甲斐姫を好む役
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B正木丹波守=侍大将「漆黒の魔人」・・佐藤浩市
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C甲斐姫=成田氏長の娘。男勝りの戦姫・・榮倉奈々
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D柴田和泉守=豪腕豪傑・・・山口智充
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E成田氏長=忍城主。甲斐姫の父・・・西村雅彦
F成田氏長妻=甲斐姫の母=珠・・・鈴木保奈美
G成田泰季=成田長親父&甲斐姫叔父・平泉 成
H和尚・・・・・・・・・・・・・・夏八木勲
I北条氏政=北条家5代当主・・・・中原丈雄
J農民軍団
Kたへえ=かぞう父・・・・・・・・前田 吟
Lかぞう・・・・・・・・・・・・・中尾明慶
Mちよ・・・・・・・・・・・・・・尾野真千子
Nちどり=かぞう&ちよの子・・・・芦田愛菜


2)豊臣秀吉側
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O石田三成=攻撃責任者・・・上地雄輔
P大谷吉継=参謀@・・・・・山田孝之
Q長束正家=参謀A・・・・・平岳大
R豊臣秀吉=天下人・・・・・市村正親




◆◆ 忍城の歴史 ◆◆
・延徳元年(1489) 山内上杉氏配下の成田親泰が
   太田道灌の縁戚で扇谷上杉氏配下の
   忍大丞の館を急襲。

・延徳2年(1490) 成田親泰が築城を開始。
            翌年完成。

・永正6年(1509) 成田下総守顕泰(親泰)の忍城に
          連歌師の宗長は立ち寄った。
 ★成田顕泰か長泰が上野の箕輪城主:長野業政の
     娘をもらう?? ・・


・天文21年(1552) 関東管領山内上杉憲政が北条氏康に
           平井城を追われ越後へ逃亡。
※通説は、新潟県の坂戸城・・あるいは春日山城。
高崎市史では、水上か沼田
秋池氏は、新潟県の市史では群馬県の中之条

・天文22年(1553) 北条氏康が忍城を攻撃→落城せず。

・永禄3年(1560)  長尾景虎(上杉謙信)が関東出兵の際
           には、成田長泰は抵抗。
   →上杉謙信の軍が城下に放火→成田長泰が降伏。
      成田氏は謙信の配下。
   →上杉謙信は成田長泰の美人妻を、そばに人質として
    置き、小田原攻めに向かった。
   (★NHK大河ドラマ「直江兼続」)

・永禄4年(1561)上杉謙信の小田原攻め。
         上杉謙信軍の先鋒。
   帰途、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で謙信と対立。
★成田一族は名門で馬上での対面は許可されていた。
上杉謙信が棒ではたいた。
    忍城に退陣→北条氏の配下。
秋池氏「謙信が謝った。」?・・・・

  ※多くの関東武士が敵対し始めた。

   長尾景虎は上杉輝虎の改名。
=関東管領の成立。

・天正2年(1574)上杉謙信が忍城攻撃→落城せず。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃。
◆◆成田氏長は北条氏に加勢。・・・約200名
*成田氏長・・・城主
*成田秦親・・・筆頭家老=成田氏長の実弟
*小宮山弾正介内膳・・客分家老
★秋池出羽守義勝・・・客分家老
※忍城の城主:成田氏長と弟:泰親&秋池出羽守は500
  余騎を引き連れ小田原城へ参陣。



●●
1)小説「のぼうの城」
成田氏親500人 VS 石田三成23000人?

2)映画「のぼうの城」
  成田氏親500人 VS 石田三成20000人

3)ウキペディアでは
成田氏親約3000人 VS 石田三成23000人

4)成田氏家の客分家老:秋池出羽守の子孫の調べ 
成田氏親 3200人 VS 石田三成28000人  
 忍城に武士・兵・農民ら3000人が籠城。
※秋池出羽守の子孫様・・2230人+町人・百姓
で、3200人・・名前を確認済とか?
@忍城留守居役・・成田秦季=氏長実弟
A行田口・・島田出羽守・坂本将監・本庄など300名
B長野口・・柴崎・三田・鎌田・成沢・秋山まど200名
C北谷口・・粟原・藤井・横田・沼野・江口など200名
D皿尾口・・篠山・安藤・宮原・長瀬・松橋など200名
E皿尾後詰・松岡・山田など30名
F持田口・・成田土佐守・田山・長藍・松木など200名
G大宮口・・齋藤・佐藤・門井・平賀・布施田など200銘
H忍口・・・坂巻・手島・青木・矢沢・櫻井・堀など500名
I佐間口・・正木丹波守・福島・内田・櫻井など400名
J遊撃隊・・粟原摂津守・笹沼・山田・加藤・吉野
     ・中村主水・鈴木・佐藤・村野、米原など
(★秋池氏「武蔵の風土記」忍城の巻・成田系譜より抜粋)


※総大将:石田三成は、館林城攻略後、忍城攻撃。
 @石田三成、大谷吉継、長束正家
  A佐竹、結城、宇都宮、多賀谷、佐野、水谷の
  秀吉方に付いた関東の武将

 忍城には城代:成田泰季、成田長親が300余騎、
2600人程の城兵+町人で守っていた。
 石田勢はは最初に力攻めを仕掛けた。
  
 忍城は沼地に築かれた城なので、なかなか攻略でき
  なかった。
 
 石田三成は堅城ぶりに沼地を利用して水攻めを発案。
    7里=28kmの「石田堤」を築堤。
 
 石田三成は現行田市埼玉古墳公園にある丸墓山古墳
 に本陣を置いた。忍城を囲む様に周囲7里に及ぶ堤防
 を築きあげた。
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 ※行田のガイド:秋池氏の話によると・・・
 「稲荷山古墳の方墳部を崩して堤防にした。
 航空写真で、円墳ではなく、前方後円墳と
 判明。復元された。」

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 利根川や元荒川の支流:忍川から水を引き込み堤防内
 を水で満たした。
 しかし、忍城内は降伏する気配を見せなかった。
 「浮城」と呼ばれる理由は、城が浮く(伝)
 なかなか城は落城せず。・・・
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 大雨が降り、俄かに築いた堤防に忍城の籠城兵が堤に
 細工し決壊させた。
  →石田三成の将兵270名余が溺死。
 水攻めは失敗に終わった。
 
★「石田三成は戦さが下手だった。」という話もあるが、
※行田のガイド:秋池氏の話によると・・・
 「鉢形城の北条氏邦の反抗に応援に行く必要があった。」
 と、おっしゃっていた。
 
 
 豊臣秀吉から命を受けた浅野長政5000に、箕輪城受け取り
 →八王子城を回った真田昌幸3000が 加わり、再度の力攻
 撃を試みた。
 
 しかし、石田三成方は多数の死傷者を出し失敗した。

 結局、小田原城が落城するまで忍城を攻め落とすことは
 できなかった。
 
→成田氏長が城兵の助命嘆願し、開城。
 石田三成へ城が引き渡された。
 ここに、成田氏100年支配が終結。

秋池氏の話・・・
その後、忍城主:成田氏長と城代:成田長親は会津の
猪苗代?の蒲生氏郷のもとに一時身を寄せた。
それから、下野国烏山へと移り住んだ。
成田氏長と成田長親は不和になり、成田長親は出奔し、
出家して自永斎と称した。」

でくのぼう様?になった。ここまでは言っていなかった。

・天正18年(1590) 関ヶ原の戦い
→徳川家康の関東入封後、松平家忠が入城。
忍城には城番役が置かれた。
 
・城主不在の時代 

・文禄元年(1592)徳川家康の4男:松平忠吉が
         10万石で入城。

・慶長5年(1600) 尾張清洲城に転封後
         →酒井讃岐守忠勝
 
・????  →松平伊豆守信綱
※秋池出羽守の子孫様の話
 大河内久綱(松平伊豆守信綱の父)家臣:
 秋池出羽守義勝として、島原の乱に
 小宮山や鳥居らと出陣。・・・」


・寛永16年(1639)→阿部豊後守忠秋が入城。
忍城の大改築と城下の拡張整備が行われた。
   三層楼、二層楼などが建てられた。
   家臣達の屋敷も新築された。
画像


・元禄14年(1701) 阿部正武の時、幕府は忍城の
          三重櫓・二重櫓・帯郭の造営を許可。

・文政6年(1823)桑名の松平下総守忠堯が入城。
4代〜〜〜
 (★行田市博物館パンフレット+秋池氏口伝)

・慶応3年(1867) 大政奉還
     戊辰戦争の勃発
薩長軍の攻撃・・・
※行田のガイド:秋池氏の話によると・・・
  「埼玉と常陸の国境の栗橋から、忍城に薩長軍は
   侵攻した。・・・家老の鳥居強右衞門
   (長篠城を救いを求めて、織田・徳川軍に
    援軍要請)の子孫は切腹して、約50万両の
   借金を新政府に肩代わりの約束をとりつけた。」
 つまり、薩長軍の進軍の最中に薩長軍の城になった。

   

・明治4年(1871)廃藩置県により忍藩は忍県へと改正。
          忍城は廃城。 



◆◆ 秋池出羽守の子孫様の所属の仲間のブログ ◆◆
http://ameblo.jp/oshijo-omotenashi/    

◆◆ 第33回 行田商工祭・忍城時代まつり ◆◆
 日時:平成24年11月11日(日) 
     AM10:00〜PM4:00
 会場:行田市役所駐車場、
    行田市バスターミナル駐車場周辺
http://www.plus-kun.com/jidaimatsuri/gyoda/




★第6回岩櫃城探検隊の開催日で、あざみの会
会長:根津一族の根津光儀会長(長篠の戦いで
先祖が死亡)より連絡・案内をいただいているので、
忍城時代祭りには行けない。複雑な心境である。

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