城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心●安中忠政=重繁=春綱&安中忠成=景繁=広盛

<<   作成日時 : 2012/11/14 07:31   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 2 / コメント 0

安中忠政=重繁=春綱&安中忠成=景繁=広盛なのだ。
「安中氏で名前が浮かぶのは、安中忠政&安中忠成で
ある。」・・何故なら、群馬県史や「箕輪軍記」では、忠政
・忠成の名前で説明されている。しかし、長篠の戦いの
本では、安中景繁とあった。誰だ?こいつ。となった。
『西上州の中世』という冊子が、安中市教委から発刊
された。鎌倉・室町時代の古文書と江戸時代に書かれた
風土記や軍記物に出てくる名前に違いがあることが安中
市教委の研究で分かった。
画像



【0】安中市の「安中氏研究」
1)中世の古文書&墓など調査。
2)近世=江戸時代の風土記&軍記物を調査。
碓氷の風土記・・@【安中志】、A【安中記】、B【秋間志】
碓氷の軍記物・・C【箕輪軍記】、D【上州松枝落記】
E【関八州古戦録】、F【甲陽軍艦】などがある。
※大きな食い違いが出た。まとめるの難儀で
あったようだ。分析途中といってもいい。
画像

 (★井伊・板倉時代の安中城)


【1】安中忠政&忠成の名前について
○中世の文書
安中忠正(政)→安中忠成

@風土記
安中角源伊賀守忠清
 →安中越前守忠正→安中左近将監忠成
F【甲陽軍艦】
?ーーーーーーーーー&安中左近将監忠成
E【関八州古戦録】
安中越前守春綱→安中左近太夫広盛

結果、官位から・・2人は
安中重繁=忠政=春綱
安中景繁=忠成=広盛
と、考えることができる。
  (★安中市教委)



【1】安中氏の出自
戦国時代、安中・松井田の両城を拠点とした安中氏の
出自については2説がある。
●安中氏の家紋 ・・「巴桐」
  (★安中誌)
  @三つ巴・・・・・後嵯峨天皇後裔
  A桐・・・・・・・・・桓武平氏の城氏流(越後)
画像

 (★安中市教委より)

1)後嵯峨天皇より出自説=子孫説 
後嵯峨天皇の孫惟康親王(鎌倉将軍)→曾孫である
  少納言惟基が原市城=梁瀬城に住み着いたことに
  始まる説。
『本朝皇胤紹録』などに惟基の名はない。
  =惟康親王の子とする文書的な裏づけがない。


・建治元年(1275)三位少納言惟基が、原市簗瀬に城を築いて
         居住した。
原市城を築城は建治元年(1275)
  惟康親王は文永元年(1264)生まれ・・・
  その後、越後に移動したというのは、
  完璧に間違っている。


・南朝:興国4年&北朝:康永2年(1343) 
     中納言:重国は越後国新発田に移住した。
     新発田の奥原五郎入道を退けた。
安中氏が越後新発田に住した事績史料は存在しない。
佐々木盛綱が源頼朝から越後加治庄を賜った。
  2男盛秀が新発田に分家し、新発田に佐々木流
  新発田氏が割拠していた。


・室町時代  〜〜〜越後に居住。

・長享元年(1487)22代安:安中出羽守忠親が再び
  上野国碓氷郡松井田に移り小屋城=松井田城を築城。

  安中忠親から弟:忠清→
  忠清が病死→安中忠親の子:安中忠政へ
  
2)平維茂説・・・不明。
  ★家紋のみか?




【4】安中氏の上州:安中の土着
・康正元年(1455) 享徳の乱
佐久の大井播磨守が安中左衞門の知行内に陣を
構えた。
安中の可能性もある。
 (★安中市教委)

長享元年(1487) 安中忠親が松井田へ移住。
 @『安中記』には「長享元年丁未四月、上野国碓氷郡
   松井田小屋城ヲ建テ越後国新発田ヨリ引移ル」
 A『上野志』には「越後国新発田より長享元未四月、
  上野国碓氷郡松井田西城小屋へ引移り住居す」
 B『和田記』には、「長享元年四月に、越後国
  新発田住人安中出羽守忠親は松枝に入部し、
  忠清・忠正・忠成と・・・・」
 
安中忠親(安中忠政の祖父)が松井田に城郭を築いて
 住んだのか、城を修理して住んだのかは不明。
画像
  
 安中忠親 
VS
安中の先住領主=秋間の領主達
 ※秋間7党は配下か?・・・

  弟:安中忠清は榎下城を築城。
(★通説)
画像


・永正3年(1506)安中忠親93歳で死去。
  弟:安中忠清が継いだ。
  安中忠清は従三位。榎下城で病死した(伝)。
  子:安中忠政が継ぎ榎下城を守った。

・永正4年(1507)安中顕繁=忠清?が兜を貫前神社に
奉納。(★和田記)

・享禄4年(1531)  長野業政が家督相続。

・天文2年(1533) 鶴岡八幡宮の造営の勧進
安中宮内少輔・飽間・依田・諏方などが勧進。
(★快元僧都記)

※上州8家・・・
(倉賀野・小幡・白倉・大胡・山上・桐生・沼田・安中)
※安中氏が上戦国大名として台頭。
  →箕輪城主長野業政の政略結婚開始。
★沼田顕泰の女=娘は、長野業政の母である。
@沼田城主:沼田顕泰の女:松尾姫を安中忠政に媒酌。
A長野業政の女=娘を安中忠成に配して女婿とした。
安中氏としても上州の名門長野氏と姻戚関係を結ぶ
ことで、発展を図ろうとしたのである。

長野氏系図16の中には、忠成はない系図が多い。
画像


★「石井信房と安中忠成は女関係の義理の
 兄弟である。」と言う見方もできる。
 つまり、長野業政が里見家からもらった娘
 からできた子が、里見義樹であった。
 現前橋&旧富士見の石井で石井信房と名前
 を変え、永禄4年(1562)に旧榛名町の鷹留城の
 城主となった。・・・という安中市石井家系図&
 安中忠成の系図が一致する。
 里見家本流の里見さんや里見繁美氏・
 里見一族の本を出した中島氏が、喜ぶような
 系図である。

画像
 
この解説は、山崎先生・唐沢先生・久保田先生
もしていない初めての解説である。


◆◆ 箕輪初心●大悍猿=風「見繁美氏の講演会 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201209/article_12.html


◆◆ 箕輪初心●箕輪城:長野業政の政略結婚 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_11.html
娘12人・・小幡重貞・小幡図書介・羽根尾・羽田
      大戸・木部・倉賀野・成田・浜川・ 


どんな婚姻関係の系図が正しいか分からない。
安中氏も強烈な関係を結んだことには間違いない。


●でも、西上州の最強の武士として、長野業政が
  主導権を掌握したことには、間違いない。

※最盛期の安中氏の領国は碓氷郡一円に及んでいた。
  『安中記』・・・84000石余(伝)。
★現在の安中松井田5万人の人口から考えて変?


・天文16年(1547)・閏7月から8月 小田井原の戦い
(長野県佐久市)
武田晴信(=信玄)の佐久の志賀城攻撃開始。 
志賀城主:笠原清繁の関東管領:上杉憲政への援軍要請
関東管領:上杉憲政は志賀城救援の軍勢を派遣。
※長野業政は参加せず。
東山道の入山峠(軽井沢プリンススキー場)を越えて
信濃へ入った。
 

甲斐守護武田晴信 VS 関東管領上杉憲政
武田晴信は板垣信方を迎撃に派遣。
両軍は小田井原にて合戦に及んだ。
小田井原(長野県東御市)で武田軍に迎撃され敗走。
武田軍の圧倒的勝利。
志賀城は落城。
武田信玄は佐久郡の制圧を完了する。
武田信玄は、勢いに乗って碓氷峠を越えて、上野に乱入。
東山道の坂本に拠点を築いて、上野勢と対峙した。
★おそらく、武田晴信が築いた臨時の砦=陣城が、坂本城
では、ないかと思われる。武田信玄は碓氷城=愛宕山城
も築城したのではないだろうか。碓氷城は中仙道沿いに
ある。でも、1605年の建設である。
画像

★碓氷川を挟んで南が坂本城で、北は愛宕山城である。
関東管領:上杉憲政軍はおそらく、松枝城=松井田城
で待機したのであろう。

★松枝城から坂本城を攻めようとすると、虚空蔵山が
あり、その先に碓氷川の深い渓谷がある。川を越えても
急峻な細尾根がある。つまり、城山=坂本城の北が切り
立った崖斜面になっていている
松井田城から直接の攻城は結構、無理がある。

・天文16年(1547) 
※武田信玄が碓氷峠を越えて、
 愛宕山城に駐留させていた浅利・小宮山らが、、松井田
 (松枝)衆と競り合い、松井田衆は32人討ち取られ
 たとある。(★『甲陽軍鑑』)

 松井田城はこのときすでに存在し、松井田を本拠と
 する数百人からなる武士団があった
 と考えられる。(★ウキペディアでは)
 
もちろん、松井田城主は安中忠政である。
★碓氷峠はこの時代は使用している可能性が少ない。
もちろん、東山道は1本ではないだろうが、
仮に東山道だとしても、中仙道以前の道であり、
馬が通るには困難な道ように思える。特に、
覗きや馬の背は・・・。

武田晴信は坂本城・愛宕山城から撤兵し、中信の村上
義清を叩くことにした。せっかく取った佐久が村上義
清に狙われたからである。

・天文17年(1548)2月 上田原の戦い
武田晴信 VS 村上義清


★武田信玄の坂本城の在城期間は約6ヶ月と考えられる。
僅か半年の存在なので、甲陽軍艦や高白斎記に残らな
かったのであろう?

「天文十八年(西暦1549年/皇紀2209年)三尾寺合戦、
翌十九年(西暦1550年/皇紀2210年)の松井田城防衛戦、
弘治三年(西暦1557年/皇紀2217年)の瓶尻合戦等。
また、北條氏に対しては長尾景虎の平井城攻略に参加。
(★不明)

・天文18年(1549)「三尾寺合戦」
安中忠政など VS 武田信玄
安中忠政を大将とする上州九頭の諸将が武田勢と戦った
 というが、その場所も詳細も不明である。
(★甲陽軍艦)


・天文19年(1550)3月 武田信玄が松井田城を攻撃。
 ・・不明。
    (★『上野志』

・天文21年(1951) 山内上杉憲政が平井城を逃れた。
安中越前守重繁・長繁・源左衛門尉は、北条氏邦
の家臣になった。
  
  山内上杉憲政を庇護した長尾景虎(=上杉謙信)は、
  平子・庄田・宇佐美氏らを将として兵を出した。
  安中忠政が長尾軍を先導した(伝)。
  長尾景虎が平井城を奪還。


 上杉憲政が越後に下る折、安中七太郎がいた。
  ※高崎市史・・水上か沼田
※新潟県のある市史・・・中之条

・弘治2年(1556)
足利義氏感謝状写に「上州安中城」とある。
★安中城への入部は、・永禄2年(1559)より
早かった可能性がある。
 (★安中市教委)

  武田信玄の西上野への出兵

・弘治2年(1556)3年(1557) 瓶尻(みかじり)で戦い
上杉 VS 武田信玄
  箕輪城主の長野業政を大将とする上州諸将。
  安中忠政も参戦。
  武田信玄に敗れた。
  ★瓶尻は松井田城の南・・・
   人見原あるいは大王寺であろうと思われる。
人見城下?大王寺砦付近か?


・永禄2年(1559)4月、野尻の窪庭図書を退けた。
   野尻に安中城を築城。(★和田記)
   →嫡男:忠成に守らせた説。
   安中忠政は榎下城より、松井田城に居住。
→在城した説

・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵
関東幕注文
惣社衆=長尾・・・安中氏(★安中景繁=忠成)


・永禄4年(1561)11月 武田信玄は梅原明神に
   西牧・高田・諏訪の3城の攻略を祈願して進軍。

   武田信玄は、安中・松井田間に楔を打ち込むため
   八幡平に陣を築いた。八幡陣城である。

   武田信玄の活動が激しくなった。
   新田(後閑)・小幡の両氏が甲斐に去った。
 
  武田信玄が上州箕輪城主長野業政の死去を聞き、
  2万の兵を率いて来攻するという事態に備える
  ためであった。

・永禄6年(1563) 安中忠政は安中城を安中忠成に守ら
  せて、自分は松井田小屋=松井田城に移った。
画像

 (安中忠成時代の安中城)
 
・武田氏との攻防が開始
  碓氷の麦作を刈り取ったり、苗代を薙ぎ払ったりした。

・永禄7年(1564) の夏、 安中・松井田両城に攻撃。
 安中城及び松井田城の攻略作戦
武田信玄は2万余の手兵を三手に分けた。
@松井田城へは飯富虎昌・小宮山昌友らを進軍。
A安中城へは甘利晴吉・小幡信貞らを進軍。
  (元小幡国峰城主、
  長野業政の女婿ある。長野業政の存命中に、
長野業政の命令で従兄弟の宮崎城&神成城:小幡
図書介=景純が国峰城を乗っ取った。)
B箕輪城へは内藤昌豊・馬場信房らを進軍。
その結果・・・
@安中城はまず陥落して忠成降参、
  安中城には小宮山昌友を入れ置き、
  安中忠成は甘利晴吉の妹婿とされて、武田氏に属す
  ことになったのである。
B松井田城は天険を利用して忠政よく防戦したが衆寡敵せず、
二の曲輪までも押し破られた。ついで内応者も出て落城、
忠政は戦死、城は 浅利義胤をもって守らせた。
(★上州治乱記)・・富岡武蔵氏のブログ 
画像

 (★安中忠政時代の松枝城=松井田城)

安中忠成は武田氏に降伏。武田氏の麾下に属した。
安中氏の存続を考慮した?
父:安中忠政は松井田城を守って頑強に抵抗した。
長野氏への義理か?真田みたいだ。
しかし、武田軍に二の郭までも押し破られ、さらに
内応者も出てついに力尽きて開城した。
武田信玄は安中忠成の勇武を惜しみつつ自刃を命じた。
武田信玄は小宮山丹波守松井田城を城代に据えた。
(★「上毛古戦記」の箕輪記)

市川国貞を城代として戦後処理を終えた説もある。



・永禄9年(1567)9月29日・・箕輪城落城。

・永禄10年(1568)8月
「騎馬高百十八騎、武田信玄へ降参。安中の城本領共に甘利
  左衛門妹婿に仰付けられ候。・・・
 「信州・美濃信玄軍場に詰むる なり」
※甘利の傘下として信州に詰めていたらしい。
(★安中左近大夫景繁から曾根三河守宛の起請文)
安中家繁・同繁勝から曾根三河守に出されている。

(★安中市教委)

武田氏に降った安中忠成は甘利晴吉の妹婿とされて、
  以後、武田氏の旗下となった。(★『上野志』)
長野業政&甘利昌忠の娘を妻としたことになる。
安中景繁は安中忠政を改名したとも考えられる。
 

※「武田家の時、西上州地付騎馬に、碓氷郡一騎当千と
  いふ衆あり。是を甲州にて西上先方衆といひ、亦安中衆
  ともいふ」・・・安中衆と称された。
  (★『上野志』)

★安中忠政の2男:安中忠基は出羽国庄内へ落ち延びた。
そして、安中忠基の嫡子は安中忠栄と名乗った。
安藤右京進重長の客分として仕え、家臣となった。
2男家繁は秋元摂津守高知に仕え、代々年寄を務めた。
結果は別として安中氏の血脈は残った。  

 
武田信玄に降伏した安中一族は信玄+勝頼に従い
 三河の長篠に出陣した。

・天正3年(1575)長篠の戦い
・甘利昌忠=信康?軍団の安中景繁が甘利と戦死?
画像

★長篠城では・・群馬県人の表示が6人?8人
画像

倉賀野秀孝・大戸民部・名和無理之介(現伊勢崎)
・飯尾助友・飯尾祐国(元木部家臣かもしれないが、
 全部遠江出身とある。)・
・和田信業(高崎・跡部の養子)・反町大膳(和田家臣)
★長篠城の冊子には安中景繁や根津志摩守?
 (真田信綱家老)が登場する。
 
でも、安中に帰国したものは1人もなく、安中城は
荒廃化して、耕地と化してしまった。
 

・天正10年(1582)
 3月 武田氏滅亡
 6月 本能寺の変
神流川の戦い・・・
箕輪城に北条氏邦が入城
北条氏邦の西上州の支配
 残った安中一族には、後北条氏に従った。
 @松井田城は北條氏が攻略し、上州支配の
  拠点として大導寺政繁が入った。
画像


 A安中城は一時期廃城。

・天正18年(1590) 小田原攻撃
上杉景勝は、愛宕城に陣をはった。
  松井田城は、大導寺政繁が降伏。
画像

 (★安中ふるさと学習館)
 徳川家康の関東入府に伴い、井伊家の所領として
  安中城が築城し直された。




★明日は、安中の榎下城かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(2件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
箕輪初心●群馬【安中城】
◆安中城は安中一族 →廃城→井伊2第→水野2代→堀田1代→ 板倉2代→内藤1代→板倉6代と続いた。 安中城は現安中小学校・安中文化センター付近で ある。現在確認できる遺構はほとんどない。でも、 案内板が各所に立ててある。また、陣屋が復元され、 当時を偲ぶことができる。 安中城(安中文化会館駐車場)   ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2012/11/16 07:33
箕輪初心●安中一族の城【原市城→榎下城→松井田城→安中城】
★平成24年(2012)11月16日、野田総理の衆議院解散。 ★安中一族の城について築城順にまとめることにした。 安中氏は碓氷川&九十九川の間の台地に領土を拡大し たという前提で、勝手に話を進めようと思う。安中氏は 祖先の城と言われている原市城に戻った。そこから、 北に2km離れた場所に榎下城を築いた。西には、 原市の内出・郷原の砦に家臣を置いた。戦に備えて 松枝の小屋城=松井田城を詰め城とした。繋ぎの城 として、名山城&滝山城を置いた。、そして、最後に 窪庭を攻撃後、安... ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2012/11/17 08:19

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心●安中忠政=重繁=春綱&安中忠成=景繁=広盛 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる